日見の散策 (2) 芒塚の風景・史跡 長崎市芒塚町
長崎を旅立つ人は、「西の箱根」と云われた難所の日見峠を越した。諫早・矢上方面から長崎へ向かう人はこの地で身づくろいをして、長崎へ入った。長崎街道往来の重要な中継所であった長崎市の日見地区は、市街近郊の住宅地などに変貌しているが、現在も街道はトンネルに姿を変え、国道34号と長崎自動車道がこの地区を通り、長崎の中心へ入る交通の玄関口となっている。
日見の散策(2)は、芒塚町の風景・史跡。日見峠など前の芒塚町の続き。
日見隧道(日見トンネル)の西口銘板、日見隧道建設記念碑(昭和32年再建)、人用と牛馬用の飲み場跡、日見隧道の東口、日見隧道説明板(国指定登録有形文化財)、長崎自動車道長崎芒塚インター、ゆするぎ公園そば日見川上流の大砂防ダム、石動山様(ゆするぎさん)、石動山菩薩石、松露(路)渕水神宮と滝、東口の下りから日見を望む、日見バイパス新日見トンネル、日見山口バス停、長崎自動車道日見夢大橋、日見中央病院、坂下地蔵菩薩、河内神社(権現さん)の鳥居とムクノキ
日見地区公民館編「日見の史蹟等」2005年8月刊の7〜21頁による説明は次のとおり。
写真 1〜 7 日見隧道(日見トンネル)
明治新道は、蛇行がひどく車両が通行するには大変だったので、トンネル掘削の計画が明治45年頃から起こった。しかし、声が大になったのは大正5・6年頃、県で計画の腹案がなったのは大正8年だが、大正8年道路法の実施によって、国庫の補助を得て具体化し、本工事の実施は大正10年からである。
大正13年(1924)3月23日 トンネル工事着手。大正15年(1926)3月31日 開通。竣工費 42万4千円。全長642m、幅員7.4mの当時としては日本最大規模のトンネルである。
西口から50m余り入ったところに、人用と牛馬用の水のみ場が設けられていた。
平成13年(2001)11月16日に国の登録有形文化財に指定された。
写真 9〜 10−1 石動山様(ゆするぎさん)
日見トンネル東口から芒塚ICの背後へ行く。天文4年(1535)8月5日建立。吉備大神 「笠」という人が信仰し祀ったのが始まりで、「カサ(瘡)地蔵」と呼ぶのが一般的であったそうである。
年代は不明であるが芒塚町の松尾健太郎氏の祖父に当たる松尾力三郎氏によって、氏の所有地にあった大岩に菩薩像を奉納して毎年9月18日(今はその前の休日)に坂下の住民たちが供物や御馳走を持ち寄り参拝者に振舞う習わしがあった。…
長崎自動車道の建設に伴う移転(平成12年(2000)4月2日落成)により現在地に礼拝所を建立した。…
写真 11〜 9 松露(路)渕水神宮(まつろぶち)
石動山様の奥の谷、林道終点にある。文化7年(1810)建立。施主 村中。寛永19年(1642)の大干ばつの時、雨乞いのため、日見川の上流に松露神社という水神社をつくった。その後、干ばつの時は、滝下の渕側に集まり雨乞いの儀式を行なうのが習わしであったということである。芒塚町民唯一の郷土芸能とも云うべき獅子舞を奉納して町民総出で一日を楽しむ。
昔は通称、松渕(まつぶち)様と云っていた。水量は多くはないが、清流が滝となり落下し夏は涼を取るに充分である。今も現場は鬱そうとして深山に入り込んだような趣がある。
写真 19〜 14 坂下地蔵菩薩
日見峠下、旧長崎街道の入り口付近に位置し街道を往来する人々や住民の安全や無事を見守った。顔の部分が違う仏像は、顔の部分が川の中で見つかったので像として完成された。…
写真 20〜 17 河内神社(権現さん)
祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと) 河内大神 猿田彦命。天正年間日見峠の戦いの時の戦死者を合祀。