長崎の古写真考 1」カテゴリーアーカイブ

長崎の古写真考 目録番号:1006 大浦川口

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1006 大浦川口

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1006 大浦川口
〔画像解説〕
大浦川中流から川口を見た風景である。大浦川に架かっている橋は松ヶ枝橋。川沿いの広い道路には街灯が見える。下がり松居留地の洋風建築が鮮明に写っている。下がり松の由来を示す松の木を見ることができる。

〔画像解説〕 超高精細画像   和文タイトル: 大浦川口
1871年(明治4)9月16日付、横浜の写真貼り付け英字新聞”The Far East”に掲載された写真で、キャプションにはAT NAGASAKIとある。河口は板橋の弁天橋、その奥は下り松橋。右の路上奥には明治初年を象徴するガス灯が写っている。大浦川の川幅は広く、荷物運搬用のサンパンが係留されている。左岸の手前は下り松37番で看板はOCEAN TAVERNと読める(前のエクスプレス)。以下入母屋造り平屋建の下り松38番、39番は空き地で、40番から橋の袂の42番にかけて、2棟ずつ建物が建てられている。慶応三年(1867)で下り松37番には、H.S.ピールが居酒屋(Express Tavern)を、38番にはJ.W.スミスとJ.ブリーンが船具商を、39番は空き家で、40番甲にはC.ニックルとG.ウイルケンスが、40番乙および41番甲には同レーキ商会が、41番乙にはイギリス人のJ.アンダーソンが、42番甲乙にはJ.P.ハイバーとG.クルチスが店を構えていた。この後、ここら一帯は外人バー、ホテル、外国商店街として発達する。

■ 確認結果

目録番号:1006「大浦川口」は、「大浦川中流から川口を見た風景である。大浦川に架かっている橋は松ヶ枝橋」と記している。
この作品には、超高精細画像があり、その画像解説では「河口は板橋の弁天橋、その奥は下り松橋」と説明している。

写真では、大浦川河口に2つの橋が写っていることがわかりにくいが、「弁天橋」のまた下流となる河口に、「下り松橋」(後で橋名は「松ヶ枝橋」となる)が架橋されているので、超高精細画像の画像解説の方が正しい。この項は、次の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/1939
https://misakimichi.com/archives/1932
https://misakimichi.com/archives/1868

長崎の古写真考 目録番号:6297 レッデリエン

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6297 レッデリエン

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6297 レッデリエン

■ 確認結果

目録番号:6297「レッデリエン」は、「撮影地域:未詳」となっているが、椅子の形状から、これは長崎出島スタジオでの撮影である。
椅子については、次記事も参照。  https://misakimichi.com/archives/2479

長崎大学「日本古写真アルバム ボードインコレクションの解説」は、すでに次のとおりなっている。また、asahi.com マイタウン長崎による「長崎今昔」2010年9月4日記事は下記のとおり。

6297  レッデリエン  Reddelien
椅子の形状から出島スタジオでの撮影と思われます。写されているのはE.レッデリエンです。ボードインとの付き合いが深かったオランダ人だと思われます。 -6297-

【長崎 今昔】 プロシア領事の部下  2010年09月04日
出島のスタジオで撮影されたG・レッデリエン=長崎大学付属図書館提供
《レッデリエン》
出島のスタジオで撮られたドイツの貿易会社クニッフラー商会の社員G・レッデリエンです。
1866年ごろにボードイン兄弟により撮影されました。弟のアルベルトと取引があったと推測されます。このいすは、出島スタジオで撮影されたボードイン兄弟や以前紹介したポルスブルックの写真にも登場しています。

デュッセルドルフ出身のルイス・クニッフラーは、59年に長崎港が開港されると、すぐ出島4番地でクニッフラー商会を設立。手広く貿易を手がけました。アルベルトが住むことになる3番地の領事館の隣です。当時、プロシアをはじめドイツ領諸国は開国条約の相手国でなかったため、オランダに保護を求めました。

中小国家が分立していたドイツの北部にあった大国プロシアは59年、外交官で政治家のフリードリヒ・A・G・オイレンブルク伯爵を東アジア遠征艦隊司令官兼全権公使に任命して日本に派遣し、61年に江戸で日普修好通商条約を成立させました。

横浜に進出してこれに協力したクニッフラーは、同年、長崎のプロシア副領事に、65年には領事に任命されます。レッデリエンはその部下で、67年には大浦の31A番地に住んでいた記録があります。

