長崎の古写真考 1」カテゴリーアーカイブ

長崎の古写真考 目録番号:6042 大浦川沿いの居留地 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6042 大浦川沿いの居留地 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

同古写真の主なものが長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社刊2007年初版となって出版されている。
掲載されているのは、明治7年(1874)撮影の上野撮影局・冨重写真所合同アルバムから、昨年6月以降データベースに追加して公開された写真が多い。
この写真集の解説の疑問点は、先に数点を記事とした。一部の作品は再掲となるが、次に後日、実地再確認を必要とした3作品について、現地調査の結果を順に報告する。その1。

目録番号:6042 大浦川沿いの居留地
〔写真集 38頁  29 大浦川沿いの居留地 273×214 の作品。写真説明は次のとおり〕
大浦川沿いを上流(北大浦小学校下)の斜面から撮影している。川口には弁天橋と松ヶ枝橋が見える。居留地には空き地が目立ち、明治7年(1874)8月の台風の被害があちこちに見られる。左の高台には妙行寺とその右横にはヘルビューホテルが確認できる。長崎港には多くの外国船が停泊していた。

(関連作品)
目録番号:5296 ドンの山から見た大浦居留地と長崎港(1)
目録番号:5299 ドンの山から見た大浦居留地と長崎港(2)
〔画像解説〕
目録番号5296(整理番号102-2)と同じく上野彦馬の大型アルバムに収載され、キャプションも同じであるが、この写真の撮影地点はもう少し高い位置であり、また大浦居留地背後の大浦32-33番あたりの空洞化が進んでいるので、撮影の時期も1-2年後である。従って明治6-7年(1873-4)頃。目録番号5296と比較してみると、大浦川右岸の川幅が狭まる地点から3軒目にあった倉庫は取り壊されて無い。大浦居留地の中央22番Bにあった倉庫と32番A(明治26年<1893>に孔子廟が建つ)にあった倉庫が取り除かれ、居留地の空洞化が進んでいる。河口の角から2軒目の大浦11番の建物は異常に大きい。右側の丘の大きな二階建て洋館は東山手9番のイギリス領事館で、ユニオンジャックの旗が翻っている。左手の丘には尖塔が一つになった大浦天主堂とその上に「ヨンゴ松」とグラバー邸が見える。  

■ 確認結果

次記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1876
どちらも上野彦馬の撮影とされる古写真。目録番号:6042「大浦川沿いの居留地」と目録番号:5299「ドンの山から見た大浦居留地と長崎港(2)」を見比べてもらいたい。
ほぼ同じ場所から撮影されている。右端の石垣の洋館とその下の宅地の屋根の向き、左端は妙行寺の位置と屋根の格好がポイントとなろう。撮影年代は、大浦川沿いや現在の孔子廟あたり空き地の建物の建ち方から、目録番号:5299の方が少し後の時期のように見える。

目録番号:6042の写真集解説は、「大浦川沿いを上流(現北大浦小学校下)の斜面から撮影している」としているが、大浦川がこの向きとなり、撮影場所の高度が高いから、もう少し上手となるドンの山中腹、海星学園の上となる上大浦小学校跡のグランドから撮影しているものと思われる。グランドは前北大浦小学校の校舎のだいぶん上、運動場となっていたが、同校は現在新設された大浦小学校に統廃合されている。

長崎市教育委員会編「長崎古写真集 居留地編」平成15年刊第3版の78頁に「62 大浦川と両岸の町並みB」と似たような写真がある。「撮影は現・北大浦小学校下の斜面地からなされたものであろう」と画像解説しているのを引用したと思われる。この写真(目録番号:3794「大浦川沿い(4)」 掲載は略。)も撮影場所は違う。まだ高い場所からとなる。
目録番号:3794は、撮影場所をデータベース上で「東山手居留地南端の高台から」と説明している。この方が具体的と言えないが、差し障りのない説明と思われる。

「明治7年(1874)8月の台風の被害があちこちに見られる」の解説文もそうだろうか。目録番号:5299の〔画像解説〕との矛盾を感じる。撮影年代をもう少し検証してほしい。

