長崎の古写真考 2」カテゴリーアーカイブ

長崎の古写真考 「写された幕末」石黒敬七コレクションなどから

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長崎の幕末・明治期古写真考 「写された幕末」石黒敬七コレクション」などから

発行が古いが、古写真集「写された幕末」石黒敬七コレクションなどから、長崎以外も気付いた作品。写真上から。

(1)長崎出島・同薬園
石黒敬七編「写された幕末 1」アソカ書房 昭和32年4月15日発行 34頁
⑥上の長崎出島の解説はともかく、⑥下は「その薬園」とはならない。出島ではなく大浦居留地の製茶工場跡などの空き草地だろう。現在のNTT長崎病院と孔子廟あたり。
次を参照。  http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/target.php?id=3880

(2)長崎崇福寺山門
石黒敬七編「写された幕末 2」アソカ書房 昭和32年12月15日発行 66頁
「崇福寺」ではなく、「興福寺」の開山堂(観音堂 戦災で焼失)を麹屋町通りから撮影している。この古写真は「写された幕末ー石黒敬七コレクション」明石書店 1997年9月30日発行第4版 154頁にも掲載され、解説は「崇福寺」のままとなっている。
次の参照。  https://misakimichi.com/archives/2269

(3)大名上屋敷
石黒敬七編「写された幕末 3」アソカ書房 昭和34年11月10日発行 68頁
「島津屋敷」ではなく、最近の研究により、場所は現在、東京都港区三田2丁目の「綱坂」。右の長屋は「肥前(備前は誤り)島原藩松平家中屋敷」と判明している。
次を参照。  http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/target.php?id=1443

(4)京都の大鐘
塚原清一編「続巻 写された幕末 1 英字新聞 ファー・イースト写真集」アソカ書房 昭和37年6月30日発行 93頁
京都市東山区「方広寺」の大鐘だろう。鐘を置いたままの事情がある。
次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2293

朝日選書  84P写真  30 「亀山社中」の撮影場所と「興福寺」の位置 (2)

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朝日選書  84P写真  30 「亀山社中」の撮影場所と「興福寺」の位置 (2)

2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)の84P写真「30 立山の旧長崎奉行所と官立師範学校」(幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:6030 の作品)には、中央手前の風頭山中腹に明治初期の「亀山社中」と思われる建物が写っており、現在、話題となっている。

朝日新聞では、2009年12月11日付第1面の記事 ”これが「龍馬の商社」 明治初期の建物写真、初確認”に続き、12月23日付の長崎地域版に”「亀山社中」確認 沸く龍馬ファン”の記事が載った。古写真に写った風頭山中腹の「亀山社中」と思われる建物には別に異論はない。
前の2記事により疑問にしているのは、この古写真を撮影した場所と、朝日選書の解説図にある「興福寺」の位置である。私の考えを次により説明している。
https://misakimichi.com/archives/2161

さらにこの話を進めると、思いがけないことがわかった。幕末に活躍した坂本龍馬に関する資料を集めた「長崎まちなか龍馬館」が、1月2日長崎市中心部の商店街にオープンした。
浜町のベルナード観光通りにあり、坂本龍馬や幕末の長崎の歴史に関する写真や資料が数多く展示されている。
「亀山社中」が写った古写真がどんな取り上げ方をされているのか、きのう夕方、まちなか龍馬館に見に行った。この古写真が超でかい高精細画像によりパネルに展示されている。

館内資料は撮影禁止のため、証拠写真を撮ってこられなかったが、展示の原画には、右端がまだ少しあったのである。光永寺後ろの木の茂みとその右に興福寺の媽祖堂と大雄宝殿と思われる建物が大きく確認できる。
朝日選書やデータベースの古写真は、興福寺の右端をカットして公開されている(興福寺は青枠内)。小画像のため興福寺が良くわからなかった。

次は光永寺について。幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:5617に「長崎のパノラマ(3枚続きパノラマの3)(6)」に、風頭山から撮影された光永寺の山門と本堂が写真の左下に写っている。風頭公園の山頂展望台は木立が高く、現在では同じような写真を撮影できない。
同じ向きで興福寺真後ろの墓地(長崎女子商業高校学生寮テニスコート隅上)へ登って、光永寺を撮影してきた。
この古写真や現在の写真を見ても、光永寺本堂屋根の真っすぐな延長線上にあるのは、玉園町の「聖福寺上手」あたりであり、まだ右寄りな「玉園墓地高台」からでないことがはっきりするだろう。

風頭山中腹の「亀山社中」と思われる建物を写した古写真について、この古写真を撮影した場所と、朝日選書の解説図にある「興福寺」の位置を、長崎居留地研究会および長崎大学関係者において、原画や現地を確認のうえ再度の考証をお願いしたい。
朝日新聞は新聞記事や出版物にするなら、正しく伝えてほしいし、長崎まちなか龍馬館の古写真に何の解説がないのも、見学者に対し不親切な展示と思われる。

