長崎の古写真考 1」カテゴリーアーカイブ

長崎の古写真考 目録番号:6248 オランダ人(2)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6248 オランダ人(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6248 オランダ人(2)
〔画像解説〕  ボードインコレクション
なし  

目録番号:6285 出島スタジオでのA.F.ボードインとハラタマ
〔画像解説〕  ボードインコレクション
出島のスタジオで写されたボードイン博士とハラタマ博士です。ユトレヒト陸軍軍医学校でボードインの同僚であったハラタマは慶応2(1866)年の4月に長崎の分析窮理所教師として着任しました。ボードイン博士のもと精得館と名前を変えた養生所で調剤と病院監督に従事し、分析窮理所で化学・物理学・薬物学・鉱物学・植物学などの自然科学を講義しました。 -6285-

■ 確認結果

目録番号:6248「オランダ人(2)」は、目録番号:6285「出島スタジオでのA.F.ボードインとハラタマ」に写った、ボードイン博士の同僚「ハラタマ博士」ではないだろうか。
髭や洋服は違うが、顔つきから可能性として考えられる。

長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクションⅡ ボードインアルバム」長崎文献社
2011年発行による解説は、次のとおり。

17頁   21  オランダ人②
撮影者、人物ともに不詳。椅子の形やぼかしの技法から上野彦馬の撮影とする説もあるが、彦馬がこのような厚い洋書をスタジオに常備していたと考えにくい。
撮影者/A.F.ボードイン  撮影年/1865年頃
サイズ/217mm×166mm  目録番号/6248

12頁   12  出島スタジオでのA.F.ボードインとハラタマ
出島の私設スタジオで写されたボードイン博士(左)とハラタマ博士(右)である。ユトレヒト陸軍軍医学校でボードインの同僚であったハラタマは慶応2(1866)年3月2日に長崎の分析窮理所教師として着任した。ボードイン博士のもと、精得館と名前を変えた養生所で調剤と病院監督に従事し、分析窮理所で化学・物理学・薬物学・鉱物学・植物学などの自然科学を講義した。
撮影者/A.F.ボードイン  撮影年/1866年頃
サイズ/179mm×115mm  目録番号/6285

長崎の古写真考 目録番号:6292 出島スタジオのコロエス (再掲)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6292 出島スタジオのコロエス (再掲)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6292 出島スタジオのコロエス
〔画像解説〕  ボードインコレクション
カピタンハウスの門の前と思われる場所で撮影された二人のオランダ人です。左の人物はD.T.クロエス(タイトルは「コロエス」?)であることが分かっています。写真撮影のためでしょうか、チョッキに蝶ネクタイをつけた正装です。ここに写されているテーブルは出島スタジオの写真にたびたび登場します。 -6292-

■ 確認結果

目録番号:6292「出島スタジオのコロエス」は、長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクションⅡ ボードインアルバム 外国人が見た幕末長崎」2011年発行の16〜17頁に掲載されている。同解説は次のとおりで、人物名は「D.T.クルーズ(右)」と「E.ピストリウス(左)」が正しいとわかった。
https://misakimichi.com/archives/3251

18 クルーズとピストリウス
オランダ領事館の門の前と思われる場所で撮影されたオランダ人。D.T.クルーズ(右)とE.ピストリウス(左)である。このテーブルは出島スタジオ写真にたびたび登場する。
撮影者/A.F.ボードイン  撮影年/1865年頃
サイズ/135mm×120mm  目録番号/6292

今回、古写真考とするのは撮影場所。「カピタンハウス」や「オランダ領事館」の門の前と思われる場所で撮影されたと説明している。
もちろん出島内のことで、仮設の「出島スタジオ」ではない。ボードイン博士や弟、A.J.ボードイン領事は、出島のオランダ領事館(旧商館長の邸宅)に住んでいた。

データベースには見当たらないが、撮影場所の同じ写真が、朝日新聞社「写真集 甦る幕末」
1986年発行177頁に掲載されている。
解説は「兄のボードワン医師(中央)と弟の領事(右下)ら」。これ以外の説明がない。
詳細は不明だが、同じ撮影場所であろう。目録番号:6292が同じ時の写真か、また「上野彦馬撮影」との解説(甦る幕末)もあり、正しく調べてもらいたい。

