長崎の古写真考 2」カテゴリーアーカイブ

長崎の古写真考 彦馬の世界 160P 旧長崎奉行所と師範学校

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長崎の幕末・明治期古写真考 彦馬の世界 160P 旧長崎奉行所と師範学校

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

上野彦馬の世界 160P 旧長崎奉行所と師範学校 (長崎大学附属図書館蔵)
撮影年代未詳。鶏卵紙。写真中央左は立山の旧長崎奉行所(旧長崎奉行所は西と立山の2か所あった)、その右は明治7年(1874)に新築されたばかりの長崎官立師範学校の建物である。長崎奉行所の原型を写す写真は珍しい。長崎官立師範学校の右上背景の山の中腹の中に坂本龍馬で有名な亀山社中が写っていることが研究者により確認されたといわれる。

目録番号: 6030 旧長崎奉行所と師範学校

■ 確認結果

上野彦馬の古写真集「レンズが撮らえた 幕末の写真師 上野彦馬の世界」が、山川出版社から2012年8月発行されている。
160P「旧長崎奉行所と師範学校」の解説には、別に問題はない。ただ、「長崎官立師範学校の右上背景の山の中腹の中に坂本龍馬で有名な亀山社中が写っていることが研究者により確認されたといわれる」とは、次のような経過がある。

この項は、本ブログ次の記事を参照。疑問に思うのは、作品の撮影場所である。
朝日選書  84P写真  30 「亀山社中」はどこから撮影されたか
https://misakimichi.com/archives/2158
長崎大学データベースでは、目録番号: 6030「旧長崎奉行所と師範学校」の作品。

朝日新聞や朝日選書によると、長崎居留地研究会の研究は、「現在の長崎市玉園町の丘の中腹から撮影したとみられる。…写真の中から旧長崎奉行所の堀の位置や山の稜線を目印に撮影場所を特定した」とし、撮影場所を「玉園墓地」(永昌寺墓地か)からとしている。
長崎歴史文化研究所もこの場所で納得しているようだが、古写真の玉園町の家並みの状況と、奉行所からの距離を考えると、まったくの誤認ではないか。遠くの寺名も見誤っている。

私が撮影した場所は具体的には、「聖福寺」大雄宝殿の背後、開山老和尚(鉄心)塔所がある石段の入口あたりの道。全体の景色はこの場所からしか今は写せない。
理由は、URL記事にしたとおり。民家が墓地となることはない。上野彦馬が重い撮影器材を持ち、何も玉園墓地の上まで登る必要はない。撮影しやすいところで写せる。

長崎の古写真考 彦馬の世界 153P 飽の浦恵美須神社

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長崎の幕末・明治期古写真考 彦馬の世界 153P 飽の浦恵美須神社

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

上野彦馬の世界 153P 飽の浦恵美須神社 (長崎大学附属図書館蔵)
明治10年(1877)頃撮影。鶏卵紙。対岸側は出島で、これと同じアングルで明治5年(1872)に内田九一が撮影している。写真の左側に飽の浦町の集落、対岸は長崎市街中心部の海岸線である。左側の山は金比羅山・立山である。現在は海岸線は埋め立てられ、写真でのみ当時をうかがうことができる。

目録番号: 5312 飽の浦恵美須神社(6)
〔画像解説〕
明治10年(1876 「1877」が正)頃、長崎の稲佐にあった飽の浦神社(恵美須神社)を撮影したもので、同じアングルで明治5年(1872)天皇巡幸に随行した内田九一が撮影しているが、比べてみるとこの写真では神社横の民家の屋根が壊れている。社屋は消滅しているが神社は現存している。

■ 確認結果

上野彦馬の古写真集「レンズが撮らえた 幕末の写真師 上野彦馬の世界」が、山川出版社から2012年8月発行されている。
153P「飽の浦恵美須神社」は、内田九一の作品とされる解説を参考に記している。両作品ともこのカメラの方向では、出島や梅香崎までは写らないので、「対岸側は出島」とはならない。
風頭山すらまだ写真の右外だから、対岸は大黒町・五島町・大波止あたりまでであろう。