朝日選書  84P写真  30 「亀山社中」の撮影場所と「興福寺」の位置

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朝日選書  84P写真  30 「亀山社中」の撮影場所と「興福寺」の位置

2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)の84P写真「30 立山の旧長崎奉行所と官立師範学校」(幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:6030 の作品)には、中央手前の風頭山中腹に明治初期の「亀山社中」と思われる建物が写っており、現在、話題となっている。

朝日新聞では、2009年12月11日付第1面の記事 ”これが「龍馬の商社」 明治初期の建物写真、初確認”に続き、12月23日付の長崎地域版に”「亀山社中」確認 沸く龍馬ファン”の記事が載った。この項は次を参照。
https://misakimichi.com/archives/2154
https://misakimichi.com/archives/2158
古写真に写った風頭山中腹の「亀山社中」と思われる建物には別に異論はない。
私が前の2記事により疑問にしているのは、この古写真を撮影した場所と解説図にある「興福寺」の位置である。

これまで撮影場所は、朝日選書も「聖福寺から」と解説していたので、納得していた。
しかし、12月23日付の新聞記事では「現在の長崎市玉園町の丘の中腹から撮影したとみられる。…写真の中から旧長崎奉行所の堀の位置や山の稜線を目印に撮影場所を特定した」と現地からの写真を掲載して変った。
はたしてそうだろうか。現在の地形図・現地写真及び諸資料により、私のヤボな推測を関係者の参考としてもらうため、少し補足して説明してみる。

国土地理院の詳細地形図は、前の記事の航空写真及び現地写真とともに見てもらいたい。古写真の撮影場所とするそれぞれの地点から中島川岸の桶屋町、大屋根の「光永寺」とその奥の「興福寺」を望んだ場合。玉園町の「聖福寺上手から」(開山老和尚塔所の入口あたり)が赤線、「玉園墓地から」(新聞掲載の玉園町の丘の中腹)が青線の向きとなる。

現地写真は、古写真との比較において必要な部分だけ拡大し、現在、ビルの間に見える寺名を入れた。「興福寺」は大棟中央上に「瓢瓶」(火災除けの意の瓢箪形まじない)があるので確認できる。背景の風頭山、彦山の姿などからも総合的に判断すると、古写真と比べ下段の「聖福寺上手から」の方が、現地写真は似ていることがわかるであろう。
朝日新書の写真下解説図にある「興福寺」の位置は、現在の「興福寺」左横の「浄安寺」を間違って解説していると思われる。「浄安寺」の左横は現在も二層屋根の特徴がある「三宝寺」である。撮影場所を「玉園墓地から」としたため、「興福寺」が古写真上の「浄安寺」の位置に来てる。

では、古写真において「興福寺」はどの建物だろうか。位置からすると手前大屋根の「光永寺」越しにすぐ左上に写った建物が「興福寺」の山門と思われる。山門は寺町通りの斜めに建っている。寺内奥の媽祖堂と大雄宝殿は、現在「聖福寺上手から」望むと、山門の一部とともに確認できる。「光永寺」は現在の「P 七福マンション」裏あたり。「興福寺」はちょうど「光永寺」右から中島川を一覧橋で渡った通りの突き当たり(寺町通りに出る)の場所にある。

しかし、「興福寺」の媽祖堂と大雄宝殿が、古写真上でなぜはっきり写らなかったのだろうか。前の記事では木の茂みの後ろだろうと説明した。「東明山興福寺」HPの縁起に、重要な昔の寺の様子を描いた絵図(年代不明)があった。大雄宝殿前の広場に当時は大松か大楠が5本立つ。寺町通り側にも桜らしい木が3本生えている。
「長崎墓所一覧 風頭山麓篇」(長崎文献社昭和57年刊)掲載俯瞰写真(長崎市提供写真と説明あり)でも、同広場と寺町通り側に木立があったことが確認できる。

古写真で「興福寺」の位置がわかりにくく、古写真の撮影場所をはっきり特定できないのは、中島川岸の「光永寺」が高いマンションやビルに囲まれ、まったく見えないためである。それなら寺町の「興福寺墓地」へ出かけてみよう。
興福寺の大雄宝殿大棟の「瓢瓶」後ろは、現在「長崎女子商業高校学生寮」テニスコートとなっている。絵図によるとこの場所も昔は興福寺の寺域で、寺の付属建物が描かれている。古写真の撮影場所を逆の方向から見た場合の景色が広がる。「光永寺」の屋根の形が山門入口の方向から確認できる。その先にあるのは玉園町の「聖福寺」だろう。

