東長崎の散策 (4) 矢上の風景・史跡 長崎市矢上町
西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。
東長崎の散策(4)は、矢上の風景・史跡。長崎街道に沿って、矢上神社の続きから。
矢上神社の本殿と天井絵、池の地蔵、神社横の観音堂の馬頭観音などと「札馬持中」の銘、教宗寺と本堂、大イチョウ2本と八房の梅、日見腹切坂の慰霊碑を教宗寺が保管していた頃の説明板、矢上村字宿に建っていた明治33年9月建県道標石「←喜々津 諌早 長崎→」「←有喜 愛野」、馬場の街道沿い旧家と現在の長龍寺橋へ続く道、長崎市立東長崎中学校、長崎市東長崎支所・東公民館合同庁舎、昭和57.7.23長崎大水害最高水位を示す支所前銘板と横断歩道橋の青線、馬場の八郎川沿いにある同大水害碑、矢上浄水場の取水堰、正覚寺のモミの木
長崎さるくコースマップ「矢上界隈」62〜63頁による説明は次のとおり。
写真 1〜 五 矢上神社
弘化4年(1281)9月「平原」という所で夜毎に不思議な光があった。土地の人が見に行ったところ、それはなんと宝剣であった。この剣は「天国の剣」で神様が外敵を追い払う時にこの剣を箭として使ったに違いないと考え、「箭の神」と称して祀った。「箭神」の「箭」を「矢」、「神」を「上」としたのが地名の由来。
江戸時代には、大王社・大王権現と称し、明治5年(1872)正式に矢上神社となる。神社の天井絵は、幕末からの書画が見られる。神社横の観音堂には、馬頭観音や石燈籠には「札馬持中」の銘が見られる。例祭は10月17日で、矢上くんちと呼ばれ、シャギリや間の瀬狂言、中尾の獅子舞等が奉納される。
写真 6〜 六 教宗寺
文政9年(1826)2月15日、オランダ商館長の江戸参府のおり、シーボルトもこの寺で昼食をとっている。また、佐賀藩が長崎警備の時、家臣団の宿泊所でもあった。