長崎の古写真考 2」カテゴリーアーカイブ

長崎の古写真考 長崎古写真紀行:48 南山手居留地

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長崎の幕末・明治期古写真考 長崎古写真紀行:48 南山手居留地

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

長崎古写真紀行:48 南山手居留地
〔画像解説〕  石炭積み込みの汽船が停泊する長崎港
飽の浦から見た明治中期の長崎港。対岸は鍋冠山山麓の南山手居留地から浪の平町、古河町である。港内には多くの汽船が停泊している。左手前の船には何本ものはしごが掛けられ、大勢の人が、団平船で運んできた石炭を船に積み込んでいる。当時は陸から直接積み込むことができず、海上で石炭を積み込んでいた。
長崎港は、高島炭鉱等で良質の石炭が産出したため、明治期には石炭の補給港としてにぎわった。貿易額では、横浜港の1割以下しかなかったが、汽船の寄港数は横浜の数倍に達していた。

目録番号: 987 飽の浦からの汽船と南山手
〔画像解説〕  超高精細画像
長崎市街地の西岸、飽の浦と立神の中間岩瀬道の身投崎付近から、鍋冠山麓の南山手外国人居留地南限と古河町を写した写真である。年代を特定できる構造物はないが、南山手の居留地の進展状況から、明治10年(1877)代後期から明治20年(1887)代前期の撮影である。長崎港に3艘の大型の船が撮影されている。1艘の船に石炭が積み込まれている。高島炭鉱等で良質の石炭が算出したために、長崎港は明治期には石炭の補給港として賑わった。陸上からの石炭を補給する施設がないために、和船で運んできた石炭を補給している。船の向こうは、南山手居留地の南限であり、大規模な洋館が鮮明に撮影されている。明治後期に造られる、マリア園や現在保存されている建物は見られない。石炭を補給している船の向こうに見えている坂道は、現在のどんどん坂である。写真の左隅に、後にロシア領事館と教会が造られる場所が見える。海岸線は、浪の平町から古河町の日本人住居地域である。

■ 確認結果

目録番号: 987「飽の浦からの汽船と南山手」が、最近発行された柴多一雄氏(前長崎大学附属図書館長)著「長崎古写真紀行」長崎文献社2011年6月刊118頁に掲載されている。
長崎新聞龍馬が動く関連企画「長崎遠めがね 古写真に見る町と人」をまとめた古写真集。右下に現在の写真を対比させているが、撮影場所がビルに隠れてわかりにくい。

データベース画像解説の「身投岩」の岬とは、現在の長崎市岩瀬道町「三菱重工業(株)長崎造船所本館」が建つところ。古写真の「右下」ではなく、「左下」の岩が「身投岩」のようである。この間に湾入があり、現在は第3ドックができている。浪の平の背後の山は鍋冠山。真ん中に星取山がわずかに覗く。右奥の遠い山は戸町岳である。

「三菱重工業(株)長崎造船所本館」は入構禁止なので、私は現在の写真を正門前から写した。実際の撮影場所は、鍋冠山をもう少し下から見上げているので、本館ビル下、迎賓館「占勝閣」となった先端あたりからではないだろうか。
本ブログの次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1590

なお、目録番号: 987「飽の浦からの汽船と南山手」は、米国セイラム・ピーボディー博物館所蔵「モースコレクション/写真編 百年前の日本」小学館2005年刊62頁にも掲載されている。同解説は次のとおり。撮影年代は「1890年頃」となっている。
85 長崎港 ca.1890 長崎
鎖国時代唯一の外国貿易港は、明治になっても良港として外国船の出入りでにぎわった。この角度では船影がまばらだが、港全体はパノラマ撮影によらなければ写せない。稲佐山側から港内を撮影したもの。

長崎の古写真考 目録番号:な し 時津の写真

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:な し 時津の写真

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:な し 時津の写真

■ 確認結果

ブライアン・バークガフニさんのサイトだろう「長崎古えはがき」の、「時津」の中に掲載されている写真から、2枚を取り出した。長崎大学データベースには見当たらない。
画像が小さいため、はっきりしたことが言えないが、
「TOKITSU」は、時津町浦郷の「八幡神社」。南側(現在の時津警察署あたり)から撮影しているのではないだろうか。
「THE STONE BRIDGE AT SUIKOEN TOGITSU NEAR NAGASAKI」は、時津町元村郷字丸田の「丸田橋」ではないだろうか。

