万寿山「望呉山」の三字は、「石穀山」の字跡に彫ったか

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万寿山「望呉山」の三字は、「石穀山」の字跡に彫ったか

長崎文献叢書第一集第三巻「長崎名勝図絵」(長崎文献社昭和49年刊)の241頁、「茶臼山」の説明は次のとおり。同書は文化・文政年間の執筆であったとされる。

284 茶臼山  俗に頂守山(ちょうすだけ)という 長崎の北にある。金山と続いている。山頂は二つ盛り上がった形をしており、北のを雌頂守、南のを雄頂守という。雌頂守の上に、伊勢大神宮祠があるが、いつ頃から祀られたものかは、判らない。雄頂守は俗に風頭というが、東にも風頭山があるので、こちらを女風頭、むこうを男風頭という。この南に低くて平らな山がある。奇岩怪石が露出しているが、中に屏風を立てたような大石がある。これは木庵和尚の書いた石穀山の三字を彫ってあったが、今は磨滅して読めなくなっている。最近望呉山の三字を彫ってあるが、誰の書なのか聞いていない。山の西麓を浜原(はまびら)という。…

「望呉山」碑のある場所の山は、立山の「ホテル長崎」の左。最近、老人ホーム「プレジールの丘」が建ち、その赤い建物裏となる。この「望呉山」碑については別項ですでに写真を紹介しているが、私がそのとき確認を忘れていたのは、屏風を立てたような大石の「望呉山」の三字は、はたして木庵和尚「石穀山」の字跡を削って彫られているのかということである。

「長崎名勝図絵」の記述はいろいろ考えられるので、また再確認に大石を見に行った。写真は上のとおり。近くに同じような屏風を立てたような大石はないし、「望呉山」の刻面はたしかに薄く丸く削った跡に彫られている。「石穀山」の字跡はもはやまったく確認できない。碑の裏面も考えられるが、ただの平面で無刻だった。

なお、長崎市立博物館「長崎の史跡 Ⅲ(歌碑・句碑・石碑)」によると、この碑のある山は「万寿山」といい、新しい「望呉山」の字は「鼓缶子」が刻んだことから望呉山と呼ばれたとされている。たしかに左の脇字に「巳未二月鼓缶子題」と刻んである。
金比羅山頂上の神社上宮右横の大岩に彫られている同じ木庵和尚書「無凡山」の字も、ほとんど消えかかって見にくいものとなっている。