飽の浦恵美須神社の左右が「飽の浦町」の集落。主な集落は右側。左は当時「瀬の脇」といった。左奥に水の浦、そして大鳥崎、稲佐崎があった。
長崎大学データベースでは、目録番号: 5312「飽の浦恵美須神社(6)」の作品。
この項は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2833
丸尾海岸の埋め立て状況と年代、内田九一とされる天皇巡幸の際の作品撮影者は、まだ研究の必要があり、東京の先生など現在、調査中。

長崎の古写真考 彦馬の世界 141P 中島川と桃渓橋

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長崎の幕末・明治期古写真考 彦馬の世界 141P 中島川と桃渓橋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

上野彦馬の世界 141P 中島川と桃渓橋 (長崎大学附属図書館蔵)
明治中期撮影。鶏卵紙。
長崎市を流れる中島川(二股川)の左右からの川の合流点、桃渓橋付近の風景を撮影したものである。写真左奥から三つ山、健山(たてやま)、烽火山が見える。また、その山の下の茂った樹木のあたりが伊勢宮神社の楠である。写真左手前より白壁の蔵、唐船海上祈願灯、松の木、不動明王堂、桃渓橋と続き148ページの写真を引いた撮影である。

目録番号:5305 中島川と桃渓橋(2)
〔画像解説〕
二股川(中島川)桃渓橋付近の風景である。現在は一般に中島川と呼ばれている。写真の右側樹木手前のところが日見峠方面からの川、銭屋川(中島川)との合流地点である。桃渓橋は堂門川に延宝7年(1679)永島仁左衛門こと僧ト意が出来大工町に架けた長さ12.4m、幅3.4mのアーチ石橋である。大井手橋の上から中島川二股を撮影したものである。写真中央の奥には健山(たてやま),その左側奥に三つ山,右側に烽火山への稜線が見える。また、右側人家後ろの樹木は、伊勢宮神社の楠の大木である。堂門川(中島川)と銭屋川(中島川)の合流点角の岸には川へ下りる階段が設けられている。目録番号2130及び4804(整理番号47-33及び95-3)より古い写真である。写真左側には、手前から白壁の蔵,唐船海上安全祈願灯,松の大木,不動明王堂等が見え、江戸時代の名残を止めている。

■ 確認結果

上野彦馬の古写真集「レンズが撮らえた 幕末の写真師 上野彦馬の世界」が、山川出版社から2012年8月発行されている。
141P「中島川と桃渓橋」は、撮影場所の説明を具体的に、「…148ページの写真を引いた下流「大井手橋」上からの撮影である。」とかならないだろうか。
背景の山は、右に「烽火山」の山頂までは写っていない。

長崎大学データベースでは、目録番号:5305「中島川と桃渓橋(2)」の作品。
現在の写真は本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2455

長崎の古写真考 彦馬の世界 27P 長崎高島炭鉱 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 彦馬の世界 27P 長崎高島炭鉱 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

上野彦馬の世界 27P 長崎高島炭鉱 (日本大学芸術学部蔵)
明治初期撮影。鶏卵紙。

上野彦馬の世界 27P 長崎高島炭鉱・二子坑 (日本大学芸術学部蔵)
明治初期撮影。鶏卵紙。

目録番号:2415 高島炭鉱南洋井坑

■ 確認結果

上野彦馬の古写真集「レンズが撮らえた 幕末の写真師 上野彦馬の世界」が、山川出版社から2012年8月発行されている。
27P上「長崎高島炭鉱」は、高島炭鉱でも、「尾浜坑」の明治20年頃の積み出し港の風景。
27P下「長崎高島炭鉱・二子坑」は、「二子坑」ではなく、「南洋井坑」の立坑の風景である。
長崎大学データベースでは、目録番号:2415に「高島炭鉱南洋井坑」としてある。