朝日選書  40P写真  11 中央の橋は「長久橋」か「万(よろず)橋」か

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朝日選書  40P写真  11 中央の橋は「長久橋」か「万(よろず)橋」か

長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。

朝日選書の40P写真「11 新大橋から中島川上流を望む」(幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:5881「中島川河口(2)」と同作品)の、私の前の記事は次のとおり。
https://misakimichi.com/archives/2146
朝日選書の39P解説記事によると、「中央に見える木橋は長久橋。…この写真は中島川の河口に架けられた新大橋の上にカメラを据えて撮影されています」に間違いないようである。

幕末・明治期日本古写真データベースには、目録番号:4030で「中島川河口(1)」があり、同解説は次のとおり。これが説明している「大橋」は、「新大橋」でなく「銕橋」(くろがねばし。通称てつばし)だろう。そうでないと「この写真の橋は、大橋の下流に架かる長久橋ということになる」とならない。わかりにくい解説と思われる。

中央の山は三つ山、その手前左側に金比羅山、右側が健山(たてやま)と烽火山の稜線である。右側に旧西浜町、左側は築町である。横浜で発行された写真付き新聞”The Far East”の明治4年(1871)5月1日号に同じアングルの写真が掲載されており、それにも同じ木橋が写っている。仮に、この写真の橋が中島川河口の大橋ならば、大橋は明治元年(1868)8月、長崎地方裁判所参議井上聞多の監督指導のもと、本木昌造が製鉄の橋に架替えており、”The Far East”に掲載された橋と異なるため、この写真の橋は、大橋の下流に架かる長久橋ということになる。長久橋は、寛永年間に島原城主松倉豊後守重政が最初に架設し、豊後橋と呼ばれた。寛文12年(1672)博多屋清右衛門が架け替え、長久橋と改称された。以後、架け替えが重ねられ、中島川変流工事に際し、明治22年(1889)プラットトラス形式の橋に改め、昭和5年(1930)鉄筋コンクリート橋に変わった。

ところで、目録番号:4030「中島川河口(1)」や、目録番号:5881「中島川河口(2)」と同じような光景で、中島川河口を撮影した古写真が、データベースでは見つけきれないが、長崎大学附属図書館に所蔵されているのではないだろうか。
まず1点は5枚目。長崎であいの会ウェブサイト「中島川グリット」石橋に関するコラムに出てくる古写真。 http://nagasaki.n-grit.com/  川に浮かぶ船の数が違う。同会のは写真出所が明らかでないが、次のとおり「明治後期 万橋(よろずばし)」と解説している。

浜の町の入口?
鉄橋から万橋を望む。昔から長崎で一番歩行者の通行量の多いところ。写真の時代も鉄橋の賑わいはそうとうなものだったに違いない。今の風景にかさねて想像すると楽しい。右は浜市アーケード入口へ、路面電車も走っている。左は仕事帰りの人が立ち並ぶ中央橋のバス停。
今も昔もかわらないのは遠くに見える山の稜線。金比羅山と健山の間にかすかに帆場岳(三つ山)が見える。

次の2点は6枚目。長崎市教育委員会編「長崎古写真集 居留地編」平成15年刊第3版の129P図ー4 居留地建設と橋の架設。写真・15「出島新橋・新大橋・梅香崎橋」(長崎大学附属図書館)とある。
この古写真には「長久橋」は写っていないが、右側「新大橋」の上は、明治22年に築町に完成した十八国立銀行社屋だろう。その右端に写る2階建木造家屋。白く塗った屋根に特徴がある。

目録番号:4030「中島川河口(1)」や、目録番号:5881「中島川河口(2)」の左端に写る家屋と同じ建物と認められる。対岸の右側の建物も同じであろう。したがって、「中島川グリット」が説明する「明治後期 万橋(よろずばし)」とはならないと思われる。
中島川は上流を見ると、万橋手前から北東に湾曲し、万橋は川の斜めに架かっている。下流の鉄橋から真直ぐに写すとするなら、背景の山は変るだろう。
古写真の背景の山並み、右から烽火山から健山、奥の帆場岳(三つ山)、諏訪神社の森と金比羅山の尾根(東尾根。いわゆる立山ではない)の重なりを、両橋で比較するとはっきりした結論が言えるが、高いビルが林立した中心繁華街。山並みは橋から写せず、満足な確認はできない。

朝日選書  84P写真  30 「亀山社中」はどこから撮影されたか

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朝日選書  84P写真  30 「亀山社中」はどこから撮影されたか

長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。

朝日選書の84P写真「30 立山の旧長崎奉行所と官立師範学校」(幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:6030 の作品)には、中央手前の風頭山中腹に明治初期の「亀山社中」と思われる建物が写っており、話題となっている。
この項は私もすぐ現地調査し、作品の撮影場所は「玉園町の聖福寺すぐ後ろの上手墓地の道から」と12月21日の記事にしている。 https://misakimichi.com/archives/2154