長崎の古写真考 目録番号:6265 僧侶たち(8) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6265 僧侶たち(8) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6265 僧侶たち(8)

目録番号:6198 二人の水兵

目録番号:6194 侍たち(2)

目録番号:6202 A.J.ボードイン他4名

■ 確認結果

目録番号:6265「僧侶たち(8)」など4作品は、データベースのボードインコレクションにあるが、「画像解説」はいずれもない。
長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクションⅡ ボードインアルバム 外国人が見た幕末長崎」2011年6月発行に同じ写真が掲載されている。同解説は次のとおり。

42頁  46 悟真寺の僧侶たち
慶応元(1865)年頃、稲佐悟真寺のオランダ墓地をボードインが参拝したときに応接した僧侶達。悟真寺の第16代目住職、膽誉卯月(たんようげつ)和尚(中央)と4人の若い僧。袈裟を着けているので参拝後の撮影。
撮影者/A.F.ボードイン  撮影年/1865年頃
サイズ/154mm×200mm  目録番号/6265

84頁  71 二人のロシア士官
氏名不詳。上野彦馬のスタジオで撮影された若いロシア人の海軍士官たち。
撮影者/上野彦馬  撮影年/1866年頃
サイズ/153mm×109mm  目録番号/6198

84頁  72 侍たち
氏名不詳の武士たち。アルベルトの客であったどこかの藩士と思われる。上野彦馬のスタジオで撮影されている。
撮影者/上野彦馬  撮影年/1866年頃
サイズ/118mm×136mm  目録番号/6194

85頁  73 A.J.ボードインとオランダ通商会社の同僚
上野彦馬のスタジオで撮影されたA.J.ボードイン(前列右)および友人のクルース(前列左)とオランダ通商会社(NHM)の同僚たち。
撮影者/上野彦馬  撮影年/1867年頃
サイズ/255mm×304mm  目録番号/6202

長崎大学附属図書館がボードインアルバムの写真集を発行するのは良いが、写真集だけ内容を変更し、本来のデータベースをいつまでもそのままで公開しているのは、いかがなものだろうか。データ管理体制に問題がある。
前の記事に続き、一例としてこれらを載せる。きちんとした研究内容を公開してもらいたい。
同写真集の疑問点などは、次にも指摘している。
https://misakimichi.com/archives/2880

長崎の古写真考 目録番号:6292 出島スタジオのコロエス ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6292 出島スタジオのコロエス ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6292 出島スタジオのコロエス
〔画像解説〕  ボードインコレクション
カピタンハウスの門の前と思われる場所で撮影された二人のオランダ人です。左の人物はD.T.クロエス(タイトルは「コロエス」?)であることが分かっています。写真撮影のためでしょうか、チョッキに蝶ネクタイをつけた正装です。ここに写されているテーブルは出島スタジオの写真にたびたび登場します。 -6292-

目録番号:6203 オランダ人と日本人町人たち
〔画像解説〕  ボードインコレクション
なし

目録番号:6294 ピストリウス
〔画像解説〕  ボードインコレクション
なし

■ 確認結果

目録番号:6292「出島スタジオのコロエス」は、データベースのボードインコレクション「画像解説」どおりと思われるが、同じ写真が朝日新聞社「写真集 甦る幕末」1986年発行200頁に掲載されている。
タイトルは「外国人(氏名不詳)。(上野彦馬撮影)」となっている。どちらが正しいのであろうか。いずれにしても、撮影地域は「長崎」であろう。タイトル氏名は要確認。
この項は、次も参照。  https://misakimichi.com/archives/2479

左のオランダ人は、目録番号:6203「オランダ人と日本人町人たち」と、同一人だろう。これは上野彦馬スタジオ撮影か。両作品とも撮影者を調べてもらいたい。
この後わかったが、目録番号:6292「出島スタジオのコロエス」は、長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクションⅡ ボードインアルバム 外国人が見た幕末長崎」2011年発行の16〜17頁に掲載されていた。同解説は次のとおり。

