長崎の古写真考 1」カテゴリーアーカイブ

長崎の古写真考 目録番号:6053 禅林寺の鐘楼堂と鎮守堂 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6053 禅林寺の鐘楼堂と鎮守堂 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6053 禅林寺の鐘楼堂と鎮守堂

目録番号:5329 深崇寺鐘楼堂(1)   関連作品 目録番号:6663 同(2)

〔画像解説〕
上野彦馬アルバム所載の1葉。深崇寺は、元和元年(1615)に創立されたという浄土真宗本願寺派の寺院である。画面右手の建物は山門の右側、庫裏に面して建つ鼓楼で、これの創建年代は不詳だが、写真に写るのは文化5年(1808)に再建されたというものであろう。重層の入母屋造で、下層は袴腰に出入口を一箇所設け、上層は四面とも白壁に花頭窓を穿っている。この建物はその後、明治20年(1887)に再建されたというが、現存する建物も窓が一部埋められていることなどを除けば、基本的に同形式を保っている。
他方、画面左手は単層、切り妻造の鐘楼である。この建物は、元禄の頃に創建され、寛政12年と安政6年(1859)、さらに下って大正6年に改築されたという。しかし現在は、鐘楼はずっと左へ移築され、鼓楼とのあいだには4区画の墓地が形成されている。その中で最も古い墓石の銘には「明治十一年(1878)八月卒」とあるので、撮影はそれ以前とみられる。

■ 確認結果

同じ建物と配置なのに、寺町の龍馬通り入口を挟んだ「禅林寺」と「深崇寺」に解説が分かれている。現在残っている鼓楼から、「深崇寺」が正しいだろう。
「禅林寺」とする古写真は、長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社刊2007年初版の25頁に掲載がある。
同解説は次のとおり。

17 禅林寺の鐘楼堂と鎮守堂   274×213
寺町の禅林寺境内の鐘楼と鎮守堂越しに立山方面を望んでいる。背景には諏訪神社の長坂を確認できる。本堂前の左側にあたる鐘楼堂は宝永2年(1705)に建立され、文化13年(1816)に改築されている。木造・本瓦葺・切妻造。宝永2年(1705)に奉納された梵鐘には漢詩が鋳込まれ、製作者安山弥兵衛、藤原国久の銘がきされていた。

同じコレクション内にあるのに突き合わせされていない。目録番号順から言っても「禅林寺」とするのは解せない。現地確認を願いたい。
背景中央のは諏訪神社の長坂である。左端にある大きな屋根の寺は解説がないが、明治45年三菱長崎造船所に炉粕町の寺地を売却、鳴滝1丁目に移転した「高林寺」と思われる。したがって立山方面ではなく、西山方面を望んだと説明した方が良い。
この古写真集の解説も疑問が多い。1月2日開館した「長崎まちなか龍馬館」で売られ、古書店でもまだ新刊扱いだった。内容を再検証してほしい。

長崎の古写真考 目録番号:5378 眼鏡橋(1) ほか (再掲)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5378 眼鏡橋(1) ほか (再掲)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。

目録番号:5378 眼鏡橋(1)   関連作品 目録番号:6662 眼鏡橋(3)

〔画像解説〕
眼鏡橋は、寛永11年(1634)旧町名の酒屋町と西古川町(現栄町-古川町)間に興福寺第2代住持である唐僧「黙子如定(もくすにょじょう)」によって架設された我が国最初の唐風石橋である。長さ23.2m、幅4.7m、橋面までの高さ5.46mで中央に束柱のあるアーチ石橋である。現在は重要文化財に指定されている。眼鏡橋の建設は、その後中島川の各通りに次々と唐風石橋が架設される契機となった。江戸の日本橋、岩国の錦帯橋とともに日本三大橋の一つに数えられている。記録によれば、正保4年(1647)の洪水で崩落し、慶安元年(1648)平戸の僧好夢が一度修築したと伝えられる。その後中島川は数度の洪水を起こしているが、橋は破損しても崩落することはなかった。昭和57年(1982)の長崎大水害では、橋のアーチ部分上部を流失するという大被害を受けたが、元の橋に復元され、今も中島川の水面に眼鏡のような双円の美しい橋影を映している。

