長崎の古写真考 2」カテゴリーアーカイブ

長崎の古写真考 写真の開祖上野彦馬 227P 医学伝習所址

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長崎の幕末・明治期古写真考 写真の開祖上野彦馬 227P 医学伝習所址

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

産業能率短期大学出版部 「写真の開祖 上野彦馬」

227P — 医学伝習所址 文久元年(1861)8月養生所・医学所として、小島に開院した。
260P — 長崎市万才町・医学伝習所跡

■ 確認結果

「写真の開祖 上野彦馬」の、第2部解説編にある2枚の同じ小写真。「医学伝習所址」碑は、長崎奉行所西役所の地、万才町に設置されており、260Pの解説が正しい。
同碑は、現在、農林中央金庫設置「旧外浦町由来」に変わり、文中に医学伝習所があったと記している。
「改定郷土史事典42 長崎県」(石田 保著/昌平社発行)による説明は、次のとおり。

医学伝習所

安政(1857)4年8月、海軍伝習所の医官としてポンペが渡来した。幕医松本良順の二人を中心に医学の伝習所が形づくられていった。翌9月、長崎奉行所西役所の一室でポンペは医学の講義を始める。
聴講者は良順ら14名であった。翌日からポンペが作った講義時間表によって講義が進められ、物理学、化学、包帯学、解剖学、組織学、生理学、治療学、調剤学、内科学、外科学、眼科学の順で、時間があれば、法医学、医事法制、産科学をすることにしていた。
西役所の一室では狭くなったので、安政4年11月、大村町の高島秋帆邸内の一棟を借りて医学伝習所をそこへ移した。
同5年5月、中国経由で入国した米軍艦ミシシッピ号の船員にコレラ患者が発生した。この船は下田沖で吉田松陰らが密航しようとして乗りつけた船であるが、コレラは長崎から日本の西半分の地域に蔓延することになった。
ポンペは学生たちと共に日夜治療に当たり、奉行所を動かし、予防法を通達させた。 10月にいたりようやくコレラは衰えたが、江戸では数万の死者を出した。コレラ流行を機に、ポンペは医学伝習所の設立を幕府へ要請した。
安政6年8月、ポンペは死刑囚の死体解剖を実施した。これは奉行所の強硬な交渉によって許可されたもので、実習は西坂刑場で行われた。46名の学生が参加、うち女性1人、シーボルトの娘イネであった。この解剖は3日間、早朝から夕暮までかかった。
幕府がポンペの要請によって病院の設立を認めたのは安政6年のことであった。名称は「養生所」とし、場所は小島郷(長崎市西小島町)に決まった。
文久元(1861)年7月、小島養生所は完成した。病棟2棟(各8室)、隔離患者室、手術室、薬品機械類備付室、料理室、浴室、運動室などがあった。
ポンペは、後任のボードウィンが着任したので、文久2年9月、長崎を去った。日本滞在5年であったが、種痘の公認、梅毒検査、公娼制度廃止を唱えるなど多くの功績を残している。その門人たちは、すべてが明治の医学界を背負って立った人々である。
小島療養所は現在の長崎大学医学部の前身となった。

長崎の古写真考 写真の開祖上野彦馬 135P 立山立親館

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長崎の幕末・明治期古写真考 写真の開祖上野彦馬 135P 立山立親館

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

産業能率短期大学出版部「写真の開祖 上野彦馬」 135P

243 — 立山立親館 明治30年(1897)頃撮影。

■ 確認結果

「写真の開祖 上野彦馬」は、立山「立親館」と解説しているが、長崎県会議事院兼迎賓館だった「交親館」が正しい。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による長崎県立長崎図書館の沿革は、次のとおり。現在の県立図書館建物は、1960年(昭和35年)建築。1968年(同43年)増築。

明治
1894年(明治27年) – 安中半三郎、香月薫平らによって長崎文庫が設立。
1909年(明治42年) – 小学校教員学力補充のため、長崎県回覧文庫を設立。
1912年(明治45年)6月1日 – 回覧文庫を基に、県立長崎図書館を創立。
・場所 – 長崎市新橋町(現:諏訪町)の県有家屋
・蔵書 – 2,400冊
・初年度利用者 – ひと月平均239名
大正
1915年(大正4年)8月10日 – 永山時英が初代専任館長に就任。
・11月25日 – 長崎市上西山町(現在地)に移転し、開館。
御大典(大正天皇即位)記念として、諏訪公園の交親館(県会議事院兼外賓接待所)を改修。書庫を増築。長崎文庫図書が寄贈される。
・11月28日 – 落成式を挙行。