長崎市高島町「石炭資料館」展示の説明パネルと、現地の確認写真を載せる。
古写真所蔵の日本大学芸術学部と写真集の監修者は、正しく解説していただかないと、地元は困る。次HPも参照。
http://wing.zero.ad.jp/~zbc54213/takasima-tankoo01.html
http://www1.cncm.ne.jp/~m8512215/hasima/tkosyasin03.html

長崎の古写真考 長崎市HP「まちなか再生」ながさき今昔写真館

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長崎の幕末・明治期古写真考 長崎市HP「まちなか再生」ながさき今昔写真館

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

長崎市HP「まちなか再生」ながさき今昔写真館 掲載6作品
古写真 1(目録番号:1293) 興福寺開山堂と麹屋町
古写真 2(目録番号:1006) 大浦川河口
古写真 3(目録番号: 792) 長崎大浦外国人居留地
古写真 4(目録番号: 328) 大浦海岸通り
古写真 5(目録番号:6066) 小島からの長崎医学校と唐人屋敷
古写真 6(目録番号:  50) 館内から出島を望む

■ 確認結果

長崎市(建設局まちなか事業推進室)HP「まちなか再生」ながさき今昔写真館に掲載されている中の6作品。現在の写真と対比させ、撮影場所の地図もある。同解説は、以下のとおり。
http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/machidukuri/…/photo/
いずれも長崎大学附属図書館古写真データベースに目録番号がある。疑問点を次に説明する。本ブログの各記事を参照し、古写真の正しい実地調査と研究をお願いしたい。

長崎大学や長崎市が、いつまでもこのような内容のHPを公開するのは問題があろう。早く正しくしてほしい。長崎市HPは、画面展開に手間がかかる。次作品がすぐ開けるようにし、拡大地図はその撮影場所がすぐ出てくるように改善してほしい。
各古写真下の現在の写真は、私が調査した撮影場所である。(写せない所は、一部変更した)

古写真 1  興福寺開山堂と麹屋町  (データベース 目録番号:1293)
1864年頃、ベアトが撮った興福寺開山堂と麹屋町の通りである。幕末の長崎市内の街路の写真として最古のものの一枚である。道路の中央には石畳舗装がなされ、突き当たりの寺町通りへは後年斜路に改造される石段で結ばれている。
本ブログ次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2269
(注)「興福寺開山堂」があった場所の地図と、撮影している通りが違う。通りは現在の「麹屋町」ではあるが、古写真は「紺屋通り」を写し、さるく説明板もここにある。現在の写真が、次の興福寺前の通りを写しているのは間違いである。

古写真 2  大浦川河口 (データベース 目録番号:1006)
大浦川中流から河口を見た風景である。大浦川に架かっている橋は松ヶ枝橋。川沿いの広い道路には街灯が見える。下がり松居留地の洋風建築が鮮明に写っている。下がり松の由来を示す松の木を見ることができる。
本ブログ次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2576
(注)大浦川に架かっている手前の木橋は、「弁天橋」が正しい。奥のが「下り松橋」(後に「松ヶ枝橋」となる)である。超高精細画像の画像解説の方が正しい。

古写真 3  長崎大浦外国人居留地 (データベース 目録番号: 792)
ベアト撮影。「ヨーロッパ人の居留地の一部と長崎の市街、65年6月」と記されている。慶応年間の長崎大浦の海岸通り、と東山手の洋館群が詳細にうかがえる。右の丘の上にはまだ建物がみられない。
本ブログ次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/2229
(注)同じような写真で、上記の記事はあくまで参考に見ていただく。南山手の高台から下り松と大浦海岸通りの居留地を主に写している。現在の写真は、「弁天橋」の通りではなく、大浦海岸通りが写った居留地の景色が良いだろう。

