長崎の古写真考 1」カテゴリーアーカイブ

長崎の古写真考 目録番号: 708 小島の風景 ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 708 小島の風景 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 708 小島の風景
〔画像解説〕
場所は不明。石垣上に腰掛けた髷を結った男が向こうに見える小島を指差している。いかにも演出されたポーズである。また画面上方をふさぐように伸びる樹木の構成は、日本画的構図の発想であろう。

目録番号:4084 高鉾島(28)
〔画像解説〕
横浜の玉村康三郎作と思われる、黒漆象牙象嵌蒔絵大型アルバムの中の1枚でキャプションはない。目録番号2922(整理番号59-13)と同じアングルを少し左にずれて撮影したもの。人物背後の台地にまだ人家が建っていないので、この方が古い。アルバムに収載されている他の写真から判断して、撮影時期は明治20年代前半頃。場所は長崎港の稲佐側突端にあたる神ノ島(現神ノ島町2丁目)である。目録番号2922の写真では人物左下の石垣上は畑になっているが、この写真では土がむき出しになっている。外国船は高鉾島の外側から長崎港に入港したので、神ノ島は、承応3年(1653)、文化5-9年(1808-12)に港内に築かれた、外国船打ち払いのための台場の候補にはならなかったが、警備上重要な岬であり船着場は良く整備されていたようである。下の屋根の建物は目録番号2922でも見える。江戸時代、この一帯は隠れキリシタンが住み着き、神ノ島の地名もそれに由来する。現在、岬の突端にマリア観音が築造されている。

目録番号: 696 稲佐のイサバ船と弁財船(1)
目録番号: 993 稲佐のイサバ船と弁財船(2)

■ 確認結果

まず、目録番号: 708「小島の風景」の画像解説は、「場所は不明」としている。7000点近くある長崎大学古写真データベースの全作品を私がいちいち確認することはできない。
この作品は「撮影地域:未詳」なので、撮影地域が「長崎」で検索しても出てこない。キーワードが「眺望/海」なので、撮影対象をいずれかで検索すると、「撮影地域:未詳」の作品も出てくる。大学側の未整理が今、わかった。場所が特定できない「撮影地域:未詳」の作品こそ、大学側も調べる必要があり、データベースの検索項目に追加するよう改善してほしい。

この作品は、神の島教会の高台から、長崎港口の「高鉾島」を望んだ写真である。データベースに同じ構図の写真は多くあるのに、なぜ気付かないのだろうか。目録番号:4084「高鉾島(38)」玉村康三郎アルバム(1)とまったく同一写真である。
タイトルを「小島の風景」としながら、キーワードが「眺望」では漠然とし、多数の作品が出てくる。「島/海」にすべきだろう。目録番号:4084 の解説にある「神の島」の由来も、神功皇后が立ち寄った島という意味ではないか。
この項の関連作品記事は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1688

次に、目録番号: 696「稲佐のイサバ船と弁財船(1)」と、目録番号: 993「稲佐のイサバ船と弁財船(2)」は、キーワードがなぜ「和船/川」となるのだろう。ほかの稲佐崎海岸の和船を写した作品と合わせ、「和船/海/港(ないし運搬)」にすべきだろう。
画像解説では「長崎稲佐海岸」と説明しながら、キーワードが「川」とはならない。タイトルを変えた時点でも、キーワードには気を付けてもらいたい。
この項の関連作品記事は次を参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/48304537.htm

長崎の古写真考 目録番号:1196 飽の浦からの長崎港(3) ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1196 飽の浦からの長崎港(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1196 飽の浦からの長崎港(3)

目録番号:5314 長崎製鉄所(1)    画像解説は、岩場に関係ないので省略。

■ 確認結果

朝日新聞の2010年(平成22年)1月21日付長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」に載った”長崎港のパノラマ 優美さ まるで浮世絵”、及び2010年(平成22年)1月28日付”長崎港のパノラマ 特定難しい撮影時期”。
三菱重工(株)長崎造船所史料館に展示している4枚組全景の写真を参考のため掲げた。
この項は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2192

