長崎の古写真考 1」カテゴリーアーカイブ

長崎の古写真考 目録番号:4718 峠の人力車(2) ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4718 峠の人力車(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:4718 峠の人力車(2)

目録番号:2514 峠の人力車(1) 
〔画像解説〕
和服姿の女性が2人で人力車に乗り、その後方路上に傘をさした2人の和服の女性が立っている。梶棒を持つ車夫は笠を被り印半纏、膝上股引、地下足袋をはいている。背景は左崖面、右木立が並ぶ路上で撮影している。

目録番号:1365 茂木街道(2)
〔画像解説〕
この写真は、茂木街道の峠から下り始める茂木側の街道を撮影した、明治20年(1887)代後半の写真である。ガラス乾板に焼き付けられた、手彩色のスライド写真を画像化したものである。茂木村(現長崎市茂木町)は長崎市の東南約8キロメートルの場所にある。長崎から茂木へ行くには、長崎半島の付け根の尾根を越える必要がある。この尾根の峠を過ぎると、茂木街道は一気に長崎半島東斜面を茂木に向けて下り始める。この写真は明治20年後期の頃の茂木街道の、茂木に下る川の街道を撮影したものである。江戸時代に、長崎から茂木に到る街道があったが、明治時代になり、人力車や荷車が通行する近代的な道路を開削する必要があった。そこで、長崎県は明治18年(1885)から茂木新道の開削に着手した。明治20年(1887)6月25日、午後1時より、当時の茂木村田上名において開通式が行われた。女性の服装や人力車の内装から、明治後期の写真と思われる。

■ 確認結果

目録番号:4718「峠の人力車(2)」及び目録番号:2514「峠の人力車(1)」とも、目録番号:1365「茂木街道(2)」にあるとおり、これは田上峠から茂木へ河平川沿いに下る茂木街道の明治新道(旧県道)の光景であろう。
この項は次を参照。  https://misakimichi.com/archives/1879

長崎の古写真考 目録番号:3870 長崎の墓地(3)

イメージ 1

         長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3870 長崎の墓地(3)
 
 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3870 長崎の墓地(3)
〔画像解説〕
   筑後町にある本蓮寺の墓地である。本蓮寺はもとサン・ラザロ病院やサン・ジョアン・バプチスタ教会があった場所で、それが破却された後、元和6年(1620)に大村本経寺の僧日恵が開創した日蓮宗の寺院である。境内は宝永4年(1704)に拡充整備されて大伽藍を形成するようになった。画面中央上の重層入母屋造りの建物が本堂で、その左手は位牌堂、右手の大きな木の手前に木部を赤く塗られた流造本殿形式の建物は清正公堂(番神堂ともいう)の神殿で、その右は廊下と拝殿である。その上に屋根が連なってみえるのは庫裏・方丈・客殿などであろう。長崎市史によると、清正公堂神殿は明治23年(1890)の建て替えで入母屋造りの仏堂形式に変更されたというので、撮影時期は当然それよりも前である。墓前に躓いて参拝する人物はまだ髷を結っているので、むしろ明治初年、上野彦馬の撮影であろうか。本蓮寺は原爆で全壊し、以後順次伽藍を復興しつつある。

 ”文昭院霊廟奥院拝殿に通じる石段と唐門を,仕切門をくぐった位置から撮影したものである。左手に並ぶ灯篭は銅製で、大名家から寄進されたものである。銅灯篭には「文昭院尊前正徳二年十月二十四日」の刻銘がある。この日は、家宣の亡くなった日である。”

■ 確認結果

 
 目録番号:3870「長崎の墓地(3)」は、超高精細画像の画像解説にあるとおり、長崎市筑後町にある「本蓮寺の墓地」である。タイトルの変更要?。

長崎の古写真考 目録番号:6268 金比羅山

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6268 金比羅山

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6268 金比羅山

■ 確認結果

目録番号:6268「金比羅山」は、タイトルを長崎市中央部の山、標高366.3mの「金比羅山」としている。この古写真のポイントは、見事な三角な山で右斜面は伐採されている。山頂から中央に降り、右方へ伸びる尾根と岩がある。左端には薄く別な尾根が覗く。ある程度、山頂を近くから撮影している。

山の形からすぐ「金比羅山」と思われるが、ハタ揚げ広場へ行って山頂を見ても、「金比羅山」は、尾根の続きがやや合わないように感じた。鍋冠山、彦山など探したが、どうも違うようである。
3枚目の古写真は「金比羅山の賑わい」。長崎文献社「続・アルバム長崎百年」昭和58年刊50頁に小林勝氏撮影のハタあげ風景としてあった。年代不明。

