長崎外の古写真考 目録番号:2895 滝(5) ほか 

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2895 滝(5) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、目録番号の順は不同である。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2895 滝(5)
目録番号:6083 御船の七滝

■ 確認結果

長崎の幕末・明治期古写真の撮影場所探しも、残り数点となった。目録番号:2895「滝(5)」は、撮影地域が「長崎」とあり、かねてから懸案としていた。長崎において古写真の対象となる名滝は、長崎名勝図絵に描かれた小島「白糸の滝」、同重篭(田手原)「轟の滝」、諫早藩の祈願所であった「滝の観音」、広瀬淡窓が訪れた「龍頭泉」などが考えられるが、滝の姿はまったく違う。
古写真の滝は大きく、流れは数段となっている。渕も大きく、何よりも左右の崖は高く、柱状節理を成している。

長崎の滝ではないと思い、本腰を入れて調べる。九州の主な名滝と比較した。あった。熊本県御船町の御船川名滝「七滝」。
滝に関するHPは数あるが、渇水期に写されたものが多い。最も古写真と似ていたのは、地元「御船町HP」観光マップにあった写真を参考に掲げる。
熊本まで昨日、現地確認へ行った。滝上の七滝神社駐車場から遊歩道の坂段を15分ほど下ると、滝下の渕へ出る。侵食と崩壊が進み、古写真どおりの写真は写せなかったが、「七滝」に間違いないことが確認できるであろう。

熊本は上野彦馬から写真術を習得した冨重利平が、明治3年(1870)に「冨重写真所」を開業したところ。冨重利平の関係を本日さらに調べると、同じ古写真が大学HPに、目録番号:6083「御船の七滝」でちゃんと別にあることがわかった。
この写真は撮影者から検索すると出てくる。こちらは撮影地域「熊本」。検索キーワードに両方とも「滝」と入力されていれば集合され、何も苦労することはなかった。
なお、冨重利平の仕事について、@あっと九州.com「九州ものしり情報」に、次のような記事があったので抜粋した。

時代を撮り続けて130余年—冨重写真所 〜その1〜 1999年10月

■ 冨重利平の仕事

現代のカメラは使いやすく、子どもにも手軽に撮影ができる。しかし、当時の写真撮影は容易ではなかった。
利平は長崎を離れる時、スタジオ用と野外用の二台の写真機を持ち帰った。野外の撮影にはもちろん野外用のカメラを運んでいくが、現在のように写真機だけを持って行けばいいわけではない。ガラス板に塗布した乳剤が濡れているうちに撮影しなければならないため、撮影現場ではまず暗室を組み立て、乳剤を塗布した種板を作ってカメラに入れる。この原板は長く置くと乾いてしまうため、撮影を終えたらその場で現像しなければならない。しかも、当時の写真機にはシャッターがなかったため、写真師はレンズのキャップを手で取って撮影し、時間をおいてまたはめる。その日の天候などさまざまな条件を把握して撮影時間を決めるのは、経験から身につけた写真師のカンに頼るところが大きかった。利平自身も二日も撮影しないでいるとカンが狂って、なかなか調子が出なかったようだ。
こんな具合だから、野外での撮影や出張撮影は人力車や大八車を使っての大移動となる。シャッターを押せば写る現代では考えられない一日仕事だった。

スタジオでの撮影にもいろいろな苦労があった。当時は今とは比較にならないほどの露光時間が必要だったが、被写体となる人物もその間じっとしていなければならない。今となっては笑い話のような「首おさえ」や、視線をどこに向けるかを示す「目標」は当時は不可欠な撮影機材だった。写真を西洋風の雰囲気にするために使われたヨーロッパ製の犬の置き物も、実は「三人で写ると縁起が悪い」という迷信への対応策だったらしい。
苦労のかいあって冨重写真所は大繁昌する。軍隊と学生の街だった熊本で、仕事は引きも切らず、写真所の前には順番待ちの行列ができるほどの盛況ぶり。職人の一カ月分の給料にも値するといわれた撮影代にもかかわらず、よそ行きに身を包んだ庶民も家族で記念の一枚を撮った。夏目漱石や小泉八雲などの文人も写真所を訪れている。
利平は熊本のさまざまな風景も撮影した。西南戦争で焼失する前の熊本城や軍の依頼で撮影した田原坂の戦跡、籠城中の将校たちなどは日本最古の戦争の記録写真だ。しかし、どんな無残な戦場を撮っても亡骸は撮らない。それが命を落した人々に対する礼儀だと考えていた。また、三角の築港経過も文明開化期の重要な記録だ。
利平が残した時代の写真は社会的にも文化的にも極めて価値が高い、日本写真史には欠かせないものとなっている。