落ちる? 鯖くさらかし岩・爆風でずれた岩の柱・傘瀬・弁慶の投石  西彼杵郡時津町ほか

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落ちる? 鯖くさらかし岩・爆風でずれた岩の柱・傘瀬・弁慶の投石  西彼杵郡時津町ほか

1つ目は、時津の有名な奇岩「鯖くさらかし岩」。西彼杵郡時津町の継石バス停西方上にある大岩。国道206号線が通り交通量が多い。
「こけし人形」の形をしており、今にも頭が落ちそうで落ちない。魚売りが通るに通れず魚を腐らせた伝説がある。バス停の名前となった「継石坊主」とも言う。

平成13年12月28日記念物(名勝)として時津町文化財に指定。次の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/267
http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/24379955.html
この岩の補強と地学上のことは、布袋厚著「長崎石物語」長崎文献社2005年刊120〜122頁に次のとおり詳しい解説がある。

…以前、上の岩はわずか三つの接点でささえられているだけで、裏側から上下の岩のあいだをのぞきこむと、むこう側がみえていた。つよい地震が起これば、ほんとうに落ちる危険性があったし、風化と浸食がすすみ、不安定になるおそれがあった。そのため、一九九六年から翌年にかけて補強工事がほどこされ、つぎ目に石と接着剤のようなものがつめられ、すきまは完全にふさがれた。
この岩は、全体が長崎火山岩類の角閃石安山岩質の凝灰角礫岩でできており、まわりより浸食につよい部分が石柱となってとりのこされたものである。岩石は変質して緑色になっており、変質のない岩石よりも、風化しやすくなっている。岩のつぎ目は、もともと地層面にそった割れ目か断層面だったと考えられる。こうした、つぎ目のある岩の柱は、穴弘法の霊泉寺境内にもあって、上にのっている岩は原子爆弾の爆風によってずれた状態がいまもそのままのこっている。

2つ目は、前に記す長崎市江平1丁目の穴弘法の霊泉寺境内。「原子爆弾の爆風によってずれた状態の岩の柱」。

3つ目は、長崎市柿泊町の白浜海水浴場の奇岩「傘瀬」。国道202号線の小江小浦から小江トンネルを抜けたところが、白浜海水浴場の入口である。奇岩の浜で、地形がおもしろい。
「傘瀬」は、写す方向によって細く見えるが、真横から見るとまだ大丈夫のようである。
前記の布袋厚氏著「長崎石物語」長崎文献社2005年刊の108〜110頁による説明は次のとおり。

白浜海水浴場は長崎市街地にもっとも近い海水浴場で、長崎市の西海岸、小江と手熊のあいだにある。海水浴場のなかには、おもしろい地形があるし、ちかくの海岸には地層が連続して露出し、観察するのには最適である。
手熊のバス停から海岸に出て、南(海に向かって左)にむかい、海ぞいに1kmほどの道のりを歩くと海水浴場につく。最初に長さ100mほどの砂浜があり、そのむこうにキノコの形をしたおもしろい岩がある。これは大村藩の古文書『郷村記』に「傘瀬」と記されている。…

4つ目は、長崎市蚊焼町と黒浜町の町境海岸にある「弁慶の投石」。安永2年(1773)当時の長崎代官「高木作右衛門支配所絵図」(長崎歴史文化博物館所蔵)に、佐賀領蚊焼村と公領高浜村の境界地点「投上ヶ石」として表われている。
岩の高さは10mぐらい。「髙浜の字名由来考」には次のように記されている。地元では「弁慶の投石」というから、これは落ちる?でなく、投げた?となるべきか。いつか落ちるだろう。

投上は髙浜と蚊焼との境界地点で知られた場所である。俗称を「弁慶の投石」といった。海面に立つ巨石の頂上に人工的に乗せられたような自然の情景。先人達の伝説には、弁慶が投げた石が重なり乗ったものだとの昔し話が残されており、その地を字名「投上(なげあげ)」と呼んでいる。黒浜の”ようこそ野母崎へ”の看板横の道を登り、海岸へ下ると正面に見える。