朝日新聞では、2009年12月11日付第1面の記事 ”これが「龍馬の商社」 明治初期の建物写真、初確認”に続き、きのう12月23日付の長崎地域版に”「亀山社中」確認 沸く龍馬ファン”の記事が載った。
これまで撮影場所は、朝日選書も「聖福寺から」と解説していたので、私は納得していた。
この経過は次を。 https://misakimichi.com/archives/386

しかし、今回の新聞記事では「現在の長崎市玉園町の丘の中腹から撮影したとみられる。…写真の中から旧長崎奉行所の堀の位置や山の稜線を目印に撮影場所を特定した」と変った。「ほぼ同じ場所から見た現在の様子」が下の写真。
新聞記事では写真が見にくいので、私が写していた同じ写真を載せる。3枚目が新聞社が撮影している玉園町の丘の中腹すなわち「玉園町墓地から」の写真。4枚目が私が撮影場所と思った「聖福寺上手から」の写真。

3枚目の写真が、新聞社がほぼ撮影場所としている「玉園町墓地から」の同じ現地写真。古写真と比べて違和感を覚えた点は次のとおり。
(1)写真の全体を眺めて、まず遠近感と高度感の違いを感じる。
(2)旧長崎奉行所(現長崎歴史文化博物館)前通りや玉園通りの向きが違っている。
(3)玉園通りの上下旧家の宅地が、玉園墓地に変ることは考えられない。
(4)風頭山と奥の彦山の稜線の重なりが合わない。左側豊前坊の全部が写っていない。
(5)諏訪の森(現長崎県立図書館付近)の木立が、背景の彦山山頂右側まで張り出している。
(6)上野彦馬の撮影。行きやすく当時の写真機が据えられる場所に限られる。

私は12月12日と14日現地調査をした際、玉園墓地も念のため写真を撮っていた。それが3枚目だが、しっくりせず、50mほど歩いて「聖福寺の上手」の道へ行って4枚目を写した。
今では古写真とまったく同じような景色は撮れない。目的とする対象物が写らないときは、全体を理解してもらうため、撮影場所をある程度少し変えることは私もあるが、この古写真については今までの解説どおり、「聖福寺の上手」あたりからの撮影と考えた方が妥当ではないだろうか。
朝日新書の写真下解説図にある「興福寺」の位置とも、関係者によってさらに検証をお願いしたい。「興福寺」大雄宝殿は、大棟中央上に大きな「瓢瓶」(火災除け)が写る建物と思われる。

私が撮影した場所は具体的には、「聖福寺」大雄宝殿の背後、開山老和尚(鉄心)塔所がある石段の入口あたりの道。全体の景色はこの場所からしか今は写せない。古写真の左下に1本の木が写っている。偶然にも同じような場所に大きくなったような木がある。 
朝日新聞の写真と記事は、これまで疑問点が多い。撮影場所を特定するのは良いが、慎重に調べ、正しく報道してほしい。本年元旦付「開港150年」長崎港を写したベアト撮影古写真の実際の撮影場所、立山墓地内の地点も少し違うのではないか。
この項は次を。 https://misakimichi.com/archives/1575

朝日選書  84P写真  30 立山の旧長崎奉行所と官立師範学校

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朝日選書  84P写真  30 立山の旧長崎奉行所と官立師範学校

長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。

朝日選書  84P写真  30 立山の旧長崎奉行所と官立師範学校

政治の中心だった立山の旧長崎奉行所(左)のそばに維新後、官立師範学校(右)が建てられた。この高台にあった県立美術館・県知事公舎は、長崎歴史文化博物館に建て替わった。山の中腹に見えるのは、亀山社中と思われる。 
上野彦馬撮影か、1874年、鶏卵紙、27.7×21.2、『上野彦馬冨重利平合同アルバム』

〔解説記事  82P〕  旧長崎奉行所と官立師範学校

1874年、聖福寺から写された長崎奉行所(高台の左)と新築の官立師範学校(同右)です(写真30)。
この高台には元カトリック教会が建っていましたが、その後、隠れキリシタンを取り締まる井上筑後守の屋敷となりました。教導するためにやってきた外国人宣教師にキリスト教の考えを捨てさせた話は、遠藤周作の「沈黙」でおなじみです。
敷地内には奉行が住む御本屋と、側近が勤める長屋および土蔵が立ち、犯罪者を裁くお白洲が置かれ、判決は犯科帳に記されました。維新後も九州鎮撫総督の住居として使用され、政治の中心だった奉行所が文教地区に変わるのは、1872年の文明開化がきっかけでした。
外国語を教えていた西役所の広運学校がここに移転。その後、長崎外国語学校から長崎英語学校に改称され、長崎中学につながります。長崎官立師範学校は、1875年の設立です。
その後、江戸時代の建物は失われ、1963年に県知事公舎が建ちました。2005年には長崎歴史文化博物館の建設に併せ、奉行所が復元されました。博物館の向こう側の、山の中腹に見えるのは、亀山社中と思われます。
立山は、キリスト教の布教から弾圧へ、幕府支配の中心から文明開化の中心へ、さらに文教地区から県知事公舎へと変遷し、今は博物館として長崎の歴史文化を伝える中心となっています。

