長崎の古写真考 2」カテゴリーアーカイブ

長崎の古写真考 ふるさと長崎 65頁 第056景 金比羅山遠望

イメージ 1

イメージ 2

長崎の幕末・明治期古写真考 ふるさと長崎 65頁 第056景 金比羅山遠望

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

ふるさと長崎133景
65頁  第056景 金比羅山遠望 (坂本町・2000年)
〔作品解説〕
道一つを隔てた下界の方から浦上天主堂を描いた帰り道、長崎大学医学部沿いの道を辿り、大学付属病院近くで左手を見ると、いかにも長崎らしいこんな風景が目に入った。小学校6年生になった頃、母親に連れられて目の精密検査に病院に来たことが思い出された。詳しい検査をされた覚えがあるが、近視はそのままになった。前述のとおりこの辺りは馴染みが薄いが、それでも親友と一緒に、この近くにあった彼の親戚の家に遊びに行ったこともある。そこで背革クロス製の美しい大型の本を見た。中は『波』(山本有三作)という小説。世の中にこんな面白い小説があったのかと驚きながら、早速借りて帰ったのを覚えている。その親友の母親は、あの原爆投下の日、この親戚の家に来ていて亡くなったという。それ以後、いくら彼を誘っても彼は長崎へはもう行きたくないと答えるばかりである。

■ 確認結果

古写真ではない。現代のスケッチ風景。喜多迅鷹氏著「ふるさと長崎133景 きた・としたかスケッチ紀行」長崎新聞社平成17年発行65頁から「第056景 金比羅山遠望」(坂本町・2000年)。筆者のスケッチ場所は、大学病院前から医学部通りへバス通りを曲がったすぐの小橋脇の石段から、東側の眺めを描いている。

このスケッチ場所を流れる川には、被爆遺構と思われる小さな煉瓦造アーチ式石橋が上下に2つ残り、私には行き慣れた場所だった。ただ、スケッチ背後の高い建物や、山がどこかまでは良く見たことがなかった。
坂本1丁目8街区角の橋のところから、風景を確認した。背後の高い建物は、長崎市立江平中学校、山は金比羅山(標高366.3m)山頂に間違いなかった。

長崎の古写真考 ふるさと長崎 61頁 第052景 眼鏡橋畔風景 

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

長崎の幕末・明治期古写真考 ふるさと長崎 61頁 第052景 眼鏡橋畔風景 

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

ふるさと長崎133景
61頁  第052景 眼鏡橋畔風景 (諏訪町・1995年)
〔作品解説〕
寺町通りや中通りも楽しいが、川端通りもまた楽しい。とくにあまりきれいに整備されていない東側に、思いがけない昔のたたずまいが残っている。この骨董屋さんもいつ頃から続いているのか、私の子供の頃からあったような気がしてくるほど。まだ小学校に上がる前の頃、父親に連れられて浜町あたりまで行くと、往きに帰りによく古道具屋に立ち寄った。父はいそいそと、私はうんざりしながら…。考えてみると、昭和初年の頃は不景気だったはずだが、父は道具をいじり、俳句を作り、弓やテニスに熱中し、ビリヤードにまで出掛けていた。職場では運動会も盛んで、野球チームもあり、慰安会と称するものに行ってみると、顔見知りの父の職場の人たちが、大真面目で演劇などをやっていた。大陸ではもう戦争が始まっていたのに、おかしな時代だった。(あとで聞くと、この古道具屋は戦後のもので、この数年後、近くへ移転したということだった)

■ 確認結果

古写真ではない。有名な長崎「眼鏡橋」現代のスケッチ風景。喜多迅鷹氏著「ふるさと長崎133景 きた・としたかスケッチ紀行」長崎新聞社平成17年発行61頁から「第052景 眼鏡橋畔風景」(諏訪町・1995年)。
2枚目の現在の眼鏡橋写真と比べると、ある違いに気付くだろうか。石橋登り口の石段数がスケッチては5段なのに、写真では2段である。

