月別アーカイブ: 2009年5月

日見の散策 (8) 網場の風景・史跡  長崎市網場町

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日見の散策 (8) 網場の風景・史跡  長崎市網場町

長崎を旅立つ人は、「西の箱根」と云われた難所の日見峠を越した。諫早・矢上方面から長崎へ向かう人はこの地で身づくろいをして、長崎へ入った。長崎街道往来の重要な中継所であった長崎市の日見地区は、市街近郊の住宅地などに変貌しているが、現在も街道はトンネルに姿を変え、国道34号と長崎自動車道がこの地区を通り、長崎の中心へ入る交通の玄関口となっている。

日見の散策(8)は、網場の風景・史跡。網場町の続き。日見金比羅の森は春日町の県道から車道が上がる。駐車場から金比羅岳山頂(標高278m)へは徒歩15分。

網場漁港、船津の崎方弁天、船津中組の恵比寿神社、網場天満神社と社叢(長崎市指定天然記念物)、旧茂木村であった小崎(春日)・古賀浦(潮見)日見村編入記念碑、集霊碑、日見金比羅の森案内図、金比羅神社、金比羅岳山頂にある陸軍省「長崎要塞区域標」「第二十八号」、金比羅岳山頂からの展望

日見地区公民館編「日見の史蹟等」2005年3月刊の51〜74頁による説明は次のとおり。

写真  3〜     52 崎方弁天
船津の中央通り・小峰氏宅前。七福神の弁才天。当地は昭和時代まで番所浜といわれ、弁天(弁財天、福徳、知恵の神)の祠があり、宝暦9年(1769)の石塔が残されている。この地に浦見番が住んでいたと伝えられている。

写真  4〜     54 恵比寿神社
船津地区の中央部・権現神社の前。船津中組の恵比寿様。寛延4年(1751)2月吉日建立。恵比寿様は、船津の3地区(崎組・中組・浦組)にそれぞれ一体ずつを祀っている。お祭は同じ期日に行っている。

写真  5〜     56 網場天満神社
日見天満神社は、網場町1番地の橘湾、雲仙の勇姿を見渡す波静かな入江の丘に位置する。平安時代一流の文人政治家であった菅原道真公を祭神とする。天満神社は京都の北野大神、大宰府天満宮を筆頭に全国一万数社を超えるといわれている。
社地は旧日見村社として(約6700㎡)正殿、拝殿の木造建築、江戸時代以降の常夜燈、鳥居、神牛の石造美術がある。
境内には社殿を囲んで椎の大木を主として、楠、アラカシ、カヤ、ヤマモモ、タブノキ、ヤマツバキ等の温交林がうっそうと繁り立ち、太古の面影を守り伝えている。しかし、平成3年(1991)の台風9号、12号により、倒木多数に至ったが、平成4年(1992)氏子総代により、楠、桜、モミジ、梅等を2百数十本補植、現在に至っている。(寄稿 松尾次助氏)

写真 12      56 網場天満神社の説明の中
小崎・古賀浦日見村編入記念碑。明治31年(1898)。天満神社一之鳥居脇。

写真 13      58 集霊碑
天満神社南東側県道脇・船津地蔵となり。長崎地方は台風通過で、暴風雨と高波に襲われ網場海岸も大被害をこうむった。遺骨等を弔い、以後の安全を祈願して集霊碑を建てた。海岸に漂着した遺体や水害の時流れたりした墓等の骨を集めて祀ってある。
大正3年(1914)8月建立。平成3年(1991)9月現在地に移転。浦組の有志の人がお参りしている。

写真 16      40 金比羅神社
日見金比羅山の山頂脇。文明12年(1480)有馬の領主(泉岩)と深堀の領主(修理進)の立会いで、茂木、深堀、有馬領の境が決まった(崎陽旧事)。これから後この山は、茂木、日見の境界の一部と決められた。その後網場地区の漁業者、渡海船業者の人たちが海上安全と大漁を祈願、信仰して祀られたと考えられる。
明治31年(1898)10月1日に、小崎名(春日)、古賀浦名(潮見)が茂木から分離して、日見村に併合し、周辺が運動場として利用され、祭等で賑わい日見村民に親しまれた。祭の前には魚は取れなくても、4月10日の祭をさかいに魚がよく取れるようになるといわれていた。

