長崎街道脇に見る電話線標石
長崎街道の日見峠新道が下りにかかり、山道の坂道を向井去来碑のある芒塚までくる間に、道脇左手に標石を間隔をおいてところどころに見る。頭部には赤ペンキで「↓」が塗られている。多くは土や草つきに覆われており、何の標石かわからない。日見トンネルの東口(梨子の木茶屋跡)に出て、さらに先へ日見の方へ街道の道をたどってみた。
スズキオート長崎の下となる坂下公民館手前の車道カーブのところに、その新しい標石があった。15cm角、高さ25cmの石柱。「↑ 昭和41.4」電話局のマークあり、その下に「電話線」とあり、別面には「直下」とあった。日見の中心街へ下るまであと3本見た。
この標石は、むろん近年の電話回線が地下に敷設されていることを示すものだが、私が興味をおぼえたのは、今でも電信・電話に関する基本幹線が長崎街道の日見峠越えをしているのではないだろうかということである。
次は、昭和34年発行「長崎市制六十五年史(後編)」182〜183頁の記述。
2 内国電信 (一)明治・大正時代
長崎電信局の開設は全国的にみて非常に早い。すなわち、わが国最初のの公衆電報取扱いは明治二年(一八六九)十二月東京・横浜両地間に始められたが、翌三年早くも長崎伝信局が設置(位置不明・民部省管轄)されている。以下長崎電信局にかんする局舎・回線その他の変遷の概略を述べてみよう。
明治三年(一八七〇)八月—横浜・長崎間に国内最初の長距離回線工事が起工され、翌四年八月東京・長崎間に陸線架線工事が着工された。
明治六年(一八七三)二月—東京・長崎間一・二番線が同時に着工し、その沿道に順次電信局が開設され、赤間関・神戸・大阪・京都・彦根・岐阜・名古屋・静岡・横浜・東京市内に通信連絡の途が開かれ、長崎松ヶ枝町大北電信会社屋の一部に「長崎電信局」を設け、同年四月二十九日から英国輸入のシーメンス・モールス印字機を使用して東京・長崎間に電信取扱いを開始した。なお、中国・九州沿道の各電信局は明治六年十月一日から開局されている。…
一方、外国電信は明治三年(一八七〇)政府がデンマーク国大北電信会社に対し、長崎・上海線および長崎・浦塩線の陸揚げを許可し、これによって外国電報の取扱いが開始された(181頁)。
長崎は、わが国に於ける外国・内国電信の最初の拠点だったのである。