「丸田橋」の架橋年代、アーチ式石橋だったか、「SUIKOEN」の地名?など調査中。海水は時津川をここまで上がるだろう。橋の向きから「丸田橋」が考えられる。
背景の右の山?は、滑石の方「烏帽子岳」で特徴がある。現在の山並みは、パーラー花工房4階駐車場から写しているので、古写真と異なる。

藤野保編「大村郷村記 第四巻」図書刊行会昭和57年刊の「時津村」。111〜112頁「往還道筋并川流之事」に次のとおり記録があった。伊能忠敬測量日記にはない。
現在の場所かはわからない。次が「継石(鯖腐石)」まで。当時の「長崎往還道」(時津街道)だったようである。上流の「鳥越橋」は表れていない。 
「…同茶屋本門より丸田川石橋 長サ五間、横貳間、此川以前傳石なり、天保ニ卯年新規石橋懸る、入銀高高谷庄藏之出 まて四町五間半、此間左田・人家或ハ山、右田原也…」

データベース目録番号:5653「時津の家並み」は、次の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/1566
https://misakimichi.com/archives/1837
撮影場所は、私は浦郷北泊「稲荷大明神」が祀られた公園の高台からと推定している。一方、「コミュニティ時津」歴史・史跡は、「浦郷北どまりの墓地付近」。 地元で良く検証してほしい。

長崎の古写真考 目録番号:な し 「(長崎名所) 諏訪神社ノ遠景」

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:な し 「(長崎名所) 諏訪神社ノ遠景」

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:な し 「(長崎名所) 諏訪神社ノ遠景」

■ 確認結果

現在の長崎市八幡町、中島川の大井手橋近くにあった、坂本龍馬らが倒幕議論したとされる料亭「玉川亭」の写真が、初確認された朝日新聞長崎地域版2010年11月27日付の記事を前に紹介していた。  https://misakimichi.com/archives/2455
写真は、英国の写真家F・ベアトが1864〜66年に撮影。横浜開港資料館に所蔵され、ベアト写真集に掲載されている。

「玉川亭」跡は、現在「キリスト教友愛社会館 友愛八幡町保育園」となっている。このあたりは、中島川の本流と西山川が合流し、「二股」と呼ばれる所。「玉川亭」は川魚料理が有名で、多くの会談に利用されたようだ。

位置的に「玉川亭」を撮影していると思われる写真を見つけた。撮影年代は新しくなるが、「All-view of Suwa Shrine Nagasaki. (長崎名所) 諏訪神社ノ遠景」の絵葉書。ブライアン・バークガフニさんのサイトだろう「長崎古えはがき」の、諏訪神社全景の中に掲載されていた。

この写真は、若宮稲荷神社中段の大鳥居あたりから撮影されている。中央に諏訪神社の白い鳥居と長坂が見える。左下は光源寺。甍の右先に写っている格式のある建物が、「玉川亭」のように思えたのだが…。
現地の上、下へ行って良く確認すると、これは私のまったくの誤認。後ろに「伊勢宮会館」とあるとおり、伊勢宮神社付近の建物であった。

「友愛八幡町保育園」の左横には、高い「七福マンション」などが建っている。7枚目の写真では、光源寺の甍のまだ左上先の位置となる。したがって、絵葉書の古写真には「玉川亭」は写っていない。
残念な結果となったので、この記事はタイトルから修正した。大井手橋下の中島川は、子どもたちの自然学習で賑わっていた。