長崎の古写真考 写真の開祖上野彦馬 130P 小菅造船所

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長崎の幕末・明治期古写真考 写真の開祖上野彦馬 130P 小菅造船所

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

産業能率短期大学出版部「写真の開祖 上野彦馬」 130〜131P

227 — 小菅造船所 明治10年代(1880)撮影。フランス人、ワンサン・フロランの指導のもとに着工し、明治15年5月完成。エントツの建物はポンプ室。現在の三菱造船所。

目録番号:3863 立神ドック(1)
〔画像解説〕   超高精細画像
この写真は、長崎市街地の長崎港を挟んで西岸の立神にある、三菱会社の立神ドックである。写真右側の海の向こうに東山手居留地が遠望できるが、東山手の丘の上にすでに活水学院の明治15年創建のラッセル館が見えている。明治10年(1877)代後期の写真である。目録番号4729(整理番号93-21)の写真は、ほぼ同じ角度から撮影した写真であるが、施設の整備状況からみて、こちらの写真が5年程経たものである。ドックハウスが完成し、ドックの周りにさまざまな施設が整備されている。ドックには修理のために、戦艦が入っている。立神ドックは明治7年(1874)、フランス人技師ワンサン・フロランの指導によって構築され、明治12年(1879)に竣工した。長さ135.7m、幅33.4m、深さ、11.6mの本格的なドックである。明治17年(1884)7月長崎造船局は三菱に払い下げられ民営になった。写真は明治20年(1887)代の、三菱会社に払い下げられた後の立神ドックを撮影した写真である。

■ 確認結果

「写真の開祖 上野彦馬」は、「小菅造船所」と解説しているが、目録番号:3863「立神ドック(1)」のとおり、「立神ドック」が正しい。
長崎港を挟んで、立神の対岸側が小菅であり、ソロバンドック(小菅修船場)がある。

長崎の古写真考 写真の開祖上野彦馬 122P 寺町晧台寺後山の墓地

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長崎の幕末・明治期古写真考 写真の開祖上野彦馬 122P 寺町晧台寺後山の墓地

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

産業能率短期大学出版部「写真の開祖 上野彦馬」 122P

212 — 寺町晧台寺後山の墓地 明治10年(1877)頃撮影。彦馬の墓所でもある。

目録番号:767 長崎の墓地(1)
〔画像解説〕   超高精細画像
F.ベアトによる書き込みに1866年3月とあって、撮影者と時期が判明する。ベアトは長崎では墓地をよく撮影していたが、これは春徳寺墓地の一葉である。春徳寺は、もとトードス・オス・サントス(ポルトガル語で諸聖人の意)という永禄12年(1569)に創設された長崎最初のカトリック教会があった場所で、現在は県の史跡に指定されている。この教会が慶長19年(1614)に破壊されたあと、寛永17年(1640)にそれまで岩原郷にあった寺を移転して創建したという、臨済宗の寺院である。その墓地は、境内から裏山に広がり、そこには著名な「東海の墓」(県指定有形文化財)もある。現在は墓域が再整備されているため、画面の位置を特定することは難しいが、地形からすれば「東海の墓」の裏手あたりか思われる。左上の樹叢が長崎氏の城跡「城の古趾」に連なるのであろう。ベアトの別の一葉の解説では、春徳寺を「“SPRING VIRTUE” TEMPLE」とも訳していた。

■ 確認結果

撮影された長崎の墓地が、「写真の開祖 上野彦馬」では、寺町「晧台寺後山の墓地」、ベアトコレクションでは、夫婦川町「春徳寺墓地」と解説が異なっており、現地調査した。
双方が見落としているのは、目録番号:767「長崎の墓地(1)」を超高精細画像で見るとわかるが、墓地背後に大きな谷間の集落があり、上まで耕された山の稜線がうっすらと写っている。
どの山だろうか。確認が必要ではないか。
現地へ行っても、どっちもどっち。はっきりした確証が得られない。カメラがこのように立てたか、墓地の地形も問題となる。

私の感じでは、背後の稜線から鍛冶屋町「大光寺墓地」が、最も考えられる(写真6)。上野彦馬はベアトと大光寺を訪ねた写真が残る。このあたりから小島養生所方面も写している。
筑後町「福済寺墓地」は、少し違うようである(写真7)。
古写真左下に写る地蔵の列の道や、墓碑で明らかに読める「足巌良正居士」「圓徳院殿興岳永隆居士」が残っていないだろうか。撮影場所となった墓地の研究をお願いしたい。
ベアト撮影では、別の次の写真を長崎蛍茶屋の墓地と確認している。
https://misakimichi.com/archives/2829