これは私のまったく思い違い。魚の町(または栄町)側から写すとそうなる。眼鏡橋の石段数は、実は魚の町側は2段、諏訪町側は5段と、不均衡な造りとなっている。川岸の高さ違いか?
眼鏡橋を渡って、諏訪町側から写した写真が4枚目。スケッチどおり5段あった。したがって、(諏訪町・1995年)、「眼鏡橋」を諏訪町側から描いた作品と確認した。
知らなかったなー、こんなことと思い、石段数のこの作品を取り上げてみた。

長崎の古写真考 ながさき浪漫 100頁 旭町、漁師の人の応援団

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

長崎の幕末・明治期古写真考 ながさき浪漫 100頁 旭町、漁師の人の応援団

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

アルバム長崎百年 ながさき浪漫
100頁  旭町、漁師の人の応援団   
〔画像解説〕
洋館の倉庫や事務所が並んでいますが、大浦ではありません。対岸の旭町の町並みです。水産の基地長崎は、この町に働く人達と豊かな海、そして勤勉な漁師の努力によって発展していったのです。    明治の末

目録番号:5122 長崎大波止桟橋
〔画像解説〕
明治末から大正初年にかけての大波止海岸の絵葉書。長崎要塞司令部による長崎地帯の写真、測量、写生の検閲は明治32(1899)年に長崎要塞地帯法ができてから始まった。大波止海岸は明治37(1904)年に埋立て護岸工事で整備された。桟橋に停船中の船は対岸の水の浦、旭町の渡船である。出島の前方付近から、長崎市街地の海岸線を大黒町砲台付近にかけて撮影した写真である。

■ 確認結果

長崎文献社「アルバム長崎百年 ながさき浪漫 写真でしのぶ明治・大正・昭和」平成11年発行の100頁に掲載されている「旭町、漁師の人の応援団」。長崎文献社所蔵写真と思われる。説明文はながさき浪漫会。
長崎大学の古写真データベースでは見当たらないが、目録番号:5122「長崎大波止桟橋」に、明治末から大正初年にかけての同じような山並みの写真がある。

ペンキ字の「日東製氷稲佐工場」は当時、稲佐橋下流の浦上川沿いに、赤レンガ建物が3棟あったらしい。現在の旭大橋付近で、光町や旭町となる。
「旭町、漁師の人の応援団」の作品が旭町とすると、当時の桟橋?あたりから撮影した写真であろう。ドラゴンプロムナード階上方向からの確認写真どおり、背景は稲佐山や岩屋山のもう少し高い稜線となるはずなのに、両方ともおかしな写真である。

説明文のとおり、別の町の製氷工場とは考えられない。目録番号:5122「長崎大波止桟橋」と山並みを対比するとまったく同じようである。「長崎要塞司令部による長崎地帯の写真、測量、写生の検閲は明治32(1899)年に長崎要塞地帯法ができてから始まった」とわざわざ解説している。
「旭町、漁師の人の応援団」も、写真の検閲により背景の山が一部塗りつぶされたと考えると、この製氷工場は「旭町」と思われる作品だが、どなたか他に知らないだろうか。
2004年7月22日長崎新聞掲載「消えた”証人” 長崎の被爆遺構(2)」の、記事と同写真は次のとおり。同じ建物かどうかはわからない。

せめぎ合い    民間の所有、保存に限界
「原爆とのかかわりを新聞報道で知るまで、建物の価値に思い至らなかった。事情があり、やむを得なかった」
爆心地から南へ二・一キロ、浦上川の河口近くにあった日本冷蔵稲佐製氷工場跡(長崎市光町)。元所有者の関係者が、建物取り壊しの経緯を振り返る。
赤れんがの三棟は戦時中、海軍に納める食料の保存や冷蔵に使われていた。原爆で屋根が抜け落ち、社員三人が死亡。被爆直後には、缶詰などの食べ物を求め大勢の被災者が集まった。
戦後の一時期、かまぼこ製造工場となり、操業をやめた一九五〇年以降も、外壁などが被爆当時のまま残されていたが、敷地売却に伴い、九六年十月までに三棟全部取り壊された。現在、別の会社の駐車場などとして使われている。…