65年の暮れに帰国したクニッフラーに替わって、アメリカのウォルシュ商会に保護されたリチャード・リンダウが67年まで領事を務めました。以後70年までG・A・ショットラー、73年までマックス・ミリツァーと代理領事が続きます。4人とも長崎在住のドイツ人商人でした。

長崎総合科学大学のブライアン・バークガフニ教授が公開する英語のウェブサイト「長崎外国人居留地1859〜1941の人々・場所・風景」によると、A・レッデリエンがアメリカに保護されて商会を経営しているのですが、G・レッデリエンの兄弟ではなかったかと考えられます。
(長崎大学環境科学部教授 姫野 順一)

長崎の古写真考 目録番号: 783 僧侶(5) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 783 僧侶(5) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 783 僧侶(5)
〔画像解説〕
ベアト撮影「日本人の僧侶」と記されている。若い僧侶が袈裟姿で寺院の前で撮影されている。同じ写真がW・バーガーのステレオ写真 に撮影されているが、この撮影場所は長崎か。

目録番号:3441 僧侶(9)
〔画像解説〕
寺の門前にたつ僧侶。僧服に長い袈裟をかけ、右手に扇子を持つ。これはWAG.Burgerのステレオ写真。長崎での撮影。同じポーズにはベアト撮影の写真もある。明治中期か。

■ 確認結果

目録番号: 783「僧侶(5)」と、目録番号:3441「僧侶(9)」は、同じ写真である。
両作品は、「撮影者: F.ベアト」「撮影地域: 長崎」と合わせて良いのではないか。

長崎の古写真考 目録番号:2129 高鉾島(9)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:2129 高鉾島(9)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:2129 高鉾島(9)
〔画像解説〕
日下部金兵衛、小川一真などの混合写真を収載した、蒔絵大型アルバムの中の一枚。キャプションには201TAKABOKOと記されている。これは小川の整理番号で撮影時期は明治20年代後半。戸町の入り江の小高い丘から長崎港口の高鉾島を望んでいる。向こう側の岬は神崎で先端は神崎鼻、後ろに神ノ島が重なって見える。手前の岬は女神である。ここが長崎湾で一番狭い瀬戸である。江戸時代、この港口を挟んで戸町と対岸の西泊に番所が置かれ、肥前藩と福岡藩が隔年で港の警備にあたった。同じアングルの写真は多いが、この写真の場合は、集落、墓地、入り江の帆船などが鮮明である。対岸には石炭が積まれ、ストックヤードになっている。停泊している船はイサバ船であるが、港外の高鉾島の背後に写っている高島の炭鉱から、石炭を運搬する専用船のように思われる。ここに貯炭された石炭は長崎港に停泊する船舶に提供されていたのではなかろうか。

■ 確認結果

目録番号:2129「高鉾島(9)」の画像解説中、「手前の岬は女神である」は、正しくは「女神」ではない。女神1つ手前の現在、井筒造船所のある岬である。
「港外の高鉾島の背後に写っている高島の炭鉱から」も、「高島」は遠くてこの写真に写っていない。高鉾島の背後に写っているのは、右が「伊王島」、左が「香焼島」であろう。

数多い「高鉾島」関連関作品において、上記の間違った解説は多く見られる。
この項は次の記事など参照。 https://misakimichi.com/archives/1621

長崎の古写真考 目録番号:6143 船名不明画像

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6143 船名不明画像

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6143 船名不明画像

■ 確認結果

目録番号:6143「船名不明画像」は、書き付けに「1899」年、「Nagasaki」とある。長崎港口の天門峰が写ってから、対岸の戸町・女神方面から撮影されたものであろう。
女神からではないようである。戸町と女神の間にひとつの岬がある。女神手前から長崎倉庫の奥へ入ると、岬の先端が残る。島原ドック戸町工場入口となっている。

古写真のポイントは、現在の写真に青囲線した所。稜線に少し出っ張りがある。見えるのは、女神からではなく、この岬の先端あたりである。天門峰の急斜面も似てくる。
戸町側は現在、井筒造船所となっているが、当時は船が入った戸町浦入口に当る。戸町から海岸沿いにすぐ行かれたと思われる。女神へ行くより近い。
最後の写真が、女神から見た場合。天門峰左下の山の重なりも合わない。