長崎の古写真考 目録番号:4802 中島川と万橋

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4802 中島川と万橋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:4802 中島川と万橋
〔画像解説〕
万橋奥の山は健山(たてやま)、その右側は烽火山である。烽火山は江戸時代、長崎に緊急事態が発生したことを知らせる「のろし」をあげた山である。写真右側の家並みの所は現賑橋-西浜町間の電車通りである。万橋は延宝6年(1678)に、旧町名の築町-万屋町間に京都の人が贖罪(しょくざい)のため架設した長さ18m、幅6mのアーチ石橋である。享和元年(1801)再架、大正4年(1915)9月に橋面コンクリートの鉄桁橋に架け替え、さらに近年鉄筋コンクリート橋に新架された。最初、万屋町は鍛冶職人が多く居住していたので、鍛冶屋町といった。町が大きくなり、寛文12年(1672)に今鍛冶屋町(現鍛冶屋町)と本鍛冶屋町に分かれ、鍛冶職人の多くが今鍛冶屋に移ったので、本鍛冶屋町は延宝6年(1678)万屋町と改めた。万屋町の「おくんち」傘鉾のたれは「タイ,伊勢エビ,タコ」等の魚づくしで、長崎刺繍の代表的な作品の一つになっている。

目録番号:5881 中島川河口(2)  同作品 目録番号:4301(1)

■ 確認結果

万(よろず)橋は、浜市アーケード商店街通りの入口にある鉄橋のすぐ上流に架かる橋である。
目録番号:4802「中島川と万橋」は、橋が中島川に対して少し斜めに架かり、中島川上流が少し蛇行して曲り、背景の山々の姿と位置から「万橋」に間違いないだろう。
長崎大学の古写真データベース上は別に問題ないが、なぜ、この作品を取り上げたか。

「万橋」が大正4年(1915)9月に橋面コンクリートの鉄桁橋に架け替える前の、アーチ式石橋の貴重な姿が撮影されているからである。現在、現地へ行っても、何の説明板がない。
そして、次の目録番号:5881「中島川河口(2)」は、下流の「長久橋」と考えられるが、これと同じような古写真が「万橋」として、間違われて使用されていると思われるからである。
次記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/2159

長崎であいの会ウェブサイト「中島川グリット」石橋に関するコラムに出てくる古写真がそれ。
http://nagasaki.n-grit.com/   川に浮かぶ船の数が違う。同会のは写真出所が明らかでないが、次のとおりこの写真を「明治後期 万橋(よろずばし)」と解説している。

浜の町の入口?
鉄橋から万橋を望む。昔から長崎で一番歩行者の通行量の多いところ。写真の時代も鉄橋の賑わいはそうとうなものだったに違いない。今の風景にかさねて想像すると楽しい。右は浜市アーケード入口へ、路面電車も走っている。左は仕事帰りの人が立ち並ぶ中央橋のバス停。
今も昔もかわらないのは遠くに見える山の稜線。金比羅山と健山の間にかすかに帆場岳(三つ山)が見える。

中島川石橋群を守り、清掃活動や中島川まつりを開催している中心的な団体である。再掲となって恐縮だが、会の方で古写真がどの橋かはっきりした確認をしてもらい、ウェブサイトには「万橋」の正しい古写真を掲載し広報してもらいたい。

長崎の古写真考 目録番号:6196 海からの出島鳥瞰

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6196 海からの出島鳥瞰

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

同古写真の主なものが長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社刊2007年初版となって出版されている。
掲載されているのは、明治7年(1874)撮影の上野撮影局・冨重写真所合同アルバムから、昨年6月以降データベースに追加して公開された写真が多い。

写真集60〜62頁「海上からの出島パノラマ組写真」は、データベース目録番号:6075〜6077の3枚組写真。解説文中に撮影場所の説明はないが、タイトルに「海上から見た出島」としている。当時の写真機と写真術で船上から撮影できただろうか。なにも海上からではなく、大浦海岸通りの梅香崎側に突堤(運上所跡で最初の長崎税関前波止場)があり、そこから撮影できたと思われると、私の考えを述べていた。
https://misakimichi.com/archives/2177

