東長崎の散策 (3) 矢上の風景・史跡  長崎市矢上町

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東長崎の散策 (3) 矢上の風景・史跡  長崎市矢上町

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(3)は、矢上の風景・史跡。長崎街道に沿って番所橋から進む。矢上神社は次に続く。番所橋の古写真(大正初期)は、東長崎地区連合自治会編「2000年の東長崎」平成13年刊の巻頭写真から。

現在の番所橋とアーチ式石橋だった古写真(大正初期)、矢上番所跡、諫早領屋敷跡と正門の石桁橋、矢上宿の本陣と脇本陣の説明板、長崎市立矢上小学校、国道沿いの長崎自動車学校、同校内の古い石垣とクロガネモチの大木、矢上八幡神社の大クス(長崎市指定天然記念物)、矢上神社、同境内の珍しいケンポナシの木、新日見トンネルの貫通石による安産跨ぎ石、滝の観音の石橋模型

長崎さるくコースマップ「矢上界隈」62〜63頁による説明は次のとおり。

写真  1〜     壹 番所橋(矢上番所脇の橋)
番所橋は天保9年(1838)に架設されたが、慶応3年(1867)に洪水にて流失し、この石材を用いて明治初期再架設。大正12年(1923)鉄筋コンクリートで架設。現在の橋は、昭和61年(1986)10月の架設で由緒ある如く、擬宝珠の親柱となっている。
〔矢上番所〕
旧矢上村は、佐賀鍋島領の家老諌早氏の知行地で長崎代官支配地と境界を接していた。矢上番所は、長崎街道の要所で、平屋葺きの建物と門があり、長刀、弓矢、槍、鉄砲等を置くなど、役人が往来者の取り締まりや警備にあたった。長崎に向かう武士、留学生等の旅人は通行手形を示し、質問に答えた。山手側に番所、海手側に高札場があった。

写真  6〜     弐 諫早領役屋敷跡
役屋敷は長崎開港に伴い、佐賀藩主、諫早領主、肥後藩主との報告、連絡、紛争、願書の処理等が多かったため、往時には3名が執務した。周辺の民事・刑事等の案件その他を専決処理した。裏には武道場や稽古場等があったという。明治になり、民間に払い下げ、一部は改修されているが、面影は残している。特に石垣は「亀の子くずし」という積み方で、諫早石工の技術が見られる。

写真  9〜     参 本陣跡
国道を隔てた長崎自動車学校の所にあった。佐賀藩内では御茶屋とか上使屋という。長崎警備のため往来する大名や幕府関係者の宿泊や休憩所である。広大な敷地に豪壮な建物があって、便所も床付き漆塗りが施されていた。明治4年(1871)民間に払下げ、解体された。矢上小学校付近には、脇本陣があり、人馬継ぎ所等の宿の施設があった。

写真 13〜     四 矢上八幡神社の大楠
江戸時代は、八幡様と滝の観音の末寺(放生山)であった。鳥居の柱には、肥前の石工・武富戸左衛門の銘がある。笠木の残欠は肥前鳥居である。大楠には、鎮西八郎為朝伝説がある。このクスノキは、八幡神社の境内、石段の上にある2本。南側は胸高幹囲5.3m、北側は同10.15mと県下有数の巨木である。(市指定天然記念物)

写真 17〜     五 矢上神社
弘化4年(1281)9月「平原」という所で夜毎に不思議な光があった。土地の人が見に行ったところ、それはなんと宝剣であった。この剣は「天国の剣」で神様が外敵を追い払う時にこの剣を箭として使ったに違いないと考え、「箭の神」と称して祀った。「箭神」の「箭」を「矢」、「神」を「上」としたのが地名の由来。
江戸時代には、大王社・大王権現と称し、明治5年(1872)正式に矢上神社となる。神社の天井絵は、幕末からの書画が見られる。神社横の観音堂には、馬頭観音や石燈籠には「札馬持中」の銘が見られる。例祭は10月17日で、矢上くんちと呼ばれ、シャギリや間の瀬狂言、中尾の獅子舞等が奉納される。