長崎の古写真考 目録番号: 991 諏訪公園月見茶屋(1) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 991 諏訪公園月見茶屋(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 991 諏訪公園月見茶屋(1)
〔画像解説〕 超高精細画像
長崎公園(通称:諏訪公園)園内の月見茶屋である。茶屋の有名な「ぼた餅」の包み紙によれば、創業は明治18年(1885)である。この写真は、開業直後の写真と思われ、左側のコウモリ傘を持った男性が当主であろうか。茶店で働く若い娘たちが揃いの前掛け姿で写されている。月見茶屋は現在も営業を続けている。茶屋の前の池横にはこれより古く開業していたピエル・ロチゆかりの呑港(どんこ)茶屋の建物も残っている。
また、茶屋の前には、現在ピエル・ロチの記念碑が建っている。ここから眺める彦山と豊前坊の間に出る月、特に中秋の名月は天下一品と言われる。江戸の狂歌師で幕臣である蜀山人こと「太田直次郎」は長崎奉行所勤務時代、一年近くの長崎暮らしで聞き覚えた長崎弁をたくみに使って、中秋の名月を「長崎の山から出づる月はよかこんげん月はえっとなかばい」と詠んでいる。諏訪神社境内にある月見茶屋の昔の建物。現在の建物にも写真の茶屋の趣が残っている。

目録番号:4908 諏訪公園月見茶屋(2)

目録番号:5527 諏訪公園月見茶屋(3)
〔画像解説〕
明治25年から30年(1892〜1897)頃の諏訪公園。南側の山の形から推測すると、公園の噴水付近から市街地側を見て撮影している。東屋の緋毛氈(ひもうせん)に女性が二人座り、傍らに三人目の女性がポーズをとって立っている。手彩色の写真であり、座った女性やポーズをとった女性の着物の配色が美しい。冬枯れした諏訪公園の昼下がり。

目録番号:5289 諏訪神社境内の茶屋
〔画像解説〕 超高精細画像
長崎公園(通称:諏訪公園)は、明治8年(1874)内務省公布により「市民遊楽の地として、また外客の情を慰するため」旧諏訪神社宮司青木氏宅跡や安禅寺の境内を整備して長崎公園とした。公園内には、出島オランダ商館の医師ケンペル・ツンベリーの記念碑、シーボルト記念碑、写真の開祖上野彦馬の胸像など、内外の多くの先賢の記念碑が建てられている。明治大正年間には与謝野鉄幹・晶子夫妻、斉藤茂吉、若山牧水など日本を代表する文人墨客等多くの人々が訪れている。与謝野鉄幹は「長崎の円き港の青き水ナポリを見たる眼にも美し」の歌を残している。また、外国船が入港すると、車夫達は外国人を諏訪神社へ案内するのに「アイゴーユーゴースワテンプルテンセンゴー」のインスタント英語を使用したと言う。長崎市民には、諏訪神社と共に「お諏訪さん」といって親しまれている。写真の茶屋の場所は月見茶屋の下、現動物園の所か?。

■ 確認結果

長崎公園(通称:諏訪公園)園内の「月見茶屋」とされる4作品。
まず、1枚目の目録番号: 991「諏訪公園月見茶屋(1)」。明治18年、開業直後の「月見茶屋」の写真と思われるのは、名物「ぼた餅」の暖簾や、建物の現在もこじんまりした造りなどから、間違いないようだ。

2枚目の目録番号:4908「諏訪公園月見茶屋(2)」。中央右側に写る大木を、現在も残るマキの木と見ると、現在の「月見茶屋」の位置とは少し合わないようである。
奥にもう少しクスノキの大木も写ると思われる。ただし、庭園テーブル・椅子には注視。

3枚目の目録番号:5527「諏訪公園月見茶屋(3)」。明治25年から30年頃の諏訪公園。「南側の山の形から推測すると、公園の噴水付近から市街地側を見て撮影している」としている。
「月見茶屋」とされる建物は、明らかに2階建に写っている。「南側の山の形」とは、彦山ではなく、豊前坊左方の稜線と思われる。

4枚目の目録番号:5289「諏訪神社境内の茶屋」。超高精細画像の画像解説では、「写真の茶屋の場所は月見茶屋の下、現動物園の所か?」としている。4枚目は、実は3枚目と同じ場所の拡大写真。東屋・人物は同じである。庭園テーブル・椅子は、2枚目と同じようである。

以上、「月見茶屋」とされる4作品を、並べて比較すると疑問点がある。現地で確認した限り、3枚目の目録番号:5527「諏訪公園月見茶屋(3)」と、4枚目の目録番号:5289「諏訪神社境内の茶屋」は、現在の月見茶屋の場所でなく、一段下の動物園にあった別の建物と東屋を写しているように感じた。現在の月見茶屋主人に聞いたが、昔の茶屋のことはわからなかった。
長崎大学において、詳しい検証をお願いしたい。

