長崎の古写真考 1」カテゴリーアーカイブ

長崎の古写真考 目録番号:5245 茂木通田上(2) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5245 茂木通田上(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5245 茂木通田上(2)    同作品 目録番号:5246 同(3)
〔画像解説〕
大正初期の茂木街道田上峠付近の絵葉書写真。田上は長崎県庁から一里、当時人家20〜30戸、茶屋10戸ほどで蕎麦と筍が名物。旅人の休息所であり、茂木に向かう旅行者はここで旅装を整えた。田上寺、観音寺、千歳亭など旧跡も存在する。写真から人力車による旅行風景がわかる。

目録番号:5247 茂木街道田上竹林(1)
〔画像解説〕
大正初期の田上付近の竹林を撮影した絵葉書写真である。田上には元禄11(1698)年向井去来がこの地の千歳亭を訪れて「名月や田上にせまる旅ごころ」の句を詠んだ。この町から採れるタケノコは古くから田上タケノコとして有名である。写真は明治18(1885)年に新道として整備された旧県道である。

目録番号:5248 茂木街道田上竹林(2)
〔画像解説〕
大正初期の田上付近の竹林と馬車による竹の切り出し風景を撮影した絵葉書写真。田上には元禄11(1698)年向井去来がこの地の千歳亭を訪れて「名月や田上にせまる旅ごころ」の句を詠んだ。この町から採れるタケノコは古くから田上タケノコとして有名である。

目録番号:5249 茂木街道田上竹林(3)
〔画像解説〕
大正中期の田上付近の竹林と蝙蝠傘をさす少女たちが歩く姿を絵葉書写真にしている。田上には元禄11(1698)年向井去来がこの地の千歳亭を訪れて「名月や田上にせまる旅ごころ」の句を詠んだ。この町の竹林は有名であり、ここからから採れるタケノコは古くから田上タケノコとして評判であった。

■ 確認結果

1枚目の目録番号:5245「茂木通田上(2)」と、同作品の目録番号:5246「同(3)」は、田上峠を過ぎ転石バス停から左へ入る。茂木街道の明治新道(旧県道)は、ホテル古都先からⅤカーブして河平川の谷間へ下るので、明治新道の下手からホテル古都あたりの上手の坂の道路を撮影していると思われる。
タイトルが(1)から(3)まで「茂木通?田上」。「茂木街道」とするのが一般的ではないか。

2枚目から4枚目の目録番号:5247「茂木街道田上竹林(1)」、目録番号:5248「茂木街道田上竹林(2)」、目録番号:5249「茂木街道田上竹林(3)」は、河平バス停の真下付近の河平川の谷間となる。河平川は若菜川の支流。
茂木街道の明治新道(旧県道)は、転石から河平川沿いに茂木の黒橋へ下った。3枚の古写真の撮影場所は、ちょうどその中間あたりと思われる。ここは茂木町となる。

同作品を含めたこの5点の、目録番号の前は「田上峠の茶屋」、後は「茂木の橋」を撮影した作品となっており、田上峠から茂木へ下る途中の場所の撮影と考えられる。
この項は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1520
https://misakimichi.com/archives/1528
「田上」付近とあまりにも誤解されそうなタイトルと画像解説はどうかと思われる。向井去来が訪れた「千歳亭」(現徳三寺境内に句碑がある)は、明治新道のルートでは外れた場所となった。