なお、製氷工場の同じ写真は、越中哲也・白石和男氏共編「写真集 明治・大正・昭和 長崎」図書刊行会昭和58年再版の64頁にも掲載されていた。同解説は次のとおり。撮影場所は明記されていない。

108 大日本製氷会社長崎出張所
明治22年、松田源五郎・香坂留彦は5㌧の製氷機械とラムネ製造機を九州では一番はじめに設置して長崎製氷会社として発足、その後幾度かの変遷を経て昭和3年大日本製氷会社と合同した。当時における冷凍能力100㌧、冷蔵能力10㌧という設備は九州随一のものであった。(写真は昭和初年)

単純な推測だが、背景の山並みが修正ないものとすると、倉庫の建物を比較する必要があるが、篭町日浦海岸の埋立地にあった「十軒蔵」も考えられる。対岸の新地側から撮影できる写真と思われる。現在の写真は、新地湊公園から写した。ここに製氷工場があったかはわからない。

長崎の古写真考 ながさき浪漫 25頁 雨上がりの町並みです…

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

長崎の幕末・明治期古写真考 ながさき浪漫 25頁 雨上がりの町並みです…

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

アルバム長崎百年 ながさき浪漫
25頁  雨上がりの町並みです…
〔画像解説〕
袷の着物。春先の雨上がりでしょうか? 影を後ろに引いている。これは昔の町並みからはお昼過ぎの構図です。でも、そうしたらどこかなーと思います。特定はできませんが、大正時代の雨上がりの町並みです。

■ 確認結果

長崎文献社「アルバム長崎百年 ながさき浪漫 写真でしのぶ明治・大正・昭和」平成11年発行の25頁に掲載されている「雨上がりの町並みです…」。
右下に(泉)、泉写真館所蔵写真である。説明文はながさき浪漫会。
長崎大学の古写真データベースでは見当たらないが、目録番号:3237「大波止大黒町を望む」に、明治初期の同じような山並みの写真がある。

「雨上がりの町並みです…」の作品には、特徴的な建物が中央右の大通り沿いに写っている。背景の山並みを立山とすると、現在、元船町に数棟残る倉庫群とも考えられたが、どうも違った。
これと同じ写真が、長崎県営業写真家編纂委員会編「写真時代の夜明け 長崎県写真百年史」平成元年発行194頁に掲載されていた。同解説は次のとおり。写真集には、「八軒倉」を写した別写真が190頁にもあった。

懐かしのから傘風景     長崎・広馬場(新地銅座付近)
大正・昭和の初期は、この付近が市の中央部から南部に向かう交通の要点で、波(浪?)の平・戸町方面への乗合自動車がここから出ていた。写真の日本髪に和服、高下駄、信玄袋、片手にから傘、いかにも時代が偲ばれて懐かしい。右手遠くの倉庫は銅座八軒倉、左側に長崎名物の石畳が雨で光っている。  (大正10年頃)

現在は籠町となる。銅座観光通りの現地へ行くと、江山楼向かいの駐車場前にさるく説明板が設置されていた。「八軒倉」ではなく、正しくは通称「十軒蔵」という。確かに同所一帯に昭和50年代まで、一部の建物が残っていた。今でも「喜楽園」ビル上に屋根の片割れなど確認できる。
さるく説明板の写真は、銅座橋側から写しているので、反対の広馬場側から十軒蔵を同じ場所に置き、今回の現在の写真を写してみた。

道路の状況は同じようになる。背景の山並みは風頭山の稜線であろう。高いビルのため広馬場側からは見通しが効かないので、銅座橋の方へ寄って確認した。
古写真の倉庫群は、銅座観光通りの新地中華街側に建ち並んでいた「十軒蔵」に間違いないだろう。 
長崎県文化振興課 ながさき歴史発見・発信プロジェクトHP「旅する長崎学(たびなが) ふるさと写真館」大正時代にも、この写真は掲載されているが、撮影場所不明となっていた。