ところで、この記事に関し長崎大学データベースにある別の次の作品について、問い合わせをもらった。 目録番号:6196 海からの出島鳥瞰

「この写真は明らかに海上と考えられます。これは撮影地点と出島の間に干潟があるのを見ると、船の舳先を干潟の中に漕ぎ入れて固定すれば、ブレも少なく撮影できるのではないでしょうか。場所と方法を考えれば、当時でも(船上からの撮影は)不可能ではないと思われます。大きな写真は朝日新聞社刊「甦る幕末」のp14、p15に掲載されています」ということである。

目録番号:6196「海からの出島鳥瞰」は、ボードインコレクションにある1863年(文久3年)撮影とされる古写真で撮影者未詳。私がこの写真を見て疑問に思うのは、不自然に合わされた2枚の組写真である。その上、外国の大型船が損傷や時間を惜しまず、干潟に漕ぎ入れてまで写真を撮る必要があるのだろうか。そうしていたら、もっとましな出島全景の写真が多く残っていてよいはずである。

背景の山並みは、現在の国指定史跡「出島和蘭商館跡」の南側、電車通りを挟んだ出島パーキング5階から確認した。右端の写真に写る山は、風頭山の奥に彦山。左端の写真に写る山は、稲佐山の立岩尾根だろう。出島の扇形を示すため、折れ曲がった写真とし、中間の山、烽火山・金比羅山は中抜きか、遠いためはっきり写らなかったと思われる。

出島の建物について見てみよう。出島左端に写る離れた1棟の黒い建物。神戸市立博物館所蔵の写真が大きくてわかりやすい。この建物が真横から見える梅香崎橋寄りの所から左の写真は撮影されたから、稲佐山の立岩尾根が背景に写ったのではないか。
次に場所を変えて、大浦海岸通りの突堤(運上所跡で最初の長崎税関前波止場)先端へ行って右側の写真を撮影した。そのため、風頭山と彦山が背景に写ったと思われる。

1863年(文久3年)梅香崎の海面が埋め立てられ、外国人居留地にすでに編入されている。それぞれの撮影場所は、「長崎港精図」に赤線で示した。この2枚を組み合わせれば、いかにも出島の形をした合成写真ができたと思われる。
実際、出島を写したこの写真と同じような構図の写真がある。それが、目録番号:3859「梅香崎洋館群と出島(1)」。ただ高度が違う。手前左側の洋館は「長崎郵便局」と解説している。これをもっても、梅香崎付近の海岸通りから同じような出島の写真が撮影できたのではないか。

目録番号:6196「海からの出島鳥瞰」の古写真で、あと少し見逃している点があろう。つなぎ合わせた中央下部にそれぞれ石柱らしいのが写る。船繋石、通りの縁石、洋館の煙突とも考えられる。左の写真には続いて道路の縁石か屋根みたいなものが下部に写る。
最左端の黒ずみも、写真の汚損ではなく、通りの街路樹、街灯か洋館テラスの柱など考えられる。船上からの撮影としたら、こんな物は写らないのではないだろうか。
以上、私の一般的な疑問を参考までに説明した。朝日新聞社刊「甦る幕末」の14,15頁がどのように解説されているかは知らない。あとは専門的な研究をお願いしたい。

長崎の古写真考 目録番号:2895 滝(5) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:2895 滝(5) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

同古写真の主なものが長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社刊2007年初版となって出版されている。
掲載されているのは、明治7年(1874)撮影の上野撮影局・冨重写真所合同アルバムから、昨年6月以降データベースに追加して公開された写真が多い。

この写真集の解説の疑問点についてこれまで5記事とした。以下は、本ブログによりすでに指摘している目録番号の古写真が多く、詳しい説明を省略し、疑問の要点のみを述べる。
古写真コレクションは昨年7月、国登録有形文化財となった。こういった内容の出版物が企画・編集され、まだそのまま一般に市販されているのは、誤解を生み問題があろう。
長崎大学関係者によって、現地確認のうえ早急なデータベースの整備をお願いしたい。