長崎の古写真考 目録番号:1224 南山手からの大浦居留地(1) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1224 南山手からの大浦居留地(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1224 南山手からの大浦居留地(1)
〔画像解説〕
現グラバー園の展望台下付近から大浦と出島を望んだもの。画面左下の洋館が南山手8番のもので、中段右手の旗竿が2本立つ大きな建物は幕末期からあるベルヴューホテルである。その手前に大浦天主堂への坂道がみえる。大浦海岸通りにも2階建ての大型洋館が並びはじめ、海岸通りの突き当たりには運上所(税関)の荷物改所の初代建物が建つが、東山手の丘には14番の建物だけがあって、16番の洋館(現在は南山手に移築)はまだない。こうした建物の様子からすると、明治5年(1872)〜6年頃の撮影であろう。幕末期以降は長崎港の浚渫が放置されていたので、出島前には中島川が運んできた土砂が堆積し、干潮時には写真のように広大な砂州が露出した。これでは出島や大浦に小型の艀も接岸しがたくなるので、のちに中島川を出島の北側へ流す港湾改修工事を行う動機となった。左手の下り松42番の空き地に積み上げられているのは石炭であろう。

目録番号:2881 南山手からの大浦居留地と出島(2)

目録番号:2868 南山手からの大浦居留地と出島(1)
〔画像解説〕
グラバー園下の坂道付近から撮影したもの。左下の洋館は南山手8番の敷地内、現南山手地区町並み保存センターの位置に建っていたもので、その屋根上に下り松42番地の工場や倉庫がみえる。右手中央の建物は幕末期から存在したベルヴューホテルだが、入り口のポーチが増築されていたのが分かる。その手前は、大浦天主堂への坂道である。大浦居留地は多くの洋館が立て込み、海岸通りの中央には街路樹が植えられ、突き当たりの税関前の波止には大きな平屋建てが新築されているが、東山手の丘上には16番館や明治15年(1882)建設のラッセル館はまだ見えない。出島には、江戸期以来のカピタン部屋を利用したオランダ領事館の3段になった屋根がみえ、その建物がまだ建て替えられていないことが確認できる。出島右端には神学校や新教の教会なども見えないので、明治7年(1874)〜8年頃の風景であろう。遠くには立山と金比羅山、三つ山などが望まれる。

目録番号:3223 グラバー邸付近からの長崎港
〔画像解説〕
モノクロ1枚もので鶏卵紙の裏には毛筆で「長崎六十六」、鉛筆で外国人の手により424の番号が付されている。南山手から長崎港奥を望む。この建物は南山手8番(現南山手地区町並み保存センター)で、慶応3年(1867)頃アメリカ人シュミット・スパンが建てた個人住宅。寄せ構造りの母屋の左右先端に半六角形の張り出し部を付け、海側にヴェランダをもつ、複雑な平面の建物であった。左前には東屋らしい別邸の屋根も見える。右側の瀟洒な洋館は下り松42番D。湾奥は浦上方面で、右の船溜まり五島町の海岸から立山。左側には淵村の集落が写っている。左の軍艦は明治5年(1872)長崎巡行で天皇を乗船したお召し艦「竜驤」のようである。筆書きのキャプションが記された外の写真と比較して、撮影者は東京から随行した内田九一と推定される。内田はこのとき天皇の九州巡幸に写真師として随行し長崎、熊本、鹿児島で多くの写真を撮影した。

■ 確認結果

前記事の「風頭山の行楽風景」について、「内田九一」撮影となる巡幸写真を調べていて気付いた。南山手のグラバー邸や現現南山手地区町並み保存センターあたりから、大浦海岸通りや出島方面を望んだ4作品。
1枚目の目録番号:1224「南山手からの大浦居留地(1)」と、2枚目の目録番号:2881「南山手からの大浦居留地と出島(2)」は同じ作品である。
3枚目の目録番号:2868「南山手からの大浦居留地と出島(1)」は、やや低い所から撮影され、新しい写真のようで港内の艦船が違う。

3枚目の目録番号:2868「南山手からの大浦居留地と出島(1)」に、4枚目の目録番号:3223「グラバー邸付近からの長崎港」の作品を、左に付けると組写真らしくなった。1枚目や2枚目では合わない。
長崎大学側の4枚目の解説は、「モノクロ1枚もので鶏卵紙の裏には毛筆で「長崎六十六」、鉛筆で外国人の手により424の番号が付されている」ことにより、明治天皇巡幸に随行した写真家「内田九一」の作品と推定している。

