月別アーカイブ: 2007年8月

長崎街道脇に見る電話線標石

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長崎街道脇に見る電話線標石

長崎街道の日見峠新道が下りにかかり、山道の坂道を向井去来碑のある芒塚までくる間に、道脇左手に標石を間隔をおいてところどころに見る。頭部には赤ペンキで「↓」が塗られている。多くは土や草つきに覆われており、何の標石かわからない。日見トンネルの東口(梨子の木茶屋跡)に出て、さらに先へ日見の方へ街道の道をたどってみた。

スズキオート長崎の下となる坂下公民館手前の車道カーブのところに、その新しい標石があった。15cm角、高さ25cmの石柱。「↑ 昭和41.4」電話局のマークあり、その下に「電話線」とあり、別面には「直下」とあった。日見の中心街へ下るまであと3本見た。

この標石は、むろん近年の電話回線が地下に敷設されていることを示すものだが、私が興味をおぼえたのは、今でも電信・電話に関する基本幹線が長崎街道の日見峠越えをしているのではないだろうかということである。
次は、昭和34年発行「長崎市制六十五年史(後編)」182〜183頁の記述。

2 内国電信  (一)明治・大正時代
長崎電信局の開設は全国的にみて非常に早い。すなわち、わが国最初のの公衆電報取扱いは明治二年(一八六九)十二月東京・横浜両地間に始められたが、翌三年早くも長崎伝信局が設置(位置不明・民部省管轄)されている。以下長崎電信局にかんする局舎・回線その他の変遷の概略を述べてみよう。
明治三年(一八七〇)八月—横浜・長崎間に国内最初の長距離回線工事が起工され、翌四年八月東京・長崎間に陸線架線工事が着工された。
明治六年(一八七三)二月—東京・長崎間一・二番線が同時に着工し、その沿道に順次電信局が開設され、赤間関・神戸・大阪・京都・彦根・岐阜・名古屋・静岡・横浜・東京市内に通信連絡の途が開かれ、長崎松ヶ枝町大北電信会社屋の一部に「長崎電信局」を設け、同年四月二十九日から英国輸入のシーメンス・モールス印字機を使用して東京・長崎間に電信取扱いを開始した。なお、中国・九州沿道の各電信局は明治六年十月一日から開局されている。…

一方、外国電信は明治三年(一八七〇)政府がデンマーク国大北電信会社に対し、長崎・上海線および長崎・浦塩線の陸揚げを許可し、これによって外国電報の取扱いが開始された(181頁)。
長崎は、わが国に於ける外国・内国電信の最初の拠点だったのである。

御船蔵町にある「死刑場ノ馬込」標石

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御船蔵町にある「死刑場ノ馬込」標石

御船蔵町橋本治郎氏から「死刑場ノ馬込」と刻んだいささか珍しい標石があると聞き、平成19年8月22日現地を訪れた。場所は御船蔵町。国道に面した天理教肥長大教会本殿奥の高台の今は草地となっている敷地内。橋本氏は同教会長である。

この標石は、刻面にあるとおり個人が建てたもので、取り立てて由緒のある石でないが、明治時代のものらしく、同地の数奇な運命をものがたっており、時代が経つにつれ放っておいては偲べない標石となっている。教会の方が毎日、水や花を変えて弔っている。
標石は切り取った崖面の前にある。17cm角、高さ70cm位の石柱。正面「死刑場ノ馬込 右(?)タル法塔様モ参リ被下度」、左面「長崎市東中町 中島ノイ建」と刻んでいる。

