長崎の古写真考 2」カテゴリーアーカイブ

長崎の古写真考 目録番号:な し 上野彦馬撮影「出島」 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:な し 上野彦馬撮影「出島」 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:な し 上野彦馬撮影「出島」 ほか

■ 確認結果

扇精光株式会社作成のHP「上野彦馬ギャラリー」に、貴重な写真がある。過去と現在をムービーで対比できる。ほぼ正確な撮影場所を探し出している。ほかの撮影者が写した関係写真の参考となる。   http://www.ougis.co.jp/virtual/hikoma/ueno.html

出典「写真の開祖 上野彦馬 ー写真に見る幕末・明治ー」発行所:産業能率短期大学出版部 発行者:上野一朗から5作品。3、4は、長崎大学のデータベースにあり、前記事としているので参照。あらためて全部を紹介する。

1 出 島   オランダ坂の上、中新町の墓地の中から撮影
2 長崎港   立山2丁目長崎ホテル横の空き地から撮影
3 眼鏡橋   眼鏡橋より下流の袋橋の上から撮影
https://misakimichi.com/archives/2726
4 長崎市街  伊良林3丁目風頭公園展望台から撮影
https://misakimichi.com/archives/2725
5 長崎港   稲佐山の山の中(多分、中腹位)から撮影 

長崎の古写真考 目録番号:なし 長崎港遠景

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:なし 長崎港遠景

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:なし 長崎港遠景  〔撮影者:F.ベアト〕

■ 確認結果

横浜開港資料館編「F.ベアト写真集1−幕末日本の風景と人びと」明石書店2006年刊124頁に掲載されている「159.長崎港遠景」。長崎大学のデータベースには収録されていない。
写真集の解説も、長崎港の歴史だけふれ、撮影場所を説明していない。

この作品について先日、古写真考のある記事に、次のコメントによる質問を受けている。
ベアト写真集「159.長崎港遠景」で、手間側の陸地はどの辺りでしょうか? 2011/4/14(木) 午前 8:11 [ 恵夢 ]

遠くの山は、高いのが烽火山、低いのが武功山である。右端は風頭山の一部だろう。
それら山の稜線と、手前の三菱重工長崎造船所側の当時の岬を合せると、現在の岩瀬道町八軒家バス停の上部あたりから撮影した写真と思われる。
この岬に三菱重工本社ビルと迎賓館占勝閣場ができ、下の入り江に第二ドックができている。
最後の写真は、西立神町の「NTTドコモ西立神基地局」近くへ行って写したが、ここでは少し違うようである。

長崎の古写真考 「幕末 写真の時代」 138:飽ノ浦より長崎港を望む

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  長崎の幕末・明治期古写真考 「幕末 写真の時代」 138:飽ノ浦より長崎港を望む

「幕末 写真の時代(第2版)」筑摩書房 2010年3月発行から、気付いた作品を取り上げる。

133頁  作品 138:飽ノ浦より長崎港を望む 
F・ベアト撮影 慶応年間(1865〜68)後半〜明治初期 鶏卵紙(横浜開港資料館所蔵)
〔画像解説〕
文久元年(1861)長崎の対岸飽ノ浦の地に幕府はオランダの指導援助をうけ長崎製鉄所を完成している。この写真はその製鉄所の上の丘より港の入口、戸町・女神方面を撮し、遠景の山は長崎半島である。港内の軍艦はイギリスのバロッサ号であるという。

■ 確認結果

133頁の作品 138 は、「長崎製鉄所の上の丘より港の入口」を撮しとあるが、飽の浦の恵美須神社付近の高台からは、長崎港内の地形上、港の入口戸町・女神方面は見えない。海に落ちる山の傾斜も急である。
この作品は、港のまったく反対側、居留地造成中の「松ヶ枝海岸埋立地」高台から、長崎港の奥を向いて撮影されていると思われる。写真右側の集落が写る岬は、現在の稲佐橋が架かる「鵬ヶ崎」だろう。同写真集53頁に、同じような光景がある。