長崎の古写真考 目録番号:な し 長崎彩色寺社名不明作品

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:な し 長崎彩色寺社名不明作品

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:な し 長崎彩色寺社名不明作品

目録番号:1291 大音寺本堂(1)
〔画像解説〕 超高精細データベース
F.ベアトの撮影。大音寺は、本博多町にあったキリスト教の施設ミゼリコルディアが元和6年
(1620)に破却された跡地に、僧伝誉が創立したという浄土宗の寺院で、現在地へは寛永15年
(1638)に移転したと伝えられる。幕末期には堂塔の頽廃が著しかったので大修繕が施され、元治元年(1864)に竣工したというが、本堂は天保3年(1832)に改築されたばかりであったから、大修繕には及ばなかったかと推察される。がともあれ、撮影されたのはその竣工後、間もない時期であろう。本堂の形式は、間口11間半に奥行き10間の平面に入母屋造りの屋根を架け、正面に中央唐破風の屋根装飾がある向拝を付している。但し、昭和戦前期の写真では、向拝は唐破風がない形式となっているので、これは大正年間の大修繕時に変更されたのであろう。戦後、火災に遇ったため、昭和37年3月に鉄筋コンクリートによる再建が成就した。いずれも規模は不変で、堂前の蘇鉄は今も健在である。

目録番号:5359 大音寺中門(3)
〔画像解説〕 超高精細データベース
上野彦馬の撮影。大音寺は、本博多町にあったキリスト教の施設ミゼリコルディアが元和6年
(1620)に破却された跡地に、僧伝誉が創立したという浄土宗の寺院で、現在地へは寛永15年
(1638)に移転したと伝えられる。幕末期には堂塔の頽廃が著しかったので大修繕が施され、元治元年(1864)に竣工したという。右手の重層、入母屋造、楼門形式の建物が中門で、脇の築地塀、前後の石段ともども現存する。左手のアーチ型の石門は、その背後にみえる安永9年(1780)に完成した開山・伝誉上人碑への入り口で、門塀も同時期の建設とみられる。中門の左上は文化9年(1812)に再建された鐘楼で、その右手には本堂の屋根も覗いている。鐘楼の右脇の大木は、昭和50年に市の天然記念物に指定された「大音寺のクロガネモチ」である。本堂が戦後に鉄筋コンクリート造に建て替えられたり、画面に写る石灯籠が一部失われたりしているが、全体の景観は今もよく残されている。

■ 確認結果

ポケットブックス | アンティーク絵葉書専門店 長崎県商品一覧にある「長崎彩色寺社名不明」の作品。
次のデータベース目録番号:1291「大音寺本堂(1)」と、目録番号:5359「大音寺中門(3)」のとおり、長崎市鍛冶屋町にある浄土宗の「正覚山大音寺」であろう。

中央唐破風の屋根装飾がある向拝、ソテツ、鐘楼、クロガネモチ、石灯籠など比較。明治時代?の貴重な古写真。長崎大学附属図書館が購入してほしい。
鐘楼は、同じ写真がHP「長崎古えはがき」の「DAIONJI」に掲載されている。

長崎の古写真考 目録番号:な し ベアト撮影「墓地」

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:な し ベアト撮影「墓地」

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:な し ベアト撮影「墓地」

目録番号:1289 中島川一の瀬橋(1)
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
橋の上には、刀を腰にさした男性と3名の女性、子供が写った蛍茶屋と一の瀬橋の風景を幕末の報道写真家F.ベアトが元治元年(1864)に来崎の折り撮影した写真である。この辺りを一の瀬といい、蛍の名所で、「一瀬晴嵐」として崎陽八景の名勝に数えられている。蛍茶屋は、長崎を訪れる人々が最初に市街地に入る地であり、また、長崎を旅立つ人々が別れを惜しんだ場所である。一の瀬橋は、本河内町と蛍茶屋間の長さ9.5m、巾4.9mの石造半円の石橋である。承応2年(1653)、中国浙江省の出身で唐通事陳道隆(日本名:頴川藤左衛門)が私財を投じ、4番目の石橋として架設した。長崎は幕末に至るまで、西洋文化の窓口であり、学問の中心地であった。長崎街道一の難所日見峠を越え学問を志す人々が通った橋である。坂本龍馬は「船中八策」に維新改革の綱領を打ち出し、高杉晋作は「上海日記」でアジア植民地化の実情を伝えた。