目録番号:2895 滝(5)

写真集 76頁  熊 本 12 御船の七滝  277×215
〔写真説明〕
上益城郡御船町にある滝。阿蘇溶結凝灰岩の節理があり、その侵蝕により滝が7段になっているのでその名がある。現在は上流に発電所の取水口が設けられ滝の景観をなさないが、地元の滝祭の時には放水される。

■ 確認結果
次記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1948
本写真集の第二部「熊 本」76頁に掲載されているのは、目録番号:6083「御船の七滝」 撮影者:冨重利平の作品である。まったく同一写真なのに目録番号:2895「滝(5)」は、撮影者:不詳、撮影地域:長崎のまま、データベースは現在も未整理となっている。
2007年2月頃、撮影地域を「長崎」で条件検索するとこの写真があり、「長崎の小さな滝」と説明していた。小さな滝ではなく、長崎では龍頭泉でもない。昨年8月、本格的に九州の滝HPと照合し、熊本県御船町の「七滝」と判明した。現地へ行って確認済。

目録番号:6110 稲荷川の河口(1)

写真集 80頁  鹿児島  7 稲荷川の河口(1)  273×217
〔写真説明〕
永安橋から上流を写したもの。屋敷は旧藩政時代の上町、士族居住地である。時代は遡るが、付近はザビエルが鹿児島に上陸した際に港だった場所でもある。

■ 確認結果
次記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1926
本写真集の第三部「鹿児島」89頁に掲載されているのは、目録番号:6110「稲荷川の河口(1)」 撮影者:冨重利平の作品である。上記のとおり写真説明しながらデータベースの作品は、撮影地域:長崎のまま、現在も未整理となっている。
この間違いは、目録番号:6099「 稲荷川の河口(2)」があってすぐ「鹿児島」とわかり、昨年8月に指摘している。

長崎の古写真考 目録番号:6044 飽ノ浦神社 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6044 飽ノ浦神社 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

同古写真の主なものが長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社刊2007年初版となって出版されている。
掲載されているのは、明治7年(1874)撮影の上野撮影局・冨重写真所合同アルバムから、昨年6月以降データベースに追加して公開された写真が多い。

この写真集の解説の疑問点についてこれまで5記事とした。以下は、本ブログによりすでに指摘している目録番号の古写真が多く、詳しい説明を省略し、疑問の要点のみを述べる。
古写真コレクションは昨年7月、国登録有形文化財となった。こういった内容の出版物が企画・編集され、まだそのまま一般に市販されているのは、誤解を生み問題があろう。
長崎大学関係者によって、現地確認のうえ早急なデータベースの整備をお願いしたい。

写真集 55頁  45 飽ノ浦神社  279×218
■ 確認結果
目録番号:6044  次記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1589 
「稲佐の飽ノ浦神社の境内越し長崎港を遠望している」は、飽ノ浦も渕村だったが稲佐とはならない。「左は飽ノ浦の集落とその先の岬り向こうに長崎造船局が見える」は、神社の左は水の浦と今は三菱電機となっている大鳥崎であり、左右をまったく間違って説明している。
目録番号:1694 に「同じ作品が上野彦馬アルバムに所蔵されている」と説明しているのが、この作品だろう。

写真集 56頁  46 ねずみ島から見た長崎湾口  278×217
■ 確認結果
目録番号:6047  次記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1923
タイトルの「長崎湾口」、解説文の「長崎港口」はふつう女神あたりを言うのでまぎらわしい。ねずみ島から湾外、港外を向いて撮影している。「後方右の半島は神ノ島さらに後方は伊王島」ではない。右は小瀬戸で、左が神ノ島。海峡の後方は福田崎である。この方向で「左には高鉾島の端」は写らない。前記の神ノ島を間違っている。

写真集 56頁  47 高 鉾 島  282×210
■ 確認結果
目録番号:6040  次記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1916
高鉾島を「長崎市街の対岸にあたる稲佐側の神ノ島から写したものである」としているが、神ノ島ではなく、ねずみ島から撮影している。高鉾島の後方に細長く香焼島が写り、右側は神ノ島の現在マリア像が立つ岩礁が手前に写り、後方は伊王島である。