53頁  作品 39:長崎港全景
ロシエ撮影 万延元年(1860) 鶏卵紙 (イギリス国立公文書館所蔵)
〔画像解説〕
この組写真は現在グラバー邸のある丘の上に写真機を据え360度の角度で長崎市域全景を撮影したもの。… ⑤は飽ノ浦より続いている丘で鵬ヶ崎。その岬の先端は浦上川の河口。…

横浜開港資料館所蔵には、別の組写真「長崎居留地パノラマ(4枚続き)」もある。
3点の作品とも、松ヶ枝付近から、長崎港の奥、鵬ヶ崎・浦上川河口方面を撮影していることがわかるだろう。
2010年3月15日発行の写真集(第2版)最新版である。そのままの画像解説ではどうかと思われるので、検証をお願いしたい。

この写真は、2010年6月18日すでに指摘済だったので、次の記事も参照。
https://misakimichi.com/archives/2360

長崎の古写真考 「甦る幕末」 154:長崎・大浦外人居留地

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      長崎の幕末・明治期古写真考 「甦る幕末」 154:長崎・大浦外人居留地

「甦る幕末」のもう1冊の新版「写真集 甦る幕末 ライデン大学写真コレクションより」朝日新聞社 1987年発行から、気付いた作品の4点目。

138頁  作品 154:長崎・大浦外人居留地
〔画像解説〕
飽の浦より大浦居留地を望んでいる。海岸に近い左手の森は現在活水大学のある東山手の丘、そこから左手の町並みが旧長崎市街、左端の寺は筑後町の本蓮寺である。後方の大きな山は彦山。

■ 確認結果

「甦る幕末」の作品 154 と同じような光景の写真は、長崎大学データベース目録番号:3239「飽の浦からの長崎港(6)」がある。対岸飽の浦の恵美須神社付近から長崎市街を写したパノラマ写真の一部。明治天皇西国・九州巡幸に随行した内田九一の撮影とされる。

一見「甦る幕末」の作品も、撮影場所は同じ飽の浦の恵美須神社付近からと思われそうだが、彦山・愛宕山などの山の姿と重なりから、飽の浦の先、現在岩瀬道町の三菱重工長崎造船所本社ビル下、占勝閣(迎賓館)がある身投崎あたりから撮影されたのではないだろうか。

写真の正面は大浦海岸通りの居留地で、左は出島となる。その後ろの低い山並みは風頭山一帯であろう。したがって、左端の寺は立山下の筑後町「本蓮寺」でなく、風頭山下の鍛冶屋町「大音寺」と、右は「大光寺」ではないかと思われる。
現在の大音寺と、寺上墓地から長崎港(高いビルのため見えない)を挟んだ対岸岩瀬道町の三菱重工長崎造船所本社ビルを写してきた。

長崎の古写真考 「全国名所一覧」 高島石炭鉱・西浜町付近

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    長崎の幕末・明治期古写真考 「全国名所一覧」 高島石炭鉱・西浜町付近

平凡社「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖」2004年11月 初版第二版発行から、気付いた作品を取り上げる。本写真集は、長崎市図書館の蔵書である。

72頁  高島石炭鉱
〔画像解説〕
長崎の港外、高島の高島鉱業所二子坑における石炭積み込み風景。後景は飛島。坑口から運び出される石炭を人夫が箱型のトロッコで桟橋まで押し、桟橋にあけられた穴の所で箱の底板を抜き、海上の石炭運搬船に石炭を落下させている。運搬人夫は和服を端折ってトロッコを押し、長崎港に石炭を運ぶ運搬船5艘のうち2艘は桟橋の下に船腹を入れている。当時の石炭荷役における船舶積み込み方法がわかる。手前の和船の名前は「栄力丸」と読める。桟橋には子供2人が座り、左側には炭鉱技師と思われる外国人がこれを見物している。高島炭坑は慶応4年(1868)、佐賀藩とグラバーが共同経営契約を結び開発した。明治6年(1873)に官営となり、同7年後藤象二郎の手に渡ったが、同14年三菱の岩崎弥太郎がこれを引き継いだ。この写真は同5年頃。上野彦馬が撮影したとされているが、同じ頃長崎の薛(せつ)信一も高島炭鉱のグラバーを撮影しており、撮影者は特定できない。