18 クルーズとピストリウス
オランダ領事館の門の前と思われる場所で撮影されたオランダ人。D.T.クルーズ(右)とE.ピストリウス(左)である。このテーブルは出島スタジオ写真にたびたび登場する。
撮影者/A.F.ボードイン  撮影年/1865年頃
サイズ/135mm×120mm  目録番号/6292

20 ピストリウス
オランダ貿易会社(NHM)におけるA.J.ボードインの部下。長崎で領事に任命されたアルベルトおよび兵庫で副領事に任命されたコルトハルスと同じ時期の、明治元(1868)年1月から大阪の副領事を務めた。
撮影者/A.F.ボードイン  撮影年/1865年頃
サイズ/102mm×67mm  目録番号/6294

目録番号:6294「ピストリウス」があり、左の人物は、オランダ貿易会社(NHM)におけるA.J.ボードインの部下「E.ピストリウス」だった。右の人物が正しくは「D.T.クルーズ」。
ボードインアルバムの写真集だけ変更し、本来のデータベースをいつまでもそのままの内容で公開しているのは問題がある。

長崎の古写真考 目録番号: 2863 大浦川沿い(2) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 2863 大浦川沿い(2) ほか

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 2863 大浦川沿い(2)
〔画像解説〕  超高精細画像
大型アルバムから解かれた1枚である。キャプションにG61.OURA NAGASAKIとあるので、小川の写真の一枚である。大浦川の両岸沿いを川上の高台から撮ったものである。居留地最後の雰囲気を細かに観察できる。右手の大浦14番付近が建て変わり、松ヶ枝の波止(川口左)に明治31年(1898)建設の税関派出所(現長崎市立民俗資料館別館、国指定重要文化財)が見えるから、撮影は30年代の始め。川が狭まる左岸の川上4棟(下り松35甲乙、34甲乙)までが居留地で、人力車が止まっている、英語看板の見える和風家屋は日本人の商店であった。川口の下り松42番は角地で機械のテレシン商会と船具のアダムス商会など多くの商店が入居していた。各商店の構え、街灯、サンパン、屋根、材木置き場、洗濯干し、弁天橋(上流)と松ヶ枝橋(下流)、散見する人物など、拡大すると、細部が見えてくる。中央の松は下り松の地名の由来となった。その左にある妙行寺の建物が鮮明である。

目録番号:2879 大浦川沿い(3)
〔画像解説〕  超高精細画像
一枚ものでA147 AT OURA NAGASAKIと小川一真のキャプションが印字されている。これは目録番号2863(整理番号58-4)と同じ時期に、大浦川沿いをより上流の現北大浦小学校下の斜面から撮影している。この方が少し後である。川口の弁天橋と松ヶ枝橋は明治22年(1889)に架け替えられた木鉄混交のトラスト橋。明治26年(1893)10月に大浦32番Aに新築される孔子廟はまだ見えないので撮影時期は明治20年代中頃。大浦地区の裏側が空洞化している。漆喰が鮮やかな日本家屋の屋根と入母屋造りの洋館の屋根と対照的である。左大屋根の妙行寺の後には、屋根が口の字に繋がったベルビューホテルが見える。さらに左手隅には大浦天主堂の尖塔の先も写っている。海上には石炭燃焼の蒸気エンジンと帆柱の両方を備えた気帆船が多い。対岸にも多数の船が停泊する船溜を確認できるが、その横には三菱長崎造船所の外国人宿舎と、飽の浦および立神の工場群が写し出されている。

目録番号:3794 大浦川沿い(4)
〔画像解説〕
東山手居留地南端の高台から、大浦川右岸の大浦居留地と左岸の下がり松居留地を見たもの。下がり松地区には家並みが整然としている。居留地と日本人地区との関係が分かる写真。大浦川には明治22年に架設された松ヶ枝橋と弁天橋が見えている。3856と同じ。

