長崎の古写真考 目録番号:6065 ドンの山からの出島

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6065 ドンの山からの出島

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

同古写真の主なものが長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社刊2007年初版となって出版されている。
掲載されているのは、明治7年(1874)撮影の上野撮影局・冨重写真所合同アルバムから、昨年6月以降データベースに追加して公開された写真が多い。
この写真集の解説の疑問点は、先に数点を記事とした。一部の作品は再掲となるが、次に後日、実地再確認を必要とした3作品について、現地調査の結果を順に報告する。その2。

目録番号:6065 ドンの山からの出島
〔写真集 50頁  39 ドンの山からの出島 270×215 の作品。写真説明は次のとおり〕
ドンの山十善寺郷ごしに出島と稲佐を望む。明治2年(1869)に出島から築町にかけて架設される出島新橋は見えるが、後ろの松の茂みの高台には明治9年(1876)に建設される長崎県庁はない。左の東山手には洋館1棟(後の梅香崎女学校)がみえる。明治3年(1870)に新地蔵・広馬場・元唐人屋敷が外国人居留地に編入されたが、右の出島と新地は幕末の建物が残っている。

(関連作品)
目録番号: 987 ドンの山から見た出島と長崎港(1)  略
目録番号:4028 ドンの山から見た出島と長崎港(2)
〔画像解説〕
十善寺上の山より、十善寺地区、新地、出島、浦五島町から長崎湾奥、さらに対岸の稲佐地区を撮影した写真である。明治2年(1869)に出島から築町にかけて架設される出島新橋はすでにあるが、出島の上の高台に明治9年に建設された長崎県庁の洋風新庁舎がまだ見えないので、撮影時期は明治2年(1869)から明治9年(1876)の明治初期のものである。写真左中央には、東山手の洋館が見えている。現在と違って、当時は東山手の丘から長崎湾が一望できたことが分かる。慶応2年(1866)に出島が、明治3年(1870)には新地蔵・広馬場・元唐人屋敷が外国人居留地に編入された。外国人居留地が完成した頃の、外国人居留地の北域を撮影している。写真右下の一画は新地で、長い倉庫が見えている。写真右下は、旧唐人屋敷である。出島には教会の建物がなく、明治初期の出島である。出島の向こうは、湾奥の浦上新田まで海が拡がっている。その後埋め立てられる地域である。
目録番号:4863 ドンの山から見た出島と長崎港(3)  略

■ 確認結果

次記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1876
目録番号:6065「ドンの山からの出島」は、上野彦馬の撮影とされる作品。今回、初めて見た古写真である。「ドンの山から見た出島と長崎港」は、以前から3作品あったが、一番景色が似ている目録番号:4028「ドンの山から見た出島と長崎港(2)」と見比べてみよう。
東山手の丘の洋館を近くに写し、新地・出島を望む。目録番号:6065「ドンの山からの出島」の写真は、目録番号:4028「ドンの山から見た出島と長崎港(2)」の撮影場所、ドンの山の山頂近くまである十善寺郷墓地から左へ寄って、少し下った所から撮影していると思われる。

ポイントは右下に写る中新町の広済寺(唐人屋敷の近く)の屋根、その丘越しの大木の右に写る梅香崎橋である。現在の広済寺は、本堂の建物と位置が少し変わったものと思われる。梅香崎橋は現在、ダイエー長崎店横の湊公園左方あたりの位置だったろう。
古写真の撮影場所と思われる一帯は、宅地や墓地となり、どこか特定できない。とりあえず見通しの良い場所から、現在の写真は写した。ドンの山の山頂近くの十善寺郷墓地内からである。
最後の写真は、現在の広済寺の屋根を墓地内の別の場所から古写真どおり写すと、古写真全体の位置関係が合わなくなる。