長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5291 大浦海岸通り(13)
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号:5291 大浦海岸通り(13)
〔画像解説〕 超高精細画像
大型アルバムから離された1枚ものでNo.212 Nagasaki,Bundと印字がある。明治30年(1897)頃の撮影。大浦海岸通の3番(三井物産・現十八銀行体育館)前から南山手方面を望む。街路の電柱は、明治22年(1889)に設立された長崎電灯会社が同26年(1891)以降に設置した。下り松橋向側に下り松42番の洋館が見えるが、その奥の43-45番に明治31年(1898)に建つ長崎ホテルはまだ見えない。左手の大きな2階建て洋館は大浦4番(当時日清貿易会社=後の日本郵船・昭和52年頃消失・現ニュータンダホテル)で、慶応2年(1866)に木造で建築され、明治20年代中期にこの建物に建て替わった。正面のみのベイウィンドウと屋根のドーマ(張り出し窓)が特徴的である。その左横の石倉(実は鉄製トラスの小屋組み)は慶応2年(1866)頃の建造。正面の丘には「ヨンゴ松」とグラバー邸が見える。同じ写真が目録番号3865(整理番号75-8)に写された商店の店頭に陳列されている。
■ 確認結果
2012年5月12日(土)付朝日新聞長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」に掲載された「1890年代の大浦海岸通り 道幅11㍍ 土むき出し」。
解説の下段に「正面奥の南山手の丘には、曲がっていることから長崎弁で「ヨンゴ松」と呼ばれた一本松と、その左手にグラバー邸が見えます。…」とある。
今回、考えるのは、この「松」についてである。
長崎大学データベースでは、目録番号:5291「大浦海岸通り(13)」の作品。長崎文化ジャンクション 長崎文化百選「グラバー邸」や、グラバー園管理事務所HP「My Glover Tips」によると、「グラバーは前庭の見事な老松に因んで、その邸宅を“IPPONMATSU”(一本松)と呼んだ。最初の頃この巨木は邸宅の外にあったが、後に温室が増築され、その屋根から突き出る恰好で建物と一体となる。明治27年(1894)老松が病気に侵され、切り倒された後も、この邸宅は「一本松」と呼ばれ続けた。(ブライアン・バークガフニ氏著「花と霜−グラバー家の人々−」から)」とあり、新聞の解説もそうなったのだろう。
ただ南山手の高台には、本来の「一本松」と呼ばれたと考えられる大松が、別にあった。場所は現在のグラバー園スカイロード側の第2ゲートあたりと思われる。
教示いただいている地図と古写真を資料として載せる。古写真は長崎大学データベースのいずれもF.ベアト撮影、目録番号:5388「大浦居留地から見た大浦天主堂」と、目録番号:6163「東山手から大浦天主堂を望む(2)」の作品である。
「よんご松」と「一本松」とは、区別して解説した方が、明解になると思われる。
落合素行絵「グラバー邸」は、邸内展示写真から。「よんご松」の切り株跡が、温室のところにまだあるとのHPを見たようだが、管理事務所の話ではもうないと聞いた。
一番下の松「下り松」は、次を参照。 https://misakimichi.com/archives/3202