長崎の古写真考 1」カテゴリーアーカイブ

坂本龍馬ゆかりの料亭「玉川亭」の写真 初確認される

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坂本龍馬ゆかりの料亭「玉川亭」の写真 初確認される

朝日新聞長崎地域版2010年11月27日付の記事。現在の長崎市八幡町、中島川の大井手橋近くにあった坂本龍馬らが倒幕議論したとされる料亭「玉川亭」の写真が初確認された。
写真は、英国の写真家F・ベアトが1864〜66年に撮影。横浜開港資料館に所蔵され、ベアトの写真集にも掲載されている。写真集を見た市職員が10月末頃、姫野教授に分析を依頼。現存するお堂が写っている位置などから、玉川亭と確認したと、読売新聞にはある。

現地を訪ねる。地図は上のとおり。桃渓橋の伊勢町側から中島川の下流を向き、大井手橋付近を写しているのは間違いないだろう。右手前のお堂は「出来大工町不動堂」として現存する。下流に「大井手橋」の昔のアーチ式石橋が、当時の姿どおり写っている。
写真左岸の料亭「玉川亭」跡は、現在「キリスト教友愛社会館 友愛八幡町保育園」となっている。このあたりは、中島川の本流と西山川が合流し、「二股」と呼ばれる所。「玉川亭」は川魚料理が有名で、多くの会談に利用されたようだ。

最後の古写真は、長崎大学データベース目録番号:5305「中島川と桃渓橋(2)」と目録番号:6050「二股と桃渓橋」。上野彦馬撮影。逆に大井手橋側から桃渓橋を写している。お堂と傾いた松が同じとわかるだろう。
長崎の古写真については、私も他の写真集などから、珍しい数点を確認している。次の記事ほか参照。
https://misakimichi.com/archives/2348
https://misakimichi.com/archives/2218

長崎の古写真考 目録番号:5878 対馬(6)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5878 対馬(6)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5878 対馬(6)

対馬関連作品は、目録番号:5867(1)、5869(2)、5870(3)、5876(4)、5877(5)がある。

■ 確認結果

目録番号:5878「対馬(6)」は、長崎県対馬関連の6作品の1枚である。画像解説がなく、撮影者・撮影年代とも未詳となっているが、現在の対馬市美津島町尾崎漁港の大島にある「都々智(つつち)神社」(里宮)を撮影している。関連写真は、近辺の集落や海岸であろう。
対馬の「都々智神社」は、次のHP参照。現在の写真も同HPから。
玄松子さんが歩いた各地の神社の記憶 http://www.genbu.net/data/tusima/tututi_title.htm

この作品は、朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」2009年刊の189頁に掲載があり、画像解説は次のとおり。186〜187頁に詳しい解説がある。

82 都々智神社とイギリス軍艦
対馬の浅茅湾に進入したイギリス海軍ヴァーノン号と都々智神社。1861年にはロシア艦隊がこの湾の一部を半年間占拠した。
ヘンリー・スチュアート撮影、1890年、鶏卵紙、15.2×10.3

1890年、イギリス海軍の軍艦ヴァーノン号が対馬の浅茅湾に停泊しました。この軍艦の見習い将校ヘンリー・スチュアートが撮影した対馬の大島の都々智神社と軍艦の写真です (写真82)。場所は湾の入り口付近で、対馬を撮影した写真としては最古のものでしょう。長崎大学にはこのき撮影された湾内の写真がほかに5枚残されています。
島の左側に鳥居が立ち、右に拝殿が見えます。この神社につながる参道は、満潮のときには海に沈みます。対馬では本宮が山頂や海岸にあり、里宮が里にあるのですが、この神社は郷崎大明神の里宮になるようです。