この長崎港パノラマ写真は、飽の浦恵美須神社の神殿裏が斜め左に写っている。海岸を向いた神殿の右上に大松が生えた小高い岩場の広場があり、2人の人物が港を眺めている。目録番号:1196「飽の浦からの長崎港(3)」が岩場の写真となる。
朝日新聞は1月23日付記事により、「撮影した場所はいずれも、現在の三菱重工業長崎造船所史料館近くの高台(飽の浦町の西日本菱重興産本社付近)です」と解説した。撮影場所は、私も1年前に調査し「菱重興産ビル 第ニ別館」あたりのかつての岩場と記事にしている。 
この項は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1589

その時はデータベースにまだ公開されていなかったと思われ、私は参考としなかったが、最近のデータベースを見ると、この岩場を飽の浦側から展望している古写真があるのがわかった。
それが、目録番号:5314「長崎製鉄所(1)」である。現在の塩浜町の少し高台から撮影しているようだ。当時の長崎製鉄所はもちろん、飽の浦恵美須神社近くの岩場の位置と様子を写した貴重な写真となる。

岩場付近を見やすくするため拡大した。生えた松の大木の格好から判断すると、拡大写真の中央が岩場、右斜め下が飽の浦恵美須神社となることがわかるであろう。
この写真は、内田九一の「西国・九州巡幸写真」になく、上野彦馬の後年の撮影(年代未詳)と思われる。

ところで、目録番号:1196「飽の浦からの長崎港(3)」の右にくる写真。長崎大学データベースでは見当たらないが、次の写真集に詳しくあった。
石黒敬章氏著「続幕末・明治のおもしろ写真」平凡社1998年初版第1刷37頁に掲載されている。同解説は次のとおり。

屋形船の不思議
〔写真15〕飽の浦より写した長崎港。横浜写真アルバムでよく見られる。4枚続きの右2枚。右が長崎造船所。4枚並べると、左に恵比(美が正)須神社が写っている。これまでの本では上野彦馬撮影とされている。しかし彦馬の写真は横浜写真では見かけないこと、霞会館所蔵の明治天皇御巡行(幸が正)の時撮影された一連の写真にあることなどから、内田九一の撮影と思われる。 

長崎の古写真考 目録番号:5271 雲仙稚児の滝

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5271 雲仙稚児の滝

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5271 雲仙稚児の滝

■ 確認結果

目録番号:5271「雲仙稚児の滝」は絵葉書(長崎地域)。「明治後期から大正初期(1900年前後)の雲仙公園の風景。手彩色の絵葉書である。雲仙公園内の滝を撮影したもの。詳細な場所は未定」と画像解説しながら、タイトルは「稚児の滝」となっている。
雲仙の「稚児の滝」とは、別所ダム下流の「稚児落しの滝」のことと思われるが、この滝は行きにくい。滝の姿が違うし、写真撮影が簡単にできない滝のようだ。

雲仙で昔から有名な滝は、「一切経の滝」である。小地獄の国民宿舎「青雲荘」先の石門から下の谷へ下って行く。高さ7mほどの美しい滝。奈良時代の名僧「行基」がここで仏道修行をし、一切経(お経を一同に集めたもの)の経文を筆写したと伝えられている。
古写真と比べると、滝つぼからの落し口岩など変わっているが、洪水などで崩落し、形が違ってきたと考えられる。

その昔、修行の場であった「一切経の滝」周辺は、大正から昭和にかけて、欧米人の水浴場となった。「雲仙お山の情報館」に古写真が展示されている。石を組んで下流をせき止め、プールを作っていた。古写真に見られる石組みは、現在では全く残ってない。
古写真は次のHPを参照。 http://www.pref.nagasaki.jp/sizen/6unzen/41/41.htm
斎藤茂吉は、大正7年7月、胸部疾患の療養のため雲仙へ登り、「温泉嶽療養」の中には「幾重なる山のはざまに瀧のあり切支丹宗の歴史を持ちて」「露西亜よりのがり來れる童子らもはざまの瀧に水あみにけり」と歌い、後年まで「温泉岳はいい山だ」と記している。

長崎の古写真考 目録番号:6275 新大工町の鳥瞰 ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6275 新大工町の鳥瞰 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6275 新大工町の鳥瞰
目録番号:6277 春徳寺遠望