■確認結果

幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:6030「旧長崎奉行所と師範学校」 撮影者:上野彦馬 撮影地域:長崎 年代:年代未詳 の古写真。

朝日選書の古写真解説で、疑問とする点をこれまで見てきた。これが最後となり頁を前に遡って見ていただく。長崎は来年にかけて、龍馬ブームで盛り上がる。
「長崎市亀山社中記念館」(伊良林2丁目)は、坂本龍馬ゆかりの亀山社中の遺構として現在に伝わる建物を長崎市が当時の姿により近い形で整備し、本年8月1日から公開している。

2009年12月11日付朝日新聞の第1面となった記事 ”これが「龍馬の商社」 明治初期の建物写真、初確認”。 朝日選書 84P写真「30 立山の旧長崎奉行所と官立師範学校」の中から、建物を拡大した写真が載せられている。
記事には、市民グループ「長崎居留地研究会」(会長=姫野順一・長崎大学教授)が11月、写真の中の旧長崎奉行所の位置や山の稜線から撮影場所を特定。後景の山の中腹に、亀山社中だった建物が写っているのを確認したとある。

さっそく私も現地調査へ行った。この古写真は「聖福寺」(玉園町)の大雄宝殿後ろの上の墓地の道(開山老和尚鉄心塔所入口あたり)から撮影されたものと思われる。亀山社中の建物は、新聞記事のに間違いないと思われるが、通りの前の家にふさがれ、双眼鏡でもはっきり見えない。
どなたか望遠の大きい、立派なカメラを持って、みんなにわかるように写してきてほしい。

朝日選書の写真下の解説図では、寺の位置に疑問を感じたので確認したのだが、高いビルやマンションが建って、これも写真を写せない。はっきり確認はしてないが、解説図の「興福寺」は「浄安寺」ではないか。その左の「三宝寺」は二層屋根に特徴がある。
手前大きな屋根の「光永寺」のすぐ左に屋根があるのが、「興福寺」の山門のように思える。媽祖堂、大雄宝殿は木立の後ろとなるが、古写真では確認できない。
位置関係を見てもらうため、長崎新聞社「長崎県航空写真集 ふるさと旋回」昭和60年9月刊の16、17頁から航空写真(クリック拡大)を借りたい。

なお、解説記事中「その後、江戸時代の建物は失われ、1963年に県知事公舎が建ちました」とあるが、長崎奉行所があった同地に、1965年(昭和40年)開館した「長崎県立美術博物館」を含めて説明した方が良いと思われる。
同館は新しい「長崎歴史文化博物館」建設のため2002年に閉館。「長崎県美術館」は2005年4月長崎水辺の森公園に隣接した場所(出島町)に移築開館した。

朝日選書 201P写真  89 大浦バンドの洋館群

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朝日選書 201P写真  89 大浦バンドの洋館群

長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。

朝日選書 201P写真  89 大浦バンドの洋館群

手前からアメリカのウォルシュ商会、同ケイス商会。イギリスのグラバー商会、同マルトビー商会。背後は鍋冠山。大浦天主堂の尖塔が見える。
上野彦馬撮影、1874年、鶏卵紙、27.1×21.2、『上野彦馬冨重利平合同アルバム』

〔解説記事 199P〕  欧米の商社が立ち並ぶ最盛期の大浦バンド

豪華な洋館が軒を並べる最盛期の大浦海岸通り「バンド」です(写真89)。海に突き出した波止場から撮影されています。写真原板は1874年、アメリカ海軍大尉R・E・カーモディが軍艦アシュロットに乗ってアジアを周航したときに入手した写真アルバムに収載されています。
手書きのメモは英語で「アメリカ海軍のお店」と読めます。左端の和風白壁の大浦3番館には、領事でもあったアメリカ人ジョン・ウォルシュの商会が入居し、隣の大きなベランダ付き洋館の4番館ではアメリカのケイス商会が開業していました。長崎港に入港したアメリカ艦隊の水夫たちは、バンドから居留地に上陸し、このアメリカ海軍御用達の店で買物を楽しんだようです。