■ 確認結果

朝日新聞長崎地域版2009年12月10日付の「長崎今昔 長大写真コレクション」に目録番号:5378「眼鏡橋(1)」の古写真が掲載された。上記の超高精細画像による解説には問題はない。新聞記事の解説内容では、後段に「後方左の高い山は彦山です」と説明を付け加えていた。

眼鏡橋を下流側から上流を向いて撮影した古写真である。東方は風頭山の稜線であり、その奥にある彦山は眼鏡橋からは見えない。古写真の背景の山は、眼鏡橋が架かる中島川の上流北方、右から武功山、そして尾根が続く最も高い山は烽火山(標高426m)、左へ下って健山となる。この記事は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2140

朝日新聞長崎総局へ解説の間違いを、12月にすぐ「烽火山」だと指摘していたところ、きよう
2010年1月7日付の「長崎今昔 長大写真コレクション」亀山社中の末尾に、青線枠のとおり訂正があった。『正しくは「三ツ山」でした』そうである。
「眼鏡橋」の少し下流の左川岸に立ち撮影した古写真。健山のまだ左奥となる「三ツ山」(帆場岳 標高505.9m)は写らない。右川岸に立ったらビルの奥に少しは確認できるだろう。この山は「三ツ山」と呼ばれるとおり、山の姿に特徴がある。

あくまで、目録番号:5378「眼鏡橋(1)」の古写真に写った「後方左の高い山」についての解説である。「三ツ山」でなく「烽火山」としてもらわないと、訂正記事にならない。
現地確認をするのだろうか。新聞社の原稿チェックもない。本ブログにより再三、苦言している。「亀山社中」の記事も参考のため掲げた。

「長崎まちなか龍馬館」 古写真の展示内容などを考える

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「長崎まちなか龍馬館」 古写真の展示内容などを考える

幕末に活躍した坂本龍馬に関する資料を集めた「長崎まちなか龍馬館」が、1月2日長崎市中心部の商店街にオープンした。浜町のベルナード観光通りにあり、坂本龍馬や幕末の長崎の歴史に関する写真や資料が数多く展示されている。
来年2月末までの開館期間中に、来館者30万人を目指すと言う。きのう、開館早々で正月休みの見学者が多い中、私も見学に行った。
古写真の展示内容などで、気付いた点の改善を要望したい。

A  HP、場所案内板など全般
(1)NHK大河ドラマが始まり、開館は人気があるのに、長崎市ホームページが対応していない。パンフレット片面はPDFで見られるが、龍馬館の場所、展示内容などまったくわからない。
(2)まちなか龍馬館は、長崎市の中心商店街浜町にあるが、中央橋バス停で降り浜町アーケード通りを大丸前まで行っても、肝心な交差点に案内板がない。左のベルナード観光通りに入ると左側に龍馬館はある。
(3)龍馬館の前を通っても、アーケードから吊り下げた幕に「長崎まちなか龍馬館」とあるだけである。左を矢印で示すか、観光通り中央に案内板を設置してもらわないと、狭い入口の建物を見過ごす。長崎の人でもわかりにくい。
(4)龍馬館入口の建物表示が、万屋町方面から来る人に向けられている。浜町アーケードの大丸側から来る人が多いと思われるので、この方向からの配慮を(2)(3)とも必要と思われる。
(5)本年は英雄編となるが、人物が政治家や実業家に片寄っている。長崎医学伝習所に貢献した松本良順など取り上げ、医学史跡も啓発するべきだろう。