72頁  西浜町付近
〔画像解説〕
「小路屋町町屋の図」と題されているが、これに該当する麹屋町(旧名)は中島川の上部内陸で、原題は間違っている。同じ場所を撮影したこれより古い写真(ベアトの撮影と推測される)が「Views & Costumes of Japan by Stillfreid & Andersen,Yokohama」と題されたアルバム(長崎大学附属図書館所蔵)に収載されている。これは中島川河口の西浜町(旧名)付近、おそらく長久橋の上から上流の大橋を撮影したものである。後景の山は三ッ山と彦山。時代は明治初年で、撮影者は内田九一か。河口に近い長久橋の右背後に新地の唐人荷物蔵があり、左背後に旧表物役所(現、十八銀行本店)が見えたはずである。写真では右側が西浜町で左側が東築町(旧名)である。この写真から中島川河口の幅は明治初年にはまだ広くて深いことがわかる。川岸に多くの船が係留されている。ここ一帯は海産物問屋が多く、貿易で大いに発展した。

■ 確認結果

最初の「高島石炭鉱」の画像解説の中、高島鉱業所「二子坑」における石炭積み込み風景は、飛島が正面となる「北渓井坑」が正しい。「二子坑」は高島の南端、反対側の小島の坑である。
撮影者は内田九一と特定された。
この項は次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/2237
二子坑は、           https://misakimichi.com/archives/1620

次の「西浜町付近」の画像解説の中、この写真は「長久橋の上から上流の大橋を撮影したもの」でなく、「新大橋から上流の長久橋を撮影したもの」である。したがって、唐人荷物蔵や旧俵物役所(「表物」は誤り)の場所説明も変わってくる。
後景の山の「三ッ山と彦山」は、「三ッ山と健山」が正しい。撮影年代、撮影者は要調。
この項は次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/2159

長崎の古写真考 「幕末 写真の時代」 138:飽ノ浦より長崎港を望む

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  長崎の幕末・明治期古写真考 「幕末 写真の時代」 138:飽ノ浦より長崎港を望む

筑摩書房「幕末 写真の時代(第2版)」2010年3月発行から、気付いた作品を取り上げる。

138頁  作品 138:飽ノ浦より長崎港を望む
〔画像解説〕
F・ベアト撮影 慶応年間(1865〜68)後半〜明治初期 鶏卵紙
文久元年(1861)長崎の対岸飽ノ浦の地に幕府はオランダの指導援助をうけ長崎製鉄所を完成している。この写真はその製鉄所の上の丘より港の入口、戸町・女神方面を撮し、遠景の山は長崎半島である。港内の軍艦はイギリスのバロッサ号であるという。

■ 確認結果

作品 138「飽ノ浦より長崎港を望む」は、横浜開港資料館蔵。F・ベアト撮影なのに、長崎大学テータベースでは見当たらない。横浜開港資料館はこんな画像解説をしているのだろうか。しかも筑摩書房の2010年3月15日発行最新写真集である。

この写真は、南山手の高台から造成中の松ヶ枝居留地越しに長崎港の湾奥を撮影していると思われる。左下隅の建物を調べてもらいたい。
撮影場所は「(飽ノ浦の長崎)製鉄所の上の丘より港の入口、戸町・女神方面を撮し、遠景の山は長崎半島である」とはならない。反対の方向を解説している。
写真左の尾根は、稲佐山からの尾根で、大鳥崎・稲佐崎・鵬ヶ崎の海岸となる。奥に岩屋山からの尾根と中央に浦上水源池近くの山、右は金比羅山の稜線となろう。

2枚目は、同写真集の作品 39「長崎港全景」ロシエ撮影 万延元年(1860)。53頁に掲載されている⑤の部分。イギリス国立公文書館蔵。
「現在グラバー邸の丘の上の写真機を据え…撮影。…⑤は飽ノ浦から続いている丘で、鵬ヶ崎。その岬の先端は浦上川河口」と解説している。左半分が、作品 138と同じような景色であることがわかるだろう。