写真集 57頁  48 高鉾島と貨物船  273×217
■ 確認結果
目録番号:6046  次記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1916
「神ノ島から撮影された高鉾島」としているが、前の「47 高鉾島」の写真と見比べてもらいたい。高鉾島の形はまったく同じ。後方は香焼島なのである。したがって神ノ島からでなく、ねずみ島の海岸を高鉾島に少し近寄って撮影していることがわかるだろう。

写真集 60頁  51 海上からの出島パノラマ組写真(1)  272×208
写真集 61頁  52 海上からの出島パノラマ組写真(2)  271×212
写真集 62頁  53 海上からの出島パノラマ組写真(3)  277×212
■ 確認結果
目録番号:6075〜6077 次記事を参照。https://misakimichi.com/archives/1924
51〜53は3枚組。解説文中に撮影場所の説明はないが、タイトルに「海上から見た出島」としている。当時の写真機と写真術で船上から撮影できただろうか。なにも海上からではなく、大浦海岸通りの梅香崎側に突堤(運上所跡で最初の長崎税関前波止場)があり、そこから出島や新大橋をこのように撮影できたと思われる。

長崎の古写真考 目録番号:6042 大浦川沿いの居留地 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6042 大浦川沿いの居留地 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

同古写真の主なものが長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社刊2007年初版となって出版されている。
掲載されているのは、明治7年(1874)撮影の上野撮影局・冨重写真所合同アルバムから、昨年6月以降データベースに追加して公開された写真が多い。

この写真集の解説の疑問点についてこれまで5記事とした。以下は、本ブログによりすでに指摘している目録番号の古写真が多く、詳しい説明を省略し、疑問の要点のみを述べる。
古写真コレクションは昨年7月、国登録有形文化財となった。こういった内容の出版物が企画・編集され、まだそのまま一般に市販されているのは、誤解を生み問題があろう。
長崎大学関係者によって、現地確認のうえ早急なデータベースの整備をお願いしたい。

写真集 38頁  29 大浦川沿いの居留地  273×214
■ 確認結果
目録番号:6042  次記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1876
「大浦川沿いを上流(現北大浦小学校下)の斜面から撮影している」としているが、大浦川がこの向きとなり、撮影場所の高度が高いから、もう少し上となるドンの山の中腹、上大浦小学校跡のグランド角あたりから撮影しているものと思われる。
グランドは北大浦小学校の運動場となっていたが、同校は新設の大浦小学校に統廃合されている。

写真集 44頁  34 大浦川中流域から東山手を望む  271×207
■ 確認結果
目録番号:6063  次記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1931
「南山手26番付近から大浦および東山手の居留地を展望している」としている。右端の通り、正面上に東山手12番館がきて、孔子廟前通りがまっすぐとなるのは、妙行寺先の「南山手26番」前あたりから撮影されたのは間違いないようだが、同じ通りの向きを変えた目録番号:4806「南山手からの大浦居留地(4)」と目録番号:6148「東山手の画像」があり、3作品とも現地再確認をお願いしたい。

写真集 51頁  40 小島からの長崎医学校と唐人屋敷  275×214
■ 確認結果
目録番号:6066  次記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1607
「小島から長崎医学校と唐人屋敷越しに長崎港を遠望している」としているが、唐人屋敷は長崎医学校の下にあり、写真には写っていない。撮影場所も「小島から」では具体的でない。初めて見た古写真のため、撮影場所は後日調査したい。
写っているのは、丸山から大浦中へ出る道路であり、道路を正面に望む中小島2丁目の高台からと思われる。梅香崎橋が医学校のすぐ左上に覗く場所となる。

写真集 52頁  41 稲佐のロシア人居留地桟橋  270×209
■ 確認結果
目録番号:6045  次記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/2151
「長崎港湾奥の西岸に稲佐地区が半島のように突き出ていた」ほどはない。「この半島の付け根にはロシア人の居留地があった。この写真はその上陸桟橋である」。志賀の波止の写真と思われる。上陸桟橋は場所が違うのではないだろうか。「稲佐風土記」著者・長崎日ロ協会会長松竹先生へ確認していただきたい。対岸「右に出島」までは写っていないと思われる。

