月別アーカイブ: 2007年8月

高浜の「忍の地蔵」とは、どこにある地蔵か

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高浜の「忍の地蔵」とは、どこにある地蔵か

野母崎町「のもざき漫歩」高浜海岸の今と昔の中に『野母方面へ行くのに、浜添から「忍(しのぶ)の地ぞう」の下を通り、その浜へ出ると、なだらかな砂の道となっていました。そこは満潮時になると、潮がガンブリ満ちて通れませんでした』とある。
この地蔵は高浜海水浴場前を過ぎ、今、少しカーブとなっている料亭「松美」国道左の建物の駐車場奥にある地蔵である。名前がゆかしく、いわれと場所を訪ねたが、地蔵は新しくなってガラス張りのサッシの中に安置されていた。
このあたりは、潮の満干によって山手の道と砂浜の道があったことが偲ばれる場所の地蔵である。

なお、この手前には鉱泉が湧いて海にそそいでいた。料亭「松美」が手を加え、自家用とするとともに、「高浜温泉」として看板を掲げ10数年前までは、鉱泉を蛇口で売っていた。その小屋が、最後の写真の右手建物である。

川原木場ヒジキさまにあった大榊  長崎市川原町

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川原木場ヒジキさまにあった大榊  長崎市川原町

この川原木場のヒジキさまや大榊は、昭和61年「三和町郷土誌」に載ってない。その後わかったものと思われる。高崎市郎先生の「ふるさとものがたり」を読んでいたら、珍しいことが書いてあった。この本は、三和町教育委員会広報誌「あなたと広場」の掲載記事をまとめたものだが、平成5年2月No.29の「郷土誌余聞」その38に「不思議神」として表われる。内容は以下のとおり。

後の方の記述、樹齢数百年の天然記念物ものの榊の巨木ということで訪ねてみた。残念なことにこの木はもうなかった。地主の三浦進さんに聞くと、2〜3年前の台風で倒れたらしい。現況は上の写真のとおり。根株のみ残っていた。大榊とはどんな木だったのだろう。昔はオガダマノキが榊だったので、これとも考えられる。
場所は、木場公民館前バス停から少し行った県道の下手となる。下の道から回らないと行かれない。ひわ畑の奥となる。この道は、今は県道で寸断されているが、熊川力士碑へ続く半島東回り「みさき道」でなかったかと感じている。

郷土誌余聞 その38 「不思議神」    高崎 市郎

川原木場の山中に落人の墓らしい一群を発見し発表したがあれからもう五、六年も経た。最近また変った祀り神があることを知らされ一度行ってみることにした。
祭り主に尋ねてみても何を祀ってあるのかわからないが随分と昔からあったらしいとのことで、藪蚊に喰われ乍ら検べさして貰ったが年代も祭神も書かれて無い。何か訳があっての事なのか部落の人はこれをヒジキさまと呼んでいるらしい。
さて、ヒジキさまとはどんな意味かと尋ねても知らないとのこと、或いは木場の先祖神ではあるまいかとも思った。開き扉のついた仲々立派な祠であって最初これを代々祭っていたのは松浦氏らしい。

松浦氏は木場でも一番古い家柄で…壇の浦で敗れた平家の中には九州の松浦党は菊池氏と共に三百の軍船を連ねて出陣したと記録されているが、この松浦も破れて各地へ散って行った。その中に木場の先祖人がいたかも知れない。
長崎半島東側の海岸地帯には三浦姓が多く、西側には松浦姓が多い。三浦も松浦も平家の一族であることからすれば、この祭神も或いは平家塚と呼んで不思議でもあるまいが、証拠となるべき物が無いので私はこれを不思議神と名づけた。

次にこの祠の近くにある榊に注目した。大体この榊は殆どの神々の近くに植えてあり、通常神事にも使われるが、ここの榊はまさに神木の風格でその巨木には驚いた。大人の抱きまわすような大木でこんな榊をみたことが無い。三和町の天然記念物としても価値あるものではないだろうか。この木の大きさから判断すれば数百年は経たものと思われた。巨木の少ない本町にとっては洵に珍しい植物である。昨年の十九号台風により周辺の山々も随分と荒れて、この神木の葉先も相当に痛んでいたが、春と共に新芽を吹き出してくれることを祈って引揚げた。…

