月別アーカイブ: 2007年8月

千々・藤田尾・為石間の古道 一部山道が残る

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千々・藤田尾・為石間の古道 一部山道が残る

明治34年国土地理院旧版地図から千々・藤田尾・為石間を掲げてみる。長崎半島東回り「みさき道」の参考にしたく、当時の古道を調べている。この間も現在は県道34号線となり、整備や拡幅が特になされ、干藤トンネルもできて大きくルートが変わった。
新旧の対比図を掲げるべきだが、旧地図と現在残る山道(旧地図にその区間だけ黄線とした)の入口・出口などの写真だけ紹介したい。手持ちの現行地形図を広げ、どう変っているか、それぞれで考えてほしい。

この間はバスも通わず、戦後も長らく集落を結び、学校への通学路として利用された。最短の距離となり、まだ寺岳の山歩きや津々谷の滝行き帰りに利用できる山道が、ほどよく残っている。

藤田尾川の大正七年石橋架橋碑

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藤田尾川の大正七年石橋架橋碑

長崎市藤田尾町の浜近く河口にある。ここは集落を結び、学校へ通う要路であった。三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊377頁、荒木新氏稿「第四節 藤田尾余聞」中の架橋碑の記述は以下のとおり。藤田尾には、思わぬ史跡が多いのに、地元から詳しく報告されていない。
昭和22年茂木村から為石村に編入された関係か。大ツバキが近年になってやっと紹介されており、この架橋碑も立派なものである。石橋の当時の写真はないのだろうか。刻面も正しく記録しておく必要を感じる。

…藤田尾は急な斜面に集落をなしているため、道路は板石を段々に積み重ね、幅は一メートル以上、延長も数百メートルにも及んでいる。このように大石を使用し、数も相当なものなので、初めて見る人には強く印象に残ったそうである。今は一箇所「たのぎわ坂」に残っている。祖先の苦労がよくうかがえる一端である。
又茂木村のころ、西の端に位置する藤田尾に、近郷にない立派な石橋を架けようと、部落在住の村会議員が激論を闘わせ、やっと石橋の架橋に成功した。この橋もその後の大水害で流され短命に終わった。今は橋のたもとに、大正七年に架橋した旨を記す架橋碑のみが残っている。

架橋碑の読み取れた刻面は、次のとおり。碑の寸法は、台座高さ0.9mの上に、全横1.2m、全高1.7m位。
架 橋 碑
藤田尾名隣在於茂木村之南道路険 悪往来甚困焉況郷中有渓流一旦有 降雨乎河川暴溢人通頓杜絶郷人愛 之矣大正七年竹下水造君提議村 會而請架石橋衆議容之同年六月起 二郷人子來補設越三月竣成郷人請 余記所其由来則述其梗概欲使□□ 此橋者傳郷人徳也
大正七年丁巳年秋八月  永石深茂撰並書
監督人 竹下水造 山中□□郎 竹下弥田太七

なお、この橋名は不明。せっかくの石橋は架橋後5年ほどあとの水害によりすぐ流出した。川に散乱した石は、家の庭などに持ち去られ、一部、残骸の塊りを見るのみであった。  

長崎の女男岩・夫婦岩(石)

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長崎市南部の女男岩・夫婦岩(石)

ことの発端は「みさき道」の蚊焼茶屋跡の場所探しである。国道蚊焼入口から「みさき道」は急な坂道を上り、大きな桜の木のある草地に出る。ここは長崎の港外の島々の展望がよく、茶屋跡でないかとこれまで推定されていた。
関寛斎日記の記述はそうでない。「蚊焼峠」の前後の位置関係や、「喫水」の清水から疑問を感じ、字名を調べるとここは「女男岩」となり、字「古茶屋」は別にあり、まだここから100mほど先、草積祠のある場所の上の畑地が茶屋跡と考えられることとなった。

前の推定場所であった草地の土地所有者蚊焼高比良氏にも、このことは確認している。茶屋とは何も関係なかったのである。では、字名の元となった「女男岩」はどこにある岩のことか。重ねて高比良氏に尋ねた場所の岩は、写真のとおりであった。
しかし、そこは「庚申ノ元」の区域。別項に載せた「庚申塚?」のすぐ脇。写真の岩を男岩、「庚申塚?」の岩を女岩に見立てると考えられないこともないが、まだすっきりしないので調査したい。

