御船蔵町にある「死刑場ノ馬込」標石

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御船蔵町にある「死刑場ノ馬込」標石

御船蔵町橋本治郎氏から「死刑場ノ馬込」と刻んだいささか珍しい標石があると聞き、平成19年8月22日現地を訪れた。場所は御船蔵町。国道に面した天理教肥長大教会本殿奥の高台の今は草地となっている敷地内。橋本氏は同教会長である。

この標石は、刻面にあるとおり個人が建てたもので、取り立てて由緒のある石でないが、明治時代のものらしく、同地の数奇な運命をものがたっており、時代が経つにつれ放っておいては偲べない標石となっている。教会の方が毎日、水や花を変えて弔っている。
標石は切り取った崖面の前にある。17cm角、高さ70cm位の石柱。正面「死刑場ノ馬込 右(?)タル法塔様モ参リ被下度」、左面「長崎市東中町 中島ノイ建」と刻んでいる。

この地のことは、昭和13年発行「長崎市史 地誌編神社教会部下」515〜516頁、同教会の所在の項に次のとおり記されている。

此の地は幕府時代に於ける死刑場なる所謂西坂と称する部落の一部で、浦上街道の基点に当り嘗て禁教時代には有名なる二十六聖人を始めとし数百の切利支丹や南蛮船乗組員やが斬罪に処せられ、引き続ける二百年間に幾多の罪囚が刑場の露と化せし地で、維新後も道路の並木は日光を遮り梟鳥の啼声に転々寝覚を寒からしめたものであるが、当教会設立後は全く旧時の面影を脱し人家櫛比せる清区と化した。
当教会敷地は旧浦上街道の南側下部に当り、茶臼山を背景にし、港湾埋築地及び稲佐山を前面指顧の間に展開し、丘を平げ巌を斫りて殿堂を構へ石甃を施し結構布置頗る宏荘である。

以下、沿革に開墾の大苦労が記されている。明治45年5月に工事起工式、大正4年6月に神殿等落成報告祭を執行している。この標石ももともとの位置ではなく、再三、移された。本来はこの崖の右上にあったようで、供養の法塔がそこにあったと伝えられている。現在、「二十六聖人殉教地」とされている西坂の丘に続く丘地である。

なお、HPによると、平野恵子氏製作の長崎歴史再発見サイト「長崎微熱」があり、2007.3.8記事「西坂刑場はもう少し北にあった」にこの標石が紹介されている。