■ 確認結果

横浜開港資料館編「F.ベアト写真集1 幕末日本の風景と人びと」明石書店2006年刊の161頁に、「224.墓地」が掲載されている。撮影場所未詳か、タイトル以外、説明はない。
長崎大学データベースには見当たらない作品。

これは長崎の墓地であろう。長崎街道ここに始まる長崎市蛍茶屋。アーチ式石橋「一瀬橋」が残る一の瀬口手前左上の「光雲寺墓地」内(寺は出来大工町)。
左に写る「南妙法蓮華経」の大きな同じ石碑が現存する。文政七年(1824)眞龍院日琮聖人の建立。右面に「天下泰平国土安穏…」と刻む。右上奥は特徴のある「豊前坊」の山。

長崎大学データベースには、目録番号:1289「中島川一の瀬橋」がある。「橋の上には、刀を腰にさした男性と3名の女性、子供が写った蛍茶屋と一の瀬橋の風景を幕末の報道写真家F.ベアトが元治元年(1864)に来崎の折り撮影した写真である」と超高精細画像は解説している。
この墓地の写真も、同じ時に撮影したことが考えられる。墓地右下に立つ男性?が、一の瀬橋上の人物と白い着物で似ている。

長崎の古写真考 目録番号:な し 上野彦馬撮影「長崎の町から長崎港方面を望む」

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:な し 上野彦馬撮影「長崎の町から
長崎港方面を望む」

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:な し 上野彦馬撮影「長崎の町から長崎港方面を望む」

■ 確認結果

昨年4月、長崎崎歴史文化博物館で開催された「幕末長崎古写真展 ー龍馬と彦馬、維新のまなざしー」に展示されていた作品。画像解説はそのときから疑問があった。
長崎:江崎べっ甲店所蔵『上野彦馬撮影局ー開業初期アルバムー』中の写真。長崎大学データベースでは見当たらない。

尼崎市総合文化センター編「アルバムに見る幕末・明治の写真 −上野彦馬撮影局 開業初期アルバム大公開ー 目録」2007年5月発行の13頁に掲載されていたので、最近、撮影場所を調べてみた。同解説は次のとおり。執筆者は長崎大学姫野教授。

7−2 長崎の町から長崎港方面を望む     元治元(1864)年頃
上野撮影局の近くの高台から中島川および町越しに対岸の稲佐側を望んでいる。背後の高い山は形から長崎港口の神ノ島と判断できる。幕末に長崎の町の奥部から海側に向けて撮られた写真として珍しい。

背後の高い山は、形から長崎港口の「神ノ島」と判断しているが、稲佐山から南へ続く尾根の先端「天門峰」だろう。「神ノ島」までは見えない。
撮影場所は、背後の山を「天門峰」とすると、「上野撮影局」あたりからでは遠すぎる。鍛冶屋町の大音寺かと思ったが、先の大光寺背後の墓地高台からの方が景色が合う。
まだ近くから撮影されているようだが、現在では景色の見える所が限られる。

古写真の中央高台左に写る、洋館風の白い大きな建物とその右にある大屋根は何だろう。「小島養生所」と「大徳寺」?(維新の際に廃寺)ではないかと考えたら、撮影場所は対面にある「大光寺」(最後の写真の寺)あたりとなる。
「小島養生所」は、現在の長崎市立佐古小学校の地にあった。建物が「小島養生所」となるなら、違った方向から撮影した貴重な古写真になると思われる。

中央から右手へ下る高台は、現在の海星中学校や活水女子大学が建った東山手の丘だろう。この考えると、つじつまが合う作品である。
現在の写真は、大光寺墓地の中段あたりから、佐古小学校と天門峰を写した。

(2012年12月7日 追 記)
この作品は、「写真の開祖 上野彦馬」産業能率短期大学出版部 昭和50年発行の112頁に作品番号198として掲載されていた。「山の形からみて、寺町からみた長崎の町 慶応年間撮影」とある。大徳寺の屋根も確認できる。
目録解説は、これをまったく調べていない。鍛冶屋町「大光寺」からの撮影と考えてよい。