「内田九一」が撮影した巡幸写真については、次の研究紀要を参照。掲載写真の「図23 長崎 大浦」は、1枚目の目録番号:1224「南山手からの大浦居留地(1)」、ないし2枚目の目録番号:2881「南山手からの大浦居留地と出島(2)」の方に間違いないだろう。
内田九一の「西国・九州巡幸写真」の位置(PDF) 
http://www.himoji.jp/jp/publication/pdf/symposium/No01/061-072.pdf -html

長崎居留地パノラマについて見ると、長崎市教育委員会編「長崎古写真集 居留地編」平成15年刊第3版は、28〜29頁に後ろのパノラマ写真のみ掲載されている。目録番号:2901「南山手からの大浦と出島(1)」と目録番号:2902「同(2)」の2枚続きの作品である。

これに対し、92頁に4枚目の目録番号:3223「グラバー邸付近からの長崎港」の作品もあるが、単葉で掲載され「図版解説」ても、組写真である説明はしていない。
4枚目と組写真のようになった3枚目の目録番号:2868「南山手からの大浦居留地と出島(1)」は、どのように考えて良いのだろうか。

目録番号:1224「南山手からの大浦居留地(1)」などは、石黒敬章氏著「続 幕末・明治おもしろ写真」平凡社1998年初版第1刷37頁に掲載されている。同解説は次のとおり。
屋形船の不思議
〔写真16〕南山手より望んだ長崎市中。中央の干潟の向こうに出島が見える。右手前の洋館は南山手の外人居留地になる。その向こう側に大浦川がある。横浜写真アルバムにある写真だが内田九一が明治5年6月撮影したもの。

長崎の古写真考 目録番号: 657 風頭山(1) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 657 風頭山(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 657 風頭山(1)     関連作品  目録番号:1195 風頭山(2)
〔画像解説〕
横浜写真の50枚組(小川一真製作と思われる)の小型アルバムに収載され、鉛筆書きでNagasakiとキャプションがある。長崎旧市街の東部に位置する風頭山の物見遊山の情景。山の麓には長崎有数の寺院が並び、中腹から頂上付近までそれらの墓地が続いている。明治以前にはこの山に清遊を試みる者も多かった。この山頂から長崎港を望んだ写真も多い。この場所は現在でも残る風頭山頂横の古い石切り場の跡であり、切り立った岩はそのためである。切り出された石は墓石に使われた。和服を来た男女31人が思い思いのポーズで写されているが、中には子供も数人いる。服装は当時の普段着として興味深いが、16人ほどの男性成人のうち5人が丁髷を結い、残りの7人は散切り頭であり、女性には和傘と蝙蝠傘を持つものがあり明治初期の風俗をよくうかがわせている。左手背後の市街は立山方面で、海の奥に浦上新田の縁が見える。明治
10年代頃か。

■ 確認結果

朝日新聞のきのう2010年(平成22年)2月18日付長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」に載った”風頭山から艦隊見物 和洋折衷の物見遊山”。
この古写真は、データベース上の目録番号: 657「風頭山(1)」の作品である。関連作品の目録番号:1195「風頭山(2)」も同じ写真。画像解説は上記のとおりで、これまで撮影者は未詳とされていた。この項と現地写真は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1912

ところが、きのうの朝日新聞の解説文。「1872年7月、内田九一が撮影した。明治天皇の艦隊を風頭から見物する長崎の人々です。…」と変わった。
内田九一は、明治天皇の巡幸に随行した写真家である。巡幸で撮影したとされる写真は、次の研究紀要に報告がある。目録番号: 657「風頭山(1)」は、この巡幸写真にない作品である。
内田九一の「西国・九州巡幸写真」の位置(PDF) 
http://www.himoji.jp/jp/publication/pdf/symposium/No01/061-072.pdf -html