■ 確認結果

古写真データベースで撮影者「A.F.ボードイン」から探すと、この作品が出てくる。目録番号:
6275が新大工町、目録番号:6277が春徳寺を写している。下部にそれぞれ鳥居の列が写り、伊良林1丁目の竹ん芸で有名な「若宮神社」参道横から撮影されている。間の目録番号:6276はタイトル「長崎郊外(1)」。別景色の作品。

前記の2作品は、横に並べるとパノラマ組写真のようになる。同じ場所から写真機の向きを変えて撮影されたと考えてよい。背景の左は金比羅山、中央右奥にかすかに帆場岳(三つ山)、右は健山。撮影場所と思われる所は宅地となっている。
現在の写真は、近くの光源寺墓地内、高台の「大春家」墓門の場所から写したから、春徳寺の大屋根の向きが古写真と比べ少し変わった。後ろの写真は、若宮神社と小さな坂本龍馬之像。

なお、目録番号:6275「新大工町の鳥瞰」については、慶應義塾大学高橋信一教授の次の記事がある。
2008年12月 1日 (月)   朝日新聞社刊「写真集 甦る幕末」の再評価
122 長崎・伊良林からの展望
この写真はB3アルバムにあるものだが、撮影時期、撮影者が不明である。上野彦馬邸の前の中島川の川向こう、伊良林の丘の上の若宮神社から新大工町、片淵方面を望んだ写真である。手前左に彦馬邸、正面に高木邸とその倉庫の建物が写っている。上野彦馬邸の東南の角の家屋は建て直される前のもの。写真No.130の写真と比べると、屋根の形が旧いものとなっている。しかし、塀沿いの西側の建物は撤去されているので、慶応年間の後半であろう。塀の様子が判然としないので、白壁の塀の築造との関係は読み取れない。今後の課題である。明治以降に使われた広い写場についての考察は拙著「書評 馬場章編『上野彦馬歴史写真集成』」(「民衆史研究」第74号、2007年12月号)(119)を参照されたい。

長崎の古写真考 目録番号:1196 飽の浦からの長崎港(3) ほか

イメージ 1

イメージ 2

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1196 飽の浦からの長崎港(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

朝日新聞の先週2010年(平成22年)1月21日付長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」に載った”長崎港のパノラマ 優美さ まるで浮世絵”。
この項は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2185
パノラマとした3枚の古写真の左側、飽の浦恵美須神社を写した部分は、別の作品があるのに連結を明らかに間違っている。目録番号:1196「飽の浦からの長崎港(3)」か、または同じような写真の目録番号:2875「同(4)」となるのが正しい。

当日朝からすぐブログ記事にして、朝日新聞長崎総局と長崎大学附属図書館へ知らせていた。その訂正記事が上のとおり、きょう2010年(平成22年)1月28日付”長崎港のパノラマ 特定難しい撮影時期”(クリック拡大)となった。
三菱重工(株)長崎造船所史料館に展示している4枚組全景の写真を参考のため掲げる。
こんなことがないよう現地確認の徹底などを再三、苦言している。長崎大学附属図書館の古写真データベース管理体制に問題があろう。専門的な監修委員会を再び立ち上げ、全作品について正確な検証を早くお願いしたい。疑問がある作品は本ブログにより具体的に指摘している。

長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション① 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」2007年11月初版長崎文献社刊と、朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」2009年12月第1版朝日新聞出版刊の解説の疑問についてもこれまで述べている。
長崎さるく幕末編に続く英雄編の年ということで、この古写真集が長崎歴史文化博物館や長崎まちなか龍馬館などで、そのまま盛んに市販されている。間違いがわかった作品だけでも、早急に簡単な訂正記事をまとめた文書を添えて、在庫分は売ってほしい。

2009年12月10日付の目録番号:5378「眼鏡橋(1)」新聞記事の「後方左の高い山は彦山です」は、2010年1月7日付の訂正記事では『正しくは「三ツ山」でした』そうである。「烽火山」なのになぜ「三ツ山」となるのか、具体的に説明してもらわないと訂正記事にならない。

長崎の古写真考 目録番号:4683 中島川と阿弥陀橋(3)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4683 中島川と阿弥陀橋(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:4683 中島川と阿弥陀橋(3)

目録番号: 341 中島川と阿弥陀橋(1)