古写真 4  大浦海岸通り (データベース 目録番号: 328)
明治中期の大浦海岸通りを撮影した写真である。通りには街灯が設置され、街路樹が植えられている。通りに面して商館や領事館が整然と並んでいる。当時の質の高い景観を見ることができる。手前の橋は明治3年(1870)建設の下り松橋(梅ケ崎橋)。
本ブログ次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2825
(注)手前の橋は明治22年前後に架替えられたポーストリングトラス橋の「下り松橋」(松ヶ枝橋)である。橋脚跡が現在も残る。タイトルが大浦海岸通りだから、現在の撮影場所が、「弁天橋」とその通りを写しているのは、間違いである。

古写真 5  小島からの長崎医学校と唐人屋敷 (データベース 目録番号:6066)
長崎医学校は所管及び名称を変えながら、1868年(明治元年)から、1892年(明治25年)に坂本へ移転するまでこの場所に位置した。現在の長崎大学医学部の源流にあたる。唐人屋敷については長崎市の唐人屋敷HPに掲載されている。
本ブログ次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2184
(注)現在の撮影場所を、長崎市立仁田小学校前の公園としている。古写真にその尾根が写っているから、南東側山手となる鶴鳴学園長崎女子高校正門から入った駐車場の少し下、中小島2丁目の高台あたりから撮影していると思われる。

古写真 6  館内から出島を望む (データベース 目録番号: 50)
館内の唐人屋敷の横から新地蔵ごしに出島と港を望む写真。中央に架かる橋は梅ケ 崎橋。その入江は現在の湊公園である。出島の海側には慶応3(1867)年にできた馬まわしの突き出しが築かれている。現在はビルが建ち、海を眺望することはできない。
本ブログ次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2906
(注)館内町唐人屋敷跡の東上からである。現在、この写真のさるく説明板が設置されている場所の少し先、福建会館上の道から、当時の福建会館の建物と長崎港や出島を遠望した写真であろう。

なお、5月26日現在においてHPを見ると、「ながさき今昔写真館」掲載記事についてのお詫びと記事の削除について、次のとおり掲載されていた。

「ながさき今昔写真館」につきまして、掲載資料の一部に誤りや疑義が生じていることがわかりました。誤り等があった記事につきましては一旦削除させていただき、検証を実施のうえ、準備が整いしだい改めて掲載させていただきたいと思います。
ホームページをご覧いただいた皆様にご迷惑をおかけしたことを深くお詫び申し上げます。

長崎の古写真考 朝日新聞デジタル【長崎 今昔】 茂木の若菜橋

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長崎の幕末・明治期古写真考 朝日新聞デジタル【長崎 今昔】 茂木の若菜橋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

朝日新聞デジタル マイタウン長崎 記事
【長崎 今昔】 茂木の若菜橋 アーチ橋に舶来の風  2012年03月17日

■ 確認結果

2012年3月17日(土)付朝日新聞長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」に掲載された「茂木の若菜橋 アーチ橋に舶来の風」。
茂木の若菜橋と茂木長崎ホテルの古写真がある。茂木長崎ホテルについて、写真と記事に間違いがあることをすぐ指摘した。訂正記事が3月31日掲載された経過がある。
https://misakimichi.com/archives/3149
https://misakimichi.com/archives/3169

ところが現在、「朝日新聞デジタル マイタウン長崎」の記事を見てみた。上記のとおり以前のまま掲載され、訂正記事がまったく反映されていない。
デジタルでも備考などで、訂正記事の内容にふれるべきではないか。朝日新聞社内部で緊密な調整をお願いしたい。読者が困惑するだけだろう。

長崎の古写真考 ながさき浪漫 107頁 全部が見えます。市役所です

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長崎の幕末・明治期古写真考 ながさき浪漫 107頁 全部が見えます。市役所です