解説が変わったいきさつは、次のとおり。HP「大阪天満宮表参道<祭屋梅の助>のぼてふり日記」の3頁にある。
http://ameblo.jp/maturiya-umenosuke

2010-01-29 【復刻「天満人」Web版(14)】内田九一が撮った風頭山の行楽風景
風頭山の行楽風景
日本写真界のパイオニアの一人として名を馳せた伝説の写真師・内田九一(くいち)を一門の祖として、明治4年天満に創業した内田写真株式会社の歴史は、日本の「写真の歴史」でもありました。
下の写真は内田九一が明治5年に明治天皇の西国巡行に随行した折に撮った長崎・風頭山(かざがしらやま)の行楽風景です。天皇が長崎に入られたのは6月16日。九一には名所旧跡を写真に収めて外国に紹介するという使命が託されていました。写真の中の人物はすべてエキストラで、九一は一人ひとりにさりげないポーズをとらせました。ハイカラな恰好をした人がいるのは、さすが長崎です。
長崎の市街地が一望できる風頭山は、山頂で長崎名物の凧(はた)上げなども行われ、昔から多くの行楽客で賑わいました。山の中腹には、坂本龍馬が設立した日本最初のカンパニー「亀山社中」がありました。…

長崎の巡幸滞在は3日ほど。内田九一は風頭山へ出かけ、港の艦隊は写さず(写しているかも知れない)、エキストラによる長崎の有名な行楽地「風頭山の行楽風景」を撮影に行ったというのが、真相のようである。どおりで人物は、港の見物風景となっていない。
ニックネーム「祭屋梅の助」HP氏のプロフィールも面白い。大阪生まれ。76年、写植業を開業。業種の衰退により廃業し、以後、大阪・天満を中心に取材活動を続ける。
雑誌「天満人」の編集人から「ぼてふり」に加齢(?)なる転身!大阪天満宮の表参道で名物「ぼてふりまんじゅう」を売ってます。天秤を肩に、まんじゅうを売りながら天満のまちも案内する。

内田九一は、弘化元年(1844)長崎生まれ、長崎でオランダ人から写真術を修得し、慶応元年には大阪に写真館を開業し、翌年には横浜と江戸に開業した。初めて明治天皇を写真に収めた。写真家の第一人者として活躍、31歳で肺結核のため死去した。
内田写真館はその後も受け継がれ、現在も大阪市北区天神橋に内田写真株式会社(創業 明治4年5月)は健在している。

ぼてふり日記に「伝説の写真師・内田九一(くいち)を一門の祖」とあり、最近の2010-01-29記事である。内田写真株式会社に「風頭山の行楽風景」の写真原板が保存されていて、内田九一作品と判明したものと思われる。
朝日新聞の記事は、このようなエピソードを紹介してほしい。データベースは以前として前のまま。変更はすぐ対応してもらいたい。

なお、朝日新聞の先週2010年2月11日付記事”明治天皇巡幸の長崎 豊かな街 強烈な歓迎”に載った現在の万才町、高木清右衛門邸から撮影とされる「市街地パノラマ(1)〜(3)」の作品も、昨年8月に長崎地方法務局屋上から撮影済みだったので、現在の写真(クリック拡大)を再び紹介する。この項の記事は次を参照。
https://misakimichi.com/archives/1927

参考のため追加した古写真は、同じ風頭山を写した内田九一の別作品「長崎港」。長崎市立博物館蔵。長崎文献社「続・アルバム長崎百年」昭和58年刊11頁に掲載があった。解説は次のとおり。