(追記 平成20年1月19日)
ところで、「ヒジキさま」とは、どんな神様か。雲仙市小浜町木津に同名の石祠があった。小浜町・同教育委員会「おばまー史跡めぐりー」平成11年刊8頁の説明は次のとおり。
ひ じ き 様
宗像神社の入り口のところに、恵比寿様と並んで祀られている。石には「安政六巳未歳(1859年)九月穀旦建立」の文字がある。志自岐権現のことであろう。穀旦は吉日のこと。志自岐権現は小豆島移民の守護神と言われている。

蚊焼摩利支天アベマキ群  長崎市蚊焼町

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蚊焼摩利支天アベマキ群  長崎市蚊焼町

蚊焼の摩利支天は長崎市蚊焼町上松尾にある。蚊焼小学校から晴海台団地へ登る車道の上大カーブ地点から左の入った高台にある。石祠一覧によると寛政二年(1790)の碑がある。
三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊657頁、文化財「天然記念物」の項の説明は次のとおり。

「クヌギに似たブナ科の樹木で、日本では中国山地と対馬とともに北九州に分布。戦前はこの木からコルクを採った。ここには四本あり、珍しい木である。なお、川原の大師堂前にも一本ある。(答申中のものは、昭和61・1・31町文化財指定)」

掲載した写真の現地を訪ねたが、いつの時の台風か被害に遭い、ほとんど根元から折れ群をなしておらず、現況は上のとおりとなっていた。
川原のは健在である。大聖寺墓碑群の項に写真を写した。

女神大橋から神の島・四郎ケ島への風景

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女神大橋から神の島・四郎ケ島への風景

平成19年4月28日、長崎学さるく行事で「長崎の古台場と珍しい標石めぐり」を実施。魚見岳台場跡から女神大橋を渡り、神崎台場跡、天門峰、みなと坂、神の島、四郎ケ島台場跡、神の島公園を巡った。当日のスナップに一部追加した写真。

大久保山のマテバシイ 長崎市戸町5丁目

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大久保山のマテバシイ  長崎市戸町5丁目

魚見岳台場から大久保山に登る。山頂近くの鞍部、竹林にかかる手前にこのマテバシイがある。根元から放射状に30本近く、見事に大きさがそろった幹を広げ、たいていの人は感心する。
木名の語源は、葉の形がマテバガイの形に似ていることや、実の味が大味なので「まてばやがておいしくなる」という事でつけられたとも言われる。

小が倉の大久保山  平成19年8月

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小が倉の大久保山  平成19年8月

平成19年8月12日(日)、女神バス停に9時半集合。参加10人。魚見岳台場一番上の一ノ増台場から山道に入り、大久保山へ登る。標高233.7m。高い山ではないが、いろいろ歴史がありコースに見所が多い。砕石場跡の広場に出る手前の木立のなかで早い昼食をとる。
下山は小が倉アパート上のオオ岩など岩稜尾根を下る。メンバーが変わり、この岩場は初めての人が多く、おっかなびっくり眺望を楽しんでもらった。
本日の山行きのポイントは、魚見岳台場跡、検疫所境石、地理局測点、マテバシイの大木、大久保山三角点、子午線標、標藩境塚数基、砕石場跡の展望、岩稜歩きなどの見学と体験で好評だった。

香焼栗ノ浦鼻山中にある不思議な土塁

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香焼栗ノ浦鼻山中にある不思議な土塁

写真のとおり、香焼栗ノ浦鼻山中に不思議な土塁を目にしている。長崎要塞地帯標が香焼島には、竹崎鼻と栗ノ浦鼻に建てられた地図があり、探した地帯標はなかったが、この土塁を見つけた。
栗ノ浦の鼻へは、現在、伊王島大橋の架橋工事中で、この工事現場からは行けない。集落の右手浜に出て、消防ホース格納庫のところから家の間の路地を上る。先の道と合い踏み跡をつめると、浜から10分もかからずこの地点に着く。
竹薮が密生し全容はわからないが、高さ3m、直径6m位の小石を積んで築いた土塁。脇岬遠見山の山頂や風車のある脇岬狼煙台で、このような造りを見ていたので、私は不思議に感じた。
しかし、香焼の遠見岳には市指定史跡のはっきりした遠見番所跡がある。戦時中は高射砲陣地が、この栗ノ浦、遠見岳近くの現中央墓地のところ、田ノ浦にあったと地元で聞いている。栗ノ浦鼻山中の土塁は、昔の狼煙台でなく、戦時中の砲台跡とも考えられる。
香焼町の郷土誌はふれてないので、参考のため紹介してみた。