「防人の島」として知られる国境の島である対馬は、外国の脅威にさらされていました。
1861年には、ロシア海軍中尉二コライ・ビリレフ率いる軍艦ポサードニク号がこの湾の占拠を始め、兵舎、工場、練兵場をつくり、半年ほど居すわって島民を脅かしました。「対馬事件」と呼ばれる幕末の外国人による無断上陸事件で、幕府はこれを退去させるのに苦労しました。
1900年には、日露戦争に備えて小型の艦艇を通すため陸地を掘削して、万関(まんぜき)と呼ばれる水路がつくられました。この水路を通って進撃した水雷艇が日本海海戦で日本に勝利をもたらしました。

長崎の古写真考 目録番号:6275 新大工町の鳥瞰 ほか (再掲)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6275 新大工町の鳥瞰 ほか (再掲)

朝日新聞長崎地域版2010年7月3日付”長崎今昔 長大コレクション”に掲載された「亀山社中付近から見た街 龍馬も訪れた撮影局」。
「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」の次の作品である。

目録番号:6275 新大工町の鳥瞰

目録番号:6277 春徳寺遠望

■ 確認結果

朝日新聞の記事は、見出しを「亀山社中付近から見た街」とし、撮影場所を「亀山社中があった伊良林の高台から、若宮稲荷神社の鳥居越しに撮影されている」と解説している。あまり間違いないが、実際の撮影場所はどこだろうか。
亀山社中付近は、西側を向いている。若宮稲荷神社の参道鳥居や上野撮影局、中川方面がまったく見えないから、見出しとするのは、適切でないと思われる。

では、伊良林のどのあたりの高台から撮影された写真だろうか。
この項は次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/2193
私の推定では、地図の黄色●地点である。亀山社中と若宮神社の中間あたり。高さは少し下がる。現在の写真は、光源寺墓地内、高台の「大春家」墓門の場所から写したから、春徳寺の大屋根の向きが古写真と比べ少し変わった。

資料にしたとおり、朝日新聞社刊「写真集 甦る幕末」の再評価において、慶應義塾大学高橋信一教授は「上野彦馬邸の前の中島川の川向こう、伊良林の丘の上の若宮神社から新大工町、片淵方面を望んだ写真である」と解説している。
もちろん近くの場所になるが、写真に写された街の向きから「亀山社中付近から見た」とするより、「若宮神社付近から見た」とする方が、妥当な解説ではないだろうか。

長崎の古写真考 目録番号:3235 中島川と編笠橋(3) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3235 中島川と編笠橋(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3235 中島川と編笠橋(3)   関連作品 目録番号: 982 同(1)ほか(7)まであり
〔画像解説〕 
写真左側に松の大木、川面に編笠橋の影を映し、橋の袂の山門後ろに工場の煙突、森の中に諏訪神社、背景には左側に金比羅山の稜線が見える。橋の袂にある山門は、明和3年(1766)建立の太平寺の山門である。太平寺は、寛延3年(1750)この地に建立され、宝暦7年(1757)に新橋町(旧日本赤十字社跡地)、明治10年(1877)現在地の浪の平に移転した。編笠橋は、元禄12年(1699)岸村夫妻が今博多町と本紙屋町間に架けたアーチ石橋である。この石橋は中島川に架けられた最後の石橋となった。寛永の頃、この辺りに遊女屋があり、世間体をはばかり深編笠で顔を隠して廓通いをしたので、この名が付いたと言われる。本紙屋町は、昔紙漉町(かみすきまち)といって、紙を漉く職人で出来た職人町である。写真左側の松の木の下に漉いた紙を乾燥している風景が見える。昭和57年(1982)の長崎大水害で崩落し、前の橋と形が異なる急な階段のある通行に不便な石橋に架け変わった。

■ 確認結果

長崎新聞に本年1月から”龍馬動く”の企画として、長崎大学附属図書館協力「長崎遠めがね 古写真に見る町と人」が掲載されている。
2010年4月25日のシリーズ<14>は、“■中島川と編笠橋■  紙すき職人の姿はっきり”
長崎新聞HPにあり参照。http://www.nagasaki-np.co.jp/press/ryoumaugoku/kikaku6/14.shtml