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

アルバム長崎百年 ながさき浪漫
107頁  全部が見えます。市役所です
〔画像解説〕
2階建ての木造ですが市内のどこまでも見通す高い塔を持った堂々たる洋館です。明治時代の九州をリードした長崎市にふさわしい市庁舎です。   明治27年11月竣工

■ 確認結果

長崎大学のデータベースには、長崎市役所建物の絵葉書古写真が、 目録番号: 5114「長崎市役所(1)」、目録番号: 5115「長崎市役所(2)」、目録番号: 5116「長崎市役所(3)」にある。先代建物の写真だが、特に解説がなく掲載は略した。

長崎市役所の建物については、長崎浪漫会編「アルバム長崎百年 ながさき浪漫 写真でしのぶ明治・大正・昭和」長崎文献社平成11年発行の、Ⅴ:建物編 107頁に掲載されていた。
長崎浪漫会による画像解説は、上記のとおりだが、はたしてそうだろうか。長崎市制は明治22年施行、明治27年11月新築された木造2階建て本館の写真ではない。

越中哲也・白石和男氏共編「ふるさとの想い出 写真集 明治・大正・昭和 長崎」図書刊行会昭和54年発行 ●官公庁の中に長崎市役所建物の写真がある。同解説は次のとおり。

26頁    「42・43 長崎市役所(1)(2)」
〔画像解説〕
この新庁舎が完成したのは大正4年1月13日であった。当日は粉々たる降雪であったと記している。庁舎は2階建で工費は95,322円65銭であり、設計者は県庁新庁舎の設計者と同じ山田七五郎である。現在この庁舎は改造されている。

本建物は昭和33年火災により大半が焼失。「現在この庁舎は改造されている」とは、現在の庁舎である新館に、昭和34年4月全部建て替えられ完成したという意味である。
「ながさき浪漫」に掲載された写真の建物は、大正4年完成した塔を持った鉄筋コンクリート2階建てのこの建物であり、長崎浪漫会の解説は明らかに間違いであろう。

「長崎年表」による記録は、以下のとおり。同HPの「長崎年表冩眞舘」に、「ながさき浪漫」から引用した同じ写真があり、次のとおり解説している。参考としてもらいたい。
http://f-makuramoto.com/01-nenpyo/03.PH/naka.html

『市役所を上空から眺める珍しい写真です。左下で斜めに走る道路の左奥が県庁、下は諏訪神社方面となります。右上で斜めに走る道路の上奥が長崎駅、右へ行くと桜町立体交差へつながります。 写真の撮影は、1954年(昭和29)3月26日の桜町の立体交差完成から、1958年(昭和33)3月29日に庁舎が火事で焼失するまでの、4年の間となります。
長崎文献社「ながさき浪漫」(ながさき浪漫会/編)より』

▼1894(明治27)
11/10★長崎市役所が木造2階建て本館と平家建て別館を新築落成
▼1914(大正03)
12/25★鉄筋コンクリート2階建の長崎市役所庁舎が落成。中央には高い望楼がそびえる
外側は赤い煉瓦が貼られ、一見は煉瓦作りのようにも見える洒落たデザイン。設計は山
田七五郎
本館は387坪2合7勺(約1278平方米)、工費は9万5322円65銭
→戦時中☆望楼の塔上に据えられる4面のサイレンは独特な音色で不気味に警報を吹
き鳴らす
→1945(昭和20)08/09☆原爆でも焼け残る
→1958(昭和33)03/29☆夜、市議会事務局付近より出火。2階の大半を焼失
→のち☆全館が建て替えられる

長崎の古写真考 ながさき浪漫 103頁 多分、最初の県庁です? ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 ながさき浪漫 103頁 多分、最初の県庁です? ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

アルバム長崎百年 ながさき浪漫
103頁  多分、最初の県庁です?
〔画像解説〕
うーん、と唸る写真です。出来て間もなく台風で吹き飛ばされてしまった長崎県庁の写真かもしれないのですが、なんせ、今の世の人は、誰も知らんけん、どげんやろ?   明治の中ごろ