目録番号: 989 中島川大手橋(1)
〔画像解説〕
写真中央の木の奥に大手橋、中央に西山水源地裏の山々、右側に健山(たてやま)、左側は金比羅山のすそ野に当たる。写真は桃渓橋の上からの撮影である。大手橋は、馬町と新大工町間に慶安3年(1650)唐通事高一覧(日本名:渤海久兵衛)が架けた長さ13.4m、幅4.7mの階段付き唐風石橋である。大手橋の袂に長崎氏の大手門があったところで、古来堂門橋と呼ばれていたが、明治15年(1882)、これまで個々に呼ばれて不便であったので、呼び名が統一され、大手橋と付けられた。昭和7年(1932)ころ、交通に不便ということで、階段付きの上部を車が通れるように改造された。これまでの大水害でも崩落することもなかったが、昭和57年(1982)の大水害の災害復旧の河川改修工事に伴い、現在の橋の上部は改修されたが、アーチ部分は建設当時のまま残っている。川辺は出来大工町で、トントン葺きの家並みが見え、時代を感じさせる写真である。

■ 確認結果

古写真データベースで「中島川と阿弥陀橋」と条件検索すると、同橋タイトルの(1)から(7)まで7作品が出てくる。その中でも、目録番号:4683「中島川と阿弥陀橋(3)」は、明らかに他の写真の「阿弥陀橋」とは違うような感じがする。
条件検索した関連作品では、横の小画面となり橋の長さが引き伸ばされ、「阿弥陀橋」に似ているが、実際はこの古写真は縦長で、良く見ると石橋の造りが違う。

「阿弥陀橋」の代表作品、目録番号: 341「中島川と阿弥陀橋(1)」と比較してみよう。(3)の方は、橋の高さが川底から高い。川幅が狭くアーチ橋の造りが違い、アーチ間の径間が短い。欄干の数が少ない。左側の親柱に擬宝珠が写る。橋上部の通路部分が水平である。川岸に護岸の通りや人家がまだないことがわかるだろう。

「阿弥陀橋」と違うとすれば、中島川との合流点、二股に左から流れる西山川(堂門川)に架かる「桃渓橋」だが、「桃渓橋」には擬宝珠がない。欄干のある橋上部が水平でなくやや丸い。
「桃渓橋」は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1537
目録番号:5163「中島川と一覧橋と光永寺」は、データベース上、目録番号:5162「中島川と桃渓橋(1)」と写真を入れ違い、間違ったタイトルのまま、今でも公開されている。この項はすでに指摘済。

では、もっとも考えられる橋は、桃渓橋の上流に架かる「大手橋」だろう。大手橋の古写真は、目録番号: 989「中島川大手橋(1)」などあるが、桃渓橋の遠くから小さく写され、当時の橋の正確な姿がわからない。「大手橋」は、現在の新大工商店街通り入口に架かる橋である。上部は鉄筋造となって拡幅されているが、下部にはまだ建設当時のアーチ式石橋が残る貴重な橋である。現在の姿から当時の橋を推測するしかない。

擬宝珠がこの橋にはあった。大正10年頃の大手橋から新大工町通りを見た写真があり、擬宝珠が写っている(長崎電気軌道(株)の所蔵写真。写真集「目で見る 長崎市の100年」郷土出版2002年刊57頁に掲載)。橋の改造のため撤去された擬宝珠は、出来大工町の光雲寺入口と途中の階に現存している。
「阿弥陀橋」にも、擬宝珠があったが、橋全体の姿からこの古写真の橋は「阿弥陀橋」ではなく、「大手橋」と考えられるのではないだろうか。そうして見ると、目録番号:4683の作品の橋下に遠く霞む山は、「健山」か西山木場方面の山となる。川下へ降りて、アーチ式石橋を見上げて写した珍しい写真と言える。

目録番号: 989「中島川大手橋(1)」の〔画像解説〕にある「昭和7年(1932)ころ、交通に不便ということで、階段付きの上部を車が通れるように改造された」も確認調査が必要である。日見峠に明治新道が開通するのは明治15年(1882)で、「大手橋」が階段橋であったら、「古橋」と同じくその頃に改造されたと思われる。大正10年頃撮影の大手橋と通りの古写真が証明している。「古橋」や「一の瀬橋」とも言えないし、中島川の石橋を研究する方に判断をお願いしたい。