目録番号:3235「中島川と編笠橋(3)」の古写真で、データベース上の画像解説は上記のとおり。編笠橋を中島川の少し下流の左岸から撮影した作品だろう。
新聞記事では「橋の左の門は、諏訪神社の跡地に移転した天満宮(松森神社)のあとに建てられ、維新後廃寺となった大行寺の門である」となった。データベース上の解説「明治10年(1877)浪の平に移転した大平寺の旧山門」から説明が変わった。そのいきさつは、次にあるようだ。

「長崎くんち関連年表#1(近世編)」を参照。http://voc.hp.infoseek.co.jp/hist/text/hist01.htm
1626 寛永3 丙寅  肥前松浦郡の浪人川上久右衛門光房、今博多町の自宅の側にほこらを建て、天満神を祭る。1630寛永7年、同町中島川畔に仮殿を造営、翌年初めて例祭を執行。1656明暦2年、旧諏方の地に移し、1680延宝8年社殿を改築したが、このころ、社号を松ノ森天神と称した。
1656 明暦2 丙申  8 28 天満宮を今博多町から元諏方の地に移す。1680延宝8年、奉行牛込忠左衛門の命名で松ノ森神社と称す。今博多町の跡地には修験者が住み、1723享保8年、再び天満宮を建て広徳山大行寺と号した。維新後、大行寺は廃寺となり、天満宮のみとなったが、昭和44年4月25日都市計画で、松ノ森神社内に移った。

解説の変更は、以上を調べてわかった。「廣徳山大行寺」は、長崎市史 地誌編佛寺部下第12章廃寺820〜821頁に記録がある。「天保十三年(1842)十二月に本門を再建した」と記す。長崎市史の記録は次のとおり。

第九 廣徳山大行寺
所在  長崎市今博多町弐拾八番地即今の今博多天満宮の地
沿革  寛永三年今博多町に天満天神を祭神とする一社が創立されたが、明暦二年九月拾五日に至り、同社を松の森の地に遷座したので、萬治元年に大行院常学と云ふものがその跡に一草庵を結んだ。これが当寺の起原である。其の後当寺には代々弘才の僧侶が住して経論を講することとなり、之を流法席と称した。安禅院の正覚院もこゝに退院(滞院?)したことがあつた。正徳三年改めて寺となし大行寺と号した。
享保八年八幡町なる修験道般若院の住職映澄 同院三代 と云ふもの大行寺の地を獲て天満宮を建立し、本山 白川聖護院 に請ふて廣徳院大行寺と号した。
文化十年祈祷所を、文政十一年寺坊を、天保十三年十二月に本門を再建した。
明治元年寺院を廃して純一の神社となつた。今の今博多町天満宮が即ち是れである。
境内  百七拾弐坪

同地は現在、区画整理事業後の中島川通りの一部となっている。「宮の下公園」の手前角地あたりである。データベース上の画像解説はすぐ訂正できないのだろうか。すぐ下流の古町橋脇に我が国尺八文化の重要な伝承地、虚無僧止宿所「松壽軒跡」(普化宗)碑がある。ここが「太平寺」跡地のようだ(長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡(南部編)」73頁太平寺の項)。

なお、関連作品の目録番号:2886「中島川と編笠橋(2)」の超高精細画像は、タイトルが以前の「中島川の風景(3)」のまま、間違っていた阿弥陀橋を画像解説している。撮影者は「玉村康三郎」ではないのか。また目録番号:982「中島川と編笠橋(1)」は、超高精細画像のタイトルが「同(2)」となっている。

長崎の古写真考 目録番号:5642 崇福寺竜宮門遠景 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5642 崇福寺竜宮門遠景 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5642 崇福寺竜宮門遠景     関連作品 目録番号:6130 同(2)
〔画像解説〕 
大光寺の境内から崇福寺の山門の竜宮門を望んでいる。崇福寺は、寛永19年(1642)に当時在留していた中国・福建出身者が創建した黄檗宗の寺院である。その山門は寛文13年(1673)単層の八脚門形式で建てられたが、嘉永2年(1849)の再建時に今日の竜宮門形式となった。日本人棟梁・大串五郎平の作。石と瓦の練積みに漆喰塗り。重要文化財。