日見の散策 (7) 網場の風景・史跡  長崎市網場町

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日見の散策 (7) 網場の風景・史跡  長崎市網場町

長崎を旅立つ人は、「西の箱根」と云われた難所の日見峠を越した。諫早・矢上方面から長崎へ向かう人はこの地で身づくろいをして、長崎へ入った。長崎街道往来の重要な中継所であった長崎市の日見地区は、市街近郊の住宅地などに変貌しているが、現在も街道はトンネルに姿を変え、国道34号と長崎自動車道がこの地区を通り、長崎の中心へ入る交通の玄関口となっている。

日見の散策(7)は、網場の風景・史跡。網場町は続く。

長崎総合科学大学、住吉神社、いけす旅館肥前屋、田能村竹田先生船出し地の碑、力士塚、樫の大木(松尾宅)、養国寺の観音像、地蔵堂中のリアルな小観音菩薩、養国寺の梵鐘(長崎市指定有形文化財)、養国寺上の墓地から望む

日見地区公民館編「日見の史蹟等」2005年3月刊の47〜51頁による説明は次のとおり。

写真  2〜     38 住吉神社
長崎総合科学大学正門の右奥の谷にある。神功皇后を本尊として国家の守護神、航海の守護神、和歌の神として信仰された。本社は大阪住吉区の住吉大社とされる。
当社は、寛政7年(1795)7月19日に長崎地方に大雨があり、川の氾濫で大洪水が起こった。人家は軒下まで浸水し、死者や橋の流失18橋等大きな被害となった。さらに翌8年(1796)5月にも洪水があり、家屋流失29戸、橋流失11橋、破損した家屋309戸にのぼったという。当日見地区にも洪水の被害があったことから網場地区の安泰と繁栄を念じて、惣村中により再興を奉じたとあるが、詳細は不明。

天正8年(1580)には長崎勢の攻撃に、網場湾から来た深堀、西郷勢との戦が日見高城山であり、戦で亡くなった武士を葬ったとの伝説がある。現在の界2丁目あたりには、相当に古い「五輪塔」が数基祀られていたが、昭和37年(1962)以降の区画整理事業や宅地造成により、神社周辺に移転され、雑木林の中にひっそり佇んでいる。
本殿南東側斜面には、十体以上の石仏(不動尊・地蔵菩薩等)が点々と祀ってある。行き倒れの人や戦の戦死者かは分からないが地域の人がお参りしている姿を見かける。北斜面には五輪塔がひっそりとたたずんでいる。

写真 12〜     42−3 樫の大木
養国寺右の車道へ上がる。網場町474番地松尾正義宅の表入口石垣。同家の庭には、先祖が屋敷造成した時、生えていた木を切り倒さないで、庭先にそのままにしておいたという樫の大木がある。樹齢は不明であるが、かなり古い樹で根元が空洞になり、2本の木のように分かれ更にそれぞれの根元から出た芽が、かなり大きな幹となっている古い樹である。(寄稿 松尾静雄氏)

写真 14〜     44−1 浄土宗 養国寺
網場バス停から山側に進んだところ。本尊 阿弥陀如来。領主松倉豊後守重政の要請でキリシタン対策として寛永8年(1631)に開創された。初代住職 頂譽。
昭和57年(1982)本堂改築。
養国寺上り階段途中の横内に44−2地蔵堂がある。養国寺の上の墓地に45地蔵尊があり、小道がある。この小道は昔、茂木へ通じる唯一の交通路であった。

日見の散策 (6) 界の風景・史跡  長崎市界2丁目

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日見の散策 (6) 界の風景・史跡  長崎市界2丁目

長崎を旅立つ人は、「西の箱根」と云われた難所の日見峠を越した。諫早・矢上方面から長崎へ向かう人はこの地で身づくろいをして、長崎へ入った。長崎街道往来の重要な中継所であった長崎市の日見地区は、市街近郊の住宅地などに変貌しているが、現在も街道はトンネルに姿を変え、国道34号と長崎自動車道がこの地区を通り、長崎の中心へ入る交通の玄関口となっている。