B  古写真の展示内容
(1)シアター映像で、最初に「坂本龍馬、長崎に初上陸」と大きく出るが、長崎へ直接、船に乗って来たわけではない。シアター終了後、出来事の年表を見てやっとわかる。「初上陸」でなく、「長崎を初めて訪ねる」ではないだろうか。
(2)年表記事は次のとおり。「坂本龍馬、勝海舟とともに長崎初上陸!  元治元年(1864)幕府軍艦奉行並 勝海舟は、坂本龍馬、近藤長次郎などを伴い、熊本から有明海を渡って島原へ上陸、島原街道を歩いて長崎を訪れた。龍馬にとって初めての長崎。その逗留先は福済寺だった。…」
(3)「長崎奉行所立山役所跡」と「亀山社中」と思われる建物が写る古写真は、大きくパネル展示しているが、説明がまったくない。解説と解説図が必要と思われる。(前記事を参照)
(4)「星観測眼視望遠鏡」の古写真は、明治7年(1874)日本では神戸・横浜・東京とともに長崎も金星観測地点となった。その説明はあるが、金比羅山と星取山(後に改名)だったことにふれていない。望遠鏡背後に写る山は彦山。古写真は星取山で撮影されている。
(5)「浪の平から長崎港口を望む」の古写真は、手前長屋などの建物を「小曽根邸」と説明している。江崎べっ甲店の所蔵写真。大学データベースでは目録番号:5461 などに反対方向から写した写真があり、この建物は「小曾根町の三菱炭鉱社と麦粉会社。居留地末期の明治30年
(1897)頃」と解説している。
(6)「高島・小島のグラバー邸」の古写真は、「礎石と松林のみ往時を偲ばせている」と説明しているが、井戸跡や海岸の船着場から上がる石段の通路なども残っている。

C  「長崎龍馬の道」地図 (地図左部から説明)
(1)アーチ式石橋が残る長崎街道の「一の瀬橋」「古橋」「大手橋」の表示がない。
(2)「大田蜀山人歌碑」は、「諏訪神社境内」とは別に、長崎公園の方の池横にも蛍茶屋から移設した歌碑がある。
(3)「↓カトリック中町教会、日本二十六聖人殉教地、サン・ジョアン・パプチスタ教会跡」と、「↓迎陽亭跡、聖福寺、永昌寺・西勝寺」の位置表示が逆となっている。
(4)勝海舟・坂本龍馬の逗留先、「本蓮寺」及び「福済寺」の位置表示は、必ず必要と思われる。
(5)「芊原橋」は、「芊原(すすきはら)橋」とかな表示もしてほしい。
(6)「大浦川」の川幅を太くし、「弁天橋」や「松が枝橋」を表示した方が良い。
(7)石橋電停近く「ジョイフルサン」の建物描き方が合わない。大浦川のこの通り名は「石橋通り」と呼ぶのだろうか。

ボードイン・コレクション、 7月10日国登録有形文化財に

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ボードイン・コレクション、7月10日国登録有形文化財に

長崎大学附属図書館(長崎市)が所蔵する、オランダ人医師アントニウス・ボードイン(1820〜85年)が日本で収集した江戸末期〜明治初期の古写真「ボードイン・コレクション」が3月19日、国の登録文化財として文化審議会から答申された。6月くらいに国の登録となる予定だと、前に新聞記事により伝えていた。 https://misakimichi.com/archives/1669

その後、登録はどうなったのだろうと思っていたところ、朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」が、2009年12月朝日出版から発行された。序章11頁の文中に「このボードイン・コレクション528点は、2008年に国の登録有形文化財に指定されました」とある。
「2008年」は、明らかに「2009年」の間違い。

HP「国指定文化財等 データベース」を見ると、次のとおり「主名称:ボードイン収集紙焼付写真」は、2009年7月10日、国の登録有形文化財(美術工芸品)となっていた。
新聞・テレビでその後の登録の報道はあまりなかったようだし、長崎大学・長崎県・長崎市の広報も、HP上では今見かけない。

長崎大学附属図書館が所蔵する「幕末・明治期日本古写真」は、文部省科学調査研究費の補助を受け構築したデータベースである。このような内容で全国に公開されていると、今後も見る人・利用する人に多くの迷惑をかけると思われる。
国の登録有形文化財となったので、大学関係者へさらに一層の研究と整備をお願いしたい。

国指定文化財等   登録有形文化財(美術工芸品)

主名称: ボードイン収集紙焼付写真
登録番号: 5
枝番: 0
登録年月日: 2009.07.10(平成21.07.10)
部門・種別: 歴史資料
ト書:
員数: 528点
時代区分: 江戸〜明治
年代:
検索年代:

