月別アーカイブ: 2007年8月

2−L 深堀城山山頂  (確認 長崎要塞第二地帯標 第八号)

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2−L 深堀城山山頂  (確認 長崎要塞第二地帯標 第八号)

深堀城山は、山頂を囲むように円形の石垣城塁が築かれ、中心に八幡神社が祀られている。すぐ近くに三角点標高350mとともに「陸軍省」の標石のあることは人に知られ、「長崎県の山歩き」にも記録されている。
標石「長崎要塞第二地帯標」「第八号」である。
高橋氏は先年、登路を間違え苦労されたが、城山山頂へ登り標石を確認されていた。深堀村と土井首村の村境にあり、略図の地点に間違いない。

深堀城山の風景

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深堀城山の風景

平成19年8月16日撮影。善長谷教会から墓地を通り深堀城山(標高350m)に登り、展望のよい愛宕神社跡まで往復。帰りは二ノ鳥居から中腹へ下り、畑道を通って教会へ戻った。約2時間のコース。
深堀城山については、別に「善長谷開拓碑」「城塁と俵石」「要塞地帯標」の項もあり。

小浦波止場御船蔵跡と浜石・投光の怪

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小浦波止場御船蔵跡と浜石・投光の怪

長崎市の西部地区、福田は大浜、次は小浦、そして福田本町となる。小浦の海岸通りは久保工業の大きな工場があったが、小江工業団地へ移転したため、今は取り壊され、すっきりした道が造られている。
小浦の波止場はその川先にある。長崎が開港する前、福田浦がまず開港された。江越先生によると、この小浦の波止場は、昔の姿が今もよく残っていて市内でも珍しい。ここは船津という。

調べてみたら荒木正人稿「新編 長崎名勝図絵」(長崎文献社平成10年刊「長崎町人誌第六巻」256頁)に次のとおりあった。
小浦波止場御船蔵跡 この波止場は文化六年(一八〇九)に構築され、南蛮船が沖に現われたとき、番所の役人がただちにうち乗って出船する、船のたまり場である。弘化三年(一八四六)警備する役人の詰所として御船蔵が建てられた。

次は国道の反対となる外海の海岸側。いつも通りかかって浜の岩場に船の繋石らしい石柱が数本立っているのは気になっていた。平成19年8月15日、浜に下りて確認してみた。6本ある。古いのもあるが、新しいのもある。コンクリートの大きな角片も近くに散乱している。
石柱は、海岸の穴にまずこれを立て、それをコンクリートで塗布し、電柱のようなものにしたような形跡がある。古いのはそのはがれたもののようである。防波堤の何か施設跡か。先の御船蔵の繋船用でもあり、単純に考えると部落のペーロン行事に立てられる竹竿のくくり石とも考えられる。

最後は夕暮れの写真。小浦市営アパート塔屋背後の山中の小さな1点を写した。白く写ってしまったが、これは昼間通りかかっても、山中に青色の投光がいつも光っている。鶴見台森田氏によると飽の浦変電所上にもあるらしい。何なのか。確認してないが、船舶の航路目印か、航空機の空路目印ではないだろうか。

天門峰からの展望 女神大橋西岸

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天門峰からの展望 女神大橋西岸

平成19年8月15日撮影。天門峰は女神大橋の西岸にある標高160mの山。橋脚のところから山道があり、急登だが約20分で上がれる。
女神大橋を俯瞰し、長崎港の内外の展望が良い。山頂岩に「明治九年地理局測点」の刻みあり、この岩の撮影がてら展望を撮った。

式見のエノキ  長崎市式見町

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式見のエノキ  長崎市式見町

長崎市式見町、式見小学校の正門左にある。根元1本の支幹は倒壊していた。現地説明板は次のとおり。

市指定天然記念物  式見のエノキ   指定年月日 平成10年4月30日 所有者 長崎市

このエノキは、樹高17m、幹回り5.8mあり、高さ1.7mのところから幹は3つに分かれ、その内の1つは周囲2.8mの大きさであり、樹齢は300年以上と推定されている。
三根山の山林の中にあった自然木であるが、その場所が、三根城、城山旧庄屋跡、戸長役場、式見小学校と移り変る中、他の雑木が伐採されたのに対し、この木は庄屋や戸長役場のように政治的に重要な場所の目印として残されたものと考えられる。また、エノキが旧街道の境界木として保存されてきたとも考えられる。
長崎市教育委員会(平成11年3月設置)

大徳寺の大クス  長崎市西小島町

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大徳寺の大クス  長崎市西小島町

長崎市西小島の大徳寺公園内にある。説明板は県下第一のクスの巨木としているが、環境庁調査によると島原市有明町松尾にあるクスノキが最大である。下2枚の写真は、公園に他にあったクス2本、イチョウ1本の大木を撮った。
現地説明板は次のとおり。