この地のことは、昭和13年発行「長崎市史 地誌編神社教会部下」515〜516頁、同教会の所在の項に次のとおり記されている。

此の地は幕府時代に於ける死刑場なる所謂西坂と称する部落の一部で、浦上街道の基点に当り嘗て禁教時代には有名なる二十六聖人を始めとし数百の切利支丹や南蛮船乗組員やが斬罪に処せられ、引き続ける二百年間に幾多の罪囚が刑場の露と化せし地で、維新後も道路の並木は日光を遮り梟鳥の啼声に転々寝覚を寒からしめたものであるが、当教会設立後は全く旧時の面影を脱し人家櫛比せる清区と化した。
当教会敷地は旧浦上街道の南側下部に当り、茶臼山を背景にし、港湾埋築地及び稲佐山を前面指顧の間に展開し、丘を平げ巌を斫りて殿堂を構へ石甃を施し結構布置頗る宏荘である。

以下、沿革に開墾の大苦労が記されている。明治45年5月に工事起工式、大正4年6月に神殿等落成報告祭を執行している。この標石ももともとの位置ではなく、再三、移された。本来はこの崖の右上にあったようで、供養の法塔がそこにあったと伝えられている。現在、「二十六聖人殉教地」とされている西坂の丘に続く丘地である。

なお、HPによると、平野恵子氏製作の長崎歴史再発見サイト「長崎微熱」があり、2007.3.8記事「西坂刑場はもう少し北にあった」にこの標石が紹介されている。

「陸軍所轄地」の標石が浜平1丁目に残っていた

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「陸軍所轄地」の標石が浜平1丁目に残っていた

浜平1丁目1街区角の路地に陸軍の古い標石があると、御船蔵町橋本治郎氏から話を聞き、平成19年8月22日現地を訪ねた。場所は坂本外人墓地の上を立山へ行く車道の中間くらいに、中央タクシー本社と浜平中央ビルが建つ。ビル先から銭座へ下る石段があり、下ったちょうどビル敷地の南西端となる道角にこの標石があった。

16cm角、高さ80cm。刻面は1面のみ「陸軍所轄地」。えらく古めかしい。当時の軍施設の境界柱と思われる。ビルの敷地沿いに一周すると、すぐ左上の石段脇に傾いた無刻の同じようなこれはコンクリート柱があった。

実はこのあたりに「長崎要塞第二地帯標」が建っていた地図資料があり、昨年調査して研究レポートの第2集149頁で報告している。その報告は次のとおり。「中央タクシー」あたりと記載しているが、原爆中心地近くで被害があり、ほとんど標石類も残っていないと思い、実地確認をよくしてなかった。

2−G 銭座町か
浦上駅をはさんで、2−Eと斜め対面となる。金比羅山かと考えたが、次の風頭町からは県立東高の背後ピークしか見えない。ここは今水道タンクや多目的広場があり、戦時中は砲台や防空壕があった。しかし、地元の昔を知る人の話は、標石をこの金比羅山一帯で見たことはないと言う。
かえって銭座町の変電所や中央タクシーあたりに明治砲台の赤レンガ兵舎跡があり、原爆後、農地解放で畑となって今中央タクシーになっているらしい。位置的にその可能性は高い。

ところで今回見つかった「陸軍所轄地」の標石。少し谷間にあり、原爆でも倒壊しなかった。しかし、上半分は熱線を浴びているような形跡があり、少し黒ずんでいるような感じがする。被爆遺構としてリストアップされてないなら、詳しい調査をお願いしたい貴重な標石と考える。

山王神社の大クス  長崎市坂本2丁目

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山王神社の大クス  長崎市坂本2丁目

被爆の片足鳥居で知られている山王神社は長崎市坂本2丁目にある。被爆クスノキもここにある。現地説明板は次のとおり。

長崎市指定天然記念物  山王神社の大クス   指定年月日 昭和44年2月15日

この2本のクスノキは、胸高幹囲がそれぞれ8メートルと6メートルで市内にあるクスノキの巨樹の一つである。ともに昭和20年の原爆で主幹の上部は折れたため、樹高は10メートル内外であるが、四方に張った枝は交錯して一体となり、東西40メートル、南北25メートルの大樹冠を形成している。原爆の影響で一時落葉し枯木同然であったが、次第に樹勢を盛りかえし今日に至っている。
長崎市教育委員会

