長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:な し 16 海側から見た出島
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号:な し 16 海側から見た出島 長崎手帖より
〔画像解説〕 ながさき・出島「古写真の世界」展 写真集 60頁
昭和41年(1966)8月1日発行の『長崎手帖(編集発行人・田栗杢作)』の「長崎のアルバム21」に掲載されている、「埋め立て前の出島」と題された写真である。対岸の稲佐山と出島を背景に、和船を中心に配した構図を考えた写真である。出島の年代は不詳であるが、明治20年代後半、出島が第2次長崎港改修事業により埋め立てられる前の、海岸線が見える最後の出島の写真である。海側に近い距離から出島を撮影した写真は少なく、海側の扇形の張り出した曲線、出島外周の石垣、出島神学校、出島外周の道路と歩く人の姿などが鮮明に撮影されている。埋め立てられる前の出島を、海側から撮影した貴重な写真である。
目録番号:な し 3 新地と出島 (104−21)長崎大学附属図書館所蔵
〔画像解説〕 同 写真集 58頁
大徳寺跡の高台から、新地越しに出島を遠望したもの。次の写真4に建設中の姿が見える。慶応元年(1865)後半の撮影であろう。出島の向こうには、現在の茂里町付近まで湾入していた長崎港が広がり、背後に稲佐山やから岩屋山までの山並みが望まれる。出島右手の樹木が生い茂っているところが長崎奉行所・西役所(現・県庁)の高台で、その下に江戸町、東西の築町、中島川の河口部を隔てて西浜町の地先にあった江戸町の飛地にかけての家並みが見える。新地手前の水面のこちら側、樹木の間に見え隠れするのは、本籠町の民家である。
■ 確認結果
2000年10月に浜屋百貨店で開催された日蘭交流400周年記念事業 ”ながさき・出島「古写真の世界」展”に展示された古写真。同写真集の10頁にあった。
昭和41年(1966)8月1日発行『長崎手帖(編集発行人・田栗杢作)』の「長崎のアルバム21」に掲載された「埋め立て前の出島」と題された作品と解説がある。
長崎大学には所蔵なく、古写真データベースでは見当たらない。
”ながさき・出島「古写真の世界」展”では、「16 海側から見た出島 長崎手帖より」として、上記のとおり画像解説している。「海側から見た出島」には間違いないが、出島を「船上」から撮影した、よほど珍しい写真のようにも感じるタイトルではないだろうか。
撮影地点を特定するため、同写真集5頁に掲載されている「3 新地と出島」(長崎大学附属図書館所蔵)を参考として掲げる。背景は両方とも「稲佐山」と「岩屋山」の山並み。新地蔵所の北西側海岸に立ったら、「16 海側から見た出島 長崎手帖より」は、撮影できたのではないだろうか。
この項は、次の記事も参照。 https://misakimichi.com/archives/2173
現在の写真は、大徳寺公園から見た新地、出島、稲佐山方面の景色。
なお、同じ古写真は、長崎文献社「アルバム長崎百年 ながさき浪漫」平成11年発行の71頁にも掲載されている。解説は次のとおり。長崎文献社所蔵写真と思われる。
小舟と出島、稲佐山
NIBテレビの社屋の方向から見た出島です。明治20年代に東と西そして南方の海面が埋め立てられる以前の出島の雄姿です。南方側の石積みがよくわかります。 明治10年代