私の疑問は、古写真の中央尾根右側に写る岩。この岩の形が、現在は違うのである。「ドンク岩」または眺めた形から最近は「ヒヨコ岩」と呼ぶ人もいる。
考えてみると、ボードインコレクション撮影当時から、岩の左側が崩落し、現在の形になったのではないだろうか。そうすると、岩が位置的に合い、やはり古写真は「金比羅山」となるだろう。
現在の岩を近くから撮影した写真を、最後に追加した。

長崎の古写真考 目録番号:3223 グラバー邸付近からの長崎港 ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3223 グラバー邸付近からの長崎港 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3223 グラバー邸付近からの長崎港
〔画像解説〕
モノクロ1枚もので鶏卵紙の裏には毛筆で「長崎六十六」、鉛筆で外国人の手により424の番号が付されている。南山手から長崎港奥を望む。この建物は南山手8番(現南山手地区町並み保存センター)で、慶応3年(1867)頃アメリカ人シュミット・スパンが建てた個人住宅。寄せ構造りの母屋の左右先端に半六角形の張り出し部を付け、海側にヴェランダをもつ、複雑な平面の建物であった。左前には東屋らしい別邸の屋根も見える。右側の瀟洒な洋館は下り松42番D。湾奥は浦上方面で、右の船溜まり五島町の海岸から立山。左側には淵村の集落が写っている。左の軍艦は明治5年(1872)長崎巡行で天皇を乗船したお召し艦「竜驤」のようである。筆書きのキャプションが記された外の写真と比較して、撮影者は東京から随行した内田九一と推定される。内田はこのとき天皇の九州巡幸に写真師として随行し長崎、熊本、鹿児島で多くの写真を撮影した。

目録番号:2868 南山手からの大浦居留地と出島(1)
〔画像解説〕
グラバー園下の坂道付近から撮影したもの。左下の洋館は南山手8番の敷地内、現南山手地区町並み保存センターの位置に建っていたもので、その屋根上に下り松42番地の工場や倉庫がみえる。右手中央の建物は幕末期から存在したベルヴューホテルだが、入り口のポーチが増築されていたのが分かる。その手前は、大浦天主堂への坂道である。大浦居留地は多くの洋館が立て込み、海岸通りの中央には街路樹が植えられ、突き当たりの税関前の波止には大きな平屋建てが新築されているが、東山手の丘上には16番館や明治15年(1882)建設のラッセル館はまだ見えない。出島には、江戸期以来のカピタン部屋を利用したオランダ領事館の3段になった屋根がみえ、その建物がまだ建て替えられていないことが確認できる。出島右端には神学校や新教の教会なども見えないので、明治7年(1874)〜8年頃の風景であろう。遠くには立山と金比羅山、三つ山などが望まれる。

■ 確認結果

朝日新聞きのう2010年(平成22年)3月11日付長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」”グラバー邸付近 「下り松」囲む洋館群”に載った写真。「モノクロ鶏卵紙の1枚もので、裏には九一自筆(?)の「長崎六十六」という書き込みがあり」「1878年7月、長崎滞在中の内田九一がグラバー邸付近から撮影した南山手の洋館と長崎港です」と解説している。

データベースでは、目録番号:3223「グラバー邸付近からの長崎港」の作品。新聞記事はこの写真だけ取り上げている。明治天皇の西国・九州巡幸に随行した内田九一の作品にしては、単葉で見るとあまりパッとした構図でない。
この項は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2229
その際、気付いたが、この目録番号:3223「グラバー邸付近からの長崎港」は、次の目録番号:2868「南山手からの大浦居留地と出島(1)」が右側にくるパノラマ写真のようである。

グラバー邸付近の高台は、長崎港や市街のパノラマを写す絶好の撮影場所だった。古い作品として妙行寺や風頭、彦山まで写したボードインコレクションの「長崎のパノラマ」がある。内田九一もこれを意識して、同じ試みをしたのではないだろうか。
現在のところ、目録番号:3223「グラバー邸付近からの長崎港」と目録番号:2868「南山手からの大浦居留地と出島(1)」は、別々の作品として取り扱われている。洋館建物の続きから、後の目録番号:2868「南山手からの大浦居留地と出島(1)」も、切り離された内田九一の作品と推測されるのである。