解説文: 幕末から明治初頭に日本に滞在し、医学教育に努めたオランダ人医師アントニウス・F・ボードイン(Antonius Franciscus Bauduin 1820-1885)と、貿易会社社員であり、のちに領事を兼任したその弟アルベルト・J・ボードイン(Albertus Johannes Bauduin 1829-1890)が収集した写真である。
アントニウス・F・ボードインは、オランダに生まれ、同国で医学を学び、陸軍医学校の教官を勤めた。既に出島に居留していた末弟のアルベルト・J・ボードインの薦めもあり、文久2年(1862)、ポンペの後任として長崎の養生所で教鞭をとるため来日した。また、その後も大阪仮病院や大阪陸軍病院、大学東校においても教鞭をとり、明治3年(1870)帰国している。
アルベルト・J・ボードインはオランダ貿易会社社員として安政5年(1858)に来日し、のちに駐日オランダ領事も兼任した。明治7年の帰国後、1875年に駐蘭日本公使館書記官となり、1884年には同一等書記官として勲四等旭日章を授与されるなど、長く日本との関係を保っている。
本写真は、彼らが主に日本滞在中に収集・撮影したもので、数枚を除き、銀襴の表紙を施した3冊の和装大判アルバムと、クロス貼りに革背表紙の洋装小判アルバム1冊に貼りこまれている。
これらの写真はコロジオン湿板法により撮影され、主に鶏卵紙に印画されており、和装アルバム3冊は、パノラマ写真や四つ切判の大型写真から、縦15㎝横10㎝程の小型の写真までからなり、洋装アルバムには名刺判大のものが収められている。
3冊の和装アルバムには、開港直後の日本の記録を残したことで著名な写真家ベアト(Felice Beato)の撮影した写真が数多く収められている。ベアトはスタジオを構えた横浜を中心に、鎌倉・江戸・神奈川・大坂・長崎等各地で撮影しており、当該アルバム内の写真にも、これらの地の風景・風俗が記録されている。また、上野彦馬や堀與兵衛、中川信輔など、草創期の日本人写真家の撮影した写真も含まれる。また、これらの和装アルバムには、アントニウス自身が長崎で撮影した写真も認められ、兄が時々風景等を撮影していたことを伝える弟アルベルトの書簡がこれを裏付けている。
なお、和装アルバムに収められた写真、長崎で撮影されたものが最も多く、風景・風俗、ボードイン兄弟や知人の肖像、記念写真等も収められ、居留外国人の生活の一端を伝えている。また、鎌倉事件、生麦事件など攘夷事件の現場や下関戦争の写真、ベアトとスタジオを共同経営した画家ワーグマン(Charles Wirgman)が描いたこれらの事件や戦争のスケッチを複写した写真も収められている。
洋装アルバムは、前半に明治初頭の日本の政府要人の肖像写真であり、後半は洋風建築の官公庁や日本各地の景勝地の写真で構成され、中には複写を重ねたものも含まれる。各写真には被写体名を墨書した小紙片が添えられており、日本人の関与を窺わせる。また、明治11年竣工の陸軍省の写真が含まれており、この洋装アルバムが兄弟の帰国後に成立し、その後に兄弟が入手したものと推測される。
二人の没後、収集された写真は彼らの兄弟である第八子のドミニクス(Dominicus Franciscus Antonius Bauduin)の子孫に伝えられ、そのうち528点が平成19〜20年に長崎大学に譲渡された。長崎大学ではこれらの全てデータベース化して公開するなど、保存・公開の体制を整えている。
本件写真は、幕末・明治初頭の日本の姿と居留外国人の有様とを伝えるまとまった写真コレクションであり、写真史上・文化史上に資料価値が認められる。

長崎の古写真考 目録番号:5378 眼鏡橋(1)ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5378 眼鏡橋(1)ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。

目録番号:5378 眼鏡橋(1)

〔画像解説〕
眼鏡橋は、寛永11年(1634)旧町名の酒屋町と西古川町(現栄町-古川町)間に興福寺第2代住持である唐僧「黙子如定(もくすにょじょう)」によって架設された我が国最初の唐風石橋である。長さ23.2m、幅4.7m、橋面までの高さ5.46mで中央に束柱のあるアーチ石橋である。現在は重要文化財に指定されている。眼鏡橋の建設は、その後中島川の各通りに次々と唐風石橋が架設される契機となった。江戸の日本橋、岩国の錦帯橋とともに日本三大橋の一つに数えられている。記録によれば、正保4年(1647)の洪水で崩落し、慶安元年(1648)平戸の僧好夢が一度修築したと伝えられる。その後中島川は数度の洪水を起こしているが、橋は破損しても崩落することはなかった。昭和57年(1982)の長崎大水害では、橋のアーチ部分上部を流失するという大被害を受けたが、元の橋に復元され、今も中島川の水面に眼鏡のような双円の美しい橋影を映している。