写真集 53頁  42 稲佐の岬  267×215
■ 確認結果
目録番号:6094  次記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1872
「明治26年(1893)11月に稲佐のお栄(道永えい)がこの丘の上にロシア人相手の「ホテル・ヴェスナー(春)」を建てた。船着き場はそれ以後「お栄の桟橋」と呼ばれる」。「お栄の桟橋」と呼ばれるのは、この稲佐崎の反対側の突端にあったようであり、この写真の場所ではない。

長崎の古写真考 目録番号:6028 浪の平と長崎港 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6028 浪の平と長崎港 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6028 浪の平と長崎港
目録番号:6029 南山手外国人居留地

■ 確認結果

長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社刊2007年初版の36,37頁に掲載がある。同解説は次のとおり。

27 浪の平と長崎港   275×210
南山手外国人居留地の南端から浪の平越しに長崎市街地を望む。右の空き地の居留地境には明治20年(1887)7月に建つ尋常鎮鼎小学校はまだない。左側の古河町と浪の平町の海岸には中小の造船所が見える。上の工場付近は小曽根町の三菱炭鉱社となる。

28 南山手外国人居留地   273×215
27の撮影ポイントからさらに右の丘に登って南山手外国人居留地の南端を撮影している。U字型の道が居留地境である。居留地の最深部にあたるため邸宅は少ない。右上の建物は南山手33番。その上の松は当時「一本松」、中央のグラバー邸側の松は当時「よんご松」(曲っている松)、左の丘下の松は「下り松」と呼ばれた。

両作品とも撮影場所は、現在、琴平(金刀比羅)神社境内の小曽根乾堂像がある広場あたりからである。最初の目録番号:6028「浪の平と長崎港」は、同じような構図で撮影年代を変えた古写真が多く残り見覚えがあり、これまですでに紹介している。
次の目録番号:6029「南山手外国人居留地」は、その上手の道も撮影している写真。昨年6月からデータベースにより公開されたのか、初めて目にした。28の解説を読んで次の疑問がある。

撮影ポイントは、27の撮影場所から特に移動してないように思える。U字型の道がこのあたりは居留地境とはなっていない。ふつう「下り松」と呼ばれた松も写真の場所の松よりまだ先の方の松ではないか。
右上に白く大きな洋館が写っている。この建物は「南山手33番」だろうか。データベース上の長崎大学附属図書館作成「長崎居留地の敷分割図」の地番を見て感じた疑問だったが、「南山手
33番」の建物に間違いなく、かえって敷分割図の地番が誤っていると思われる。

参考のため、長崎歴史文化博物館所蔵「長崎市内小曽根地域地割図〔南山手居留地図〕(明治10年代後半)」及び目録番号:987「飽の浦からの汽船と南山手(1)」より付近の拡大写真を掲げた。
現在、十八銀行南山手寮がある所が居留地境の南山手32番で、当時はまだ石垣がなく未開発のようである。古写真に写った白い洋館はその奥となり、前長崎市立浪の平小学校の道路上、プールがあった所と思われる。隣は当時の大北電信会社所有地で標石が残る。
この洋館が何の建物だったのか、さらに調べていただきたい。地番は開発等に伴い、年代によって区画も少し変動している。

なお、浪の平小学校の前身は、明治11年(1878)小曽根乾堂が私費で建てた小曽根小学校。明治20年(1887)校舎を新築して鎮鼎小学校と改称した。同校跡地に現在、長崎市立南公民館が建っている。
公民館の右上小庭に昭和10年5月建立「鎮鼎同窓会記念碑」があるが、この石が古写真に写っている。現地にあった石を利用して記念碑を刻んだことがわかるであろう。
「鎮鼎同窓会記念碑」は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1442