長崎の古写真考 目録番号:6260 飽の浦からの汽船と南山手(3) ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6260 飽の浦からの汽船と南山手(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6260 飽の浦からの汽船と南山手(3)

目録番号:1007 飽の浦からの汽船と南山手(2)
〔画像解説〕
長崎の西岸飽の浦辺りから、汽船越しに大浦居留地と東山手居留地を撮影した写真である。明治5年(1872)2月16日付の”The Far East”に掲載された写真である。撮影時期が特定できる重要な写真である。煙を吐く汽船の船首付近が下り松居留地で舳先付近の2階建ての建物が下り松42番D、後の香港上海銀行の場所である。煙突の向こうがイギリス領事館、そこから左の山手が東山手地区である。山腹に教会の建物が見えているが、これは、元治元年(1864)に建設された大浦天主堂に先立ち、文久2年(1862)に建設されたイギリス国教会の教会である。現在の海星高校に体育館の下に当たり、プレートがはめ込まれている。その右下に洋館が見えるが、この建物は東山手12番館である。左隅の海岸線は大浦居留地の建物である。明治元年(1868)末、新地が居留地に編入され、明治2年(1869)に3橋が架設され、長崎の外国人居留地が完成した時期の写真である。

■ 確認結果

目録番号:6260「飽の浦からの汽船と南山手(3)」は、ボードインコレクションにある作品。昨年6月以降、データベースに追加公開されたと思われる。最近、初めて見た。
一見、撮影場所は「飽の浦から」のように見えるが、そうではない。写真の右側、南山手居留地の上は「鍋冠山」、奥に霞んでいるのは八郎岳へ続く尾根の「熊ヶ峰」である。

先日、朝日新聞2010年(平成22年)1月21日付長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」”長崎港のパノラマ 優美さ まるで浮世絵”を、ブログ記事にしていて思い出した。パノラマとした3枚の古写真の今度は右側、1枚目は目録番号:1196「飽の浦からの長崎港(3)」。
飽の浦恵美須神社近く、松の大木がある岩場から長崎港の南山手方面を写している。飽の浦恵美須神社近くまで来ると、もう鍋冠山の山頂と奥の熊ヶ峰の稜線は合わない。「戸町岳」まで見えてくる。

したがって、目録番号:6260「飽の浦からの汽船と南山手(3)」の撮影場所は、「飽の浦から」とはならない。背景の山の重なりが合う当時の「丸尾山」(丸尾山を削り取って、海岸を埋め立てできたのが現丸尾町)の少し高台から、先端の海岸越しに、対岸の南山手方面に停泊した船を写したのではないだろうか。ホテルヴェスナーがあった稲佐崎からでは合わない。

明治25年の丸尾山地形図は、「稲佐風土記」著松竹先生の作成地図を掲げた。現在の写真は、丸尾町の十八銀行稲佐支店と長崎市消防局丸尾出張所の間にある菱重パーキング屋上から写した。古写真の撮影場所と思われる近くとなり、南山手を見通しできる所は今ではこのあたりである。

次の目録番号:1007「飽の浦からの汽船と南山手(2)」は、関連作品で参考のため。
この古写真は、大浦や東山手居留地が正面に近く写り、飽の浦の浜から右端は身投崎(長崎古写真集 居留地編の137頁解説)か、または身投崎の浜から、画像解説どおり撮影されたものに間違いないように思われる。
現在の写真は、三菱重工業(株)長崎造船所は入構禁止なので、本館ビルがある岩瀬道バス停上の高台の道から写した。目録番号: 987 「飽の浦からの汽船と南山手(1)」の記事も参照。 https://misakimichi.com/archives/1590

長崎の古写真考 目録番号:1196 飽の浦からの長崎港(3) ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1196 飽の浦からの長崎港(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

朝日新聞のきょう2010年(平成22年)1月21日付長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」に載った”長崎港のパノラマ 優美さ まるで浮世絵”(クリック拡大)。
解説文には別に問題ないようだが、パノラマとした3枚の古写真の左側、飽の浦恵美須神社を写した部分は、別の作品があるのに連結を明らかに間違っている。
この項は次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1589