■ 確認結果

長崎新聞を読んでいなかったため知らなかったが、本年1月から”龍馬動く”の企画として、長崎大学附属図書館協力「長崎遠めがね 古写真に見る町と人」が掲載されている。
2010年3月28日のシリーズ<10>は、“■崇福寺竜宮門遠景■  日本人棟梁が建立”
長崎新聞HPにあり参照。http://www.nagasaki-np.co.jp/press/ryoumaugoku/kikaku6/10.shtml

目録番号:5642「崇福寺竜宮門遠景」の古写真で、データベース上の画像解説は上記のとおり。隣りの大光寺境内から撮影された作品だろう。
新聞記事では、「大光寺」が「光寺」となっている。新聞社の間違いと思われる。そのままHPに載せているのはどうだろうか。

崇福寺の竜宮門は、「崇福寺三門(楼門)」の名称により国指定重要文化財となっている。「三門」の意味は、現地説明板のとおりであるので、データベース上とも解説に配慮をお願いしたい。
末尾の写真が現在の大光寺と、同寺鐘楼から見た崇福寺の竜宮門。高いビルが建ち、古写真どおりの景色を写せない。

(追 記)他の用件あり、6月15日長崎新聞社へ電話し、「光寺」は「大光寺」に修正された。HP上だけの入力間違いだった。

長崎の古写真考 目録番号:6063 大浦川中流域から東山手を望む

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6063 大浦川中流域から東山手を望む

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6063 大浦川中流域から東山手を望む

■ 確認結果

目録番号:6063「大浦川中流域から東山手を望む」は上野彦馬撮影。画像解説がない。タイトルもこれで仕方ないだろう。長崎大学附属図書館企画編集「長崎大学コレクション 明治七年の古写真集」長崎文献社2007年刊44頁に掲載されている。同解説は次のとおり。

34 大浦川中流域から東山手を望む  271×207 
南山手26番付近から大浦および東山手の居留地を展望している。手前の大浦川左岸には空き地が目立つ。東山手の丘には唯一12番のアメリカ領事館がみえる。手前大浦川を挟んだ対岸は角から右に29番(H・ホー商会)、左には15、14番(外国人のバー)の邸宅である。建物は和風擬洋式で、コロニアルなベランダが特徴的である。

次に説明する古写真が、長崎大学附属図書館に所蔵がないのか、データベース上で見当たらないため、同じ通りを写したこの目録番号:6063の作品を借りて説明する。
朝日新聞社「写真集 ”甦る幕末” オランダに保存されていた800枚の写真から」1986年刊の巻頭「風景いまむかし」9頁に掲載されている作品。
「幕末の外国人の目に映った日本の美しい風景のなかから、12の地点をより選って(選りすぐって?)、今日の姿を同じアングルで”定点観測”してみた」そうである。

2枚目の対比写真がそれ。右の現在の写真は、松が枝橋脇の長崎市営駐車場がまだ見当たらないので、中華料理店四海楼の階上から撮影されたのか、「大浦海岸通り」を写している。
古写真と対比するとこの国道通りが、古写真右側のまっすぐ広い通りのように感じられるが、右側の通りは大浦海岸通りでない。
東山手突き当たり高台に、12番アメリカ領事館が見えるとおり、現在、NTT長崎病院と孔子廟前の通りである。大浦海岸通りから奥へ4番目の通りとなる。

古写真の撮影場所は、長崎大学の「明治七年の古写真集」では、「南山手26番付近から」と解説している。一帯は高いビルが建ち、この通りや大浦海岸通り、長崎港奥が見えなくなっている。
この項は次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1931
https://misakimichi.com/archives/2176