長崎の古写真考 目録番号:6078 大徳寺跡から新地と出島を望む

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6078 大徳寺跡から新地と出島を望む

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6078 大徳寺跡から新地と出島を望む

■ 確認結果

明治元年(1868)廃寺となった大徳寺跡は、現在「大徳寺公園」となって長崎市西小島1丁目にある。上野彦馬が撮影した目録番号:6078の作品。長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社刊2007年初版の29頁に掲載がある。同解説は次のとおり。

21 大徳寺跡から新地と出島を望む   278×215
明治元年(1868)に廃寺になった大徳寺跡から新地ごしに出島を望む。明治2年(1869)に架設された出島右端の出島新橋と中島川河口部の長さ48.6mの新大橋、さらに梅香崎と西浜町を結ぶ梅香崎橋が見える。前ニ者は木製の桁橋である。出島右の茂みの中に県庁舎は見えない。遊歩道建設のための出島の築石の石垣が新しい。左の新地蔵裏の内海の埋立が進んでいるのがわかる。右の川は銅座川。(21・22・23は3枚組写真)

明治2年(1869)に架設された「出島新橋」と「新大橋」はわかるが、梅香崎と西浜町を結ぶ「梅香崎橋」が見えるとは、どの橋のことだろう。「出島新橋」「新大橋」と同時に架設された「梅香崎橋」は、新地と梅香崎を結ぶ橋である(当初は3橋とも木製)。梅香崎と西浜町は繋がらない。
この古写真の右端、銅座川に架かっている橋は、明治17年測図地形図によると新地蔵の銅座側門口に昔から架かっていた石橋ではないだろうか。

「左の新地蔵裏の内海の埋立が進んでいるのがわかる」も、周りの川が埋め立てられていることだろうか。次頁の「22 大徳寺方面から県庁方面を望む」においても、「手前の大きな漆喰の屋根は旧薩摩屋敷である」はどの区画を示すのか(現在の三菱UFJ信託銀行長崎支店一帯)、具体的に記してほしい。

長崎の古写真考 目録番号:5339 寺(11) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5339 寺(11) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5339 寺(11)

目録番号:6034 本蓮寺の本堂
目録番号:6070 本蓮寺の本堂と位牌堂(略)

目録番号:5338 本蓮寺
〔画像解説〕
上野彦馬アルバム所載の1葉。筑後町にある本蓮寺とその墓地を撮影したもの。撮影地点は現在の日本26聖人記念聖堂に近い墓地の外れに当たる。本蓮寺はもとサン・ラザロ病院やサン・ジョアン・バプチスタ教会があった場所で、それが破却された後、大村本経寺の僧日恵が元和6年(1620)に開創した日蓮宗の寺院である。境内は宝永4年(1704)に拡充整備されて大伽藍を形成するようになった。画面中央上の重層入母屋造の建物が本堂で、その左下は位牌堂である。本堂への石段脇にみえる流造の建物は清正公堂(番神堂とも)の神殿であるが、目録番号3780(整理番号102-44)の写真と比べるとその前に付随していた廊下と拝殿が既に失われている。しかし同神殿は明治23年(1890)の建て替えで入母屋造の仏堂形式に変更されたというので、撮影時期はそれよりも前である。本蓮寺は原爆で全壊したが、以後徐々に伽藍を復興しつつある。

■ 確認結果

長崎市筑後町の本蓮寺の当時の姿を上野彦馬が撮影している。幕末・明治期日本古写真データベースについて言うと、目録番号:5338では「本蓮寺」と判定し解説しながら、次番号となる目録番号:5339は、一般的な「寺(11)」のタイトルのまま未整理となっている。
右側と左側から写しているが、同じ寺とわかるのではないか。撮影地域は未詳とし、「本蓮寺」により条件検索しても、出てこなく集合されない。

次は目録番号:5339「寺(11)」とほとんど同じような古写真だが、目録番号:6034「本蓮寺の本堂」はやや不鮮明。この古写真を使用し、長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社刊2007年初版の8頁に掲載がある。同解説は次のとおり。