長崎の古写真考 写真の開祖上野彦馬 118P 高島礦業所二子坑立坑 ほか

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 長崎の幕末・明治期古写真考 写真の開祖上野彦馬 118P 高島礦業所二子坑立坑 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

産業能率短期大学出版部「写真の開祖 上野彦馬」 118〜121P

208 — 高島礦業所二子坑立坑、現在の三菱高島礦業所 明治初年撮影。
209 — 高島礦業所二子坑、石炭積込み桟橋、船は石炭積取り船、手前は坑内で使用する坑木 明治初年撮影。
210 — 高島二子坑、石炭積込み桟橋、右前方は沖之島 明治初年撮影。(掲載略)

目録番号:2415 高島炭鉱南洋井坑

目録番号:3232 高島炭鉱石炭船積場

■ 確認結果

長崎県立図書館に郷土資料として、「写真の開祖 上野彦馬」があった。産業能率短期大学出版部が昭和50年発行。上野一郎氏も監修。上野彦馬研究の第一級機関である。
古い写真集で、今ごろ取り上げるのはどうかと思うが、解説の疑問を数点、説明する。ほかの写真集が、この間違いをいつまでも引きずり出版されている。
地元長崎として困っているので、写真所蔵先日本大学芸術学部とも、早く本元において研究をお願いしたい。

この項は、本ブログ次を参照。
https://misakimichi.com/archives/3480
https://misakimichi.com/archives/2763
https://misakimichi.com/archives/1619

208「高島礦業所二子坑立坑」は、「南洋井坑」ではないか。
209「高島礦業所二子坑、石炭積込み桟橋」は、「尾浜坑の石炭積込み桟橋」ではないか。
210「高島二子坑、石炭積込み桟橋、右前方は沖之島」は、「北渓井坑」の石炭積込み桟橋「南風泊港」ではないか。したがって右前方は「飛島」、左後方が「沖之島」である。

長崎の古写真考 マンスフェルト集 12・13P 愛宕山からの景色(再掲)

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長崎の幕末・明治期古写真考 マンスフェルト集 12・13P 愛宕山からの景色(再掲)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本」

第二章 長崎  12・13P  愛宕山からの景色
愛宕山の中腹から茂木街道が走る谷をはさんで、小島郷佐古に建つ長崎医学校および大徳寺の丘越しに出島方面をのぞむ。出島の手前の白い家は明治3年(1870)ごろ建った中国商社広隆号。中央右の大きな屋根は正覚寺。その右上の茂みに旧長崎奉行所西役所の建物は撮影直前に消失している。中央付近は花街の寄合町。
001・002 1871年頃 マンスフェルトか サイズ/193mm×90mm 大 ほか

■ 確認結果

朝日新聞長崎地域版2012年11月17日付”長崎今昔 長崎大学コレクション”に、上記の作品が「丸山と寄合町周辺 娼妓開放直前の風景」として掲載された。新聞記事の解説は次のとおり。タイトル・解説とも変更された。

「写真中央は遊郭の丸山町と寄合町周辺です。1871年ごろ、お雇いオランダ人医師マンスフェルトが撮影したもので、「愛宕山からの景色」と紹介されています。
右手の大屋根は正覚寺です。写真中央や手前の家並みに沿って横切る道は茂木街道です。…(遊郭の話が続き)…
茂木街道脇の石垣の上には、西洋料亭・福屋の2棟の建物が見えます。59年に中村とめが上棟した日本で最初の洋食料理屋の一つです。…」

長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本」写真集の解説問題点は、11月6日すでに4点を指摘しているので参照。
https://misakimichi.com/archives/3488
この作品はかなり至近から、低い目線で撮影されている。正覚寺の位置と大屋根の向き、稲佐山の稜線、港の見え具合から判断すると、撮影場所は、愛宕山山頂からではない。
愛宕山の中腹、高平町の榎観音堂の上、長崎玉成高校旧校舎の左上石垣付近(高平町15街区)で、全体の景色が見え正覚寺が同じように確認できるので、現地で見てもらいたい。