目録番号:3856 大浦川沿い(5)
〔画像解説〕
東山手居留地南端の高台から、大浦川右岸の大浦居留地と左岸の下がり松居留地を見たもの。下がり松地区には家並みが整然としている。居留地と日本人地区との関係が分かる写真。大浦川には明治22年に架設された松ヶ枝橋と弁天橋が見えている。3794と同じ。

目録番号:6138 大浦川沿い(9)

目録番号:6720 大浦川沿い(10)

■ 確認結果

データベースにある大浦川沿いを撮影した6作品。目録番号: 2863「大浦川沿い(2)」と、目録番号:2879「大浦川沿い(3)」以下5作品は構図が少し違うが、キャプションの画像解説などから、撮影者はすべて「小川一真」となるのではないか。

石橋が左下に写っている。撮影場所は、「川上の高台」や「現北大浦小学校(2007年(平成19年)に、統廃合により閉校)下の斜面から撮影している」などというより、高度がまだあり「ドンの山」あたりからではないだろうか。

この項は、本ブログ次も参照。 https://misakimichi.com/archives/1881
目録番号:6138「大浦川沿い(9)」と、目録番号:6720「大浦川沿い(10)」は、その後、データーベースに収録された写真と思われる。

長崎の古写真考 目録番号: 5174 興福寺鐘撞堂

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 5174 興福寺鐘撞堂

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 5174 興福寺鐘撞(つき)堂
〔画像解説〕
興福寺鐘鼓楼を撮影した、明治後期から大正期(1890〜1920)の手彩色の絵葉書。寛文3年
(1663)焼失、元禄4年(1691)再建享保15年(1730)重修されている。現在長崎県指定文化財。

目録番号: 764 興福寺の鐘楼(1)
〔画像解説〕  
ベアトによる1866年3月の書き込み。興福寺の仏殿右側前面の鐘楼。寛永9年創建、火災後元禄4年再興、享保15年以降4回修繕された木造、本瓦、入母屋2層づくり。高欄付き、千鳥破風を有する。

■ 確認結果

目録番号: 5174「興福寺鐘撞(つき)堂」は、絵葉書のタイトルがそうなのかも知れないが、 関連作品の目録番号:764などのとおり「興福寺の鐘楼」、または建物の正しい名称「興福寺鐘鼓楼」で良いのではないか。
HP「長崎県の文化財」による解説は、次のとおり。

興福寺鐘鼓楼    有形文化財(県指定) 
よみがな  こうふくじしょうころう
指定年月日  1962年03月28日
所在地  長崎市寺町64(興福寺)
所有者  興福寺
最寄り駅  路面電車・バス「公会堂前」下車 徒歩7分

寛文3年(1663)市中の大火で,寺内殿堂みな類焼のあと,この鐘鼓楼は山門の翌年元禄4年(1691)に再建された。のち享保15年(1730)重修。これは棟札によれば高木弥源太・同久治平が棟梁であった。この以後も数次にわたり修理が加えられた。重層の上階は梵鐘を吊り太鼓を置いたが,梵鐘は戦時中に供出して今はない。階下は禅堂に使用された。上層には四方に花頭窓(かとうまど)を開いている。これは梵鐘・太鼓の音の開放のためである。周囲に高欄をめぐらす。軒回りは彫刻彩色で装飾され,元禄期の華やかさを感じさせるが,他の木部は朱丹塗り。建物の外観は上下の比例がアンバランスで,あまり佳良とは言えない。屋根の隅鬼瓦は,北面つまり寺外へ向かって鬼面,南面の内向きは大黒天像という珍しい例。福は内,鬼は外の意味と解してよかろう。日本人の工夫である。

長崎の古写真考 目録番号:1767 風頭からの港町 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1767 風頭からの港町 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1767 風頭からの港町
〔画像解説〕
上野彦馬の撮影による風頭山から望む長崎市街と長崎港。出島の横には中島川口に架けられていた大橋を見ることができる。当時、新地浦にはまだ海水が流入していた。出島側には西役所の遺構が見られ、旧県庁舎はまだ建てられていない。明治初年の写真。