この通りがまっすぐに古写真どおり写せるのは、妙行寺先の「南山手26番」前付近になるのは間違いないが、南山手地区町並み保存センターに展示している大浦居留地模型から判断すると、「南山手26番」よりまだ少し先の道あたりになるようである。
背景の山は金比羅山と右奥に帆場岳(三ツ山)。現在、現地では孔子廟前の通りが見えないため、南山手レストハウスへ登る途中のコーポ吉野からと、レストハウス上のグラバースカイロード展望台高台からこの通りを確認した。

ところで、朝日新聞社「写真集 ”甦る幕末”」。9頁の左側古写真は、少し上へずらすと山の稜線など合い、まともな組写真となるはず。撮影場所は「松が枝橋付近」からではない。解説の「長崎・現在の南山手」は、「南山手から大浦居留地を望む」が正しいだろう。
同じ景色を現在、簡単に写せない事情はわかるが、権威ある写真集の巻頭写真の編集として粗雑。撮影場所の誤解が生じないようお願いしたい。

長崎の古写真考 目録番号:6204 長崎製鉄所(2)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6204 長崎製鉄所(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6204 長崎製鉄所(2)

関連作品  目録番号:5314 長崎製鉄所
〔画像解説〕
安政5年に日本は開港し、長崎港の東側である東山手・大浦・南山手に外国人居留地が造られた。しかし、開港する前の安政4年(1857)には長崎港の東側、飽の浦地区(現在の三菱造船所)では、幕府はオランダ人ハルデスの指導のもとに、大型船の建造を目的とした長崎製鉄所の建設を始め、文久2年(1862)に完成させている。この長崎製鉄所は、主に機械施設が中心の工場であった。二本の煙突のある鍛冶場は、ボイラー室で煉瓦造の建物である。右の建物は、日本で最初に鉄製のトラスの小屋組を採用した轆轤盤細工所で、多くの工作機械が据え付けられていた。この写真は完成直後の飽ノ浦製鉄所である。写真中央に見える岬は、稲佐地区である。その対岸は、西坂の丘である。長崎市街地は、左から右にかけて、西坂から出島にかけての市街地の沿岸部が見えている。長崎大学附属図書館には、少し時代が新しい写真【目録番号978(整理番号21-3)】がある。

■ 確認結果

目録番号:6204「長崎製鉄所(2)」は、長崎大学古写真データベースに昨年6月頃、追加して収録されたようである。画像解説は、関連作品の目録番号:5314「長崎製鉄所」に上記のとおりあり、特に問題はない。

今回の目録番号:6204「長崎製鉄所(2)」は、朝日新聞社「写真集 ”甦る幕末” オランダに保存されていた800枚の写真から」1986年刊の巻頭「風景いまむかし」8頁に掲載されている。
「幕末の外国人の目に映った日本の美しい風景のなかから、12の地点をより選って(選りすぐって?)、今日の姿を同じアングルで”定点観測”してみた」そうである。

2枚目の対比写真がそれ。現在の写真は、西泊湾から三菱長崎造船所本工場のうち、西泊や立神の工場を写していて、古写真の飽の浦の工場でない。背景の山がまったく違うし、同じアングルとなっていない。
古写真の撮影場所は、本工場地図のとおり、現在の「塩浜町」バス停上の高台あたりから写せる。背景の山は金比羅山と烽火山。巨大クレーンは次写真のとおり右外にある。 

今頃、指摘してもはじまらないが、権威ある写真集の巻頭写真の編集として粗雑。あと1地点、大浦居留地の間違いと思われるものがあり、次記事とする。

長崎の古写真考 目録番号: 763 大黒町および出島と長崎港口ほか (再掲)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 763 大黒町および出島と長崎港口ほか (再掲)