長崎の古写真考 ふるさと長崎 36頁 第027景 金比羅山と烽火山

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

長崎の幕末・明治期古写真考 ふるさと長崎 36頁 第027景 金比羅山と烽火山

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

ふるさと長崎133景
36頁 第027景 金比羅山と烽火山(ホテルから城の古址方向を望む・2000年)
〔作品解説〕
その日は雨だった。ホテルの部屋から見えるのは、中島川の大井手橋方向だけ。これは以前すでに描いている。部屋を出て廊下の北端の非常口のドアを開けるとこの風景が見えた。雨の降り込みを気にしながら描く。背後の山は、左が金比羅山(366m)、右が健山(300m)に続く烽火山(426m)。江戸時代異国船の接近を警戒して、烽火台が設けられていたのだ。山頂から四方八方眺望を楽しんだ記憶がある。その前のこんもりした丘が城の古址。ここは見るとおりこんもりと樹木に覆われ、隠れ家のような面白味はあったが、眺望は利かなかった。
長崎中学の新入生たちは、入学後間もない時期にこの山に連れてこられ、上級生たちにデカンショ節や教師の仇名入り数え歌などを教わったりした。
「一つとせ 人もよく知る長中の動物園(教師を動物に見立てて)の数え歌—
(中略)
五つとせ 威張って歩くは馬の— たまには予習もして来いよ」 などという辛辣な一節もあった。

■ 確認結果

古写真ではない。現代のスケッチ風景。喜多迅鷹氏著「ふるさと長崎133景 きた・としたかスケッチ紀行」長崎新聞社平成17年発行36頁から「第027景 金比羅山と烽火山(ホテルから城の古址方向を望む・2000年)。
中島川の大井手橋が見えるから、伊勢宮近く伊勢町「トレディアーホテル中島」(現在は閉店)からだろう。

非常口を開けて反対の北東側を描いている。地形図のとおり金比羅山(正しくは366.3m)は、長崎バイパスへ続く西山県道谷間のまだ左にあり、このスケッチには表れない。描かれているのは、城の古址から後ろの山、健山(300m)と烽火山(426m)だろう。
長崎新聞社は地元だから、きちんと監修してほしかった。現在の写真は、ビルで山並みが見えない。新大工通り入口と長崎市民会館付近からの確認写真を載せる。

長崎の古写真考 ながさき浪漫 102頁 白魚とりの浦上川

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

長崎の幕末・明治期古写真考 ながさき浪漫 102頁 白魚とりの浦上川

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

アルバム長崎百年 ながさき浪漫
102頁  白魚とりの浦上川
〔画像解説〕
昔、初夏の風物詩は? そうです。浦上川の白魚とりでした。海から遡上する白魚を一網打尽?とはいきません。なんしろ網は小さい。でも、これで一合枡に一杯ぐらいはあるかもね?
大正の中期・浦上川?

■ 確認結果

長崎文献社「アルバム長崎百年 ながさき浪漫 写真でしのぶ明治・大正・昭和」平成11年発行の102頁に掲載されている「白魚とりの浦上川」。長崎文献社所蔵写真と思われる。長崎大学の古写真データベースでは見当たらない。
説明文は「ながさき浪漫会」。上記の画像解説に別に問題はない。

ただ、「大正の中期・浦上川?」とある。私の関心は白魚とりではなく、対岸高台に写った白い建物と背景の岩屋山にある。この建物は、被爆直後の2枚目写真(長崎原爆資料館所蔵)どおり、開校当時の「城山尋常小学校」(現在は長崎市立城山小学校)の校舎であろう。

長崎市立城山小学校HPによる「学校の紹介」は、次のとおり。大正12年頃、開校当時の学校を姿を写した貴重な写真と言える。背景の岩屋山の位置から、浦上川と下の川が合流する現川口町の川岸から、撮影したと思われる。
確認写真は、岩屋山山頂からと川口町高架道上から。