「女男岩」ないし「夫婦岩」という岩・石は各地に多くある。陰陽石とはまた違う。相いふさわしいその実物があるからこそ名前がつけられ、地名が生まれたのであろう。これを探すのも一興がある。

長崎市の南部地域でこれまで記憶したのが、次のとおりあった。
(1)小ケ倉団地背後の岩稜に、セキ岩・オオ岩・ウマ岩とともに「夫婦岩」という岩がある。どの岩のことかは確認してない。
(2)先日、藤田尾の浜に下った途中に見かけた高さ3mほど大きな石。2つに割れ見事な石であった。すぐ先の小沢に橋がかかり、「夫婦石橋」の銘板があった。
(3)有名な野母崎以下宿海岸の「夫婦岩」。観光スポットである。
(4)前三和町「字図全図」で調べると、あと1箇所「夫婦石」の字名がある。徳道集落先の「熊ノ岳」入口分岐あたり。この西側山手。サイクリング道路と上はゴルフ場である。
(5)「長崎名勝図絵」204頁によると「覆鍋山(鍋冠山)に二つ石が相対して立っている。夫婦石と名づける。」との記述がある。展望公園となって見当らない。
なお、同図絵は、上小島ピントコ坂に「爺嬢石(じじばばいし)」があることを記していた。爺石のみは残っていた。(別項)

また、北部では、滑石大神宮一の鳥居左側に川から移された「滑石の夫婦石」がモニュメントとしてある。

蚊焼字庚申ノ元にある庚申塚

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蚊焼字庚申ノ元にある庚申塚

三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊、207頁原田博二氏稿「第二編 町の成り立ち」中の記述は次のとおり。

庚申ノ元は、”こうしんのもと”と読み、庚申会とか庚申塚と呼ばれた信仰が実際にこの地でおこなわれたことがうかがえる。昔は庚申塚(塔)なども建てられていたものであろう。庚申会(庚申待)は、平安時代に伝えられた中国の守庚申に由来するもので、中世から近世とさかんに信仰され、その範囲はほぼ全国に及んでいた。この庚申(かのえさる)の夜は、帝釈天や猿田彦神などを祀って、誰しもが床につくことなく、徹夜して夜のあけるのを待ったという。というのは、この日就寝すると、身体に巣くう三尸(さんし)という虫が体内からぬけでて、その罪科を天帝に告げるためとか、三尸が人の寿命を短くするためとか信じられたためであった。

上記は三和町の地名に「古代や中世のものと思われる字名が現在も多く残っている」とし、一例で「庚申ノ元」の字名も簡単な説明をおこなった文である。「女男岩」の字名の岩とともに、この「庚申塚」も探してみた。
それらしきもの?が写真のとおりあった。場所は蚊焼入口から前焼却場に行く車道が、地蔵寺からの車道と合流する少し手前の右脇木立内。字「庚申ノ元」区域内の東端となる。

三和町郷土誌の「蚊焼の石祠一覧」では、「晃神塚 石祠 天明元年丑(一七八一) 施主 喜宗汰 場所 宮ノ脇」としてある。この石祠は、浦里宇喜男さんの「三和町内地名のルーツ その14」では、次のように紹介されていた。
ただし、石祠の字は「早」の字の中央縦線が上に突き出ているその「神」だ。右の石塔は○の下に梵字のようなマークあり、経塔と思われる。

…また、宮の脇の庚申塚は、町道蚊焼川原線と同支線の交差する三叉路の小高い丘の雑木林の中にあり”申様(か?)”と刻まれた石碑が立っている。
当時の地域振興のシンボルとして、高比良義男氏宅の猿地蔵とともに、この「庚申ノ元」の字名の残る山林の中に当時の姿のままらしくに残っていることに感動した次第である。…

藤田尾のツバキ 長崎市藤田尾町

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藤田尾のツバキ 長崎市藤田尾町

為石から県道34号線を行き、藤田尾の分岐から同集落へ下る。消防団分団のところは右へ道をとると藤田尾公民館がある。この手前から路地に入るが、案内標識が要所にあり、公民館から2分ほどで現地に着く。
現地説明板は次のとおり。なお、この30mほど下方にも、幹周り1.63mの別のツバキの大木がある。
指定の理由  藤田尾のツバキ