データベースでは、目録番号: 2871「高野平からの小島山手遠望」(2枚目古写真)に同じような景色がある。全体の位置関係を、まず風頭山高野平の高い位置から見てみよう。
撮影場所が愛宕山中腹、高平町の榎観音堂あたりと変わってくると、「小島郷佐古に建つ長崎医学校および大徳寺の丘」は、正覚寺の右奥の写真外となり写らない。「丸山町と寄合町周辺」及び「西洋料亭・福屋」(2棟の建物がどれを指すか不明。白い建物?)も、正覚寺墓地奥の谷間となり、高い墓地にさえぎられはたして写るだろうか。

「西洋料理屋・福屋」の彩色写真は、「長崎古写真集 居留地編」第3版100頁にある。神戸市立博物館所蔵。現地説明板及び林先生の図版解説は、次のとおり。
「建物は明治2年上棟の日本家屋と明治8年上棟の洋館の組み合わせとなっていたが、いずれにも擬似風の細部装飾が加えられていた」
「写真にみえるのは、洋館部のヴェランダ側。店が最も繁盛したのは明治20年代で、来航した外国人の客も多かったという。撮影もその頃であろう」

「長崎の史跡 南部編」30頁では、「福屋は、中村藤吉が開業、最初は和食専門であったが、安政6年(1859)以降は洋食料理店となった」とある。
福屋の開業者名、建物特に洋館部の建築年代など、年代が合うように正しく説明してもらわないと、新聞記事はわかりにくい。マンスフェルトが写真を撮影したとする1871年は、明治4年だろう。

さて、左上に写る石垣の大邸宅である。茂木街道と現在の県道の線を入れた。茂木街道脇であり、正覚寺・同墓地上の続き尾根にある。国指定史跡「高島秋帆旧宅」雨声楼ではないだろうか。正門入口の石段、長い石垣が現在でもこのようになっている。
私の勘違いもあるため、くれぐれも現地確認をお願いしたい。

そのつど解説が変わるようでは、今回も長崎大学附属図書館と執筆者、長崎・熊本・東京での巡回写真展、出版元の長崎文献社、長崎今昔の朝日新聞社の権威が疑われる。
データベースの改善を再三、要望している。過去にも多例ある。古写真研究の基本は、まず現地確認であろう。迷惑しているのは、一般利用者、読者である。

長崎の古写真考 マンスフェルト集 35P 茂木の庄屋屋敷前の「木の下」にて

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長崎の幕末・明治期古写真考 マンスフェルト集 35P 茂木の庄屋屋敷前の「木の下」にて

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本」

第三章 茂木  35P  茂木の庄屋屋敷前の「木の下」にて
茂木の元庄屋森岡平左衛門の屋敷(現茂木郵便局)前の海岸に立つ木の下でくつろぐマンスフェルト一行の人夫たち。まだまげを結っている男性が多い。次ページの写真とあわせてみると、一行は茂木滞在中、この元庄屋宅を宿舎にしたように思われる。熊本からの旅行中であろうか。
016 1872年頃 マンスフェルトか サイズ/205mm×156mm 大

目録番号: 6282 農夫たち(2)
〔画像解説〕    ボードインコレクション
ボードイン博士が長崎郊外の散策中に出会った「物売り」の行商人たちです。竹籠のなかには人参、ネギ、菜っ葉、魚が見えます。茂木方面から長崎に向かう行商人ではないでしょうか。足に脚絆を巻き、履物は地下足袋と草鞋です。天秤棒は竹からできています。ボードイン博士の撮影依頼に応じた笑顔が少しこわばっているのが印象的です。 -6282-

■ 確認結果

長崎大学附属図書館企画・編集の長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本 古写真で見る近代医学校の成立」が、長崎文献社から2012年10月発行された。
35P「茂木の庄屋屋敷前の「木の下」にて」は、木の背後に薄く写る山が、茂木の汐見崎の稜線と同じだから、撮影場所は「茂木の元庄屋森岡平左衛門の屋敷(現茂木郵便局)前の海岸に立つ木の下」に間違いないと確認できる。

ふと思い出したのは、長崎大学データベースの目録番号: 6282「農夫たち(2)」(目録番号:6281「農夫たち(1)」も同写真)の人物。ボードインコレクションにあり、「ボードイン博士が長崎郊外の散策中に出会った「物売り」の行商人たちです。…茂木方面から長崎に向かう行商人ではないでしょうか。…」
35P「茂木の庄屋屋敷前の「木の下」にて」の右端2人を拡大した。顔・ポーズとも似ているようでもあり、余談として人物の確認をお願いしたい。