日見の散策(6)は、界の風景・史跡。界1丁目に続き、界2丁目。

網場道バス停から高城山を望む、日見霊園の白衣観音、高城山の登り途中から日見・東長崎方面を、高城山中腹の山道にある陸軍省「長崎要塞区域標」「第二十九号」、高城山山頂付近(日見城跡?)、長崎市日見合同庁舎、同駐車場にある長崎大水害碑、市民網場プール、JA長崎せいひふれあい市、長崎市立日見小学校、長崎市立日見中学校

「長崎要塞区域標」は、日見霊園左からびわ畑の中を真直ぐな坂段を300段ほど長崎市水道配水タンク場まで上がる。タンク場の裏へ回りNHKほかテレビ中継放送所へ行く山道を5分ほど登ると左道脇にある。
長崎市南公民館どじょう会「城郭他遺構調査書」平成3年5月によると、高城山は「日見城跡」として記され、タンク場は出丸跡となっている。
日見の散策(5)で載せた「18−1 高城大権現」の説明も参照。

日見地区公民館編「日見の史蹟等」2005年3月刊の45頁による説明は次のとおり。

写真 10〜     36 長崎大水害碑
日見支所駐車場。日見地区連合自治会 昭和58年(1983)7月建立
(碑 文)
午後5時頃より降り始めた雨は1日降雨量448ミリ、時間あたり187ミリ、わが国観測史上驚異的な降雨量を記録した。午後8時過ぎ各地で大規模な山くずれが発生、河川ははんらんし、死亡者36人、り災所帯1,044を始め農林水産等、甚大な被害を被りかつてない大惨事となった。長崎市役所日見支所に災害対策本部を設置、各自治会長が中心となり地区内の諸団体、機関県内外からの不眠不休の献身的な死傷者の救出救援復旧活動が約2ヶ月続いた。

日見の散策 (5) 界の風景・史跡  長崎市界1丁目

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日見の散策 (5) 界の風景・史跡  長崎市界1丁目

長崎を旅立つ人は、「西の箱根」と云われた難所の日見峠を越した。諫早・矢上方面から長崎へ向かう人はこの地で身づくろいをして、長崎へ入った。長崎街道往来の重要な中継所であった長崎市の日見地区は、市街近郊の住宅地などに変貌しているが、現在も街道はトンネルに姿を変え、国道34号と長崎自動車道がこの地区を通り、長崎の中心へ入る交通の玄関口となっている。

日見の散策(5)は、界の風景・史跡。まず界1丁目。2丁目は次へ。

高城神社入口を示す石塔、神社へ登る途中から、NTTドコモ日見中継所と神社、高城大権現の境内と祠、新兵大菩薩・徳嶌太郎社、高城大権現の上部竹林のある石塚(8基が確認できた)、岩這薬師堂、阿弥陀堂、日見継ぎ場跡、同地から三国屋橋を望む

日見地区公民館編「日見の史蹟等」2005年8月刊の21〜39頁による説明は次のとおり。

写真  1〜    18−1 高城大権現の説明中、高城神社入口を示す石塔
慶応4年(1868) 高城大権現 辰2月建立 世話人12名 石工 仙三郎。
馬川と高城川の交わる川沿いにある。(旧長崎街道沿いの橋脇) 土台部はそのままだが、上部は昭和57年7月23日の長崎大水害で流されてしまった。

写真  4〜    18−1 高城大権現(たかしろさん)
馬川から分かれて高城川の砂防ダムから登ったところで高城山中腹・NTTドコモ日見中継所アンテナ上。建立 慶応4年2月 山口地区には河内神社があったので、坂下、岩這地区が中心になり、川内中で建立したということである。昔は社殿があったが、老朽化して危険になったので取り払った。 
日見峠にある地震石神神社にも同じ高城大権現が祀っている。…高城山周辺には、多くの塚があった。…昔の方が無念の内に亡くなった方の霊を慰める為に塚を建てられた…
『いくさの神様であり、日清、日露戦争から太平洋戦争まで、地元のみならず、長崎市内からお参りが多かった。…
深堀軍が網場に上陸し諫早領に攻め込んだのに対し、諫早藩に龍造寺軍が援軍しての戦いが行われた。旧長崎街道周辺にはその戦いの戦死者の塚が点々と在ったが、ほとんど見られなくなった。深堀軍は後退して中腹からきれいな湧き水があった…高城山に砦を築いた。竜造寺軍は城山(今の日見やすらぎ荘の上の森田屋前あたり)に布陣…してにらみ合った。
高城山中腹や山頂には、その戦の時に作られたと思われる砦跡に石垣が残っているがいまでは埋もれてしまってほとんど見ることはできない。近頃はないが山芋掘りに山に入って脇差しや鐙(あぶみ)などを掘り出す人もいた。昭和初期までは、高城山から十郎を経て深堀に通じる連絡道路として利用していたと思われる立派な山道があったが、今ではほとんど判らなくなってしまっているとのことである。』 寄稿 松尾 勝氏