明治の初め頃東京で評判の内田九一(うちだ・くいち)という写真家がいた。宮内省御用係で、明治天皇が長崎御巡行の際は、お付きカメラマンとして長崎にも来たことがある。といっても、もともと、上野彦馬の門弟で長崎出身。いうところの、シュツランのほまれ、である。この人が、「全国名所風景」というアルバムを製作して日本中の美しい風景、珍しい眺めを撮影している中に「長崎港」と題する、この一枚がある。全国名所に選んだほどだから、そのころの港は、さぞ、きれいだったろう。
しかし、九一は、港は単なるバックとして扱い、風頭山の中腹に何かの集団らしいさまざまの服装の男女の一群を集め、むしろ、この”人間たち”にポイントを置いたような被写体構成をやっている。この写真は実物は、古ぼけていたが、九一の写真感覚は当時としては、すごくフレッシュだったといえる。その意味で敢えて、ここに掲げた。(市博蔵)

長崎の古写真考 「海上の伝馬船」など7点を長崎の古写真と確認

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長崎の幕末・明治期古写真考 「海上の伝馬船」など7点を長崎の古写真と確認

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

データベース整理番号46番台は、個人アルバムからの興味深い古写真。「撮影地域:神戸」とされている一連の作品の中に、今回、はっきり「長崎」とわかった作品が、次のとおり7点あった。
きのう2月12日、現地を再確認した。写したきた写真をまとめて報告する。詳しい写真と記事は、URLで参照。

■ 確認結果

目録番号:1960 海上の伝馬船   撮影地 古河町の海岸(南山手居留地南端の下)
https://misakimichi.com/archives/1556

(「海上の伝馬船」の解説は、「撮影地:長崎」とすでに修正済。目録番号:1961「鳥居」も、番号の続きから長崎と考えられるが、現在まだ調査中)

目録番号:1962 山間の水車小屋  撮影地 茂木町の河平川岸
https://misakimichi.com/archives/2210

目録番号:1963 八坂神社      撮影地 鍛冶屋町の八坂神社
https://misakimichi.com/archives/2211

目録番号:1964 弟を背負う兄と妹 撮影地 茂木町の茂木街道「河平橋」手前
https://misakimichi.com/archives/2212

目録番号:1965 山腹から望む港町 撮影地 桜木町の弥生が丘バス停付近
https://misakimichi.com/archives/2213

目録番号:1966 漁村の風景     撮影地 茂木町の茂木郵便局前
https://misakimichi.com/archives/2214

目録番号:1967 海岸を散歩する外国人 撮影地 茂木町の茂木郵便局先
https://misakimichi.com/archives/2215

長崎の古写真考 目録番号:1967 海岸を散歩する外国人 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1967 海岸を散歩する外国人 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1967 海岸を散歩する外国人
〔画像解説〕
整理番号46番台の写真は、中国と日本を撮影した個人アルバムの写真である。この時代の多くの写真は、1枚物やそれをアルバムにしているのに対して、個人アルバムである。アルバムの所有者と思われるが、人物と場所は未詳。

目録番号:1907 船上の外国人男性
目録番号:1946 イギリス人家族(4)

■ 確認結果

個人アルバムの写真からわかった長崎「茂木街道」の状景の最後に、目録番号:1967「海岸を散歩する外国人」を見てもらいたい。前の目録番号:1966「漁村の風景」は、「茂木長崎ホテル」から若菜川河口と茂木の集落を撮影したものだった。

目録番号:1967「海岸を散歩する外国人」も「撮影地域:神戸」とし、「人物と場所は未詳」となっている。しかし、左側に写った建物が「茂木長崎ホテル」の端の方と考えられるのである。
データベースに「茂木長崎ホテル」の適当な古写真が収録されていないため、現地説明板及び裳着神社拝殿に展示している写真を載せる。これによって判断してほしい。時代によってホテルは改造されている。
この項は次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1535

さて最後の課題となるのは、個人アルバムが誰の所有なのだったのだろうか。画像解説では、この作品に写されている人物こそ、「アルバムの所有者と思われるが、人物と場所は未詳」と説明している。長崎大学もわかっていないらしく、HP上でもまったくアルバムの資料説明が見当たらない。
ベアトは4回来日したらしい。ベアトの太っている感じは、整理番号46番台の作品で見ると、目録番号:1907「船上の外国人男性」と似ている。外に出てくるのは目録番号:1946「イギリス人家族(4)」の男性2人である。