104頁  終戦まで使った三代目県庁舎
〔画像解説〕
落成式の日でしょうか?祝日でしょうか?日の丸が見えます。これから約35年間使われた長崎県庁舎が竣工を迎えようとしています。   明治44年4月竣工

105頁  正面玄関から見た県庁舎
〔画像解説〕
長崎県庁の正面でしょうか?でも、庁舎前面の広場とすればカステーラの広告があるのも怪しい?道路とすれば、その反対側で守衛さん?らしき人が一休み?しとるとも奇怪しか……でも県庁です。   明治45年

106頁  県議会議事堂?
〔画像解説〕
現在の県庁の敷地の中で、築町側にあった長崎県議会議事堂です。坂の様子からすれば、現在の県庁正門のようにも思われますが、そうすれば県庁の本館はどこやろか?見えんばいと悩みます。   明治の末

■ 確認結果

長崎大学のデータベースには、長崎県庁の3代目建物の絵葉書古写真が、 目録番号: 5112 「長崎県庁(1)」と、目録番号: 5113 「長崎県庁(2)」にある。特に解説がなく掲載は略した。

長崎県庁の建物について、長崎浪漫会編「アルバム長崎百年 ながさき浪漫 写真でしのぶ明治・大正・昭和」長崎文献社平成11年発行の、Ⅴ:建物編に上記の4点が掲載されていた。
長崎浪漫会による画像解説が、おもしろくした向きは理解するが、正しく説明してもらわないと、写真集を見て読む人が困惑するだろう。

そのほか107頁、長崎市役所の前建物(1950年代の撮影?)やその完成年月など、画像解説の多くに疑問がある。いちいち指摘しないが(前記事で5点はすでに指摘済、市役所は次記事とする)、ほとんどが長崎文献社の所蔵写真であろう。
各種古写真集出版のときは、基本的な監修を考えてもらいたい。貴重な古写真がもったいない。

長崎県庁の同じような古写真が、次の写真集に掲載されていた。長崎市立博物館の所蔵写真と思われる。この方の解説が正しいだろう。長崎年表の記録とともに、参考としてほしい。
越中哲也・白石和男氏共編「ふるさとの想い出 写真集 明治・大正・昭和 長崎」図書刊行会昭和54年発行  ●官公庁 の中の長崎県庁の解説は、次のとおり。

27頁    「44 長崎県庁(1)」
〔画像解説〕
長崎県庁は明治6年、旧長崎奉行所西役所すなわち現在地に新庁舎建設の工を起し、翌7年7月落成した。しかしこの庁舎は翌月の8月21日暴風にあい倒壊した。この庁舎が建っていたのは約1ヵ月であり、その意味で珍しい写真なのである。

27頁    「45 長崎県庁(2)」
〔画像解説〕
明治9年3月、県庁は再び新庁舎建設の工を起し同12月完成した。新庁舎は木造2階建、4棟、建坪82坪、総工費16,130円であった。そしてこの庁舎は明治40年まで使用された。

28〜29頁 「46 長崎県庁(3)」
〔画像解説〕
明治44年山田七五郎の設計で新築落成した県庁舎は鉄骨石壁で屋根は銅鈑を葺き、敷地面積2,630坪、総工費557,500余円と記してある。この庁舎は原爆で焼失した。

「長崎年表」による記録は、次のとおり。同HPの「長崎年表冩眞舘」に同じ写真と解説がある。参考としてもらいたい。
▼1874(明治07)
07/28★旧長崎奉行所西役所跡に洋風木造2階建て新築の長崎県庁庁舎が開庁
→08/21☆台風による暴風にあい倒壊
→1876(明治09)03/☆再び新庁舎の建設を起工
→12/☆2代目の長崎県庁が竣工
木造2階建、4棟、建坪82坪、総工費1万6130円
→1907(明治40)☆老朽化のため立て替え
→1911(明治44)04/25☆山田七五郎の設計で壮麗なルネサンス様式で鉄骨造煉瓦仕
上げ本館3階建の3代目の長崎県庁が落成