写真  6     18−2 新兵大菩薩・徳嶌太郎社
高城大権現の祠の横。石の祠(菊の紋)。正面 新兵大菩薩 嶌太郎社…。由緒沿革 不明。

写真  7〜    18−3 石塚
高城大権現の祠が在るところの上部。石組みの祠が数箇所ある。馬の鐙、兜や刀などが出土したところに、石を積んで祠をつくり供養している。

写真  9〜    20 岩這(いわばい)薬師堂(はつつき観音)
旧長崎街道と明治車道の交点。如意輪観音菩薩。長崎西国第6番札所。観音様が片手を頬に当て、ちょうど歯が痛いのをおさえているように見えるところから歯痛観音(はつつきかんのん)の名がついた。葉が痛む時には、おまいりに行っていた。

写真 13〜    30 阿弥陀堂
旧長崎街道脇・三国屋橋から長崎側に進み突き当たって直角に曲がるところ。阿弥陀如来。いつの頃からかは、不明だが、旧宿名、向組の有志でお祭をしてきたといわれている。堂がこの場所にあるのは、墓地全体をお守りしているものであろう。社殿前にある石の蓮台は、葬儀のとき、お棺(丸棺)を載せて読経をし、埋葬(土葬)するときに、使われたものであると言うことであるが、今は使われていない。平成6年(1994)12月再建改築。

写真 15〜    31 継場跡(つぎばあと)
旧長崎街道三国屋橋を経て長崎側に1分・現田川歯科医院。地方より長崎へ搬入する荷、又長崎より地方へ搬出する荷の中継ぎをする場所で、駕籠(かご)かきや運搬する人夫たちが常に待機していた。また旅人が休憩するところでもあった。

日見の散策 (4) 宿町の風景・史跡  長崎市宿町

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日見の散策 (4) 宿町の風景・史跡  長崎市宿町

長崎を旅立つ人は、「西の箱根」と云われた難所の日見峠を越した。諫早・矢上方面から長崎へ向かう人はこの地で身づくろいをして、長崎へ入った。長崎街道往来の重要な中継所であった長崎市の日見地区は、市街近郊の住宅地などに変貌しているが、現在も街道はトンネルに姿を変え、国道34号と長崎自動車道がこの地区を通り、長崎の中心へ入る交通の玄関口となっている。

日見の散策(4)は、宿町の風景・史跡。宿町の続き。三国屋橋は、古写真に残る石橋風景の項を参照。 https://misakimichi.com/archives/1217

長崎街道日見宿跡、アーチ式石橋だった三国屋橋、橋名になった三国屋の跡地、田の地蔵様、八坂神社、観音堂、西川橋角の旧家、社会福祉法人平成会養護老人ホーム・日見やすらぎ荘(改装工事中)

日見地区公民館編「日見の史蹟等」2005年8月刊の40〜44頁による説明は次のとおり。

写真  7〜    32 田の地蔵様
三国屋橋の下流にある。大昔より田んぼの中に社があり乳が出る地蔵尊として多くの方々の願をかけ今日に至っている。…子安地蔵菩薩さまの石仏はお乳が立体的であり、乳飲み子を抱いた姿であるが顔は潰されてしまっている。地蔵菩薩、観音菩薩ともう一体何の変哲も無いと思われる石があるが言われは不明。猿田彦の石像もある。