個人アルバムの一連の作品は興味深い。ベアトの足どりは、横浜開港資料館HPに、企画展「外国人カメラマンが撮った幕末ニッポン−F.ベアト作品展−」から新事実と新収資料の解説がある。 http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/092/092_02.html
これらの人物と作品について、長崎の撮影場所とともに専門的な研究をお願いしたい。

2月12日に現地を再確認した。写した写真を最後に追加する。

長崎の古写真考 目録番号:1966 漁村の風景 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1966 漁村の風景 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1966 漁村の風景
〔画像解説〕
整理番号46番台の写真は、中国と日本を撮影した個人アルバムの写真である。この時代の多くの写真は1枚物やそれをアルバムにしているのに対して、個人アルバムである。場所未詳。

目録番号:5381 長崎湾口の風景
〔画像解説〕
ベアトアルバムに貼られている、長崎港口の集落である。明治初期の写真である。明確な場所の特定ができていない。写真を見ると、山が海に迫っており、地形的に隔絶された場所であることが予想される。沿岸の前面が砂地になっており、漁船が係留されている。その奥に護岸があり、各家は石塀で囲われている。藁葺きの家もあるが、漆喰仕上げの蔵がいくつかあり、また瓦葺きの家も見られる。比較的整った集落が形成され、棚田が山の上まで開発されている。山が何層にも重なり、長崎半島の地形を示している。しかし地形の形状や山の形から、長崎半島の付け根、長崎港外の佐賀藩の飛び地である深堀と考えられる。現在の長崎市深堀地区である。現在、香焼島と陸続きになり水路はなくなっている。長崎に関する明治時代の古写真では、長崎市街地と外国人居留地に関する写真が多い中で、珍しい写真である。

■ 確認結果

私が「茂木街道」を訪ねてきたのは、この目録番号:1966「漁村の風景」の写真を見てもらいたかったためである。この作品も「撮影地域:神戸」となり、画像解説では「場所未詳」となっている。
次の目録番号:5381「長崎湾口の風景」の作品と、まったく同じ漁村であり、港であることがわかるだろう。

撮影場所は現在の深堀ではない。長崎の裏玄関として昔から栄えた茂木港なのである。橘湾側にあり、島原・熊本・鹿児島方面との海上交通に重要な港となった。また豊富な漁獲がある。
古写真には右端に松の枝が写り、これは弁天崎にあった外国人用「茂木長崎ホテル」(現在のSマート茂木店及び茂木郵便局あたり)から、若菜川河口と茂木の集落を撮影したものである。
撮影場所が長く不明とされていたが、背景の山から「茂木」であると、2008年12月判明した。
この項は次の記事ほかを参照。 https://misakimichi.com/archives/2084

以上は後の作品、目録番号:5381「長崎湾口の風景」についてのいきさつである。この作品より当時の茂木港の様子を鮮明に写した古写真が、今回データベース上で見つかった。これが目録番号:1966「漁村の風景」である。
こんな写真があるとは、私はこれまで知らず、長崎大学側もまだ全然、把握していないと思われる。個人アルバムの整理番号46番台を、目録番号の連番号により1点ずつ検索していてわかった。茂木地区の「もぎ歴史懇談会」関係者が、大喜びしそうな新しい古写真であろう。
現在の写真は茂木郵便局前の海岸通りと、その先の埋立地天草フェリー側の岸壁から。

2月12日に現地を再確認した。写した写真を最後に追加する。

長崎の古写真考 目録番号:1965 山腹から望む港町

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1965 山腹から望む港町

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1965 山腹から望む港町
〔画像解説〕
整理番号46番台の写真は、中国と日本を撮影した個人アルバムの写真である。この時代の多くの写真が、1枚物やそれをアルバムにして販売されたのに対して、個人アルバムは貴重である。全て、鮮やかな彩色がされている。場所未詳。

