日見の散策 (7) 網場の風景・史跡  長崎市網場町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

日見の散策 (7) 網場の風景・史跡  長崎市網場町

長崎を旅立つ人は、「西の箱根」と云われた難所の日見峠を越した。諫早・矢上方面から長崎へ向かう人はこの地で身づくろいをして、長崎へ入った。長崎街道往来の重要な中継所であった長崎市の日見地区は、市街近郊の住宅地などに変貌しているが、現在も街道はトンネルに姿を変え、国道34号と長崎自動車道がこの地区を通り、長崎の中心へ入る交通の玄関口となっている。

日見の散策(7)は、網場の風景・史跡。網場町は続く。

長崎総合科学大学、住吉神社、いけす旅館肥前屋、田能村竹田先生船出し地の碑、力士塚、樫の大木(松尾宅)、養国寺の観音像、地蔵堂中のリアルな小観音菩薩、養国寺の梵鐘(長崎市指定有形文化財)、養国寺上の墓地から望む

日見地区公民館編「日見の史蹟等」2005年3月刊の47〜51頁による説明は次のとおり。

写真  2〜     38 住吉神社
長崎総合科学大学正門の右奥の谷にある。神功皇后を本尊として国家の守護神、航海の守護神、和歌の神として信仰された。本社は大阪住吉区の住吉大社とされる。
当社は、寛政7年(1795)7月19日に長崎地方に大雨があり、川の氾濫で大洪水が起こった。人家は軒下まで浸水し、死者や橋の流失18橋等大きな被害となった。さらに翌8年(1796)5月にも洪水があり、家屋流失29戸、橋流失11橋、破損した家屋309戸にのぼったという。当日見地区にも洪水の被害があったことから網場地区の安泰と繁栄を念じて、惣村中により再興を奉じたとあるが、詳細は不明。

天正8年(1580)には長崎勢の攻撃に、網場湾から来た深堀、西郷勢との戦が日見高城山であり、戦で亡くなった武士を葬ったとの伝説がある。現在の界2丁目あたりには、相当に古い「五輪塔」が数基祀られていたが、昭和37年(1962)以降の区画整理事業や宅地造成により、神社周辺に移転され、雑木林の中にひっそり佇んでいる。
本殿南東側斜面には、十体以上の石仏(不動尊・地蔵菩薩等)が点々と祀ってある。行き倒れの人や戦の戦死者かは分からないが地域の人がお参りしている姿を見かける。北斜面には五輪塔がひっそりとたたずんでいる。

写真 12〜     42−3 樫の大木
養国寺右の車道へ上がる。網場町474番地松尾正義宅の表入口石垣。同家の庭には、先祖が屋敷造成した時、生えていた木を切り倒さないで、庭先にそのままにしておいたという樫の大木がある。樹齢は不明であるが、かなり古い樹で根元が空洞になり、2本の木のように分かれ更にそれぞれの根元から出た芽が、かなり大きな幹となっている古い樹である。(寄稿 松尾静雄氏)

写真 14〜     44−1 浄土宗 養国寺
網場バス停から山側に進んだところ。本尊 阿弥陀如来。領主松倉豊後守重政の要請でキリシタン対策として寛永8年(1631)に開創された。初代住職 頂譽。
昭和57年(1982)本堂改築。
養国寺上り階段途中の横内に44−2地蔵堂がある。養国寺の上の墓地に45地蔵尊があり、小道がある。この小道は昔、茂木へ通じる唯一の交通路であった。