藤田尾川の大正七年石橋架橋碑

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藤田尾川の大正七年石橋架橋碑

長崎市藤田尾町の浜近く河口にある。ここは集落を結び、学校へ通う要路であった。三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊377頁、荒木新氏稿「第四節 藤田尾余聞」中の架橋碑の記述は以下のとおり。藤田尾には、思わぬ史跡が多いのに、地元から詳しく報告されていない。
昭和22年茂木村から為石村に編入された関係か。大ツバキが近年になってやっと紹介されており、この架橋碑も立派なものである。石橋の当時の写真はないのだろうか。刻面も正しく記録しておく必要を感じる。

…藤田尾は急な斜面に集落をなしているため、道路は板石を段々に積み重ね、幅は一メートル以上、延長も数百メートルにも及んでいる。このように大石を使用し、数も相当なものなので、初めて見る人には強く印象に残ったそうである。今は一箇所「たのぎわ坂」に残っている。祖先の苦労がよくうかがえる一端である。
又茂木村のころ、西の端に位置する藤田尾に、近郷にない立派な石橋を架けようと、部落在住の村会議員が激論を闘わせ、やっと石橋の架橋に成功した。この橋もその後の大水害で流され短命に終わった。今は橋のたもとに、大正七年に架橋した旨を記す架橋碑のみが残っている。

架橋碑の読み取れた刻面は、次のとおり。碑の寸法は、台座高さ0.9mの上に、全横1.2m、全高1.7m位。
架 橋 碑
藤田尾名隣在於茂木村之南道路険 悪往来甚困焉況郷中有渓流一旦有 降雨乎河川暴溢人通頓杜絶郷人愛 之矣大正七年竹下水造君提議村 會而請架石橋衆議容之同年六月起 二郷人子來補設越三月竣成郷人請 余記所其由来則述其梗概欲使□□ 此橋者傳郷人徳也
大正七年丁巳年秋八月  永石深茂撰並書
監督人 竹下水造 山中□□郎 竹下弥田太七

なお、この橋名は不明。せっかくの石橋は架橋後5年ほどあとの水害によりすぐ流出した。川に散乱した石は、家の庭などに持ち去られ、一部、残骸の塊りを見るのみであった。