■ 確認結果

この作品も「撮影地域:神戸」とし、「鮮やかな彩色がされている。場所未詳」と画像解説しているが、個人アルバムからの写真。整理番号46番台の番号の続きから、長崎の「茂木街道」明治新道の途中において撮影したと考えられる。
撮影場所は田上峠の手前、小島を上がった旧街道の道と合流する現在のバス停「弥生ヶ丘」あたりの所となる。実際、現地で確認しないと正確なことは言えないが、こう考えると一連のアルバムのつじつまが合う。

中央から右横に伸びる白い線が、愛宕付近の明治新道。右上の白い大きな建物は洋館のように見え、ここが現在の「長崎スポーツセンター」の所であろう。右上からの山の稜線の奥にかぶるのは立山の尾根、中央奥の山が「岩屋山」、左が「稲佐山」の立岩尾根となろう。
この小さな写真でははっきりしないが、長崎港の奥が中央に写り、現在の長崎駅前、大黒町あたりの密集した町並みが広がっていると思われる。

現在の写真は撮り置きがない。とりあえず近くの唐八景展望台からの風景と、小島の正覚寺山門前にある「茂木街道変遷図」を載せる。
2月12日に現地を再確認した。写した写真を最後に追加する。

長崎の古写真考 目録番号:1964 弟を背負う兄と妹

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1964 弟を背負う兄と妹

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1964 弟を背負う兄と妹
〔画像解説〕
整理番号46番台の写真は、中国と日本を撮影した個人アルバムの写真である。この時代の多くの写真は、1枚物やそれをアルバムにしているのに対して、個人アルバムである。神戸市近郊と思われるが、場所未詳。

■ 確認結果

この作品も「撮影地域:神戸」とし、「神戸市近郊と思われるが、場所未詳」と画像解説しているが、個人アルバムからの写真。整理番号46番台の番号の続きから、長崎の「茂木街道」明治新道の途中において撮影したと考えて良い。

街道の下りを写しており、右側の山の稜線から地形的には、田上から下りにかかった明治新道、前々の目録番号:1962「山間の水車小屋」の場所の、すぐ近くの前か後の街道で出会った場面と思われる。まだ山間部である。
2月12日に現地を再確認した。写した写真を最後に追加する。

(追 記 平成22年2月15日)
この古写真の撮影場所について、後日、コメントにより「田上1丁目18のホテル古都前付近から転石バス停方向ではないでしょうか? この古写真は下りではなく、上っているように私には見えますが…。Googleマップのストリートビューで見ると似ていると思います」と教示をいただいた。

上がりと見た場合、転石バス停からホテル古都間に3カ所、緩やかなS字カーブがある。ホテル側から歩いて状況確認した写真は上の3枚のとおり。2枚目が似ているが、右からの張り出した尾根が違う。かがんで写さないと道のやや平らな感じが同じとならないだろう。

下りと見た私の写真の、アーチ式石橋が残る「河平橋」の手前の地点の場合も、厳密に見ると尾根の張り出しは少し違うかも知れない。わかりながら、私はこの場所の写真を撮ってきた。
道の感じが最も合うし、S字にかかる右斜面は石垣でなく切り取った岩肌である。その先は明らかに小沢があり、橋が架かっていたのではないだろうか。現在残るアーチ式石橋「河平橋」は、明治41年9月架。記事は次を。 https://misakimichi.com/archives/427

すぐ近くで、同じ個人アルバムの目録番号:1962「山間の水車小屋」が撮影されている。茂木街道下りの同じ地点で2作品を撮ったのではないだろうか。最も可能性が考えられる場所となろう。
尾根の違いは現在、雑木や植林が繁って不明。道左下斜面は土建会社の材料置場と駐車広場となって盛土され築かれていた。 