目録番号:6662 眼鏡橋(3)

■確認結果

きよう朝日新聞長崎地域版2009年12月10日付の「長崎今昔 長大写真コレクション」に目録番号:5378「眼鏡橋(1)」の古写真が掲載された。上記の超高精細画像による解説には問題はない。ところで新聞記事の解説内容である。後段に「後方左の高い山は彦山です」と説明を付け加えている。

目録番号:5378「眼鏡橋(1)」と目録番号:6662「眼鏡橋(3)」の背景の山を見てもらいたい。眼鏡橋を下流側から上流を向いて撮影した古写真である。東方は風頭山の稜線であり、その奥にある彦山は眼鏡橋からは見えない。

古写真の背景の山は、眼鏡橋が架かる中島川の上流北方、右から武功山、そして尾根が続く最も高い山は烽火山(標高426m)、左へ下って健山と思われる。
新聞記事とするなら、現地確認を再三、お願いしているが、どうしたことだろうか。
満潮時の水深は、すぐ上流に魚市橋の名が残る最初の時代の魚市があったし、桃渓橋近く二股の所まであって、船の写真が写っている。(二股と桃渓橋 目録番号:6050 上野彦馬撮影)

長崎の古写真考 目録番号:5381 長崎湾口の集落(再掲)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5381 長崎湾口の集落(再掲)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
目録番号:5381「長崎湾口の集落」の以前の記事は次を参照。
https://misakimichi.com/archives/1874

朝日新聞長崎地域版2009年11月5日付の「長崎今昔 長大写真コレクション」にこの古写真が掲載された。タイトルは「幕末の茂木海岸 船ひしめく漁業の町」と変えられ、解説されている。
後段には「この写真の場所はしばらく不明でしたが、ネットを通じて郷土史家の方から情報を提供していただきました」とある。私は連絡などしないし、郷土史家でもないが、私のブログ上での指摘が、いくらかでも大学側の目にとまって、反映されてはいるようだ。

ところで新聞記事の解説内容である。「右の白壁の大きな家は1665年に設けられた浦見番所で、海の警備と問屋を兼ねていました」だろうか。
古写真の撮影場所は、現在の若菜川を弁天橋で渡ったSマート先にある茂木郵便局前あたり(長崎代官村山等安別邸跡。後に茂木村庄屋宅、そして道永エイの茂木長崎ホテル、ビーチホテルとなる)から、若菜川河口対岸となる茂木集落の方(現在の茂木バス停方面、今も旧通りに商家・倉庫跡が残る)を写したものである。
浦見番所があったのは、弁天崎の現在の茂木郵便局次の、石垣囲いの広い屋敷(現伊達木宅)がある所であるから、場所的に写ることはありえない。
浦見番所は治安・行政を司どるため設けられた。屋敷の裏山は弁天山になる。

次に古写真の茂木集落「背後の山は悪所岳方面」ともならない。悪所岳(標高506m)は宮摺のまだ南にある山で、撮影場所から悪所岳までは見えない。
以前の記事に書いているとおり、この山は茂木の山間部「峠」集落あたりの山であろう。わかりやすく説明するなら、「現在の市民の森方面」とした方が良いのではないだろうか。
先週10月29日付記事「樺島のにぎわい」で、「前方は長崎半島先端の遠見山方向に当たります」も、正しくは前方中央の山は「殿隠山」、左に山半分写っているのが「遠見山」となろう。

長崎の古写真考 目録番号:5204 大浦川両岸の町並み(1) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5204 大浦川両岸の町並み(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5204 大浦川両岸の町並み(1)
〔画像解説〕
明治後期から大正期(1890〜1920)の手彩色の絵葉書。弁天橋上流から、大浦川両岸の見たもの。右岸の大浦地区、左岸の下がり松地区の家並みと沿道が良く分かる。大浦川には運搬用の船と、屋根が付いた艀がたくさん並んでいる。