写真  9〜    34 八坂神社(祇園神社・祇園社)
八坂神社バス停近く、観音堂の後ろ。明治以前は「祇園社」と称していたが、明治の神仏分離により、八坂神社となった。昭和37年(1962)の区画整理事業以前は、敷地は今の1.5倍はあった。昔は、三段に分かれ、川から石段を登って鳥居をくぐっていた。鳥居の奥に広場があった。一段上がって拝殿があり、今より奥にあった。現在、観音堂となっているところが一段高くなっていて本殿があった。

写真 11〜    35−1 観音堂
…このお堂に祀られている千手観音像は「行基ゆかりの7観音」といわれている。…建設省が行なう一般国道34号日見バイパス工事に伴い、汐見岳の千手観音堂(宿町163番地1)の移転と土地の売却を行なう必要が生じた。…平成14年(2002)2月現在地に移転竣工した。…

写真 12〜    35−2 地蔵堂
馬頭観音は、当初は弁財天のところにあり、近くの農家の人たちを中心に祀っていた。その後、千手観音堂の脇に移った。地蔵菩薩は、長崎大水害後新たに製作された。…バイパス工事に伴い観音堂と一緒に現在地へ移転した。

日見の散策 (3) 宿町の風景・史跡  長崎市宿町

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日見の散策 (3) 宿町の風景・史跡  長崎市宿町

長崎を旅立つ人は、「西の箱根」と云われた難所の日見峠を越した。諫早・矢上方面から長崎へ向かう人はこの地で身づくろいをして、長崎へ入った。長崎街道往来の重要な中継所であった長崎市の日見地区は、市街近郊の住宅地などに変貌しているが、現在も街道はトンネルに姿を変え、国道34号と長崎自動車道がこの地区を通り、長崎の中心へ入る交通の玄関口となっている。

日見の散策(3)は、宿町の風景・史跡。宿町は次の長崎街道日見宿跡などへ続く。

市営大曲住宅団地の遠望、大曲住宅外壁の龍、大曲交差点近くにある水準点、宿町第3アパート脇にある天領・佐賀藩領境界石標、日見腹切坂の由来説明板と慰霊碑、長崎河川国道工事事務所設置の説明板「日見峠道浪漫」、網場道入口にある県道34号野母・宿線道路元標、日見の中心通り、長崎総合科学大学シーサイドキャンパス、長崎ペンギン水族館と海浜公園、南氷洋調査捕鯨船のスクリューと錨

日見地区公民館編「日見の史蹟等」2005年8月刊の29〜32頁による説明は次のとおり。

写真  4〜    23 境界石柱
宿町第3アパート脇の路上(田中町と宿町の境)。碑文「(矢上側)従是北佐嘉領」 「(日見側)彼杵郡之内日見境」。天領と佐賀藩領との境界石柱である。高さ120m、巾25cm。
周辺地域は宅地造成のため様相や位置は少々変わったが国境を示す貴重な証である。

写真  7〜    24 腹切坂慰霊碑
…平成14年(2002)3月29日日見バイパス工事完了に伴い、日見腹切坂史跡保存会(会長松尾利之氏)の尽力で、当初の位置より下った別の場所になったが、国道脇の現在地に道路公園の一部として移転整備された。
骨は、火葬され西本願寺に納骨された。(骨の主は、骨格のしっかりした方であったそうです)

写真を追加。最後が本来の腹切坂とされる場所と山道にかかった薮の中に残る慰霊碑の基盤石。

日見の散策 (2) 芒塚の風景・史跡  長崎市芒塚町

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日見の散策 (2) 芒塚の風景・史跡  長崎市芒塚町

長崎を旅立つ人は、「西の箱根」と云われた難所の日見峠を越した。諫早・矢上方面から長崎へ向かう人はこの地で身づくろいをして、長崎へ入った。長崎街道往来の重要な中継所であった長崎市の日見地区は、市街近郊の住宅地などに変貌しているが、現在も街道はトンネルに姿を変え、国道34号と長崎自動車道がこの地区を通り、長崎の中心へ入る交通の玄関口となっている。