参考のため長崎大学データベースから画像が鮮明な、目録番号:5301「南山手より長崎港湾奥を望む」を掲げる。上野彦馬撮影。画像解説は次のとおり。
現在の写真は、グラバー園内の下の方の展望台から写した。

南山手の先端、グラバー住宅付近から長崎湾奥を見た写真である。船の形から、幕末から明治初期の写真である。上野彦馬アルバムに貼られているものである。長崎湾の中央におびただしい数の艦船が結集している。多くの船はまだ機帆船で、近代的な艦船になっていない。このことから、写真の撮影時期がわかる。写真の左手は、飽ノ浦・稲佐地区で、左隅の白い建物の一群は、官営飽ノ浦製鉄所の建物である。その先に、稲佐地区の岬が見えている。右岸側は長崎市街地の沿岸部であり、浦五島町から大黒町である。市街地の北の端が西坂の丘である。右上の山は立山で、山裾の建物は、筑後町の寺院群である。写真正面の岬の突端に聖徳寺が見えている。そこから下、写真中央の海岸線が浦上新田である。その後、明治・大正・昭和と長崎湾の埋め立てが進み、長崎湾のこのような広大な姿を見ることはできない。幕末から明治初期の開港後の雄大な長崎港の姿を撮影した写真である。

長崎の古写真考 明治絵葉書 長崎材木町魚市場(2)

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長崎の幕末・明治期古写真考 明治絵葉書 長崎材木町魚市場(2)

眼鏡橋の1つ下流の石橋「袋橋」脇の中島川公園に設置されている「長崎さるく説明板」に使用されている明治絵葉書の古写真。長崎歴史文化博物館所蔵となっている。
絵葉書のタイトルは「長崎市材木町魚市場」だが、さるく説明板は「中島川の成り立ち」として、次のとおり説明している。

中島川の成り立ち

明治時代の中島川の風景です。中島川は自然にできた川ではなく、長崎開港後、ポルトガルや中国との貿易港として栄えた南蛮時代に人工的に造られた川です。かつて「大川」とも呼ばれていた中島川は、まちの中心部を流れ、住民の生活のより所となる「母なる川」として、歴史的にも文化的にも重要な役割を果たしてきました。明治末期頃、中島川は輸送用の小船などが行き交い、重要な水路としてまだ利用されていました。写真は賑橋(当時の材木町)付近で、川を運搬路として利用し、魚市場等が設けられていました。

■ 確認結果

以上は、長崎の古写真考において前の記事とした長崎歴史文化博物館所蔵の明治絵葉書「長崎市材木町魚市場」。「長崎さるく説明板」の説明である。
前の記事は、 https://misakimichi.com/archives/2356

ところが不思議なことがあった。株式会社図書刊行会「50 ふるさとの想い出 写真集 明治 大正 昭和 長 崎」昭和58年8月発行 再版の59頁「●市場」に、この絵葉書写真とあと1枚新たな写真の掲載がある。画像解説は次のとおり。

98 材木町の魚市場
江戸時代より明治の末年まで魚市場は中島川の河口、材木町の石段を登ったところにあった。前方に見える鉄橋は賑橋である。

99 材木町の魚市場
中島川より石段を登ると石敷の広場があった。川には毎朝魚船が詰めかけ、魚の取引きが賑やかにその広場で行なわれていた。(写真は明治30年頃)

画像をおかしいなと思って見たら、絵葉書写真とは反転されて掲載されている。絵葉書写真を試しに1枚目に反転してみた。石橋だった賑橋は、1901年(明治34)フラットトラス構造の鉄橋に架け替えられている。
写真集の初版発行は昭和54年6月。初版から反転されていたかはわからない。材木町の魚市場の位置や背景の山から考えると、反転の光景は誤りと思われる。越中先生、これで良いでしょうか。