長崎の古写真考 目録番号:な し 上野彦馬撮影「稲佐山から長崎の港を俯瞰」 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:な し 上野彦馬撮影「稲佐山から
長崎の港を俯瞰」 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:な し 上野彦馬撮影「稲佐山から長崎の港を俯瞰」

目録番号:6165 稲佐山から見た長崎鳥瞰
〔画像解説〕  古写真ボードインコレクションから
元治元(1864)年頃、稲佐山の中腹から長崎市街を望んだ珍しい写真です。この写真により、和船は五島町あたりに停泊し、外国艦船は大浦の沖に停泊していたことが分かります。また、左の中央には西奉行所西役所や出島の建物が鮮明に写し出されています。中央奥は新地蔵と湊です。その上には小島養生所の建物も見えます。右の大浦居留地のバンド(海岸通り)の建物も鮮明です。その丘の上には文久2(1862)年に建った日本最初のプロテスタント教会である白い英国聖公会教会も見えます。その右の旗竿が建つ建物はイギリス領事館です。 -6165-

■ 確認結果

上野彦馬撮影「稲佐山から長崎の港を俯瞰」は、「写真の開祖 上野彦馬 −写真に見る幕末・明治ー」産業能率短期大学出版部昭和50年発行の126頁に掲載されている。長崎大学データベースでは見当たらない。
この写真は、127頁と見開きになっている4枚組のパノラマ写真(クリック拡大)。右に飽の浦、左に渕町まで写している。稲佐山山頂からの写真のようだが、そうでもない。

扇精光株式会社HP「上野彦馬ギャラリー」が、具体的な撮影場所を探している。「稲佐山の山の中(多分、中腹位) 残念なことにこの撮影場所までの遊歩道はもうありません」
次のHPを参照。 http://www.ougis.co.jp/virtual/hikoma/ueno.html
撮影場所をぜひ一度、訪ねたいと思っているが、木立が繁り現在でも4枚組パノラマの右左まで、景色が見通せるのだろうか。
現在の写真は、稲佐山の山頂展望台からのをとりあえず掲げた。したがって、尾根の状況など古写真どおりとなっていない。

次はボードインコレクションにある目録番号:6165「稲佐山から見た長崎鳥瞰」。前記作品とは、手前の尾根は同じようだが、尾根に近づいて撮影の高度感が低い。明らかに山腹のより下から撮影されている。
私が探した撮影場所は、長崎清風ホテルの先、水の浦トンネル上の「天狗岩」だが、まだ確証となっていない。対岸の三景台は山が削られている。長崎清風ホテル左上の「九電三菱電機分岐線2号鉄塔」の場所も可能性はあるが、木立に囲まれ確認できない。
本ブログ次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1608

長崎大学附属図書館HP「古写真ボードインコレクション」長崎のパノラマ風景対比写真は、別の尾根を写しているようだ。対岸の愛宕山の位置が合っていない。

(追 記 2011年6月28日)
明治34年測図国土地理院旧版地図は、最後のとおり。稲佐山中腹バス停から長崎スカイホテル横の石段を上がり、九電北長崎25号線鉄塔を通って、稲佐山展望台真下の車道(2枚目左手前、カーブミラーがある)へ出る明治地図の山道を登ってみた。

扇精光株式会社HPのこれが遊歩道なら、現在も荒れてなく歩けるが、長崎港や市街を見渡せるような岩場などなく、HPの撮影場所がどこかわからなかった。
上野彦馬撮影「稲佐山から長崎の港を俯瞰」の最初の1枚だけ見ると、撮影場所は少し中腹?となるかも知れないが、4枚組パノラマの全体を撮影できた場所となると、当時の稲佐山山頂からと考えて良いと感じた。

古写真と絵葉書に見る茂木街道

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古写真と絵葉書に見る茂木街道

ブライアン・バークガフニ氏の研究紀要「古写真と絵葉書に見る茂木街道」。長崎大学附属図書館「古写真研究 第3号」2009年5月発行57〜62頁に掲載されている。地元や茂木史談会には貴重な資料となるだろう。