長崎の古写真考 目録番号:6202 A.J.ボードイン他4名 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6202 A.J.ボードイン他4名 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6202 A.J.ボードイン他4名

目録番号:6290 ボードイン兄弟と甥のロイトル

目録番号:6291 D.ファン・ポールスブルック公使

目録番号:6292 出島スタジオのコロエス

目録番号:6296 出島で撮影された英国軍人
〔画像解説〕
イギリスの海軍将校です。椅子の形状から撮影場所は出島です。ボードイン博士が撮影したようです。腰にサーベルをつけ、机上には双眼鏡が置かれています。

■ 確認結果

いずれも〔撮影地域:未詳〕となっているが、撮影場所は「出島スタジオ」や庭園。〔撮影地域:長崎〕になると思われる。
スタジオの造り、テーブル、椅子が同じ物のように見える。

なお、目録番号:6296「出島で撮影された英国軍人」は、慶應義塾大学 高橋信一教授HP「教育の原点を考える」2008年12月の記事 ”朝日新聞社刊「写真集 甦る幕末」の再評価”が、この作品を次のとおり取り上げている。

No.197 
197 ボクサー英国レイホーク艦長
この写真はキューパー提督の写真ではない。写真No.250の合成写真を参照すれば、レイホース艦長のボクサー提督であることが分かる。

掲載を略したが、目録番号:6679「戸塚文海(前列右)他2名」にも、同じテーブルが写っている。

長崎の古写真考 目録番号:3424 雨の日の日本人の衣装

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3424 雨の日の日本人の衣装

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3424 雨の日の日本人の衣装

目録番号:5295 大波止沿岸
〔画像解説〕 
出島の西端から江戸町・大波止から大黒町方面を撮影した写真である。撮影年代は明治初期である。極めて鮮明な写真である。目録番号3237(整理番号66-18)の写真とほぼ同じ角度から撮影しているが、江戸町の海岸線により接近した写真になっている。出島の石垣と江戸町護岸の間に水路があるが、この水路が江戸時代から出島と本土を隔絶していた水路である。明治18年(1885)から始まる長崎港改修事業では、約18m出島側が掘削されて、ここが中島川の河口になる所である。対岸の石垣は、長崎市街の西端の沿岸部分である。長崎市街地の背骨にあたる長崎県庁のある丘の西側の沿岸部は、江戸時代以来埋め立てにより、土地を拡大してきた場所である。従って、沿岸部は、写真のように石垣で護岸を形作っている。さらに、海に面した屋敷は、海から出入りできるよう、個人の波止場を持っている。沿岸の中央付近に端正な石積み護岸があり、街灯が並んでいるが、ここが大波止である。

■ 確認結果

目録番号:3424「雨の日の日本人の衣装」は、次の目録番号:5295「大波止沿岸」が同じような光景を写しており、背景の立山や金比羅山の山並みから、撮影地域は長崎となる。
目録番号:5295「大波止沿岸」の超高精細画像の解説どおり、出島の西端から江戸町・大波止から大黒町方面を撮影した写真であろう。
現在の写真は、鍋冠山山頂からの同方面の展望。

長崎の古写真考 目録番号:1249 高鉾島(8)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1249 高鉾島(8)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1249 高鉾島(8)
〔画像解説〕 超高精細画像
上野彦馬製作と思われる中型アルバムから解かれた1枚。赤の縁取りの中に花文字印刷でIsland of Pappenberg Nagasakiとキャプションがある。中央の御飯の形が高鉾島で長崎港口に位置し、古くから長崎湾に入港する目印になっていた。鎖国時代にキリシタンが処刑された殉教の島としても知られ、オランダ語のPappennberg(神父の島)という呼び方にはその意味がこめられていた。この戸町方面から望む長崎港口の写真としていろいろのアングルからのものが残されているが、この写真の撮影地点は非常に高い。戸町の大久保山(234m)の山頂から撮影したものかと思われる。右側は神崎鼻で高鉾島の後ろは石炭の高島、左は手前が香焼島とその奥は伊王島、手前長崎半島側の下には戸町に停泊している帆掛け舟の帆柱が2本見えている。このアルバムに含まれていたと推測できる他の写真などから判断して、明治12年(1879)頃の撮影である。