証拠となる連結写真をお見せしよう。データベース上で撮影者は上野彦馬など記されているが、ほとんどは明治天皇巡幸に随行した写真家内田九一の作品とされる。
右の1枚目は、目録番号:1196「飽の浦からの長崎港(3)」、中央の2枚目は、目録番号:1208「飽の浦からの長崎港(4)」、問題の左の3枚目は、目録番号: 51「飽の浦恵美須神社(1)」ではなく、神殿まで写った目録番号:1694「飽の浦恵美須神社(3)」、または同じような写真の目録番号:2875「同(4)」となるのが正しい。

同作品の以前のタイトルは「長崎稲佐海岸(2)」。現在は変更されて「飽の浦恵美須神社(3)」となった。神社関連作品に(3)が出てこないのが間違いの原因だろうが、まったく同じようなな作品が目録番号:546「同(2)」、目録番号:2875「同(4)」でもある。
今回見直すと、私も引用を間違っていたが、上野彦馬アルバムにあり色調から、目録番号:2875「同(4)」(前から公開されていたのか?)の方がふさわしいように思われる。

この連結写真は、三菱重工(株)長崎造船所史料館(飽の浦町三菱構内)に展示されている。
神社境内の右下建物の屋根、海岸線及び対岸の彦山の稜線がこの組み合わせで合い、港内の巡幸の様子を伝えている。長崎大学側はなぜまたこんな調査不足の公表をするのだろう。
朝日新聞シリーズ「長崎今昔 長大写真コレクション」も解説に問題が多い。

(1月23日 追記)
今朝「飽の浦恵美須神社」で条件検索すると、(1)〜(8)の8作品が出てくる。以前はこのようなことはなかった。特に目録番号:5312「同(6)」、目録番号:5648「同(7)」、目録番号:6132「同(8)」は、昨年6月以降に追加公開された作品と思われ、私の覚えがない。
(1)〜(8)を個別に開き、関連作品を見てみると、(1)(2)(4)(5)(6)が1グループ、(3)(7)で1グループ、(8)のみは単独、関連作品がないようになっている。
関連写真の出方はデータベース全体におかしい。見るのに支障があり、早く是正してほしい。

(2014年8月21日 追記)
最後のパノラマ写真2枚は、飽の浦恵美須神社に隣接する菱重ビル屋上から撮影した。

長崎の古写真考 目録番号:6066 小島からの長崎医学校と唐人屋敷

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6066 小島からの長崎医学校と唐人屋敷

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

同古写真の主なものが長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社刊2007年初版となって出版されている。
掲載されているのは、明治7年(1874)撮影の上野撮影局・冨重写真所合同アルバムから、昨年6月以降データベースに追加して公開された写真が多い。
この写真集の解説の疑問点は、先に数点を記事とした。一部の作品は再掲となるが、次に後日、実地再確認を必要とした3作品について、現地調査の結果を順に報告する。その3。

目録番号:6066 小島からの長崎医学校と唐人屋敷
〔写真集 51頁 40 小島からの長崎医学校と唐人屋敷 275×214 の作品。写真説明は次のとおり〕
小島から長崎医学校と唐人屋敷ごしに長崎港を遠望している。海側中央の建物が長崎医学校。文久元年(1861)に小島養生所として創設され、医学所を併設して慶応元年(1865)に精得館と改称。明治元年(1868)長崎府医学校と改称。その後明治5年(1872)に第六大学区医学校と変更し、明治7年(1874)には長崎医学校となり、明治24年(1891)浦上に移転した。

■ 確認結果

目録番号:6066「小島からの長崎医学校と唐人屋敷」は、上野彦馬の撮影とされる作品。今回、初めて見た古写真である。撮影場所が「小島から」とあるが、具体的でない。
長崎医学校の下に唐人屋敷があるが、ほとんど写っていない。中央に覗く橋が新地と梅香崎を結んだ梅香崎橋である。長崎医学校の手前の山腹を右から左へ登る道が、現在の思案橋から丸山公園を通り大浦中学校へ上がる市道の旧道となる。この道路の対面の山手から撮影している。