同写真集には、別に次の間違いがあるようだ。
8頁 作品7 立神方面より港口を望む  撮影場所は戸町の丘(墓地)からである。
https://misakimichi.com/archives/2350

長崎の古写真考 明治絵葉書 長崎材木町魚市場

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長崎の幕末・明治期古写真考 明治絵葉書 長崎材木町魚市場

眼鏡橋の1つ下流の石橋「袋橋」脇の中島川公園に設置されている「長崎さるく説明板」に使用されている明治絵葉書の古写真。長崎歴史文化博物館所蔵となっている。
絵葉書のタイトルは「長崎市材木町魚市場」だが、さるく説明板は「中島川の成り立ち」として、次のとおり説明している。

中島川の成り立ち

明治時代の中島川の風景です。中島川は自然にできた川ではなく、長崎開港後、ポルトガルや中国との貿易港として栄えた南蛮時代に人工的に造られた川です。かつて「大川」とも呼ばれていた中島川は、まちの中心部を流れ、住民の生活のより所となる「母なる川」として、歴史的にも文化的にも重要な役割を果たしてきました。明治末期頃、中島川は輸送用の小船などが行き交い、重要な水路としてまだ利用されていました。写真は賑橋(当時の材木町)付近で、川を運搬路として利用し、魚市場等が設けられていました。

■ 確認結果

中島川公園には、清水崑の少年かっぱ「ぼんたくん」に会いに行ったのではない。数年前からここに設置されている「長崎さるく説明板」を確認に行った。 

ブログ長崎の手彩色絵葉書 http://ameblo.jp/ehagaki-nagasaki/theme-10011185899.html
「長崎魚市場は、寛永時代 (1624-1643) に長崎市金屋町に開設され、その後、魚町、材木町へと移りました。 寛永4年 (1664) 、材木町、中島海岸に移転した魚市場は、明治後期まで使用されたようです。…
この絵葉書の場所は築町付近で、右手には橋が見えます。この中島川には、日本初の鉄製の橋、銕橋 (くろがねばし)があります。長崎市民は親しみをこめて「てつばし」と呼んでいます」
とあり、誤解がある説明であろう。

「長崎さるく説明板」は、袋橋の所にある。下流の常盤橋を挟んで次の下流の賑橋を向いて設置されていたので可とした。しかし、上流に魚市橋があるので、市場の変遷を少しふれるべきだろう。隣の遊さるくゴール地点地図に賑橋が載っていないので、「写真は、このすぐ下流の賑橋(当時の材木町)付近で」くらいは説明してほしい。

ところで、古写真の右側の橋は「賑橋」だろうか。これは間違いない。HP「長崎・中島川石橋群と眼鏡橋【ここは長崎ん町】」の次記事を参照。フラットトラス構造の鉄橋の時代があった。賑橋脇には現在の通称、恵比須神社があるあたりで、電車軌道が斜めになって中島川を渡っている。
http://isidatami.sakura.ne.jp/isibasigun2.html

賑橋(にぎわいばし)(第十三橋)
賑橋は江戸時代初めに木廊橋として架橋され、「榎津橋」または「第十三橋」と呼ばれた。
1666年(寛文6)崇福寺の大壇越であった何高材(がこうざい)の寄進によって石橋に架けかえられたが、1795年(寛政7)の大水害で流失、1799年(寛政11)公費で再架橋された。
1901年(明治34)フラットトラス構造の鉄橋に架け替えられ時、付近に魚市場があり賑わっていたことと、榎津町と材木町との間に架かっていて、どちらの町も「木」偏が付いていて、二つの木(き)が合う「にぎあう」ということで賑橋と改称されたと言われている。
1928年(昭和3)鉄筋コンクリート橋になり、現在の橋は1990年(平成2)に再架されたものである。

確認したのは、屋根上に少し写った背景の山並みである。賑町パーキング7階から見たら、現在の立山、長崎県立長崎東高校上の山(若杉山か。古写真の目線は低い)の稜線と思われる。
古写真と同じような橋の光景は、逆に上流右岸から榎津町を向いても写せる。そうすると山の姿が違う星取山あたりが写る。
あくまで絵葉書のタイトルどおり、中島川左岸(榎津町側)から材木町(現在は賑町)を向いて撮影した写真であろう。最後が「長崎さるく説明板」の設置場所。正面の橋は常盤橋である。