日見の散策(2)は、芒塚町の風景・史跡。日見峠など前の芒塚町の続き。

日見隧道(日見トンネル)の西口銘板、日見隧道建設記念碑(昭和32年再建)、人用と牛馬用の飲み場跡、日見隧道の東口、日見隧道説明板(国指定登録有形文化財)、長崎自動車道長崎芒塚インター、ゆするぎ公園そば日見川上流の大砂防ダム、石動山様(ゆするぎさん)、石動山菩薩石、松露(路)渕水神宮と滝、東口の下りから日見を望む、日見バイパス新日見トンネル、日見山口バス停、長崎自動車道日見夢大橋、日見中央病院、坂下地蔵菩薩、河内神社(権現さん)の鳥居とムクノキ

日見地区公民館編「日見の史蹟等」2005年8月刊の7〜21頁による説明は次のとおり。

写真  1〜     7 日見隧道(日見トンネル)
明治新道は、蛇行がひどく車両が通行するには大変だったので、トンネル掘削の計画が明治45年頃から起こった。しかし、声が大になったのは大正5・6年頃、県で計画の腹案がなったのは大正8年だが、大正8年道路法の実施によって、国庫の補助を得て具体化し、本工事の実施は大正10年からである。
大正13年(1924)3月23日 トンネル工事着手。大正15年(1926)3月31日 開通。竣工費 42万4千円。全長642m、幅員7.4mの当時としては日本最大規模のトンネルである。
西口から50m余り入ったところに、人用と牛馬用の水のみ場が設けられていた。
平成13年(2001)11月16日に国の登録有形文化財に指定された。

写真  9〜    10−1 石動山様(ゆするぎさん)
日見トンネル東口から芒塚ICの背後へ行く。天文4年(1535)8月5日建立。吉備大神 「笠」という人が信仰し祀ったのが始まりで、「カサ(瘡)地蔵」と呼ぶのが一般的であったそうである。
年代は不明であるが芒塚町の松尾健太郎氏の祖父に当たる松尾力三郎氏によって、氏の所有地にあった大岩に菩薩像を奉納して毎年9月18日(今はその前の休日)に坂下の住民たちが供物や御馳走を持ち寄り参拝者に振舞う習わしがあった。…
長崎自動車道の建設に伴う移転(平成12年(2000)4月2日落成)により現在地に礼拝所を建立した。…

写真 11〜     9 松露(路)渕水神宮(まつろぶち)
石動山様の奥の谷、林道終点にある。文化7年(1810)建立。施主 村中。寛永19年(1642)の大干ばつの時、雨乞いのため、日見川の上流に松露神社という水神社をつくった。その後、干ばつの時は、滝下の渕側に集まり雨乞いの儀式を行なうのが習わしであったということである。芒塚町民唯一の郷土芸能とも云うべき獅子舞を奉納して町民総出で一日を楽しむ。
昔は通称、松渕(まつぶち)様と云っていた。水量は多くはないが、清流が滝となり落下し夏は涼を取るに充分である。今も現場は鬱そうとして深山に入り込んだような趣がある。

写真 19〜    14 坂下地蔵菩薩
日見峠下、旧長崎街道の入り口付近に位置し街道を往来する人々や住民の安全や無事を見守った。顔の部分が違う仏像は、顔の部分が川の中で見つかったので像として完成された。…

写真 20〜    17 河内神社(権現さん)
祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと) 河内大神 猿田彦命。天正年間日見峠の戦いの時の戦死者を合祀。

日見の散策 (1) 日見峠など芒塚の風景・史跡  長崎市芒塚町

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日見の散策 (1) 日見峠など芒塚の風景・史跡  長崎市芒塚町

長崎を旅立つ人は、「西の箱根」と云われた難所の日見峠を越した。諫早・矢上方面から長崎へ向かう人はこの地で身づくろいをして、長崎へ入った。長崎街道往来の重要な中継所であった長崎市の日見地区は、市街近郊の住宅地などに変貌しているが、現在も街道はトンネルに姿を変え、国道34号と長崎自動車道がこの地区を通り、長崎の中心へ入る交通の玄関口となっている。

日見の散策(1)は、まずこの日見峠など芒塚町の風景・史跡。芒塚町は続く。

往時の長崎街道日見峠最高部付近、日見峠関番所跡、日見新道(明治新道)の切り通し、下りの道から日見方面を望む、日見新道の九十九折、向井去来句碑(長崎県指定有形文化財)がある芒塚、長崎街道の説明板と道標、日見隧道東口、梨子の木茶屋跡