(以下は、ウィキペディア・フリー百科事典から)
1945年(昭和20年)8月9日 – 原爆投下により県会議事院は全壊、県庁舎は投下後の火災で全焼した。
1951年(昭和26年)2月20日 – 現本館起工式。
1953年(昭和28年)3月31日 – 現本館が竣工。工費約4億円(当時)、新築時は地上5階建てで延べ床面積14,500m2。
1953年(昭和28年)5月18日 – 立山の旧庁舎からの移転完了。

長崎の古写真考 目録番号:な し 現川の石橋

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:な し 現川の石橋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:な し 現川(うつつがわ)の石橋
越中哲也・白石和男氏共編「写真集 明治・大正・昭和 長崎」図書刊行会昭和58年再版 92頁
〔画像解説〕
元禄時代、現川では、有名な刷毛目文様を主にした現川焼がつくられていた。この石橋は当時のものではないが、長崎の石工より伝えられたアーチ型石橋の工法を取り入れ架設した小石橋として市の文化財に指定されている。

■ 確認結果

「現川(うつつがわ)の石橋」は、越中哲也・白石和男氏共編「写真集 明治・大正・昭和 長崎」図書刊行会昭和58年再版92頁に、作品163として掲載されている。長崎市立博物館所蔵写真と思われる。
画像解説の「小石橋」とは、小さな石橋群という意味だろうが、写真の橋がどの橋だったか不明である。橋名とすると「小藤橋」という橋があるが、橋が小さい。

現川地区には、かつて5基の石橋群があった。(「正納屋橋」など入れて、実際は6基?)。昭和57年の長崎大水害を最後に、すべてが流失した。長崎年表による記録は、次のとおり。
▼1869(明治02)頃
★現川区の架橋方頭取の中島土市が野石造アーチ石橋(幻の石橋)を参考に現川に5橋をつくる
→のち☆樫の木渡瀬橋は再度洪水に流される。山川橋、屋敷橋、小藤橋、山の神橋が残る
→1972(昭和47)03/16☆長崎市有形文化財に指定。自然石のアーチ橋。
→1982(昭和57)07/23☆大水害によりすべてが流失
★本河内の野石造アーチ石橋(幻の石橋)が現川石橋群のモデルとなる
→1889(明治22)☆造成中の本河内高部水源地に水没する

長崎大水害で流失した「樫ノ木渡瀬橋」「山川橋」「小藤橋」「山の神橋」は、次を参照。
https://misakimichi.com/archives/1433
「屋敷橋」は、次のHPに貴重な写真がある。前記の「樫ノ木渡瀬橋」と同じ橋であることがわかるだろう。ほかの3橋も別にあり。
http://www.kawadouro.sakura.ne.jp/Nagasaki/Nagasaki2.html

「樫ノ木渡瀬橋」の場所に、後に架かったのが「屋敷橋」である。地元では今でも、「樫ノ木渡瀬橋」としているのだろう。長崎年表の「☆樫の木渡瀬橋は再度洪水に流される」というのは、地元の史料「現川区永?大寶鑑」によると、発行された明治36年までの記録である。
古写真「現川の石橋」は、さてどれだったか。下流から上流側を撮影している。石の組み方を細かく対比したが、合致する石橋がはっきりしなかった。

川幅の広さ、石橋の大きさや格調から、現川集落の入口にかつて架かった「樫ノ木渡瀬橋」だろうと、現地へ出向き状況を確認した。現在のコンクリート橋「屋敷橋」のところである。
右手の尾根張り出し、民家の屋根、石橋の背景に写された現川峠方面の山の稜線と高さは、現在の写真どおり「屋敷橋」で合致した。