目録番号:5205 大浦川両岸の町並み(2)

目録番号:5318 大浦川と居留地(1)
〔画像解説〕 超高精細画像
目録番号5296(整理番号102-2),目録番号5299(整理番号102-5)と同じく上野彦馬アルバムに収載されORAと鉛筆書きがある。明治6年(1873)頃の撮影。大浦川口から上流の川上町外国人墓地を望む。右手左岸は右端の洋館が下り松40番の雑貨商のレーキ商会。その横の入母屋造りは洋館で37番旧エキスプレスの後部で、その横の二階建て2棟は36番のホテルとロンドン居酒屋。川幅が狭まる場所の、白壁の家が35番のニュー・クラブハウス(ボウリング・玉突き場)である。その上の外国人墓地には墓石が相当に詰まっている。左側右岸は手前から大浦14、15番(空き地)で、道を挟んで大浦29-31番と続く。この一帯はグラバー商会かオルト商会の貸地として又貸しされていた。左手丘上の家屋は旧大浦郷の日本人集落である。街路に設置されたガス灯は新しいが、左手建物の外塀はかなり傷んでいる。街路には人力車用の舗装が見える。左奥の寄棟造り大浦31番の洋館には新しい看板が掛けられている。

■ 確認結果

大浦川の「弁天橋」を上流からと下流から見た古写真。1枚目の目録番号:5204「大浦川両岸の町並み(1)」の写真説明では、「弁天橋上流から、大浦川両岸の見たもの」としているが、撮影場所が具体的でない。
同じ写真は、長崎市教育委員会「長崎古写真集 居留地編」平成15年刊第3版の76頁に掲載があり、143頁の図版解説は次のとおり。

60 大浦川端〔彩色絵葉書〕              神戸市立博物館所蔵
大浦川の上流側から下流部をみたもの。右岸には写真−57にみえた大浦14番の入母屋造と13番の1棟、そして12番か11番Aの1棟がみえる。左岸側もぎっしりと2階建ての洋館が建て込んでいるが、その多くは外国人向けのバーやホテルであった。すでに街灯はなく、両岸とも道路には電柱が並んでいる。年代の決め手はないが、明治40年頃の風景であろう。

川下に写るのが「弁天橋」で、下流に「松ヶ枝橋」も確認できる。背景の山は、左から尾根が下り、対岸の稲佐山尾根の一部である。現在の写真で岩屋山の山頂部が飛び出たが、これはカメラの位置により消える。
撮影場所は、「大浦橋」(石橋)からでは遠すぎ、その手前、現在「下大浦橋」が架かっている左側岸36番前の川沿い道路角地あたりからではないだろうか。「弁天橋」や「松ヶ枝橋」、背景の山の簡単な説明も必要と思われる。

2枚目の目録番号:5205「大浦川両岸の町並み(2)」は、1枚目とは逆に河口下流「松ヶ枝橋」から上流「弁天橋」を撮影したもの。背景の山は、右から下る尾根は星取山尾根、奥は唐八景である。この古写真では、尾根の境がわかりにくいので、3枚目の目録番号:5318「大浦川と居留地(1)」を参考のため掲げた。

なお、3枚目の目録番号:5318「大浦川と居留地(1)」は、撮影場所を「大浦川口から上流の川上町外国人墓地を望む」としているが、「弁天橋」の中央から撮影しているので、解説を正しくしてほしい。

長崎の古写真考 目録番号:2877 長崎福田海岸の洞窟(1) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:2877 長崎福田海岸の洞窟(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:2877 長崎福田海岸の洞窟(1)
〔画像解説〕
明治中期。長崎市の福田海岸にあった洞窟。当時は観光にも使われていたようで、観光客らしい人物が洞窟を遠望し、洞窟には洞内の見学船と思われる小船が接近している。

目録番号:5629 長崎福田海岸の洞窟(2)