日見地区公民館編「日見の史蹟等」2005年8月刊の1〜9頁による説明は次のとおり。

写真  2〜    1 日見関所跡
文久3年(1863)日見峠の8合目(俗に八部と呼ばれるところ)に関所が作られた。ほんのわずかな区間(約4年間)であったが、長崎に出入りする人々を監視した。跡は、明治新道を掘削するときに切り通しの部分にかかり敷地の半分が削られた。現在は、跡に木柱が建っているだけである。

写真  4〜    2 切り通し
明治15年(1882)に1年3ヶ月余の工期で車が通ることができる明治新道ができた。その時、峠を33m切り下げて造られたのがこの切り通しである。この道が我が国最初の有料道路で、日見側の料金徴収所が梨子の木茶屋である。

写真  8〜    6 芒塚(すすきづか)
天明4年(1784)3月吉日 日見峠の一本松のところに長崎の俳人達が去来の碑を建てた。安政3年(1856) 日見在住の俳人達が移転(場所不明)修復した。大正15年(1926) 日見トンネルの完成の時、荒れていた塚を長崎あざみ会が修復した。昭和28年(1953) 去来250年忌を機に芒塚町78番地に移転改修した。
昭和29年(1954)県指定史跡となった(日見村河内名梨木の木坂)。平成13年(2001) 長崎自動車道建設に伴い国土交通省の手で移設。公園として整備された。平成13年(2001)2月26日 「芒塚」が県指定有形文化財(芒塚句碑3基)になった。
地元の人は、句碑のことを「獅子駒さん」と呼んでいた。

(写真13が、中央の去来の句碑「君が手もまじるなるべし花薄 去来」天明4年(1784)建立。写真14が、右側の去来を顕彰した献句の碑「水鳥のうき声からす山嵐かな 米年、虫の声もなごり寂しや後の月 くま米」安政3年(1856)建立か。左側は漢詩の碑で去来の紹介や漢詩が刻まれている)       

写真 17     8 梨子の木茶屋跡
日見峠に登る中腹にあった茶屋で、江戸時代に日見地区の踏み絵は此処と養国寺で行われた。明治新道の通行料は、日見側ではこの茶屋で徴収した。長崎自動車道工事と芒塚インター工事に伴い、敷地はすべて道路に取られてしまった。昔は跡を示す木柱があったが、それもなくなってしまっている。 

バラのオープンガーデン  佐世保市広田町

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バラのオープンガーデン  佐世保市広田町

2009年5月16日(土)曇り。妻撮影の画像。隠居岳ウォーカーズパークの遊歩館駐車場まで行き、ツツジ(枯れかかっていた)・サクランボ・野アザミを写し、佐世保市広田町の住宅地にあるオープンガーデンへ。
バラが最盛期となっている。最後の写真16〜17が、White Provenc :イギリス Grimwood作出1778年 ケンティフォリア 植えて3年目。今年はたくさんの蕾があがってきて、いくつか開花してきてるので、お披露目だったそうである。
ガーデンのブログは、”趣味は園芸の農芸家” http://tb.bblog.biglobe.ne.jp/ap/tb/c4f8fffdc3

茂木の散策 (14) 太田尾の風景・史跡  長崎市太田尾町

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茂木の散策 (14) 太田尾の風景・史跡  長崎市太田尾町

長崎市の茂木地区は、「長崎の奥座敷」ともいわれ、海上交通の要所だった茂木の港を中心に、南北に自然豊かな町が広がる。いずれも天草灘に面し、豊富な漁獲と茂木びわの大産地となっている。
茂木の散策(14)は、太田尾の風景・史跡。
枇杷崎射堡基地跡は、次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/6

太田尾集落の全景、丸尾神社の2つの石門と地蔵、太田尾港、太田尾海岸通りのアコウ大木、大戦中の枇杷崎射堡基地跡(太田尾海岸側から行く)、県道沿いのにある大クスノキ(長崎市指定天然記念物)、花の里山川河内、石室の地蔵祠、山川河内公民館手前にある大正12年建長崎・茂木・矢上の道案内標石、同地から県道を左奥に望む