したがって撮影場所は、現在の鶴鳴学園長崎女子高校正門から入った駐車場の少し下、中小島2丁目の高台あたりから撮影していると思われる。中央右側の尾根上にあるのが、当時の長崎医学校で、現在は長崎市立佐古小学校が建っている。左へ尾根を上がって大木が写る丘の所が、現在の長崎市立仁田小学校となっている。
梅香崎橋のあった場所は、現在の写真のちょうど中央に写るダイエー長崎店の左方となろう。

長崎の古写真考 目録番号:6065 ドンの山からの出島

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6065 ドンの山からの出島

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

同古写真の主なものが長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社刊2007年初版となって出版されている。
掲載されているのは、明治7年(1874)撮影の上野撮影局・冨重写真所合同アルバムから、昨年6月以降データベースに追加して公開された写真が多い。
この写真集の解説の疑問点は、先に数点を記事とした。一部の作品は再掲となるが、次に後日、実地再確認を必要とした3作品について、現地調査の結果を順に報告する。その2。

目録番号:6065 ドンの山からの出島
〔写真集 50頁  39 ドンの山からの出島 270×215 の作品。写真説明は次のとおり〕
ドンの山十善寺郷ごしに出島と稲佐を望む。明治2年(1869)に出島から築町にかけて架設される出島新橋は見えるが、後ろの松の茂みの高台には明治9年(1876)に建設される長崎県庁はない。左の東山手には洋館1棟(後の梅香崎女学校)がみえる。明治3年(1870)に新地蔵・広馬場・元唐人屋敷が外国人居留地に編入されたが、右の出島と新地は幕末の建物が残っている。

(関連作品)
目録番号: 987 ドンの山から見た出島と長崎港(1)  略
目録番号:4028 ドンの山から見た出島と長崎港(2)
〔画像解説〕
十善寺上の山より、十善寺地区、新地、出島、浦五島町から長崎湾奥、さらに対岸の稲佐地区を撮影した写真である。明治2年(1869)に出島から築町にかけて架設される出島新橋はすでにあるが、出島の上の高台に明治9年に建設された長崎県庁の洋風新庁舎がまだ見えないので、撮影時期は明治2年(1869)から明治9年(1876)の明治初期のものである。写真左中央には、東山手の洋館が見えている。現在と違って、当時は東山手の丘から長崎湾が一望できたことが分かる。慶応2年(1866)に出島が、明治3年(1870)には新地蔵・広馬場・元唐人屋敷が外国人居留地に編入された。外国人居留地が完成した頃の、外国人居留地の北域を撮影している。写真右下の一画は新地で、長い倉庫が見えている。写真右下は、旧唐人屋敷である。出島には教会の建物がなく、明治初期の出島である。出島の向こうは、湾奥の浦上新田まで海が拡がっている。その後埋め立てられる地域である。
目録番号:4863 ドンの山から見た出島と長崎港(3)  略

■ 確認結果

次記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1876
目録番号:6065「ドンの山からの出島」は、上野彦馬の撮影とされる作品。今回、初めて見た古写真である。「ドンの山から見た出島と長崎港」は、以前から3作品あったが、一番景色が似ている目録番号:4028「ドンの山から見た出島と長崎港(2)」と見比べてみよう。
東山手の丘の洋館を近くに写し、新地・出島を望む。目録番号:6065「ドンの山からの出島」の写真は、目録番号:4028「ドンの山から見た出島と長崎港(2)」の撮影場所、ドンの山の山頂近くまである十善寺郷墓地から左へ寄って、少し下った所から撮影していると思われる。

ポイントは右下に写る中新町の広済寺(唐人屋敷の近く)の屋根、その丘越しの大木の右に写る梅香崎橋である。現在の広済寺は、本堂の建物と位置が少し変わったものと思われる。梅香崎橋は現在、ダイエー長崎店横の湊公園左方あたりの位置だったろう。
古写真の撮影場所と思われる一帯は、宅地や墓地となり、どこか特定できない。とりあえず見通しの良い場所から、現在の写真は写した。ドンの山の山頂近くの十善寺郷墓地内からである。
最後の写真は、現在の広済寺の屋根を墓地内の別の場所から古写真どおり写すと、古写真全体の位置関係が合わなくなる。