長崎の古写真考 目録番号:1963 八坂神社

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1963 八坂神社

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1963 八坂神社
〔画像解説〕
整理番号46番台の写真は、中国と日本を撮影した個人アルバムの写真である。この時代の多くの写真が、1枚物やそれをアルバムにして販売されたのに対して、個人アルバムは貴重である。全て、鮮やかな彩色がされている。

■ 確認結果

この作品は、詳しい場所の画像解説をしていないが、「撮影地域:神戸」としている。神戸市には、北区山田町原野に「八坂神社」があるが、平地の神社で、このような神社ではない。
目録番号:1963「八坂神社」は、現在の長崎市鍛冶屋町の「八坂神社」と思われる。神社の起源は、元和6年(1620)とされ、寛永3年(1626)長崎奉行の許しにより京都祇園社の御神霊をその天王社に合祀し、祇園宮延寿院と称した。その後、変遷して「八坂神社」となった。

現在の神社の様子は変わっているが、古写真に写っている鳥居の位置、諏訪神社お宮日に使われる踊り場、高い石段、両脇の塀縁石、神殿左に現在も立つ樅の高木などに注視すると、長崎の「八坂神社」に間違いないだろう。ここも茂木街道の道で、後で述べる茂木へ行く途中、立ち寄って撮影したと考えられる。
現在の八坂神社は、風景の項を参照。 https://misakimichi.com/archives/1675

2月12日に現地を再確認した。写した写真を最後に追加する。

長崎の古写真考 目録番号:1962 山間の水車小屋 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1962 山間の水車小屋 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1962 山間の水車小屋
〔画像解説〕
整理番号46番台の写真は、中国と日本を撮影した個人アルバムの写真である。この時代の多くの写真は、1枚物やそれをアルバムにしているのに対して、個人アルバムである。神戸市内近郊と思われるが、場所は未詳。

目録番号: 365 茂木街道(1)
〔画像解説〕
茂木村(現長崎市茂木町)は長崎市の東南約8キロメートルの場所にある。長崎から茂木へ行くには、長崎半島の付け根の尾根を越える必要がある。この尾根の峠にある場所が田上であり、途中の休息をとるために茶屋ができた。そこを過ぎると、茂木街道は一気に、長崎半島東斜面を茂木に向けて下り始める。また、この峠を分水嶺として茂木において橘湾に注ぐ、若菜川が流れている。この写真は、茂木に下る川の街道を撮影した、明治10年代のものである。明治時代になり茂木街道を、人力車や荷車が通行する近代的な道路に改良する必要があった。そこで、長崎県は明治18年(1885)から茂木新道の開削に着手した。しかし、街道はまだ人力車が通行可能な近代的な道路となっていない。外国人居留地が建設された当時、外国人が茂木に行く楽しみの一つは、日本の田舎の穏やかで美しい自然に触れることであった。

■ 確認結果

目録番号:1962「山間の水車小屋」は、「神戸市内近郊と思われるが、場所は未詳」としている。
この水車小屋は、造りと背景の山間の様子から、目録番号: 365「茂木街道(1)」に写された長崎の茂木街道、明治新道(旧県道のこと。以下の記事でも同じ)沿いの谷間に流れている河平川(若菜川の支流)にあった水車小屋と思われる。
この項は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1878
https://misakimichi.com/archives/1835

整理番号46番台は、個人アルバム。日本での作品を「撮影地域:神戸」とひとまとめにして判断している例が多い。長崎を撮影した写真があるので、次々に見ていく。撮影者がなぜ茂木へ行ったかもわかるだろう。茂木の途中、ここの水車小屋を写したと考えられる。
この前々の番号となる目録番号;1960「海上の伝馬船」が「長崎」港内であったことは、すでに
2007年4月指摘して修正されている。
この項は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1556

この外これから見る作品は、データベースに収録されていても、通常の検索では出てこない。整理番号46番台の個人アルバムを、目録番号の連番号により1点ずつ開いていって、今やっと収録がわかった作品である。

2月12日に現地を再確認した。写した写真を最後に追加する。