2枚の作品を合わせると、南山手などの居留地と長崎港の巡幸様子を撮影したまとまった写真となるだろう。きのうの朝日新聞解説では、この点の言及はない。
長崎大学側が、このことにもし気付いておられなかったら、特に後の目録番号:2868「南山手からの大浦居留地と出島(1)」の作品について、研究をお願いしたい。
きのうの新聞を読んだ感想として、この目録番号の記事を再掲する。

長崎の古写真考 目録番号:6121 興福寺と麹屋町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6121 興福寺と麹屋町

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6121 興福寺と麹屋町

目録番号:1293 興福寺開山堂と麹屋町(1)  関連作品 目録番号:3864(2)、5637(3)
〔画像解説〕
1864年頃、ベアトが撮った興福寺開山堂と麹屋町の通りである。道路は人力車用に舗装されているが、後方には、後年スロープに改善された石段が見える。幕末の長崎市内の街路の写真として最古のものの一枚である。

■ 確認結果

目録番号:6121「興福寺と麹屋町」は、目録番号:1293「興福寺開山堂と麹屋町(1)」と同じような写真である。興福寺でも開山堂(観音堂)と麹屋町を撮影したもので、タイトルは合わせるべきだろう。
正面の重層の楼閣が、文政8年(1825)に至って荒廃していた開山堂を併合した観音堂である。これは戦災で失われ、現在はそこに民家が建て込んでいる。付近の通りや庭で礎石の一部が今も確認できる。

長崎の古写真考 目録番号:5339 寺(11) ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5339 寺(11) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5339 寺(11)

目録番号:5358 寺(12)

目録番号:6034 本蓮寺の本堂

■ 確認結果

3作品ともほぼ同じような写真。長崎市筑後町にある原爆焼失前の「本蓮寺本堂」を撮影しているので調整要。目録番号:5339「寺(11)」と目録番号:5358「寺(12)」は、なぜ「撮影地域:未詳」のまま、タイトルを変更しないのだろうか。
この項は2010年1月9日指摘済。https://misakimichi.com/archives/2172

その際、目録番号:5339「寺(11)」の外に、目録番号:5358「寺(12)」の作品があることを気付かなかったため再掲する。「5338」は墓地を写した「本蓮寺」だが、本堂を写した番号が紛らわしい「5358」もあったのだ。

長崎の古写真考 目録番号:3222 大光寺(2) ほか

イメージ 1

イメージ 2

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3222 大光寺(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3222 大光寺(2)        同作品 目録番号:3220 大光寺(1)(彩色あり) 

目録番号:3251 大光寺(3)
〔画像解説〕
内田九一撮影の大光寺と男性。同じアングルで上野彦馬が同じポーズをとりベアトが撮影した幕末の写真が残されているが、明治5(1872)年の天皇の西国巡幸で長崎に随行した九一がこの写真と同じポーズでこれを撮影したと推測される。同じ写真の無彩色もコレクションの中にある。

■ 確認結果

長崎市寺町の浄土真宗本願寺派「大谷山大光寺」の境内。3作品は彩色のあるなしはあるが、まったく同じ写真である。
目録番号:3251「大光寺(3)」では、「内田九一撮影の大光寺と男性。…明治5(1872)年の天皇の西国巡幸で長崎に随行した九一がこの写真と同じポーズでこれを撮影したと推測される。…」と画像解説している。

続く「同じ写真の無彩色もコレクションの中にある」というのが、目録番号:3222「大光寺(2)」の作品であろう。これが本作品と思われる。同じ作品の目録番号:3220「大光寺(1)」とも、「撮影者:未詳」のままになっているので、画像解説とも調整してほしい。関連作品では出てくるが、撮影者検索では出てこない。

長崎の古写真考 目録番号:2415 鉱山の風景

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:2415 鉱山の風景

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:2415 鉱山の風景

■ 確認結果

朝日新聞2010年2月25日付長崎地域版「長崎今昔 長大コレクション」に載った”高島 近代化支えた立役者”により、データベースの目録番号:3232「高島炭鉱石炭船積場」の作品を昨日紹介したばかりだった。
きょう何気なく「鉱山」で条件検索すると、目録番号:2415「鉱山の風景」が出てきた。その石炭船積みの元となる「高島炭鉱北渓井立坑の操業風景」の写真なのである。

この古写真は、長崎市教育委員会編「長崎古写真集 居留地編」平成15年刊第3版の96頁に掲載があり、147頁の「図版解説」による説明は次のとおり。
この項は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1619