JR現川駅横の現川物産館に展示されている現川古絵図は、杉澤翁昭和7年図である。表題は「現川維新前後の面影」となっている。「樫ノ木渡瀬橋」のみ、アーチが描かれている。
「長崎大水害にて流失 樫ノ木渡瀬橋」も、現川物産館の展示写真から。
古写真「現川の石橋」は、撮影年代や橋名を明記していない。いつの時代のものかわからない。現在の状況写真から、「屋敷橋」の場所に架かっていた橋の姿に間違いないと思われる。

橋名で混乱するが、「樫ノ木渡瀬橋」は明治36年以降、また再建された可能性がある。「屋敷橋」は架橋年代が不明。ただ、石橋の石の組み方から、長崎大水害まで存在した「屋敷橋」ないし「樫ノ木渡瀬橋」という橋ではなく、それ以前の「樫ノ木渡瀬橋」の姿のような気がする。
いずれにしても古写真「現川の石橋」は、珍しい写真である。石の組み方の対比は、私の見誤りもあるので、地元現川や織田先生の正しい考証をお願いしたい。

長崎の古写真考 目録番号:な し 長崎・銅座の十軒蔵

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:な し 長崎・銅座の十軒蔵

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:な し 長崎・銅座の八軒倉 (通称「十軒蔵」が正)
長崎県営業写真家協会「写真時代の夜明 長崎県写真百年史」平成元年発行190頁
〔画像解説〕
新地の中華街に近く、海産物などを収容するレンガ造りの倉庫が近年まで並んでいた。アマチュアの撮影になるもので、電柱、電線を消そうとした痕があり、ほほえましい。(大正末期頃)

■ 確認結果

長崎県営業写真家協会「写真時代の夜明 長崎県写真百年史」平成元年発行190頁に掲載されている「長崎・銅座の八軒倉」は、正しくは通称「十軒蔵」という。
古写真は、銅座橋から広馬場の方を撮影している。現在の銅座観光通り左側、新地中華街前に「十軒蔵」が建ち並んでいた。

長崎年表の記録は、次のとおり。
▼明治20年代(1887〜1896)
★広馬場入口から銅座川までの本籠町68番地に貿易商兼倉庫業の本田平十が10棟続きの煉瓦造平屋建、切妻造の倉庫を建てる。通称・十軒蔵
→昭和初期☆7棟に →戦後☆6棟に →1970(昭和45)☆5棟に →昭和50年代☆解体

現在は籠町。江山楼向かいにある有料駐車場「三井のリパーツ」前の歩道に、さるく説明板が設置されている。新地中華街を向いて立っているが、説明板の写真どおり、撮影場所の銅座橋角あたりに設置しないと、通りの左右どちらが倉庫跡かわかりにくいだろう。
「十軒蔵」は、HP「ナガジン」発見!長崎の歩き方の、「古写真にみる遠い昔の長崎名物」に次のとおり記事があった。

「明治20年代に建てられた、中国との貿易品を保管していた赤レンガ倉庫群。戦後はデパートやマーケットの倉庫、飲食店として利用されていたが、昭和50年代に解体された。通称“十軒蔵”と呼ばれていたこの場所は、現在の銅座観光通り。現在もおいしい長崎中華が味わえる“喜楽園”の看板を左手前に見つけた!」

銅座橋角の酒屋主人から、おもしろいことを教わった。「十軒蔵」は昭和50年代まで一部の建物が残っていた。今でも向かいの「喜楽園」ビル上に、2軒目倉庫屋根の片割れがまだ現存し、様子を確認できると、屋根を指差してくれた。
裏通りから「喜楽園」を訪ねた。戦後からここで営業しているが、建物内部には赤レンガの壁がまだあり、ガスボンベ室で良くわかると、鍵を開けて見せてくれた。

「ナガジン」の”喜楽園”看板発見の文は偶然のようだが、同店建物の内外に残る倉庫跡のそこまでは気付いていないようである。
「十軒蔵」の記事は、次も参照。 https://misakimichi.com/archives/3119