朝日新聞長崎地域版きょう2010年(平成22年)5月8日付”長崎今昔 長大写真コレクション”に掲載された「1866年2月の街と港 龍馬とお龍見た景色」。解説は、
「福済寺裏山の立山中腹から、ベアトが撮影した幕末長崎の街と港です。…1866年2月を示すベアトの書き込みもあります。撮影時期が明確なため、幕末長崎の街並みのベンチマーク(水準点)となる写真です…」

この写真を取り上げたのは、撮影場所がきょうの新聞記事も「福済寺裏山の立山中腹から」となって、必ずしも明確ではない。どこも「龍馬が見た景色」となる傾向もどうかと思われる。
はたして具体的な撮影場所はどこだろうか。
データベースでは、目録番号: 763「大黒町および出島と長崎港口」の作品である。
この項は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1575
https://misakimichi.com/archives/1584

撮影場所は「立山から」に間違いないが、長崎大学が「幕末長崎の街並みのベンチマーク(水準点)となる重要な写真」としながら、具体的な撮影地点をはっきり検証されていないため、いろいろな意見が出ている。
2009年元旦紙面の朝日新聞や、2003年の長崎市写真団体合同展実行委員会の推定地点とはならないだろう。私が探した撮影場所は、立山バス停の「ホテル長崎」左横に赤い建物の老人ホーム「プレジールの丘」が建つ。このすぐ下となる「西勝寺の無縁諸霊墓」の一段上、「中山家之墓」あたりである。

要は、街や港を俯瞰した写真の高度感と、奥に写る島や山の稜線。女神大橋が架かって見えにくくなったが、神崎鼻先の香焼島の姿、深堀城山と大久保山、鍋冠山と八郎岳の稜線の重なり具合が、古写真どおりとなるかが、ポイントだろう。
この古写真とまったく同じと思われる撮影場所から、長崎港と街を写している作品がある。2枚目の目録番号:2882「長崎立山からの長崎港(1)」。
データベースでは撮影者未詳となっているが、上野彦馬の撮影である。

馬場章氏編「上野彦馬歴史写真集成」渡辺出版2006年7月初版の60頁に、48「福済寺裏山からの長崎港」として掲載されている。
HP上では、扇精光株式会社制作「上野彦馬フォトギャラリー」という珍しいウェブがある。「写真の開祖」上野彦馬による幕末の長崎の様子。クリックすると過去から現在へ移り変わりをムービーで見ることができる。 http://www.ougis.co.jp/virtual/hikoma/ueno.html

よく知られる長崎の5枚の古写真のうち、2枚目に「長崎港」として目録番号:2882「長崎立山からの長崎港」の作品が表れる。出典は「写真の開祖 上野彦馬 −写真に見る幕末・明治−」発行所:産業能率短期大学出版部 発行者:上野一朗氏。
昔:長崎港、明治21年(1888)撮影
今:平成11年2月(1999)立山2丁目長崎ホテル横の空き地から撮影

扇精光が11年前1999年、綿密に調査推定した地点は「立山2丁目長崎ホテル横の空き地から」である。私の地点「ホテル長崎」左横に赤い建物の老人ホーム「プレジールの丘」が建つ。このすぐ下となる「西勝寺の無縁諸霊墓」の一段上、「中山家之墓」あたりとまったく近くとなる。ホテル横の空き地に墓地が造成され、その上部に老人ホームが新しく建っている。

「立山」とは普通、バス終点付近を言い、このあたりが山頂だろう。しがって目録番号: 763「大黒町および出島と長崎港口」の撮影場所は、「福済寺裏山の立山中腹から」とまぎらわしくしないで、目録番号:2882「長崎立山からの長崎港」と同じく、「立山から」撮影の説明で良いのではないか。

長崎の古写真考 目録番号:6196 海からの出島鳥瞰(再掲)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6196 海からの出島鳥瞰(再掲)