城山小学校の紹介   2011年4月

本校は, 長崎市のやや北西部に位置する城山町の緑豊かな丘の上にあり, 全校児童488名,19学級の学校です。大正12年, 九州初のコンクリート3階建て校舎を持つ城山尋常小学校としてスタートし, 創立86年目を迎えます。

当時の城山尋常小学校は緑に囲まれた白亜の校舎で, モダンな学校として有名でした。
昭和20年8月9日長崎市に落とされた原子爆弾により, 爆心地からわずか500mの距離にあった本校は, 瞬時に美しい校舎や林間, 1400余名の児童,31名の教職員, 105名の学徒報国隊員等を亡くすという悲しい歴史も背負っています。…

長崎の古写真考 ながさき浪漫 97頁 トンネルは未知の世界ののぞき窓

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

長崎の幕末・明治期古写真考 ながさき浪漫 97頁 トンネルは未知の世界ののぞき窓

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

アルバム長崎百年 ながさき浪漫
97頁  トンネルは未知の世界ののぞき窓
〔画像解説〕
我が国の写真術の開祖、上野彦馬翁の名が入ったトンネルの写真です。となれば、さあー、どこかしら? 道路トンネルは、彼の存命の時は、まだ、ほとんど開通していません。長崎本線のどこかのトンネルやろね?

■ 確認結果

長崎文献社「アルバム長崎百年 ながさき浪漫 写真でしのぶ明治・大正・昭和」平成11年発行の97頁に掲載されている「トンネルは未知の世界ののぞき窓」。長崎文献社所蔵写真と思われる。長崎大学の古写真データベースでは見当たらない。
説明文は「ながさき浪漫会」。上記の画像解説に別に問題はない。

ただ、このトンネルを「長崎本線のどこかのトンネルやろね?」としている。わかって謎かけだったら失礼となるが、長崎近くで考えられるのは、明治31年(1898)に開通した、長与町本川内郷のJRトンネル「松ノ峠(「松の頭」の表記もあり。まつのとう)隧道」(延長1094m)である。
煉瓦造りの重厚な入口(ポータル)を持つ。開通した当時、日本国内の鉄道トンネルでは5番目の長さ。上野彦馬は、明治37年(1904)長崎で死去。享年67。存命中だった。

現在の本川内側入口2枚目の写真は、ブログ「鉄りすと」ロケハン中(撮り鉄・本川内編(9月10日・その1))2008年から。銘板や上部がはっきり確認できないが、間違いないだろう。ほかは私の写真。伊木力側入口も見せる。ウィキぺディア・フリー百科事典による説明は、次のとおり。

長崎本線(ながさきほんせん)は、佐賀県鳥栖市の鳥栖駅から長崎県長崎市の長崎駅までを結ぶ九州旅客鉄道(JR九州)の鉄道路線(幹線)である。ほかに喜々津駅 – 長与駅 – 浦上駅間の別線を持つ。長崎線とも呼ばれる。…
長崎本線は、九州鉄道の手により現在の佐世保線・大村線のルートで建設された。鳥栖 – 早岐間と長与 – 長崎間が開業した1897年より全通するまでの約1年間は、大村湾に連絡船を開設して暫定的な連絡機関としていた。…
1898年(明治31年)11月27日 【延伸開業】*大村 – 諫早 – 長与(鳥栖 – 早岐 – 長崎間が開通) 【駅新設】諫早、喜々津、大草 …

長崎の古写真考 ながさき浪漫 84頁 新旧市街をつないだ新大橋

イメージ 1

イメージ 2

長崎の幕末・明治期古写真考 ながさき浪漫 84頁 新旧市街をつないだ新大橋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

アルバム長崎百年 ながさき浪漫
84頁  新旧市街をつないだ新大橋
〔画像解説〕
明治時代の長崎港は埋め立てと浚渫(しゅんせつ)の歴史でした。新しい橋が生まれては、埋め立てで、その役割を終えていきました。
明治2年に架けられ同22年解体の新大橋(築町〜新地町の間)