■ 確認結果

データベースで「高鉾島」と検索すると、48点ある。戸町側から写された作品の多くは、戸町の高台墓地から撮影され、戸町浦の入江が写る。その中でも、目録番号:1249「高鉾島(8)」は、特別なアングルの作品。戸町浦は写真左下尾根の山陰にある。
超高精細画像の解説は、「この写真の撮影地点は非常に高い。戸町の大久保山(234m)の山頂から撮影したものかと思われる」としているが、大久保山は長崎港口、女神の尾根上にあり、地理的にあり得ないだろう。

写真右下の尾根は、戸町トンネル西上の尾根である。明治34年測図国土地理院旧版地図のとおり、ここに標高112.4mのピークがあった。現在、大型マンション「アプローズ長崎南」が数棟建って、地形は極端に変わっている。戦後、砕石場もあった。
幕末までは対岸「西泊番所」とともに、長崎港警備の「戸町番所」が置かれ、境内を示す標石が残っていた。次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/5437

目録番号:1249「高鉾島(8)」は、この高台から撮影されている。ピークは一部残り、マンションの小公園となっているが、フェンスに囲まれ、六番館駐車場奥の登り口は施錠されている。
フェンスの外側から登り、現在の写真を写してきた。ここだと女神や神崎鼻、港外の高鉾島、香焼島、伊王島の位置と、海面上の高さがほぼ合うのがわかるだろう。
戸町番所境内の標石は片付けられたか、見当たらない。香焼・深堀間は埋め立てられ、三菱重工長崎造船所香焼工場の工業地帯となっている。

この作品の撮影場所は、戸町の高台墓地や鍋冠山からとはならない。星取山などの場合は、次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/2350
なお、画像解説中の「高鉾島の後ろは石炭の高島、左は手前が香焼島とその奥は伊王島」は、「高鉾島の後ろは沖ノ島と伊王島、左は手前が蔭ノ尾島とその奥は香焼島」が正しい。高島は遠く離れて確認できない。

長崎の古写真考 目録番号: 762 長崎市街の中心と梅香崎居留地

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 762 長崎市街の中心と梅香崎居留地

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 762 長崎市街の中心と梅香崎居留地
〔画像解説〕 
風頭山から長崎市街地南部を撮影した写真である。梅香崎、新地蔵から出島にかけての海岸部と長崎市市街地の中心部が撮影されている。この写真の重要な点は、梅香崎居留地の埋め立て途中が撮影されている点である。大浦居留地に連続して、梅香崎居留地の造成が終わったところである。その右の長い屋根が見える部分が新地蔵の倉庫群である。新地蔵の右に中島川の河口が見えている。中島川の右岸が築町の突端で、その右側の湾曲した倉庫群が出島である。幕末の出島が、背後から撮影されている。右端の松の木が茂った高台が、長崎奉行所の西役所である。中島川の沿線、鍛冶屋町の通り、本籠町から唐人屋敷にかけての町並みが見える。鮮明な写真であるために、詳しく調べれば、幕末における長崎市街地中心部の建物一軒一軒が特定できる。

■ 確認結果

目録番号: 762「長崎市街の中心と梅香崎居留地」は、F・ベアトが1866年(慶応2年)3月に風頭山から長崎市の中心地および出島、新地、梅香崎を遠望した写真。超高精細画像を見ると、画像解説にはないが貴重なアーチ式石橋の姿が写っている。
黄線枠内は、新地蔵所の南門、広場場側に架かり、唐人屋敷と結ばれていた石橋。幕末の「肥前長崎図」地図や、川原慶賀筆「長崎図」、長崎古今集覧名勝図絵(稿本)「新地南門より唐人屋敷荷物運図」「祭舟流図」などに描かれている。

石橋の大きな古写真は、「写真集 甦る幕末 ライデン大学写真コレクションより」朝日新聞社 1987年発行にも掲載されている。
110頁  作品 123:長崎市街風景
〔画像解説〕
手前中央に石橋があり、遠景の右に片渕町、左に諏訪神社の森、遠くに三ツ山が見える。しかし、この石橋はどこの橋か。珍しい写真である。

写真集解説が「この石橋はどこの橋か。珍しい写真である」で終わっていたのが惜しい。2010年6月5日、検証した結果を次の記事にしているので参照。
https://misakimichi.com/archives/2348
この石橋こそ、新地蔵所の南門、広場場側に架かっていたアーチ式石橋である。このたび、F・ベアトの作品でも再確認できた。
なお、最後の目録番号:1767「風頭山からの港町」は、上野彦馬撮影による明治初年の写真。新地の同石橋は架け替わっている。