中央にある、れんが造りで修道院のような5番館には、1870年に倒産したグラバー商会が入っていました。グラバーに資金を調達して回収不能となったオランダ商事会社は、78年に建物を競売にかけます。
その奥のベランダが突き出た大きな6番館では、ロンドンからやってきたサミュエルとジョン兄弟がマルトビー商会が開業し、茶の輸出などを手がけていました。1880〜1941年にはイギリス領事館が入居するのですが、1908年に建て替わった赤れんがの建物は長崎市児童科学館、長崎市野口彌太郎記念美術館を経て、現在整備中です。
5、6番館は、坂本龍馬が長崎を訪問した1865年ごろに撮影されたボードインの写真(本書には収録していない)では建築中でしたが、この写真では立派に完成しています。
後方には、大浦天主堂の尖塔がわずかにのぞいています。
路上に人物がみえないのはシャッタースピードが遅かったためで、動くものは消えています。 

■確認結果

幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:6058 「大浦海岸通りの洋館群」  撮影者:上野彦馬 撮影地域:長崎 年代:年代未詳 の古写真。

朝日選書の写真下解説「背後は鍋冠山。大浦天主堂の尖塔が見える」、解説記事「後方には、大浦天主堂の尖塔がわずかにのぞいています」が、私たちには見えない。
データベース 目録番号:6058 の原画を確認すると、はっきり写っているのに、朝日選書200頁と201頁のちょうど綴じ目となったためである。編集の際、配慮がほしかった。

古写真の撮影場所は、出島からも考えられるが、大学データベース資料「長崎居留地の敷分割 1868年(慶応3年)」図から、解説記事にあるとおり大浦海岸通りの梅香崎側「海に突き出した波止場から撮影されています」のに間違いないようだ。

朝日選書 192P写真  83 幕末の新地蔵と出島

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朝日選書 192P写真  83 幕末の新地蔵と出島

長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。

朝日選書 192P写真  83 幕末の新地蔵と出島

明治維新直前の新地蔵(手前)とまだ海上に浮かぶ出島(奥)。出島の右奥の茂みは長崎奉行所西役所。 
ベアト撮影、1867年、鶏卵紙、21.0×18.3、『スチルフリード・アルバム』

〔解説記事 187P〕  文化映す貿易の要所、新地蔵と出島
1867年、ベアトが大徳寺から撮影した新地蔵と出島です(写真83)。新地蔵は中国貿易に、出島はオランダ貿易に使われました。沖には外国の軍艦が停泊しています。出島横の茂みは長崎奉行所西役所です。
出島は1636年にポルトガル人を収容するために造成されました。その後、オランダ商館が平戸から移されると、オランダ貿易に使われました。出島に古くから建っていた日本家屋は安政の大火で焼けましたが、幕末には写真のように植民地風のベランダを持つ洋館に建てかわっていたわけです。1867年末につけられる遊歩道や橋はまだ見えず、まだ扇形をしています。

新地は、五島町や大黒町にあった中国船の荷蔵が焼失したため、1698年に海を埋め立てて造成されました。1859年の長崎再開港で在住中国人たちは唐人屋敷から新地に移り住みました。開国で居住地を限定する意味がなくなったためでした。今では40軒ほどの中国料理店や中国雑貨店が軒を並べる長崎新地中華街の起源です。
「出島復元事業」は2000年の日蘭交流400年記念をきっかけに大きく進展し、「唐人屋敷復元事業」も進んでいます。長崎は国際交流の歴史の町として、町全体を立体的な博物館にして国際的に発信していくことが期待されています。 

■確認結果

幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:5384「新地蔵と出島(2)」 撮影者:F.ベアト 撮影地区:出島 撮影年代:明治以前 の古写真。同解説は次のとおり。
関連作品 目録番号:794「長崎出島とロシア人居留地」は同じ場所からの写真か。

大徳寺跡の高台から、新地越しに出島を遠望したもの。出島は、建物は殆どが洋館に建て替わっているが、慶応3年(1867)の海岸通りの築足しがまだなされておらず、江戸時代以来の姿を見せる。出島右端の入母屋造2階建ては、嘉永6年(1853)に新築された外科部屋(医師住居)で、この頃はクニッフレル商会保有の空き家だったが、明治元年以前に取り壊された。慶応3年6月にベアトが撮影した類似構図の写真では、新地の白壁土蔵がまだ工事中であったから、この写真は同年後半の撮影とみられる。出島右上の樹叢は長崎奉行所の西役所(現県庁)で、その向こうには現在の茂里町付近まで深く湾入していた長崎港が見える。さらに背後には稲佐地区の集落やロシア人仮泊地と稲佐山から岩屋山にかけての山並みが望まれる。新地の右側が中島川の河口部で、手前の水面のこちら側、樹木のあいだに見え隠れするのは本籠町の家並みである。

