香   焼 (9) 香焼炭鉱の海岸試錐跡  長崎市香焼町

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香   焼 (9) 香焼炭鉱の海岸試錐跡  長崎市香焼町

「香焼」(こうやぎ)は、長崎港口のかつて島であった町。長崎市の南部に位置し、市街地から車で約30分である。香焼山円福寺は別項。

(9)は、香焼炭鉱の海岸試錐跡  安保海岸に明治40年の炭層試錐跡が3本現存していた。
香焼町「香焼町郷土誌」平成3年刊の香焼の歴史39頁に1枚の写真があり、次のとおり記している。

(湧水や鉄道隆起のため収支伴わず横島炭鉱に続き)…香焼炭鉱も明治37年(1904)3月廃鉱(停止)となり、時あたかも日露戦争が勃発し、村としても多難なときを迎えた。しかし幸いに、山下コークス製造所は相変わらず発展しており、明治33年末より着工していた長浜鉄工場が、明治37年10月、軍需の波にのって、漸く活動を開始したことは、村の発展を期待させる事柄であった。
香焼炭鉱は廃鉱になったが、川田社によって採掘跡の残柱採掘が行われた。香焼炭鉱はこの後も、三菱に試錐(鉱床探査)を依頼、明治40年(1907)に海岸試錐に成功し、炭層の存在を確認することができた。このときの試錐の跡は、海岸に3か所あったが、現在では第1・第2次の跡は流失している。しかし第3次試錐の跡は現在でも残っている。恵理下と栗ノ浦との間の「高石」と呼ばれる岩場にあるのがそれである。

この海岸試錐は、永い間採掘された陸上には開拓の余地なしとみて、海底炭田の開拓を目指したものである。試錘の結果は第1次で、上5尺、、上3尺、7尺、下3尺の各炭層を認め、第2次では断層の位置で5尺、上3尺の炭層を認めている。次の第3次試錐では第1次と同じ炭層を確認している。
操業を停止していた香焼炭鉱は、操業を再開し、明治42年(1909)には7尺層の海底炭に着炭、地元では盛大なお祝いが行われている。これ以来、香焼炭鉱は、大正13年(1924)に休止するまでの間、本格的な採炭が行われた。… 

以上が海岸試錐の記述である。同郷土誌の鉱工業180頁には、昭和42年岩本武重氏作成の「香焼炭鉱の最盛期(T.5前後)の主要施設概説図」があり、現地の安保海岸へ行ってみた。発電所跡の赤レンガ造の痕跡は、もはや確認できない。
現在、伊王島大橋の架橋に伴い、開通している「香焼トンネル」の安保側から海岸を「高石」と呼ばれる岩場まで歩いた。試錐跡は、第3次の跡だけでなく、概説図の位置に第1・第2次の跡も流失していることなく、現存しているのが確認できた。

第1次試錐の跡は、海岸道路の終点すぐ手前の石垣の下に半分は埋れていた。第2次の跡は、それから海岸伝いに100mほど歩いた所。第3次の跡は、またそれから100mほど歩き、郷土誌どおり「高石」と思われる岩場手前の所にあった。ここまで来ると、栗ノ浦の対岸の岬が見えてくる。途中の海岸には炭層が露出していると思われる所もあった。
試錐の跡の形状は、縦90cm、横70cm、高さ1m位。土台は+5cmとしたコンクリートの四角い固まり。ボーリングの鉄管穴が中心にある。荒波により破損の状況や高さはそれぞれ違うが、3つとも造りは同じだったから、試錐の跡に間違いないと思われる。写真は各4枚ずつとした。
前の海にかつての横島炭鉱と高島炭鉱の島が近くに浮かぶ。炭鉱の歴史を学ぶことができた。

最後の写真は、3月24日に再調査。第2次試錐と第3次試錐の跡の中間に水場であろう赤煉瓦造が残っていた。後は、恵理から栗ノ浦への山道に塞がれて残る試掘の跡「狸穴」である。