87 高島炭鉱の立坑
88 高島炭鉱の石炭搬送場          いずれも日本大学芸術学部所蔵
慶応4年(1868)、T.B.グラバーは領地支配者だった佐賀鍋島藩の長崎出張人松林源蔵と共同経営の協約を結んで、高島炭鉱の新規開発事業に乗り出した。本国から最新式の機器・技術を導入して、深さ70m余におよぶ堅坑道を穿ち、機械化によって大量の良質炭を採掘、運搬することに成功した。すなわちわが国鉱業の最初の近代化をもたらしたわけだが、経営の方はその後、紆余曲折があって明治14年に三菱商会の所有となった。
撮影は上野彦馬。明治中期頃であろうか。

87「高島炭鉱の立坑」の作品がそうであるが、88「高島炭鉱の石炭搬送場」とも、いずれも日本大学芸術学部所蔵とあり、長崎大学の古写真データベースにないと思っていた。長崎大学側もまだこの作品がデータベースに収録されていることを知らないと思われる。
高島炭鉱の写真はまだ数点ある。上野彦馬の撮影だろうか。彩色されたカラー作品となっているが、4本の煙突の噴煙は同じ向きで、同作品に間違いない。明治天皇の巡幸写真との関連で内田九一とも考えられる

長崎の古写真考 目録番号:3232 高島炭鉱石炭船積場

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3232 高島炭鉱石炭船積場

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3232 高島炭鉱石炭船積場
〔画像解説〕
鶏卵紙一枚もので裏に筆で「五十一長崎高嶋/石炭鉱」「長崎高嶋石炭」、鉛筆で「四百九」と書き込みがある。グラバーが開発した長崎港外の高嶋炭鉱における船着き場の、この写真は有名で、これまで上野彦馬の撮影とされてきた。しかしこの裏の書き込みは内田九一によるものであり、一連の関連から目録番号3230(整理番号66-11)と同じくこれも明治5年(1872)6月、天皇巡幸に隋行した内田九一の撮影と思われる。人夫が石炭を積んだトロッコを波止場の板の上まで押し、そこに空けられた穴から下の船の船腹に石炭を落としている。船は帆柱を持つ中型の石炭運搬専用のイサバ船で、積み込み中の船名は「榮力丸」と読める。この石炭は長崎港近くの貯炭場に運ばれ、大型船が入港すると「団平船」と呼ばれた小船で大船の腹からバケツリレーの要領よろしく石炭を積み込んだ。左側には鉱山技師と思われる外国人と監督の日本人が眺めている。向いの小島は飛島である。

■ 確認結果

朝日新聞きょう2010年2月25日付長崎地域版「長崎今昔 長大コレクション」に載った”高島
近代化支えた立役者”は、データベースの目録番号:3232「高島炭鉱石炭船積場」の作品である。本ブログでは2009年2月紹介済。 https://misakimichi.com/archives/1619

きょうの朝日新聞の解説は、取り立てて問題にすることはない。要望としては、冒頭の文が
「1872年7月、内田九一が撮影した「高嶋」(現在の長崎市・高島)の石炭積み出し風景です」とあまりに簡略されていること。データベースの画像解説にある「明治5年(1872)6月(新暦では7月)、天皇巡幸に隋行した内田九一の撮影した…」という背景説明は必要と思われる。
後段の「内田九一は官営化に備え、政府から現地撮影を依頼されたようです」も、そのようなことは考えられないことはないが、根拠があるのだろうか。

なお、この写真は内田九一の作品に間違いないと思われる。2010年1月東京ウォーカーで開催された「貴重な写真約130点を展示!坂本龍馬と幕末を知る写真展」に内田写真株式会社所蔵の内田九一が撮影した写真として展示されている.
展示作品は次を参照。 http://news.walkerplus.com/2010/0115/17/photo07.html

長崎の古写真考 目録番号:5631 南山手からの大浦居留地と出島(3) ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5631 南山手からの大浦居留地と出島(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5631 南山手からの大浦居留地と出島(3)

目録番号:5887 南山手からの大浦居留地(6)
〔画像解説〕
南山手から大浦海岸通りと東山手洋館群を望む。右前方の丘には活水学院(ラッセル館)、長崎港の奥に出島の一部が見える。明治10年代末。

■ 確認結果

目録番号:5631「南山手からの大浦居留地と出島(3)」と、目録番号:5887「南山手からの大浦居留地(6)」はまったく同じ作品であろう。
タイトル、画像解説など調整を要する。お互い関連作品でも出てこない。撮影場所は現在の南山手地区町並み保存センターあたりからと思われる。