■ 確認結果

解説に「明治中期。長崎市の福田海岸にあった洞窟。当時は観光にも使われていたよう」とある。2枚は同じ写真。(2)も鮮明なため掲げた。何も問題はない古写真であるが、福田崎の海岸洞窟を確認しておきたかった。3回訪ねてやっと辿り着いた。
前回、途中の海岸岩場で見つけた「長崎要塞第二地帯標」は、次の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/1905

福田「ゴルフ場入口」バス停から100mほど戻り、右下へ行く釣り道の山道に入り、10分谷間を下ると海岸へ出る。これからが大変である。丸石の浜や危険な岩場をロープなどで3回越し、海岸伝いにさらに50分歩いてやっと着く。往復3時間は要する。大潮の時しか出かけられず、危険極まりない。釣り場には式見から瀬渡し船が出る。

古写真で言うと、洞窟の左側海岸を歩いて行ったので、洞窟の横からしか眺められず、中まで全体を見ることができなかった。人が座っている岩は離れ瀬。古写真は手前に岩が写るとおり、船上から撮影されたものではない。沖の島は伊王島や式見の神楽島。崖上は昔、採石場だった。

なお、洞窟とは関係ないが、この辺りの海を舞台に、高橋治氏の小説「秘伝」(直木賞受賞)講談社昭和59年2月刊がある。式見と茂木に住む2人の名人釣り師が怪魚に挑む!物語。24〜25頁は次のとおり。

…岸浪が再びエンジンをしぼったのは、出て来た式見の港を左に見て、更に三十分ほど南に下った地点だった。入江の様が複雑になり、切り立った崖が海に落ちこんでいる。その崖が近々と見える。
永淵はこの辺の海を知らない。だが、長年の経験で、陸の形と海水の色を見れば、大体、海底の見当はつく。恐らく断崖の底は二段か三段に落ちこんで、その先がガクンと深くなっている。永淵はそう思った。
”鯛の根ではないな”
一体、なにを釣らす気でいるのか。永淵には見当もつかなかった。
”崖の張り出しを狙うのか”
それにしても、そうした場所に群れる魚は余り大きくない。大きくない上に群を作る。数を狙う道楽の釣ならそれでも良いが、永淵が岸浪を訪ねて、二人でやる釣にしては、似つかわしいものではない。
岸浪はしぼったままのエンジンで大きく弧を描くと、慎重に山を合わせた。左を見て、前景の崖の線なり、これと自分がきめている木の線なりを、遠景の山の凹凸に重ねる。そうしながら右側を確かめる。更に念を入れて前方の山を合わせた。
潮の流れは原則的には永淵が普段釣る長崎半島の先端野母崎の辺と変らない。対馬海流が南から押している。五月ともなれば、それはかなり陸に近づいている。当然、陸に近いほど反流を呼ぶ。
岸浪はその反流に船を乗せようとしている。船を北に向けた。
永淵は初めてのことなので、岸浪のすることを見ているばかりである。ただ、油断なく眼は配っていた。…

長崎の古写真考 目録番号:5385 大浦川と居留地(2)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5385 大浦川と居留地(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5385 大浦川と居留地(2)
〔画像解説〕
ベアト大型アルバムの1枚でShelter Creek Nagasaki Harbour(長崎港の避難運河)とペン書き。上野彦馬が明治6年(1873)頃撮影した目録番号5318(整理番号102-24)と同じアングルで、大浦川下から上流を望むが、時期は10年ほど遡る。1864−6年(元治元-慶応2)頃 F・ベアトがこれを撮影した。比較で建物の変遷が判る。右左岸手前の2階建は当時空家であった蘭人J.ブロイニール所有の洋館。順に38番はスミス船具商で、37番の洋館にはExpressの看板が出ている。36番はLondon HotelおよびBoard of Trade Hotel、突き当たり正面の看板はNew Amsterdam Hotelと読めるが、これは奥34番の看板である。35番はニュー・クラブ・ハウス(ボーリング・玉突き場)。左側手前から大浦14(オルトの貸地)、15番(グラバーの借地)、白壁は29番で、ともに清号の華僑が入居。その奥は30番(グラバーの貸地)と続く。山の中腹の川上町外国人墓地にはまだ墓石が少ない。

■ 確認結果

大浦川を弁天橋の橋上から上流を撮影した古写真。撮影年代や撮影者の違いがある写真は数枚ある。目録番号:5385「大浦川と居留地(2)」と同じ写真が、2009年8月6日付朝日新聞長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」に載った。