古写真の撮影場所は、現在の西小島1丁目「大徳寺」跡や「大徳寺の丘」とあるが、具体的にどこだろう。明治維新後、大徳寺が廃寺となると梅香崎天満神社が現在地に移転、神社は現在、籠町自治会が管理している。
新地や出島の周りが埋め立てられる以前の撮影であるため、当時の地形の参考のため明治
17年国土地理院旧版地図を掲げる。

梅香崎天満神社の現在の参道から写すと、構図が合わない。変流工事前の銅座川が真正面の右から左へ真横に流れていなければならない。旧版地図から判断すると、神社参道から右へ上がった「大徳園跡」が考えられる。
江戸時代末期から明治初年にかけて、大徳寺の庫裏のあったところに、アメリカの宣教師:ヘンリー・スタウトやフルベッキ、フランス領事のレオン・ジュリーなどが仮寓していた(広助様の丸山歴史散歩)。
「大徳園跡」は次記事と写真を参照。 https://misakimichi.com/archives/1860
古写真と同じ光景を、現在では写せない。稲佐山から岩屋山にかけての山並みは、唐人屋敷北東隅に「大徳園」の裏門があり、佐古小学校側から確認した。

朝日選書 188P写真  81 稲佐崎の和船とロシア止宿所

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朝日選書 188P写真  81 稲佐崎の和船とロシア止宿所

長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。

朝日選書 188P写真  81 稲佐崎の和船とロシア止宿所

長崎の対岸稲佐崎の入り江に停泊する弁才船(奥)とイサバ船(手前)。丘上の日本家屋は長崎港で越冬するロシア東洋艦隊の乗組員の止宿所。
ベアト撮影、1864年ごろ、鶏卵紙、28.7×23.8

〔解説記事 186P〕  稲佐の和船

1864年ごろ、イギリス人写真家フェリクス・ベアトが稲佐海岸で撮影した江戸時代の和船の写真です(写真81)。
ベアトは横浜で開業した腕利きの旅行写真家で、上野彦馬にも影響を与えました。暗箱と呼ばれていた当時のカメラは今よりもずっと大きく、レンズの焦点距離も長かったので、写真の精度は抜群でした。現在の稲佐の三菱電機工場横の丸尾公園あたりから朝日町商店街付近を撮っています。この入り江は埋め立てられて今は面影がありません。
このあたりは1858年の開港条約締結後ロシア人の止宿所(ししゅくしょ)となります。
大きなほうの船は千石船または弁才船で、米を千石(約150トン)運べました。長さは約23メートル。船底が平らで船の骨組みとなる龍骨がなく、1本の帆柱に横帆とシンプルでしたので、洋式帆船のように帆柱に登る必要がありませんでした。スピードは速く、経済的だったため各地を回航した菱垣廻船や北前船などに使われました。シーボルトも『日本』でこの船の構造を図解しています。屋根を持つ手前の小さな船はイサバ船と呼ばれた近海用の魚や物資の輸送船です。

■確認結果

幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:1276「和船(3)」 撮影者:F.ベアト 撮影地域:長崎 年代:1864 の古写真。同解説は次のとおり。
台紙に Group of Japanese Junk and boat in the Canal とある。向こう岸にもやっている和船はかなり大型である。ここは運河というより入江みたいなところであろう。人々の生活のにおいがする。

私の以前の記事は、次を参照。この古写真の撮影場所は不詳とされていたが、背景は浜平上の日昇館あたりの山。当時、波止場があった丸尾山の丸尾公園西角から旭町(「朝日町」は誤)商店街後ろの稲佐崎方面を写したものである。
この入り江は舟津浦や江の浦と呼ばれ、平戸小屋町の町名も残るとおり平戸藩屋敷があり、昔から栄えた浦。長崎港内でも台風を避けられた。
https://misakimichi.com/archives/142
https://misakimichi.com/archives/1557
https://misakimichi.com/archives/654

朝日選書117P写真「47 和船と稲佐崎」(幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:5310「稲佐海岸」)の作品は、すでに前に述べた。
https://misakimichi.com/archives/2143
そのとき、この朝日選書188P写真「81 稲佐崎の和船とロシア止宿所」(目録番号:1276「和船(3)」)は、丸尾山の波止場から稲佐崎方面を左向きに変えた作品と説明している。

今回、この古写真の解説記事で、新たに「丘上の日本家屋は長崎港で越冬するロシア東洋艦隊の乗組員の止宿所」「このあたりは1858年の開港条約締結後ロシア人の止宿所(ししゅくしょ)となります」と説明が加わった。
「ロシア人の止宿所」となった場所は、現地確認がないようで、少々誤認があると思われる。
旭大橋の入口に長崎日ロ協会が設置した「幕末・明治のいわゆるロシア村」の説明板がある。ロシア村の場所は、稲佐崎の先端から裏手志賀の波止を向いた高台一帯である。