猿岳(秋葉山)の石造物  鈴虫岩・岩屋・石室・石祠

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猿岳(秋葉山)の石造物  鈴虫岩・岩屋・石室・石祠

猿岳は小八郎岳の東南尾根にある。市街から僻遠な山で、バス便は茂木回りにより千々まで来ているが、便数が少なく、山歩きには敬遠されているが、なかなか良いところである。

再三の引用となるが、まず概略理解のため、故臼木寅雄氏稿「千々川遡行」(長崎岳人会「足跡」No.13 1969.12発行)の6頁から次のとおり。

小八郎岳の東南尾根、秋葉山(三〇〇米)の岩崖の上には秋葉権現、猿田彦大明神を祭るので猿岳さん詣りと称して近郷の信仰が厚い。千々から尾根通し上り一時間、下り四十分の処。一〇〇米ばかり下った稍平らな肩の西端の岩屋に気骨の強いお爺さんがいる。当年七二才。神に奉仕してもう三〇年もこゝに住いしている。この脇に捨身滝と云う立派な滝があり、こゝで水垢離修行が行われる。斯うした処からこの川を猿岳川と云い塩釜神社の西側で千々川本流に落合っている。

この稿は昭和42年10月の記録。もう40年経つ。今は千々峠(乙女峠)まで行く林道が干藤トンネル先から上り、約10分ほどの大カーブ地点で(8月現在、災害工事中でこの先通行止)カーブミラーのあるガードの脇に「猿岳さん詣り」の山道入口がある。すぐの尾根の先に鈴虫岩(最後の写真では中央下に写っている)はあり、片道5分ほどで往復できる。
道は山腹を横へはってさらに15分ほどで石室と草地地点に着く。当時ほどなく死んだ爺さんの住んだ岩屋と捨身滝(滝で別項)に下る箇所はその途中にある。広い草地は昔、ここでハタ揚げ合戦をしたらしい。

石祠のある猿岳(秋葉山)へはさらに15分、急登を要する。標高300m。何もさえぎるものなく、天草の海の展望が良い。道はまだ上へ続き、1時間ほどで小八郎岳(標高590m)へ達する。

藤田尾のしし垣

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藤田尾のしし垣

「しし垣」とは、「猪垣」と書かれるが、イノシシに限らずシカやサルなどの獣害から農作物を守るため、石や木、土、竹などで築かれた構造物。江戸時代に多く造られた。
長崎では、西彼杵半島にイノシシが多く、石造りの「猪垣」と言われるものが多く残るが、長崎半島では珍しく、藤田尾の山中に「しし垣」の型を成すものが残っていた。八郎岳山系は野生鹿が多く、ここのは「シカ垣」と呼ぶべきだろう。

場所は、藤田尾川と津々谷の滝の沢に挟まれた尾根の山中。県道34号線藤田尾橋が架かった先の崖擁壁上部である。最初、三和史談会中島先生に連れて行ってもらったときは、あまりに造りの見事さに、何か由緒ある昔の建物の遺跡かと思ったが、藤田尾荒木氏の話では、あくまで「しし垣」である。ここに川から水を引き、1軒の農家と田畑があった跡らしい。シカ除けのため、石垣の高さは背丈くらいある。広い土地である。

捨身滝 猿岳川の右股沢

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捨身滝(しゃしんだき) 猿岳川の右股沢

長崎市千々町にある。小八郎岳の裏側渓谷にあるため、この滝は一部の人にしか知られていない秘滝。普段は水量か少なく、わざわざ見に行くほどではないが、猿岳へ山歩きの機会があったら、水量の多いとき一度は立ち寄る価値がある。

為石から県道34号線を行き、干藤トンネルを出てすぐ左の千々峠(乙女峠)への林道に入る。産廃捨土場を過ぎ約10分ほど上ったカーブミラーのある大カーブ地点のガードレールの脇に「猿岳さん参り」の入口がある。山腹を横に行く山道で小沢を2つ跨ぎ、10分位歩いた右下の小さな植林地が切れるところから、切れ間に沿いながら10分ほど下ると滝へ出る。「捨身滝」という名のとおり、ここは禊(みそぎ)場だが、最近は参る人がほとんどなく、道がわかりにくくなっている。
写真は平成19年8月21日撮影。今は渇水期でどうしようもない。

