長崎の古写真考 目録番号:1966 漁村の風景 ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1966 漁村の風景 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1966 漁村の風景
〔画像解説〕
整理番号46番台の写真は、中国と日本を撮影した個人アルバムの写真である。この時代の多くの写真は1枚物やそれをアルバムにしているのに対して、個人アルバムである。場所未詳。

目録番号:5381 長崎湾口の風景
〔画像解説〕
ベアトアルバムに貼られている、長崎港口の集落である。明治初期の写真である。明確な場所の特定ができていない。写真を見ると、山が海に迫っており、地形的に隔絶された場所であることが予想される。沿岸の前面が砂地になっており、漁船が係留されている。その奥に護岸があり、各家は石塀で囲われている。藁葺きの家もあるが、漆喰仕上げの蔵がいくつかあり、また瓦葺きの家も見られる。比較的整った集落が形成され、棚田が山の上まで開発されている。山が何層にも重なり、長崎半島の地形を示している。しかし地形の形状や山の形から、長崎半島の付け根、長崎港外の佐賀藩の飛び地である深堀と考えられる。現在の長崎市深堀地区である。現在、香焼島と陸続きになり水路はなくなっている。長崎に関する明治時代の古写真では、長崎市街地と外国人居留地に関する写真が多い中で、珍しい写真である。

■ 確認結果

私が「茂木街道」を訪ねてきたのは、この目録番号:1966「漁村の風景」の写真を見てもらいたかったためである。この作品も「撮影地域:神戸」となり、画像解説では「場所未詳」となっている。
次の目録番号:5381「長崎湾口の風景」の作品と、まったく同じ漁村であり、港であることがわかるだろう。

撮影場所は現在の深堀ではない。長崎の裏玄関として昔から栄えた茂木港なのである。橘湾側にあり、島原・熊本・鹿児島方面との海上交通に重要な港となった。また豊富な漁獲がある。
古写真には右端に松の枝が写り、これは弁天崎にあった外国人用「茂木長崎ホテル」(現在のSマート茂木店及び茂木郵便局あたり)から、若菜川河口と茂木の集落を撮影したものである。
撮影場所が長く不明とされていたが、背景の山から「茂木」であると、2008年12月判明した。
この項は次の記事ほかを参照。 https://misakimichi.com/archives/2084

以上は後の作品、目録番号:5381「長崎湾口の風景」についてのいきさつである。この作品より当時の茂木港の様子を鮮明に写した古写真が、今回データベース上で見つかった。これが目録番号:1966「漁村の風景」である。
こんな写真があるとは、私はこれまで知らず、長崎大学側もまだ全然、把握していないと思われる。個人アルバムの整理番号46番台を、目録番号の連番号により1点ずつ検索していてわかった。茂木地区の「もぎ歴史懇談会」関係者が、大喜びしそうな新しい古写真であろう。
現在の写真は茂木郵便局前の海岸通りと、その先の埋立地天草フェリー側の岸壁から。

2月12日に現地を再確認した。写した写真を最後に追加する。