〔画像解説〕 超高精細画像
風頭山から長崎市街地南部を撮影した写真である。17-2と同じ場所から同じ方向を撮影したものである。写真中央の中島川河口に新大橋が架けられているので、明治2年(1869)以降で、写真右の長崎県庁の場所に近代的な県庁舎が建てられていないので明治9年以前の写真である。梅香崎居留地が完成し、東山手からの外国人居留地の町並みは、外国人居留地に編入された新地を経て出島に繋がっている。写真左に、明治2年(1869)に新地が築き増しされた新しい護岸と銅座川の水面が見える。本籠町、広馬場、梅香崎の接点が鮮明に見える。東山手、梅香崎、新地、築町、出島にかけて、大規模な倉庫や商館が立ち並び、外国貿易の最前線であったことが伺える。県庁のある高台は、まだ近代化した官庁街になっていない。長崎市中心部の建物は、依然として伝統的な木造の建物である。中島川で区切られた町並みや、整然と並ぶ鍛冶屋町通りの家並みが見える。この写真は、目録番号4239(整理番号82-7)の写真と同じものであるが、彩色が異なる。

目録番号:5897 長崎市街と長崎港(5)  掲載略
〔画像解説〕
風頭山から長崎市中と港を展望したもの。左隅の新地蔵の付近は埋め立てが進み、新しい建物が建築中であるが、内側はまだ石垣がそのまま残っている。出島と出島橋、明治2年(1869)に架けられた新大橋の架かる築町には白い洋館が見える。明治4年から5年(1871〜2)頃の撮影。港の内には軍艦や船が停泊し、対岸には飽の浦の造船所、稲佐方面が展望される。

■ 確認結果

きょう2012年5月19日付朝日新聞長崎地域版”長崎今昔 長大写真コレクション”に掲載された「明治期の長崎市街中心部と長崎港 洋館と和風建築点在」
データベースでは、目録番号:1767「風頭からの港町」の作品。目録番号:5897「長崎市街と長崎港(5)」も、同じ写真である。

説明図は紙面が小さいから、そうなったかも知れないが、「新地」の位置は青線囲いの部分。ふつう新地蔵跡を考えるので、違和感がある。海岸側は築き増されているようで、もう少し左斜め下の中心に表示してもらえれば良い。
今回の新聞の解説では、「文明開化が始まった1873年に風頭から撮影された市街中心部と長崎港です。撮影者は不明です」となった。
この項は、本ブログの次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2725

資料によって、撮影者は「上野彦馬」あり、「内田九一」あり、「不詳」あり。撮影年代もバラバラ。上野一朗氏編「写真の開祖 上野彦馬 ー写真に見る幕末・明治ー」産業能率短期大学出版部発行に掲載されているらしいが、見る機会がない。
長崎歴史文化博物館で昨年6〜7月開催された、企画展「長崎・冩眞傳來」の目録では、〔撮影者:内田九一〕となっていた。

地元の大学や博物館である。地元の写真家「上野彦馬」の作品くらい、早急に正しく研究して、根拠をもって公表してもらいたい。記事や写真集、写真展のたびに見解が変わる。データベース上の解説でも食い違いがまま、一向に改善されないのも困ったことである。

長崎の古写真考 目録番号:5291 大浦海岸通り(13)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5291 大浦海岸通り(13)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5291 大浦海岸通り(13)
〔画像解説〕    超高精細画像
大型アルバムから離された1枚ものでNo.212 Nagasaki,Bundと印字がある。明治30年(1897)頃の撮影。大浦海岸通の3番(三井物産・現十八銀行体育館)前から南山手方面を望む。街路の電柱は、明治22年(1889)に設立された長崎電灯会社が同26年(1891)以降に設置した。下り松橋向側に下り松42番の洋館が見えるが、その奥の43-45番に明治31年(1898)に建つ長崎ホテルはまだ見えない。左手の大きな2階建て洋館は大浦4番(当時日清貿易会社=後の日本郵船・昭和52年頃消失・現ニュータンダホテル)で、慶応2年(1866)に木造で建築され、明治20年代中期にこの建物に建て替わった。正面のみのベイウィンドウと屋根のドーマ(張り出し窓)が特徴的である。その左横の石倉(実は鉄製トラスの小屋組み)は慶応2年(1866)頃の建造。正面の丘には「ヨンゴ松」とグラバー邸が見える。同じ写真が目録番号3865(整理番号75-8)に写された商店の店頭に陳列されている。