■ 確認結果

長崎文献社「アルバム長崎百年 ながさき浪漫 写真でしのぶ明治・大正・昭和」平成11年発行の84頁に掲載されている「新旧市街をつないだ新大橋」。長崎文献社所蔵写真と思われる。長崎大学の古写真データベースでは見当たらない。
説明文は「ながさき浪漫会」。上記の画像解説に別に問題はない。

ただ、「新大橋」の上流、写真右側にアーチ式石橋が写っている。新地蔵所の「正門橋」である。貴重な写真のため、石橋の説明もほしかった。現在の新地中華街入口「新地橋」の場所に架かっていた。撮影は大徳寺跡の高台からだろう。上野彦馬作品の拡大ではない。
次を記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/2173

長崎の古写真考 目録番号:な し 16 海側から見た出島

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:な し 16 海側から見た出島

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:な し 16 海側から見た出島   長崎手帖より
〔画像解説〕 ながさき・出島「古写真の世界」展 写真集 60頁
昭和41年(1966)8月1日発行の『長崎手帖(編集発行人・田栗杢作)』の「長崎のアルバム21」に掲載されている、「埋め立て前の出島」と題された写真である。対岸の稲佐山と出島を背景に、和船を中心に配した構図を考えた写真である。出島の年代は不詳であるが、明治20年代後半、出島が第2次長崎港改修事業により埋め立てられる前の、海岸線が見える最後の出島の写真である。海側に近い距離から出島を撮影した写真は少なく、海側の扇形の張り出した曲線、出島外周の石垣、出島神学校、出島外周の道路と歩く人の姿などが鮮明に撮影されている。埋め立てられる前の出島を、海側から撮影した貴重な写真である。

目録番号:な し  3 新地と出島   (104−21)長崎大学附属図書館所蔵
〔画像解説〕 同 写真集 58頁
大徳寺跡の高台から、新地越しに出島を遠望したもの。次の写真4に建設中の姿が見える。慶応元年(1865)後半の撮影であろう。出島の向こうには、現在の茂里町付近まで湾入していた長崎港が広がり、背後に稲佐山やから岩屋山までの山並みが望まれる。出島右手の樹木が生い茂っているところが長崎奉行所・西役所(現・県庁)の高台で、その下に江戸町、東西の築町、中島川の河口部を隔てて西浜町の地先にあった江戸町の飛地にかけての家並みが見える。新地手前の水面のこちら側、樹木の間に見え隠れするのは、本籠町の民家である。

■ 確認結果

2000年10月に浜屋百貨店で開催された日蘭交流400周年記念事業 ”ながさき・出島「古写真の世界」展”に展示された古写真。同写真集の10頁にあった。
昭和41年(1966)8月1日発行『長崎手帖(編集発行人・田栗杢作)』の「長崎のアルバム21」に掲載された「埋め立て前の出島」と題された作品と解説がある。
長崎大学には所蔵なく、古写真データベースでは見当たらない。

”ながさき・出島「古写真の世界」展”では、「16 海側から見た出島 長崎手帖より」として、上記のとおり画像解説している。「海側から見た出島」には間違いないが、出島を「船上」から撮影した、よほど珍しい写真のようにも感じるタイトルではないだろうか。

撮影地点を特定するため、同写真集5頁に掲載されている「3 新地と出島」(長崎大学附属図書館所蔵)を参考として掲げる。背景は両方とも「稲佐山」と「岩屋山」の山並み。新地蔵所の北西側海岸に立ったら、「16 海側から見た出島 長崎手帖より」は、撮影できたのではないだろうか。
この項は、次の記事も参照。  https://misakimichi.com/archives/2173
現在の写真は、大徳寺公園から見た新地、出島、稲佐山方面の景色。

