長崎の古写真考 目録番号:な し ベアト撮影「墓地」

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:な し ベアト撮影「墓地」

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:な し ベアト撮影「墓地」

目録番号:1289 中島川一の瀬橋(1)
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
橋の上には、刀を腰にさした男性と3名の女性、子供が写った蛍茶屋と一の瀬橋の風景を幕末の報道写真家F.ベアトが元治元年(1864)に来崎の折り撮影した写真である。この辺りを一の瀬といい、蛍の名所で、「一瀬晴嵐」として崎陽八景の名勝に数えられている。蛍茶屋は、長崎を訪れる人々が最初に市街地に入る地であり、また、長崎を旅立つ人々が別れを惜しんだ場所である。一の瀬橋は、本河内町と蛍茶屋間の長さ9.5m、巾4.9mの石造半円の石橋である。承応2年(1653)、中国浙江省の出身で唐通事陳道隆(日本名:頴川藤左衛門)が私財を投じ、4番目の石橋として架設した。長崎は幕末に至るまで、西洋文化の窓口であり、学問の中心地であった。長崎街道一の難所日見峠を越え学問を志す人々が通った橋である。坂本龍馬は「船中八策」に維新改革の綱領を打ち出し、高杉晋作は「上海日記」でアジア植民地化の実情を伝えた。

■ 確認結果

横浜開港資料館編「F.ベアト写真集1 幕末日本の風景と人びと」明石書店2006年刊の161頁に、「224.墓地」が掲載されている。撮影場所未詳か、タイトル以外、説明はない。
長崎大学データベースには見当たらない作品。

これは長崎の墓地であろう。長崎街道ここに始まる長崎市蛍茶屋。アーチ式石橋「一瀬橋」が残る一の瀬口手前左上の「光雲寺墓地」内(寺は出来大工町)。
左に写る「南妙法蓮華経」の大きな同じ石碑が現存する。文政七年(1824)眞龍院日琮聖人の建立。右面に「天下泰平国土安穏…」と刻む。右上奥は特徴のある「豊前坊」の山。

長崎大学データベースには、目録番号:1289「中島川一の瀬橋」がある。「橋の上には、刀を腰にさした男性と3名の女性、子供が写った蛍茶屋と一の瀬橋の風景を幕末の報道写真家F.ベアトが元治元年(1864)に来崎の折り撮影した写真である」と超高精細画像は解説している。
この墓地の写真も、同じ時に撮影したことが考えられる。墓地右下に立つ男性?が、一の瀬橋上の人物と白い着物で似ている。