朝日新聞長崎地域版きょう2010年4月17日付”長崎今昔 長大写真コレクション”に掲載された「幕末の出島 塀外され建物も一望」。海から眺めた江戸時代最後の出島の姿だそうである。
古写真は、データベース目録番号:6196、タイトル「海からの出島鳥瞰」の作品である。
この項は次を記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/2180
私の一般的な疑問は、次のとおりである。この作品は、長崎歴史博物館で開催中の「幕末長崎古写真展」に出展されている。専門的な研究をお願いしたい。

(1) 初期の写真機で、海上の揺れる船から撮影できただろうか。干潟から撮影したとの見解もあるが、外国の大型船が干潟に漕ぎ入れてまで写真を撮る必要があるのか。
(2)右端の写真に写る山は、風頭山の奥に彦山。左端の写真に写る山は、稲佐山の立岩尾根ではないだろうか。中間の山、烽火山・金比羅山が中抜きされていると思われる。
(3)出島のこのような姿は、船上からでなく、梅香崎と大浦海岸から撮影できそうである。「長崎港精図」に赤線で示した2枚を組み合わせた写真ではないだろうか。
(4)つなぎ合わせた中央下部にそれぞれ石柱らしいのが写る。最左端の黒ずみも、写真の汚損ではない。船上からの撮影としたら、こんな物は写らないのではないか。

(2010年4月22日修正)
この作品は、実は朝日新聞社『写真集 ”甦る幕末” オランダに保存されていた800枚の写真から』1986年刊14〜15頁に掲載があった。タイトル及び説明は「長崎・出島。海側から見た」とあるだけである。同写真集を確認しなかった私が悪いが、4月18日に [ satemosatemo2008 ] 様から下のコメントどおり指摘を受けた。

「撮影方法は、カメラの三脚を使用できる小型の漕船(和船か大型船の救命用ボート?)を干潟に漕ぎ入れて固定する。撮影位置は現在の長崎税関付近と推定しています。
背景の山並みは右に英彦山、中央に烽火山、左端は立山付近だと思われます。金比羅山はもっと左に位置し、写っていません」

という見解である。参考のため『甦る幕末』から14〜15頁「長崎・出島」と、22〜23頁「長崎パノラマ」の掲載写真を後ろに載せる。鮮明な大きい写真を目にすると、背景中央のぼんやりした山がはっきり写っており、武功山・烽火山・健山である。左端は諏訪の森と立山付近と確認できた。出島の同じ建物は、撮影方向が違うが、「長崎パノラマ」が写しており、海上の撮影地点を推定する手掛かりとなるだろう。(4)の疑問は更に解明してほしい。

「幕末長崎古写真展 -龍馬と彦馬、維新のまなざし- 」  長崎歴史文化博物館で開催中

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「幕末長崎古写真展 -龍馬と彦馬、維新のまなざし-」 長崎歴史文化博物館で開催中

「幕末長崎古写真展 -龍馬と彦馬、維新のまなざし-」が、長崎歴史文化博物館の3階企画展示室において2010年4月10日(土)から5月31日(月)まで開催中である。
長崎大学附属図書館、江崎べっ甲店などが所蔵する貴重な古写真コレクションを一挙公開。幕末から明治初期の長崎の風景や庶民の暮らし、そして坂本龍馬や上野彦馬をはじめ、歴史にその名を残すことになる人物の写真と関連資料およそ400点を展示している。

4月11日(日)夕方、観覧に行った。観覧料、大人500円。その時代と彼らのまなざしを感じていただける幕末長崎古写真展の決定版らしいが、人物写真が大半で古写真展として企画内容がうなづけない。
興味がある50点くらいの数少ない長崎の風景写真のみ丹念に見た。相変わらず撮影場所や背景など写真解説の疑問と思われるものがある。場内は撮影禁止だったため具体的な指摘はできないが、10点ほど疑問を博物館学芸員へ説明してきた。

長崎歴史文化博物館と長崎大学附属図書館が主催する古写真展である。展示の特に風景写真については、もう少しきちんとした現地確認と研究を行い、公開してほしい。
古写真展パンフレットの表裏は、ズーム拡大。