■ 確認結果

2012年5月12日(土)付朝日新聞長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」に掲載された「1890年代の大浦海岸通り 道幅11㍍ 土むき出し」。
解説の下段に「正面奥の南山手の丘には、曲がっていることから長崎弁で「ヨンゴ松」と呼ばれた一本松と、その左手にグラバー邸が見えます。…」とある。
今回、考えるのは、この「松」についてである。

長崎大学データベースでは、目録番号:5291「大浦海岸通り(13)」の作品。長崎文化ジャンクション 長崎文化百選「グラバー邸」や、グラバー園管理事務所HP「My Glover Tips」によると、「グラバーは前庭の見事な老松に因んで、その邸宅を“IPPONMATSU”(一本松)と呼んだ。最初の頃この巨木は邸宅の外にあったが、後に温室が増築され、その屋根から突き出る恰好で建物と一体となる。明治27年(1894)老松が病気に侵され、切り倒された後も、この邸宅は「一本松」と呼ばれ続けた。(ブライアン・バークガフニ氏著「花と霜−グラバー家の人々−」から)」とあり、新聞の解説もそうなったのだろう。

ただ南山手の高台には、本来の「一本松」と呼ばれたと考えられる大松が、別にあった。場所は現在のグラバー園スカイロード側の第2ゲートあたりと思われる。
教示いただいている地図と古写真を資料として載せる。古写真は長崎大学データベースのいずれもF.ベアト撮影、目録番号:5388「大浦居留地から見た大浦天主堂」と、目録番号:6163「東山手から大浦天主堂を望む(2)」の作品である。
「よんご松」と「一本松」とは、区別して解説した方が、明解になると思われる。

落合素行絵「グラバー邸」は、邸内展示写真から。「よんご松」の切り株跡が、温室のところにまだあるとのHPを見たようだが、管理事務所の話ではもうないと聞いた。
一番下の松「下り松」は、次を参照。  https://misakimichi.com/archives/3202

長崎の古写真考 目録番号:6069 風頭からの長崎市街鳥瞰(立山側)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6069 風頭からの長崎市街鳥瞰(立山側)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6069 風頭からの長崎市街鳥瞰(立山側)

■ 確認結果

長崎市史編さん委員会編「新長崎市史 第二編 近世編」が、平成24年3月30日発行された。
170〜171頁に掲載されている「写2−32 「風頭からの長崎市街鳥瞰(立山側)」上野彦馬/長崎大学附属図書館所蔵」は、データベースでは、目録番号:6069 の作品である。
新長崎市史の解説は、次頁の172頁にある。

長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社刊2007年初版の58,59頁に掲載されたこの古写真の解説の疑問点は、すでに次の記事により2010年1月指摘している。
https://misakimichi.com/archives/2171

新長崎市史の解説は、本ブログ記事も参照されたか、「延命寺の山門」の撮影とされ、了とするが、遠景の寺を「⑱が聖福寺、⑲が福済寺」と説明されているのは疑問がある。
航空写真で位置関係を見てみる。「⑱が福済寺、⑲が本蓮寺」ではないだろうか。
「聖福寺」は、「⑰永昌寺」のすぐ近くであり、⑱を「福済寺」とするなら、その中間に大きな甍が見えるところと思われる。
延命寺上からの現在の写真は5枚目のとおり。高いビルなどで、聖福寺などは見えなくなった。

最後の古写真は、越中哲也・白石和男氏共編「写真集 明治・大正・昭和 長崎」図書刊行会昭和58年再版12〜13頁に掲載されている「19 長崎の街なみ」。
長崎に市制が実施された明治22年当時の長崎の町の全景。上野彦馬の撮影という。
風頭山頂からの撮影と思われるが、同じような構図であり、鮮明であるので参考となろう。所蔵は長崎市市立博物館のようだ。4枚組だが、左右は省略した。
「’89長崎市制施行100周年 NAGASAKI 100」24〜25頁にも同じ写真がある。