県指定天然記念物  大徳寺の大クス  指定年月日 昭和25年4月10日
所在地 長崎市西小島町 大徳寺  管理責任者 長崎市

県下第一のクスの巨木である。指定当時の実測によると、根のまわり23.35m、目通り幹まわり12.55mで、本幹は三大支幹に分かれ、樹相は低く横に広がります。樹齢は800年くらいとみられます。
当時このあたりは原始林で、このクスはその中の一本であったと思われる。
長崎市教育委員会(平成17年10月設置)

式見の不整合 複数の地層が観察できる

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式見の不整合 複数の地層が観察できる絶好の地

布袋厚著「長崎石物語」長崎文献社2005年刊、111頁による説明は次のとおり。県・市の天然記念物には指定されていないようである。

「式見の不整合」は、長崎変成岩類の上に長崎火山岩類がのっている境界面として有名である。場所は手熊と式見をむすぶ国道二〇二号線「蝶ヶ崎トンネル」北口のすぐちかくである。海の浸食によって断崖が露出した海岸で、地元では「ブイシャゴ」とよばれるところである。海上には浸食でとりのこされてそそり立つ「トンビ岩」(大村藩の文書『郷村記』にある名称は「立石」)がみえ、式見の景勝地である。バスで行くなら、「式見」で下車し、漁港に出てから南(海にむかって左)に二百五十メートルほど歩き、海岸におりると、ほどなく現地につく。

境界面よりも下は、長崎変成岩類の結晶片岩である。境界面のすぐ上には結晶片岩の破片の層がある。これは、岩盤の岩石がくだけて石ころや砂となり、地面をおおっていたあとであり、境界面が地表に露出して浸食されていた証拠である。このような境界が「不整合」である。破片の層は「基底礫層」とよばれ、これがみつかれば地層の境界が不整合であると判断できる。
基底礫層の上のほうで長崎火山岩類の凝灰角礫岩にうつりかわっている。…

夜泣き地蔵(川原の森園地蔵)の昔と今

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夜泣き地蔵(川原の森園地蔵)の昔と今

三和町教育委員会広報誌「あなたと広場」平成2年12月No.103掲載記事から。これはまとめられて、高崎市郎さんの「ふるさとものがたり」として本がある。
森園地蔵は、川原から徳道へ谷を上る道にかつてはあった。今は宮崎ダムの完成によって道は湖底に沈み、地蔵は展望台先の徳道、熊の岳へ登る車道脇に移転している。
徳道の古写真は、平成2年11月「三和町 今昔2」53頁から。「吠え岩」とは、森園地蔵近くにあり、巨大な岩に近づくと得体の知れない食用蛙や牛の吠えるような音を出したらしい。何かの反響音と思われるが、これも遠い昔の話となった。

郷土誌余聞 その12「夜泣き地蔵と吠え岩」  高崎 市郎

為石の漁村をはじめ川原の人々も、御崎の観音参りは毎年の事で親族仲間などと、弁当こしらえで出かけていた昔の物語である。
若くして夫を亡くし、娘の成長に夢を託した母親が、観音さまに願かけをしていたが、その夢もむなしく娘は年頃になって病死した。
自分の信仰が足りなかったのだろうか?と、母親は毎日泣き暮らし、其の後も観音参りを続けていたが、いつの頃からか途中の険しい谷川のほとりで、しくしく女の泣き声がするようになった。
母親はその泣き声が今は亡き娘の声に余りにも似ているので、村に帰ってこの話をした。
為石若者宿の青年達は話しあいの結果、娘さんの霊は道に迷っているのかも知れないので霊を弔う意味で、其の地に地蔵尊を祀ることにしようと話が一決した。天保五年、今より一五六年前のことである。それ以後女の泣き声はしなくなったという。ちなみにこの道は茂木、為石方面からの御崎参りの道中で、しかも狐狸の出る谷と人々が恐ろしがった場所でもあった。
時代が大きく変わりその道も現在では谷間の草に埋もれて当時を知る人も少なく、この記事をみて何人の村人が想い出してくれるであろうか。
娘の母親もそしてこの地蔵を造立した青年宿の若者も今はこの世になく、遠い昔の出来事になってしまった。(郷土誌の森園地蔵を御覧頂きたい)…

川原大聖寺跡墓碑群 市指定文化財

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川原大聖寺跡墓碑群 市指定文化財

長崎市川原町にある。現地説明板は次のとおり。

長崎市指定文化財
一 種類及び指定名称
有形民俗文化財「川原大聖寺跡墓碑群」
二 指定年月日
昭和六十一年一月三十一日
三 指定の理由
室町時代以前の川原領主河原高満公一族の墓碑群であり、五輪の塔及び宝筐印塔は町内でも最古の遺物である。
五輪の塔で最高高八十八センチメートル、宝筐印塔で八十センチメートル、室町期のものと思われる。
昭和六十一年十二月 長崎市教育委員会