為石岩崎墓地にある海難供養塔

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為石岩崎墓地にある海難供養塔

三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊783〜785頁の説明は次のとおり。

三和町為石岩崎墓地入口の一画に「溺死万霊塔」「群霊塔」「女島遭難供養塔」の三基の供養塔が並列して建てられている。この漁村の被害の大きさに胸うたれるものがあり、漁民家族の悲しみが身に迫る思いがする。

一 溺死者万霊塔
蛇紋岩の切石で高さ一八七センチの供養塔
正面  「溺死万霊塔」と刻まれ
左側面 くだれる世の怖しき心を御安どの御仏の国に導きたまうにや文化十二年の春漁を業とせる此浦人一百五十余人唯ひとゆりの浪に溺れむなしくなりぬその亡(き)跡を弔らわんとこたび浦川沙童この碑を建供養せらるに予も随喜の菩提をなして
さめよさめよとても  七十四翁   御法とちるさくら  其水
裏面  文化十二年乙亥二月日  嗚呼時哉 願主  武士と思へば ゆゝし春の海 浦川沙童
右側面 
春の海に身を清めてや法の道   雨柳
亡影のしるしと塚の柳かな    可□
うかみ行く花の筏や三ッせ川   素石
むらさきの雲や迎へのはるの風  其石
七回のその先を□くみし人々の碑□□ 筆をとるも□□し日に日にて 命毛のたへてはかなき古筆かな  敲雲座一峰
台石(右)  世話人 射場 六之丞 茂 平  六軒 十五郎

二 群 霊 塔
高さ  一〇〇センチの切石の塔
正面  「群霊塔」
左側面 施主 高野屋和吉
右側面 嘉永三庚戌七月
(注)この塔の由来はわからないが、宝性寺の記録によれば、大風のため出漁中の為石村の漁夫50余人が溺死し、当寺で大追善を行ったとしてある。

三 女島遭難供養塔
高さ  一二〇センチの御影石
正面  「溺死精霊塔」
左側面 明治三十九年旧九月七日 男女島遭難者百九十七名之墓
右側面 篠原広吉 世話係 浜辺喜一

深堀赤土の海岸丘にある石塔  長崎市大籠町

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深堀赤土の海岸丘にある石塔  長崎市大籠町

長崎市南部深堀町から県道を大籠町へ行く。海の景色が良いところに三叉路となり、昭和11年の農道改修記念碑が建つ。左に上れば大籠町、真直ぐ進むと同町赤土の集落である。赤土の最初の家のかかる大カーブの道路は、現在、改修工事中である。
カーブを下りきったところにごみステーションがあり、小さな畑の奥の木立の中にすぐ石塔はある。2年前、長崎要塞地帯標を探していて、ここに不思議な石塔があると地元で聞いたためわかったのだが、行ってみるとどうも経塔のようである。

高さ60cmほどの2m四方の四角い石囲いの上に、平石の石塔が立つ。寸法は横50cm、厚さ15cm、高さは1.6m位。刻面は真中がはがれてよくわからない。上部に25cm位の「○」、下には栄誉の「誉」らしき字に続き「宗哲」とかなり大きな字がある。史跡案内書や資料に見当たらない石塔である。

地元の話では、時代がいつの頃かわからないが、この前の海で船の海難があったとか、前面の島、高島の島流しや炭鉱当時、高島からこの浜に逃げ出す者が多く、それらで溺れ死んだものの供養塔でないかという。その他、疫病の死者をまとめて葬った墓所など考えられる。
石塔刻面にある「宗哲」とはどのような人物だろうか。調べる必要がある。