なお、新長崎市史182頁「写2−44 新大工町の鳥瞰」A.Fボードイン/長崎大学附属図書館所蔵」の解説は、「⑩が金比羅山」ではなく「烏帽子山(金星観測があった)」、「⑪が上宮」ではなく「金比羅山」と説明した方が正しいだろう。
https://misakimichi.com/archives/2193
https://misakimichi.com/archives/2389

また、179頁「図2−14 測図長崎市街地図 1884(明治7)年頃(部分)(「地図で見る長崎の変遷」財団法人日本地図センターより作成)」は、「1884(明治17)年頃」の誤字である。
図中の「⑦が淵神社」は、まだ下の岬の方に表示した方が良い。

長崎の古写真考 目録番号:5258 茂木長崎ホテル(4)の訂正記事

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5258 茂木長崎ホテル(4)の訂正記事

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5258 茂木長崎ホテル(4)

■ 確認結果

きょう、2012年3月31日付朝日新聞長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」に掲載されたのは、「石炭積み込み 客船の船腹に沖仲仕」。
今回の古写真考でふれるのは、この記事ではない。左下横の「訂正記事」。
まず本ブログの次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/3149

訂 正 17日付「長崎今昔」で「道長エイが外国人のための茂木長崎ホテル(のちのビーチホテル)を建てます」とあるのは、「道長エイが『茂木ホテル』を購入し、外国人のためのビーチホテルと改称します」の誤りでした。当時、茂木には「茂木長崎ホテル」(のちの松柏楼)と「茂木ホテル」の二つがありました。記事についている写真も道長エイが購入した「茂木ホテル」とは別の「茂木長崎ホテル」でした。訂正します。

先々週3月17日紙面で、目録番号:5258「茂木長崎ホテル(4)」の作品を。道長エイが建てた「茂木ホテル」と解説していたので、そのほかの疑問点とともにすぐ間違いを朝日新聞へ知らせた結果の、きょうの訂正記事である。
訂正されたのは了とするが、執筆者が訂正されたのなら、読者に配慮したもう少し懇切な記事とならなかったろうか。茂木とは関係ない「石炭積み込み」を次回にまわしてでも、本文において正しい「茂木ホテル」の記事を掲載してほしかった。写真は次の作品の収集に努めてもらいたい。

茂木町「裳着神社の由緒」現地説明板に、茂木ホテル(後のビーチホテル)の古写真があるので、後ろに載せた。両ホテルの造りと建物背後の山手の違いを良く見てもらいたい。
本ブログ次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/1535
https://misakimichi.com/archives/1818
また、ブライアン・バークガフニ氏の研究紀要「古写真と絵葉書に見る茂木街道」が、長崎大学附属図書館「古写真研究 第3号」2009年5月発行57〜62頁に掲載されている。これにも詳しい茂木ホテルの写真がある。
本ブログ次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2795

長崎大学は古写真研究の基本的なことが、おろそかになっていないだろうか。世界に誇る古写真コレクションなのに、国登録有形文化財のボードインアルバム、F.ベアト、地元の上野彦馬など貴重な作品の、現地調査がほとんど行われず正しい検証がなされていない。本ブログで以前から何度となく指摘している。
国の科学調査研究費の補助を受けて構築されたデータベースである。国民の文化啓発のための作品であろう。長崎大学や執筆者のみの占有古写真ではない。学生にまかせた方が研究となり、データベースも臨機応変にすぐ正しいものに改善されるだろう。

現在のテータベースの古写真解説などには、閲覧者や利用者、出版社など非常に困惑している。文化庁に昨年8月、国費の返還を含め長崎大学学長を指導するよう要望したが、今もって回答がない。これで良いと思っているのだろうか。
朝日新聞も自身で事前にチェックを入れないと、権威が疑われるような不名誉な紙面が多い。
私もこれ以上、いちいち言いたくない。決して中傷ではない。長崎大学側の貴重な古写真研究とデータ管理体制に問題があることを指摘している。