英文のため、本文は省略し、古写真と絵葉書、図版解説の部分だけ抜粋した。長崎大学データベースには、ほかにも多数の茂木街道関係写真があるので参照。新しく茂木街道と判明した作品もあり、本ブログの次の記事としている。
https://misakimichi.com/archives/2218

「上野彦馬の人物像」による上野撮影局撮影作品

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「上野彦馬の人物像」による上野撮影局撮影作品

長崎伝習所出島事始め塾企画・編集「上野彦馬の人物像ーその業績とその後の長崎」が平成15年3月に発行されている。塾の研究成果の報告書。
「上野撮影局が撮影した写真」が、次のとおり掲載されている。参考のため(1)(2)の肖像写真を除き、そのまま載せる。

7.上野撮影局が撮影した写真
(1)日本人・ 写真(35−1〜20)     掲載略
(2)外国人・ 写真(36−1〜10)     掲載略
(3)風景写真・ 写真(37−1〜22)
(4)軍 艦・ 写真(38−1〜 8)
(5)その他・ 写真(39−1〜 4)

■ 確認結果

全部が「上野彦馬」撮影作品と思われそうな写真集の報告書だが、そうではない。あくまで「上野撮影局が撮影した写真」と記す。一部、明らかに門下生で後に開業した「内田九一」撮影とされる作品も見られるようだ。

参考文献・資料、写真所蔵は、59頁にある。長崎大学附属図書館は、この報告書も生かしさらに研究を進め、「幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」を整備していただきたい。

長崎の古写真考 目録番号:な し 上野彦馬撮影「長崎の運河」

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:な し 上野彦馬撮影「長崎の運河」

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:な し 上野彦馬撮影「長崎の運河」
〔画像解説〕
長崎の運河とそこに浮かぶ木造の小舟。当時の長崎では数多くの運河が掘削され、物流の回路が形成されていた。「Nagasaki.Japan.One of the numerous Canals.intersecting the Native City.“Low water.”」(地元の街を交差する多数の運河のひとつ、低水位、長崎、日本)との書込みがある。

■ 確認結果

馬場章氏編「上野彦馬歴史写真集成」渡辺出版2006年刊54頁に掲載がある「41 長崎の運河」。画像解説は上記のとおり。
撮影者 上野彦馬  撮影・流通年 明治6年(1873)  所蔵者 学校法人産業能率大学
長崎大学データベースに見当たらない。具体的な撮影場所の解説がない。

写真中央左にアーチ式石橋が写る。新地蔵の銅座側門口に昔から架かっていた石橋「新地橋」である。後ろの木立の高台は大徳寺跡。左端奥から愛宕山の稜線が下る。
現在の十八銀行本店前あたり、中島川河口に架かっていた「新大橋」の上から、合流する銅座川を向いて、「新地橋」手前の舟だまりを写していると思われる。
新地橋の地図は、九州大学デジタルアーカイブから「長崎港新図」 明治27年(1894) 出島部分の拡大。

この作品は、上野彦馬撮影次の目録番号:6078「大徳寺跡から新地と出島を望む」を参照。
長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社刊2007年初版の29頁による解説は次のとおり。
「新地橋」を大徳寺跡から、逆方向に写している。「新地橋」の貴重な石橋写真であるのに、「新地橋」には注目されていない。

21 大徳寺跡から新地と出島を望む   278×215
明治元年(1868)に廃寺になった大徳寺跡から新地ごしに出島を望む。明治2年(1869)に架設された出島右端の出島新橋と中島川河口部の長さ48.6mの新大橋、さらに梅香崎と西浜町を結ぶ梅香崎橋が見える。前ニ者は木製の桁橋である。出島右の茂みの中に県庁舎は見えない。遊歩道建設のための出島の築石の石垣が新しい。左の新地蔵裏の内海の埋立が進んでいるのがわかる。右の川は銅座川。(21・22・23は3枚組写真)

「新地橋」の記事は、  https://misakimichi.com/archives/2173
「広場場橋」の写真は、 https://misakimichi.com/archives/2348
https://misakimichi.com/archives/2462