日見の散策 (8) 網場の風景・史跡 長崎市網場町
長崎を旅立つ人は、「西の箱根」と云われた難所の日見峠を越した。諫早・矢上方面から長崎へ向かう人はこの地で身づくろいをして、長崎へ入った。長崎街道往来の重要な中継所であった長崎市の日見地区は、市街近郊の住宅地などに変貌しているが、現在も街道はトンネルに姿を変え、国道34号と長崎自動車道がこの地区を通り、長崎の中心へ入る交通の玄関口となっている。
日見の散策(8)は、網場の風景・史跡。網場町の続き。日見金比羅の森は春日町の県道から車道が上がる。駐車場から金比羅岳山頂(標高278m)へは徒歩15分。
網場漁港、船津の崎方弁天、船津中組の恵比寿神社、網場天満神社と社叢(長崎市指定天然記念物)、旧茂木村であった小崎(春日)・古賀浦(潮見)日見村編入記念碑、集霊碑、日見金比羅の森案内図、金比羅神社、金比羅岳山頂にある陸軍省「長崎要塞区域標」「第二十八号」、金比羅岳山頂からの展望
日見地区公民館編「日見の史蹟等」2005年3月刊の51〜74頁による説明は次のとおり。
写真 3〜 52 崎方弁天
船津の中央通り・小峰氏宅前。七福神の弁才天。当地は昭和時代まで番所浜といわれ、弁天(弁財天、福徳、知恵の神)の祠があり、宝暦9年(1769)の石塔が残されている。この地に浦見番が住んでいたと伝えられている。
写真 4〜 54 恵比寿神社
船津地区の中央部・権現神社の前。船津中組の恵比寿様。寛延4年(1751)2月吉日建立。恵比寿様は、船津の3地区(崎組・中組・浦組)にそれぞれ一体ずつを祀っている。お祭は同じ期日に行っている。
写真 5〜 56 網場天満神社
日見天満神社は、網場町1番地の橘湾、雲仙の勇姿を見渡す波静かな入江の丘に位置する。平安時代一流の文人政治家であった菅原道真公を祭神とする。天満神社は京都の北野大神、大宰府天満宮を筆頭に全国一万数社を超えるといわれている。
社地は旧日見村社として(約6700㎡)正殿、拝殿の木造建築、江戸時代以降の常夜燈、鳥居、神牛の石造美術がある。
境内には社殿を囲んで椎の大木を主として、楠、アラカシ、カヤ、ヤマモモ、タブノキ、ヤマツバキ等の温交林がうっそうと繁り立ち、太古の面影を守り伝えている。しかし、平成3年(1991)の台風9号、12号により、倒木多数に至ったが、平成4年(1992)氏子総代により、楠、桜、モミジ、梅等を2百数十本補植、現在に至っている。(寄稿 松尾次助氏)
写真 12 56 網場天満神社の説明の中
小崎・古賀浦日見村編入記念碑。明治31年(1898)。天満神社一之鳥居脇。
写真 13 58 集霊碑
天満神社南東側県道脇・船津地蔵となり。長崎地方は台風通過で、暴風雨と高波に襲われ網場海岸も大被害をこうむった。遺骨等を弔い、以後の安全を祈願して集霊碑を建てた。海岸に漂着した遺体や水害の時流れたりした墓等の骨を集めて祀ってある。
大正3年(1914)8月建立。平成3年(1991)9月現在地に移転。浦組の有志の人がお参りしている。
写真 16 40 金比羅神社
日見金比羅山の山頂脇。文明12年(1480)有馬の領主(泉岩)と深堀の領主(修理進)の立会いで、茂木、深堀、有馬領の境が決まった(崎陽旧事)。これから後この山は、茂木、日見の境界の一部と決められた。その後網場地区の漁業者、渡海船業者の人たちが海上安全と大漁を祈願、信仰して祀られたと考えられる。
明治31年(1898)10月1日に、小崎名(春日)、古賀浦名(潮見)が茂木から分離して、日見村に併合し、周辺が運動場として利用され、祭等で賑わい日見村民に親しまれた。祭の前には魚は取れなくても、4月10日の祭をさかいに魚がよく取れるようになるといわれていた。