同山系の「納手岩三段滑滝」の項で紹介したが、この「捨身滝」の記録も同じく故臼木寅雄氏稿「千々川遡行」(長崎山岳会「足跡」No.13 1969.12発行)中の9頁にある。関係文は次のとおり。

(猿岳川右股)
…膝を折った右脚は登れそうもないので投げ出した左脚になる岩を這い上ってF5(五米)を乗越せば漸く川筋も平坦になり、これで終りかと云う感も与えるが二〇〇米も遡ると断然凄い滝が行手に立塞さがる。これこそ猿岳のF6捨身滝(しゃしんだき)である。高さ三五米、複雑なフェースが一気に落水するのを妨げて躍動的な滝を造り上げてている。青々とした広い滝壺から溢れた流れは稍下った処で小さなフカリ(土地の方言で水溜りの深い処)ができている。
そこが婦人行者の禊場である。滝は右岸の壁をよじ登ることもできるが危険である。前に山仕事の人が墜死したと云う。上部に出る路は左岸にある。…

なお「猿岳(秋葉山)」の項は別に載せる。またこの千々川渓谷の支沢、渡瀬川に2筋の沢が合流する「牛クヤ滝」、同八郎川に胃袋の形をした淵「琉球廻し」の秘景があるが、折を見てまた紹介することとしたい。 

茂木地区にある指差し石柱の施主がわかる

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茂木地区にある指差し石柱の施主がわかる

藤田尾の消防団分団前の車道分岐を左へ下ると浜に出る。
浜の右手前にゲートボール広場があり、これから歩いて藤田尾川河口の小さな鉄橋を渡ると、青屋根の32番所札所がある。道は上って集落へと続く。最初の写真のとおりの光景。浜手前からのこの道は、昔の街道みちである。

大正七年架けられた石橋の「架橋碑」とその残骸(別項)もここにある。橋を渡って道の右脇を注意して見て歩くと、3本のコンクリート石柱が続けてある。
まずは「長崎県」境界柱。えらく凝った昔の字で古めかしく珍しい。これと同じものは伊王島灯台入口バス停付近にもあった。次は上に「指差し」マークがあり、その下に「茂木町 施主 川浜奥四郎」と字の彫りがある。その次は道角に「指差し」のマークのみの石柱が立てかけられている。

「指指し」マークのコンクリート石柱は、これまで茂木地区で2本見ていた。河平バス停下の「戸町二至ル」標石の対面角と、重篭轟の滝の手前分岐にあった。(それぞれの別項に写真を掲載)
施主を刻んだのを、この藤田尾で初めて見た。この石柱は札所の案内であると聞いていたが、重篭轟の滝は現在の札所に入ってない。作成年代も、藤田尾は昭和22年茂木村から為石村に編入された。その前に設置したとも考えられる。

コンクリート製で新しい年代のものと考えられるが、いつの頃、だれが、どこに、何本設置したか、調べればおもしろい。茂木地区は「茂木町新四国八十八ヵ所霊場めぐり」が昭和4年頃できた。これと関連がやはりあるのかも知れない。施主がわかったのは、調べる手掛かりができた。

お薦めの新刊図書

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お薦めの新刊図書

1 《トピックスで読む》 長崎の歴史          江越 弘人 著
弦書房     2007年3月20日発行  定価 2200円+税

2 長崎街道雑記 長崎街道を腑分けする No.2    織田 武人 著
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申込先 諌早市白岩町18−7    黒岩竹二 0957−26−2467

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4 子どもと歩く戦争遺跡Ⅲ 熊本県南編    熊本の戦争遺跡研究会 編
熊本の戦争遺跡研究会 2007年8月15日発行 頒価 1200円
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