なお、同じ古写真は、長崎文献社「アルバム長崎百年 ながさき浪漫」平成11年発行の71頁にも掲載されている。解説は次のとおり。長崎文献社所蔵写真と思われる。
小舟と出島、稲佐山
NIBテレビの社屋の方向から見た出島です。明治20年代に東と西そして南方の海面が埋め立てられる以前の出島の雄姿です。南方側の石積みがよくわかります。  明治10年代

長崎の古写真考 ボードインアルバム: 2 長崎の町と精得館(医学校) ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

長崎の幕末・明治期古写真考 ボードインアルバム: 2 長崎の町と精得館
(医学校) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

ボードインアルバム 見開き: 2 長崎の町と精得館(医学校)【4枚組の①②③④】
ボードインアルバム 見開き: 3 海からの出島【2枚組の①②】
ボードインアルバム  26頁:28 海から見た大浦居留地
ボードインアルバム  29頁:31 飽の浦からの汽船と南山手
ボードインアルバム  37頁:40 金比羅山か
ボードインアルバム  48頁:50 軍艦入港で緊迫する長崎港【6枚組の①②③】
ボードインアルバム  50頁:50 軍艦入港で緊迫する長崎港【6枚組の④⑤⑥】
ボードインアルバム  53頁:51 稲佐山から見た長崎のパノラマ
ボードインアルバム  61頁:54 長崎のパノラマ
ボードインアルバム  64頁:56 高鉾島
ボードインアルバム  68頁:60 中島川の一瀬橋

■ 確認結果

長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクションⅡ ボードインアルバム 外国人が見た幕末長崎」長崎文献社が、最近、2011年6月10日発行されている。
「長崎大学コレクションⅠ 明治七年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社2007年11月9日発行に続く第2集の古写真集。定価(税込み)2940円。

画像解説で理解しにくいところが、第2集にもある。撮影場所の現地確認があまりなされていない。本ブログの「長崎の古写真考」において、疑問点や撮影場所をすでに説明しているので、次の記事を参考とし研究を進めてほしい。

ボードインアルバム 見開き: 2 長崎の町と精得館(医学校)【4枚組の①②③④】
目録番号:6678 長崎のパノラマ(10)
https://misakimichi.com/archives/2817

ボードインアルバム 見開き: 3 海からの出島【2枚組の①②】
目録番号:6196 海からの出島鳥瞰
https://misakimichi.com/archives/2180

ボードインアルバム  26頁:28 海から見た大浦居留地
目録番号:6272 海から見た大浦居留地
https://misakimichi.com/archives/2878

ボードインアルバム  29頁:31 飽の浦からの汽船と南山手
目録番号:6260 飽の浦からの汽船と南山手(3)
https://misakimichi.com/archives/2186

ボードインアルバム  37頁:40 金比羅山か
目録番号:6268 金比羅山
https://misakimichi.com/archives/2271

ボードインアルバム  48頁:50 軍艦入港で緊迫する長崎港【6枚組の①②③】
ボードインアルバム  50頁:50 軍艦入港で緊迫する長崎港【6枚組の④⑤⑥】
目録番号:6199  軍艦入港で緊迫する長崎港
拡大写真がなくわからなかったが、写真集6枚目の②が、目録番号:6272「海から見た大浦居留地」と同じ写真。目録番号:6272 の撮影地は、「出島」からとなっている。
https://misakimichi.com/archives/2878

ボードインアルバム  53頁:51 稲佐山から見た長崎のパノラマ
目録番号:6165 稲佐山から見た長崎鳥瞰
https://misakimichi.com/archives/2804

ボードインアルバム  61頁:54 長崎のパノラマ
目録番号:6158 長崎鳥瞰
https://misakimichi.com/archives/1928

ボードインアルバム  64頁:56 高鉾島
目録番号:6160 高鉾島(46)
https://misakimichi.com/archives/2712

ボードインアルバム  68頁:60 中島川の一瀬橋
目録番号:6162 中島川一の瀬橋(2)
崎陽八景の版画は、「市瀬晴嵐」となっている。