「47 和船と稲佐崎」の説明では、ロシア村への登り口が右方にもあり説明は少し合うが、「81 稲佐崎の和船とロシア止宿所」では、この古写真の右写真外高台となり、写真にはほとんど写っていない。当時の高台への道と現在の住宅地図を掲げる。別の坂道なのである。
旭町商店街の手前から言うと、47の右の坂道は馬渡歯科医院が登り口。上のマンション「カネハレジデンス旭町」が稲佐崎の「ホテル・ヴェスナー」跡である。81は商店街通りをまだ行って黄金橋手前、ビューティサロンあさひ角を右へ入った道の坂道となる。

したがって、この古写真に写っている「丘上の日本家屋」は、「ロシア人の止宿所」となった一帯ではなく、舟津浦の昔から栄えた集落の高台である。奥へ行くと現在、山野辺邸と共立病院、萬福寺、旭保育園、悟真寺がある。
旭大橋入口の「幕末・明治のいわゆるロシア村」説明板は、この古写真を取り上げていない。
付近の詳しくは、「稲佐風土記」著、長崎日ロ協会の会長松竹先生へ確認をお願いしたい。

朝日選書 172P写真  73 大村湾口の時津村

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朝日選書 172P写真  73 大村湾口の時津村

長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。

朝日選書 172P写真  73 大村湾口の時津村

明治中期の長崎郊外、大村湾奥の時津村の家並み。大村からの海路の長崎口で、ニ十六聖人もここから上陸した。遠景は塩田。
撮影者不詳、1886年bごろ、鶏卵紙、25.8×19.0、手彩色

〔解説記事 167P〕  塩づくりの村だった時津村

1886年ごろに撮影された時津村(現在の時津町)です(写真73)。中ほどに見える瓦屋根が浦郷にある市場付近の町屋です。手前の農家と思われる藁ぶき屋根の集落とは対照的です。
浦郷はかつて大村湾の鮮魚が揚がる市場でした。また、長崎へ向かう旅人の重要な港口でもありましたた。大村から船で時津に上陸すると、諫早経由の長崎街道より1日節約できました。
1597年、のちにカトリックで聖人に列せられることになる26人のキリシタン殉教者も、東彼杵町から船に乗せられ、大村湾奥のこの港に上陸しました。
家並みの奥の大きな木が2本立つ場所は、1640年に建立された村社の八幡神社です。入り口にある「ともづな石」は船の係留に使われたもので、浦郷が江戸時代に波止場だったことを伝えています。
神社の後方が浜田郷で、海岸伝いに塩田が見えます。塩づくりは農業とともに時津の重要な産業でした。江戸末期には総戸数852軒のうち113軒が塩づくりに従事し、時津全体で年間4720俵、約4万2480キロの塩がとれたといわれています。
明治の終わりに塩田は田畑に変わり、海岸は埋め立てられ、今では工場や学校、住宅地に姿を変えました。最近の時津は、長崎の衛星都市として人口が増えてきました。

■確認結果

幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:5653「時津の家並み」の古写真。同解説は次のとおり。
大村湾に接する西彼杵郡時津村とその港。手前は密集した浦郷で、港の入り江を挟んで対岸は崎野の海岸から人家に至る。大村との往還にはこの港が頻繁に利用された。背後の丘陵地は、長与の岡郷、嬉里郷に続く一帯で、後方の高い山は、琴ノ尾岳。

朝日選書の172P写真は、タイトルが「73 大村湾口の時津村」とあるが、「大村湾奥」が適当ではないか。
写真下の解説図でも、後方の高い山は「琴ノ尾岳」ではない。左上鞍部のところが山頂アンテナ塔がある「琴ノ尾岳」から尾根が下った「扇塚峠」。写真に写っている右の高い山は「仙吾岳」(標高375.6m)と丸田岳方面となる。

私の以前の記事は次を参照。この古写真の撮影場所は、国道交差点から時津川の西岸へ現在の「新地橋」を渡る。長与町立長与図書館の上手の高台、戦没者や原爆死没者の慰霊碑のある公園と思われる。宝永5年(1628)から浦郷北泊「稲荷大明神」が祀られている。
http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/48654714.ht
https://misakimichi.com/archives/1837

江戸時代、時津村は大村藩領。時津港は彼杵港(現・東彼杵町)との間にも船便があり、長崎街道の近道となった。「時津街道」は大名や幕府の役人にも利用され、現在もその名残りとして「お茶屋」と呼ばれる時津本陣が残る。
時津街道は、長崎市西坂を起点に時津港までの12km。時津港から彼杵までの海路20km。矢上経由の長崎街道60kmに比べ、好天なら一日の行程を短縮できた(長崎新聞ふるさと賛歌)。したがって、解説記事167P中の「大村から船で時津に上陸すると」は、少し違うのではないだろうか。