市内で最大のツバキである。県指定天然記念物”福江の大ツバキ”に匹敵するほどの大きさである。根元より幹は2つに分かれ地上2mのところから大枝を出して樹勢も極めて旺盛である。
指定の参考資料
目通り  1.48m(大) 0.9m(小)  樹 高  11.2m
樹 広  9.7m東西  7.6m南北    樹 齢  推定約300年
根元周り 2.8m

小ケ倉水源池上流の巨大スギ  長崎市上戸町4丁目

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小ケ倉水源池上流の巨大スギ  長崎市上戸町4丁目

岩屋神社のスギ群より若いが、小ケ倉水源池上流の植林地にも巨大スギがある。
市民の森から下るより、上戸町の水源池から行く方が近い。烏帽子岩へ出る林道を行き、水源池の最奥となる登りにかかる所(ソーメン流しを作っていた)からフェンス内に入る。川沿いと川を渡り、フェンス入口から10分もかからず現地に着く。
幹の太さ3m内外のスギが10本ほど植林地に残っている。現地説明板は次のとおり。

巨 大 ス ギ

このスギは、1922年(大正11年)に植林されたものです。長崎市内では数少ない大木のスギ林です。大切にしましょう!

鹿尾川渡りのところにある記念碑

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鹿尾川渡りのところにある記念碑

「みさき道」はダイヤランドから磯道団地の西端に降り、土井首大山祗神社のちょうど鳥居の前の対岸から、鹿尾川を飛び石で渡ったようである。満潮時もこのところまでしか潮が来ない。
川は大水害の防災工事により姿を変えた。渡りの遺構が何かないか調べていて、3年前にこの記念碑をその場所で見つけた。当時、地元の中山秀雄氏に聞いたときは、鹿尾川水道組合の解散記念碑とのことであった。
平成19年8月17日、石柱の写真を撮りに行った。コンクリート製で17cm角、高さ66cm位。刻みは「記念碑 三農 昭和九年 十月 □□成功 浜谷建之」とあるようで、解散記念碑とは違うように思われる。何の記念碑か資料などで正確に調べてみたい。

鳴滝山観音寺の滝  鹿尾町

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鳴滝山観音寺の滝  鹿尾町

長崎市鹿尾町、鳴滝山観音寺の境内にある。土井首から鹿尾川沿いの鹿尾ダムへ行く道に入ると、ダム堰堤の手前となる広川原のところの対岸に寺はある。南側支沢の滝のため、普段は水量が少ないが、落差20m位。岩に彫った古い観音像等も立ち、近郊では見ごたえのある滝となっている。

後の方の写真は、平成20年10月2日の増水時の様子。

深堀城山の城塁と俵石

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深堀城山の城塁と俵石

林正康著「長崎県の山歩き」葦書房2000年新版、54〜55頁関係部分の説明は次のとおり。山の遠景は香焼側から写す。

18 深堀城山 350m  中世山城の遺構が見られる

…山頂は平坦で、その回りを鉢巻き状に石と土を積み上げて築かれた城塁が目をひきます。東西約二〇〇㍍、南北約一〇〇㍍、厚さ約四㍍あります。その年代や目的はまだ解明されていないようですが、戦国動乱の時代、緊急事態が発生すると、武士だけでなく領民全員が立て籠る場所だったかもしれません。

山頂に向かって右方向へ空堀をすすむと、八幡宮があります。木造の社の後ろに石造りの祠があり、深堀氏が関東より下向したとき、鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の分神を奉持して、ここに祀ったと伝えられています。空堀を半分ほど回ったところに道標がありますから、それにしたがって善長谷の方へ下ります。山道の両側の斜面に「竪堀」の跡を見ることができます。全部で九本確認でき、敵の移動を困難にするためのものだったと考えられるそうです。

途中、俵石と呼ばれる直径三〇㌢、長さ一㍍〜一・五㍍の柱状の石が、地中に整然と配列されたり地上に散乱している場所も、道標にしたがって訪ねると興味深いでしょう。古代人が運び上げて、石垣を築いたという説と、地質学でいう「柱状節理」で俵石ができたという説があります。…