同じ写真なのに、上記の画像解説と新聞記事の説明内容が、特に右側左岸の建物について違う。それぞれ解説者の見解や、新しく判明したことで、内容が異なってくる事情はわかるが、読む人は困惑する。せめて、旗ざおが立つ38番の建物が、「スミス船具商」か「プロイセンの領事館」か。正しい方の説明をしてほしい。

後ろの写真は、大浦天主堂下電停そばの現在の「弁天橋」と、松が枝橋脇にある大浦川の説明板。

長崎の古写真考 目録番号:4806 南山手からの大浦居留地(4) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4806 南山手からの大浦居留地(4) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、目録番号の順は不同である。

目録番号:4806 南山手からの大浦居留地(4)
〔画像解説〕
ファサリ商会と思われる蒔絵大型アルバム長崎特集の1枚でB218 VIEW,NAGASAKIと印字。南山手26番から大浦および東山手を展望している。中央の大浦32番Aには明治26年(1893)10月新築の孔子廟が見える。アルバムに収載されたほかの写真から明治32年(1899)頃の撮影である。手前の寄棟造りの和風洋館は右から下り松36−40番の外国人バー街。孔子廟の右後ろ3棟は現在復元された「東山手洋館7棟」。右手上ピンクの洋館は東山学院(旧イギリス領事館)、その上の煉瓦造り二階建て一部地階の白い建物は明治31年(1898)フランス人修道士セネンツの設計で完成した海星学校。正面奥にはラッセル館の屋根が見える。その左横の大屋根は東山手12番のアメリカ領事館。その前の高台の家は大浦33番Cのローレイ製茶所。手前大浦川を挟んだ対岸は大浦角から右に29番(H・ホー商会)と30番(外国人バー)、角から左に15,14番(外国人のバー)にあたる。

目録番号:6063 大浦川中流域から東山手を望む
目録番号:6148 東山手の画像

■確認結果

大浦川の方から大浦居留地や東山手を展望した3枚の古写真。撮影年代、撮影者は違うようだが、大浦川から東山手へ向いた広い通りは同じ道路である。1枚目には孔子廟が中央右にあり、後ろには現在復元された3棟が並ぶ。通りの右奥にはラッセル館が写っている。
現在の孔子廟やNTT西日本病院前の通りのようだ。背景の山は左から金比羅山、三ツ山、健山、烽火山、海星学園の右に覗くのは英彦山となる。

撮影場所は、1枚目の画像解説は「南山手26番」。3枚のこの通りの向き、高度感を比較すると、1枚目は必ずしもそうとは感じらないところがある。
撮影場所は、妙行寺山門前から相生町へ至る道。妙行寺の次に大浦諏訪神社がある。次が間に現南山手レストハウスに登る坂道を挟んで、その先の居留地が「南山手26番」。道向かい下側に同枝番もある。

データベース上の長崎大学附属図書館作成「長崎居留地の敷分割図」を掲げ、3枚の古写真の撮影場所推測地点を示した。「敷分割図」は現況と少しズレがある。
1枚目の目録番号:4806「南山手からの大浦居留地(4)」は、通りが右下がりとなり、大浦諏訪神社の境内上部社殿あたりから撮影されていると思われる。高度があり、写真下部に写っているのは、神社の縁石ではないだろうか。
2枚目の目録番号:6063「大浦川中流域から東山手を望む」は、通りがまっすぐに写り、これが通りの右線延長線上の「南山手26番」前の道から撮影されていると思われる。通りが近くに広く写っている。
3枚目の目録番号:6148「東山手の画像」は、通りが左下がりとなり、現南山手レストハウスへ登る坂道の途中から撮影されていると思われる。高度があり「南山手26番」の背後のまだ左側山手であろう。

一帯は高いビルや宅地化が進み、孔子廟前の通り、背景の山並み、長崎港湾奥が見えなくなっている。3枚の撮影場所はあくまで推測である。大学関係者によって現地確認をお願いしたい。
現在の写真は、かろうじて景色が見え、景色が写せる大浦諏訪神社、及び妙行寺の場合を参考写真として載せた。