長崎の古写真考 「甦る幕末」 151・152:長崎・立神の丘より長崎港口を望む

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長崎の幕末・明治期古写真考 「甦る幕末」 151・152:長崎・立神の丘より長崎港口を望む

「甦る幕末」のもう1冊の新版「写真集 甦る幕末 ライデン大学写真コレクションより」朝日新聞社 1987年発行から、気付いた作品の2、3点目。

136頁  作品 151:長崎・立神の丘より長崎港口を望む
〔画像解説〕
右手奥の岬は長崎の港口・女神、中央に浮かぶ島は高鉾島である。高鉾島はキリシタン時代の殉教地の1つで、長崎に来航したオランダ人はパーペンべルグ島(神父の島)とよんだ。左手の入り江は戸町の港である。

136頁  作品 152:長崎・立神の丘より長崎港口を望む
〔画像解説〕
中央・高鉾島の後方の大きな島は伊王島、すぐ左手は香焼島、そしてその前の小さな島はねずみ島。慶長15年(1610)、有馬晴信に攻撃されたマドレ・デ・デウス号は、高鉾島と伊王島の間で撃沈されている。

■ 確認結果

「甦る幕末」の2作品とも、長崎港口の「高鉾島」を撮影した古写真。長崎大学データベースにより”高鉾島”と検索すると、48点と多くある。上野彦馬撮影の目録番号:5321「高鉾島(26)」及び目録番号:5320「高鉾島(25)」と同じ作品である。

「甦る幕末」の作品 151 は、タイトルを「長崎・立神の丘より長崎港口を望む」としている。画像解説の「左手の入り江は戸町の港である」はそのとおり。「立神」は、長崎港を挟んだ「戸町」の対岸。撮影場所がタイトルのように「立神の丘より」となることはない。

「右手奥の岬は長崎の港口・女神」も「左手からの奥の岬」か。写真に写っているのは、女神の1つ前の中小造船所がある岬である。右手前の墓地上となる尾根は、マンション建設のため削られ、稜線が変わっている。
長崎大学データベースの目録番号:5321「高鉾島(26)」の解説どおり、撮影場所は「戸町の背後の山から」が正しい。具体的には「戸町の山手墓地(勝廊寺墓地)から」撮影されている。

作品 152 も、タイトルを一緒に「長崎・立神の丘より長崎港口を望む」としている。長崎大学データベースの目録番号:5320「高鉾島(25)」の作品。
同解説は「戸町の背後の山から長崎湾口を撮影したもの。写真中央の島が高鉾島。右の半島の先が神埼鼻、その向こうに神の島があり、その左の島が高鉾島」と説明している。

この作品の撮影場所は、検証が必要である。前の作品 151 と同じ「戸町の山手墓地から」撮影されたように思われるが、そうではない。
「神の島」や小さな「ねずみ島」が、高鉾島の右側に見える。左側からの「香焼島」や「伊王島」は、高鉾島ピーク上の高い水平線上に写っている。同じ「高鉾島」を撮影していても、高度感と光景がまったく違う写真だろう。

私の調査では、「星取山」(標高270.0m)山頂が、この写真の撮影場所と考えられる。戸町墓地背後のさらに高い山。上野彦馬はアメリカ隊金星観測の写真撮影に関わったことがある。
ベアトなどが星取山から長崎市街や港の方を撮影した写真もある。
( 参照  https://misakimichi.com/archives/1877 )
山頂一帯は現在、NTT長崎統制無線中継所や長崎市水道の巨大配水タンク場となって立入禁止である。周りは植林・雑木・竹が茂り、長崎港口方面の視界がきかない。
古写真と同じ「高鉾島」の光景を確認できないので、南東側の山腹「大正寺星取墓地公園」(星取2丁目)と、北西側「錦職寺墓地」(長崎霊園の上 出雲3丁目)からの写真を載せた。