2 本蓮寺の本堂   274×210
本蓮寺の木造・本瓦葺・重層・入母屋造の本堂である。正面の扁額は高玄岱の筆で「霊端道場」と書かれている。正面と左右は外廊の板張りでその周囲に欄干を廻している。中央には向拝があり、堂内は畳敷きで内陣と外陣が区画されている。内陣には如来、持国天、多聞天、上行菩薩、無邊行菩薩などが、外陣には日蓮の木造などが安置されている。

この時点でも、目録番号:5339「寺(11)」の作品が本蓮寺とわからなかったのだろうか。そのうえ同解説は、「1 本蓮寺境内から長崎港を望む」(目録番号:6071)、「3 本蓮寺の本堂と位牌堂」(目録番号:6070)とも載せながら、本蓮寺が原爆によって全壊したことをまったくふれていないのは、誤解を与えよう。

長崎の古写真考 目録番号:6068 風頭からの長崎市街鳥瞰(県庁側) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6068 風頭からの長崎市街鳥瞰(県庁側) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6068 風頭からの長崎市街鳥瞰(県庁側)
目録番号:6069 風頭からの長崎市街鳥瞰(立山側)

■ 確認結果

幕末・明治期日本古写真データベース目録番号:6068と目録番号:6069の2作品。上野彦馬が風頭から撮影した古写真は、長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社刊2007年初版の58,59頁に見開きで掲載がある。同解説は次のとおり。

49 風頭からの長崎市街鳥瞰(県庁側)   277×216
風頭山からの長崎市外の俯瞰写真。右下は皓台寺の山門。左下は大音寺境内。長崎奉行所西役所がおかれていた左端の茂みには明治9年(1876)に建てられる県庁の建物がまだない。まもなく県庁前に整備される地方裁判所、区裁判所、控訴院もない。町全体として江戸期の建物や土蔵を残している。

50 風頭からの長崎市街鳥瞰(立山側)   275×212
49との二枚組みパノラマ写真。左下は皓台寺境内。右端には興福寺の鐘鼓楼がみえる。その上の大伽藍は光永寺の本堂。正面の立山の山麓には本蓮寺や福済寺などの寺院が連なっている。道路の縦筋は左から今魚町、本大工町、紺屋町である。この鳥瞰写真でも旧家や蔵屋敷の土蔵がめだつ。江戸時代総町80カ町時代の町の様子がわかる。

風頭公園の展望台や上野家墓地へ行っても、木立が高く直下の寺町の数ある寺は写せない。撮影場所が風頭山かはひとまず置き、少し下って寺が写せる寺町墓地の高台から考えてみる。この写真集49,50の解説は明らかな間違いがある。
長崎市外は「市街」が正。2枚組みパノラマ写真で見てみよう。寺は左から大音寺境内、皓台寺境内と山門、(間の長照寺と肝心な延命寺が抜け)、興福寺の鐘鼓楼、離れて光永寺とし、道路の縦筋は左から今魚町、本大工町、紺屋町であると解説している。

左右写真の手前正面に写っている寺(山門は中央で重複している)は、正しくは「延命寺」である。昔の姿は山門、聖天堂、薬師堂、大師堂と建物があった。延命寺の上でないと遠くの稲佐山・岩屋山・立山尾根の重なりが合わない。右端にすぐ興福寺に昔あった観音堂(鐘鼓楼ではない)、光永寺が大きく写るのは、そばの「延命寺」となる。
道路の縦筋は、50の写真では、左から現在の諏訪通り、まっすぐなのは新橋通り、右は紺屋通りとなろう。付近の現在の地図を載せたので参照。

この古写真は延命寺に見てもらって確認した。延命寺は当時の写真を持たないので、特別に寺部分を拡大した。山門途中の現在ある石門は、明治33年建立されている。
実際の撮影場所も、延命寺がすぐ近くに写り、背景の山の重なりから考えると、風頭山頂からではなく、長照寺と延命寺の間の幣振坂を登った途中とするのが相当と思われる。
49の古写真の現在写真は、この場所からのを写し忘れたため、皓台寺上からのをとりあえず載せ、後で差替えたい。

最後が1月10日幣振坂へ再び行き、延命寺墓地から撮り直した写真。皓台寺上からのとの違いがわかるだろう。