長崎の古写真考 目録番号:5378 眼鏡橋(1) ほか (再掲)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5378 眼鏡橋(1) ほか (再掲)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。

目録番号:5378 眼鏡橋(1)   関連作品 目録番号:6662 眼鏡橋(3)

〔画像解説〕
眼鏡橋は、寛永11年(1634)旧町名の酒屋町と西古川町(現栄町-古川町)間に興福寺第2代住持である唐僧「黙子如定(もくすにょじょう)」によって架設された我が国最初の唐風石橋である。長さ23.2m、幅4.7m、橋面までの高さ5.46mで中央に束柱のあるアーチ石橋である。現在は重要文化財に指定されている。眼鏡橋の建設は、その後中島川の各通りに次々と唐風石橋が架設される契機となった。江戸の日本橋、岩国の錦帯橋とともに日本三大橋の一つに数えられている。記録によれば、正保4年(1647)の洪水で崩落し、慶安元年(1648)平戸の僧好夢が一度修築したと伝えられる。その後中島川は数度の洪水を起こしているが、橋は破損しても崩落することはなかった。昭和57年(1982)の長崎大水害では、橋のアーチ部分上部を流失するという大被害を受けたが、元の橋に復元され、今も中島川の水面に眼鏡のような双円の美しい橋影を映している。

■ 確認結果

朝日新聞長崎地域版2009年12月10日付の「長崎今昔 長大写真コレクション」に目録番号:5378「眼鏡橋(1)」の古写真が掲載された。上記の超高精細画像による解説には問題はない。新聞記事の解説内容では、後段に「後方左の高い山は彦山です」と説明を付け加えていた。

眼鏡橋を下流側から上流を向いて撮影した古写真である。東方は風頭山の稜線であり、その奥にある彦山は眼鏡橋からは見えない。古写真の背景の山は、眼鏡橋が架かる中島川の上流北方、右から武功山、そして尾根が続く最も高い山は烽火山(標高426m)、左へ下って健山となる。この記事は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2140

朝日新聞長崎総局へ解説の間違いを、12月にすぐ「烽火山」だと指摘していたところ、きよう
2010年1月7日付の「長崎今昔 長大写真コレクション」亀山社中の末尾に、青線枠のとおり訂正があった。『正しくは「三ツ山」でした』そうである。
「眼鏡橋」の少し下流の左川岸に立ち撮影した古写真。健山のまだ左奥となる「三ツ山」(帆場岳 標高505.9m)は写らない。右川岸に立ったらビルの奥に少しは確認できるだろう。この山は「三ツ山」と呼ばれるとおり、山の姿に特徴がある。

あくまで、目録番号:5378「眼鏡橋(1)」の古写真に写った「後方左の高い山」についての解説である。「三ツ山」でなく「烽火山」としてもらわないと、訂正記事にならない。
現地確認をするのだろうか。新聞社の原稿チェックもない。本ブログにより再三、苦言している。「亀山社中」の記事も参考のため掲げた。