長崎の古写真考 「甦る幕末」 123:長崎市街風景

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長崎の幕末・明治期古写真考 「甦る幕末」 123:長崎市街風景

「甦る幕末」のもう1冊の新版「写真集 甦る幕末 ライデン大学写真コレクションより」朝日新聞社 1987年発行から、気付いた作品を次記事とも3点取り上げる。

110頁  作品 123:長崎市街風景
〔画像解説〕
手前中央に石橋があり、遠景の右に片渕町、左に諏訪神社の森、遠くに三ツ山が見える。しかし、この石橋はどこの橋か。珍しい写真である。

■ 確認結果

石橋が群を成した中島川のみで考えるから、手前中央の石橋は「どこの橋か」わからなくなったのだろう。中島川は左上の家並みの中を流れている。写真の石橋は、変流埋め立て前の銅座川に架かっていた「新地蔵所」南門の石橋なのである。
撮影場所は、現在の梅香崎郵便局から遠見番長屋跡や活水大学へ上がる石段の途中にある「天満宮」の高台あたりから撮影されたと思われる。左上隅は金比羅山の山頂である。
現在の写真は、山並みが確認できないため、天満宮より少し上部の場所から撮影した。

新地蔵所(しんちくらしょ)は、江戸時代に長崎の新地町に造られた貨物倉庫である。元禄11年(1698)後興善町から出火した火災により、当時長崎に入港していた唐船20隻分の荷物を収納していた樺島町(椛島町)の土蔵が全焼した。
そのため、浜町の海岸沿いを埋め立てて人工島を築造し、そこに唐船専用の貨物を納める倉庫を建造する事になった。翌12年(1699)着工、同15年(1702)に倉庫が完成した。
島の構内は土塀で囲まれていて、出入り口は東側の正門と南東側の南門の2ヶ所。正門は新地橋で西浜町と、南門は石橋で広馬場や唐人屋敷とそれぞれ結ばれていた。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

長崎大学のデータベースでは所蔵がないのか、この古写真は見当たらない。目録番号: 6054「大徳寺跡から県庁方面を望む」には、新地蔵所の正門、新地橋の石橋が写っている。
広場場や唐人屋敷と結ぶ南門も、奥の船溜りに入るため橋高なアーチ式石橋が手前に架かっていた。長崎名勝図絵に描かれ石橋の記録があるものの、初めて石橋の姿がわかった貴重な古写真と思われる。
目録番号:3855「大徳寺遠望」(略)は、南門石橋上から大徳寺を撮影したようだ。

古写真左側に写っている長屋の建物が、「新地蔵所」の蔵の一角である。南門の橋は、布袋厚氏著「復元! 江戸時代の長崎」長崎文献社 2009年発行 180頁の、【250】唐人屋舗付近の復元図では「板橋」となっている。
正門の新地橋と同時に架設したと思われる石橋が、広馬場側にも実際あったのである。
同復元図によると、南門石橋の位置は、現在の広馬場商店街通り入口、左角の前三菱信用組合広馬場支店の建物(現在は、オガワ・デンタル・クリニック)後ろあたりと考えられる。路地が川筋の形状をしている。駐車場に橋材だったと思われる石がまだ残っていた。

幕末の「肥前長崎図」は、九州大学デジタルアーカイブから、川原慶賀筆「長崎図」の一部は、筑摩書房「江戸時代図誌25 長崎・横浜」から参考のため。長崎古今集覧名勝図絵(稿本)には、南門の石橋が「新地南門より唐人屋敷荷物運図」、「祭舟流図」などに描かれている。
「図ー5 港湾改修工事と橋の架設」は、長崎古写真集(居留地篇)130頁から。同関係年表では、「明治2年(1869) 10月、新地背面の築き増し工事完成により、新地が島でなくなる」とある。したがって撮影年代はそれ以前となる。最後は南門古写真の拡大。石橋に間違いないだろう。

この石橋のことは、記事を2010年12月12日に追加したので、次も参照。
https://misakimichi.com/archives/2462