長崎の古写真考 マンスフェルト集 33P 茂木の海岸に沿って

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長崎の幕末・明治期古写真考 マンスフェルト集 33P 茂木の海岸に沿って

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本」

第三章 茂木  33P  茂木の海岸に沿って
茂木の旧庄屋屋敷あたりから撮影された茂木海岸と茂木村本郷の家並み。マンスフェルトは茂木旅行に大型カメラを持参し、これを撮影したようである。写真は埋め立て前の片町付近で、左奥の寺は玉台寺。僧寶譽の創建で、島原の領主松倉氏の代に第3世義山和尚が再建した。
018 1872年頃 マンスフェルトか サイズ/207mm×156mm 大

■ 確認結果

長崎大学附属図書館企画・編集の長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本 古写真で見る近代医学校の成立」が、長崎文献社から2012年10月発行された。
33P「茂木の海岸に沿って」は、解説では「写真は埋め立て前の片町付近」としているが、「片町」は若菜川の右岸一帯のため、場所が違う。

長崎市役所茂木支所に展示している「茂木港今昔」の次の地図と説明どおり、大正時代に埋め立てられたのは、「橋口、中、寺下」の海岸である。
「若菜橋」も、橋口側の位置が、現在の橋とは異なっている。
この項は、本ブログ次も参照。 https://misakimichi.com/archives/2147

茂木港今昔
この地図は、大正時代の埋め立て前と現在の海岸線を比較したものです。現在のフェリー乗り場や新田の汐見崎観音寺付近は岩場で、橋口、中、寺下の海岸は砂浜でした。
若菜橋も橋口側の位置が異なっています。

33P「茂木の海岸に沿って」の撮影場所は、「旧庄屋屋敷あたりから」。現在は弁天橋があるSマート茂木店前あたりからであろう。左奥の寺も、「玉台寺」に間違いない。大イチョウがすでに撮影されている。

長崎の古写真考 マンスフェルト集 12・13P 愛宕山からの景色

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長崎の幕末・明治期古写真考 マンスフェルト集 12・13P 愛宕山からの景色

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本」

第二章 長崎  12・13P  愛宕山からの景色
愛宕山の中腹から茂木街道が走る谷をはさんで、小島郷佐古に建つ長崎医学校および大徳寺の丘越しに出島方面をのぞむ。出島の手前の白い家は明治3年(1870)ごろ建った中国商社広隆号。中央右の大きな屋根は正覚寺。その右上の茂みに旧長崎奉行所西役所の建物は撮影直前に消失している。中央付近は花街の寄合町。
001・002 1871年頃 マンスフェルトか サイズ/193mm×90mm 大 ほか

■ 確認結果

長崎大学附属図書館企画・編集の長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本 古写真で見る近代医学校の成立」が、長崎文献社から2012年10月発行された。

12・13P「愛宕山からの景色」は、右中央に「正覚寺」が写っている。「小島郷佐古に建つ長崎医学校および大徳寺の丘越しに出島方面をのぞむ」とあるが、この写真では「長崎医学校および大徳寺」は、写真外の右側となり、確認できない。
データベースでは、目録番号: 2871「高野平からの小島山手遠望」(掲載略)に同じような景色があり、間違って解説の参考とされたのではないか。

これに対し、12・13P「愛宕山からの景色」は、「愛宕山の中腹から」の撮影であるが、中腹とはどのあたりであろうか。
現地を調べたところ、高平町の榎観音堂の上、長崎玉成高校校舎写真の左上石垣付近(高平町15街区)で、全体の景色が見え正覚寺が同じように確認できるので、撮影場所の参考とされたい。古写真の大木が観音堂のかっての榎だったとも考えられる。
写真の「中央付近は花街の寄合町」との解説は、少し疑問を感じる。

長崎の古写真考 彦馬の世界 206P 寺院楼門

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長崎の幕末・明治期古写真考 彦馬の世界 206P 寺院楼門

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

上野彦馬の世界 206P 寺院楼門  (長崎歴史文化博物館蔵)
幕末から明治初期に撮影。鶏卵紙。

目録番号: 5360 悟真寺(3)   超高精細画像
〔画像解説〕
上野彦馬の撮影。稲佐山の麓にある悟真寺は、長崎郊外におけるキリシタン禁制後に復興された最初の仏教寺院として知られ、江戸時代を通じて中国人やオランダ人、幕末以降はロシア人らの墓所に当てられた。浄土宗の寺院だが、背後にそういう国際墓地があることで著名である。画面中央には、右に山門、左に本堂が写っている。重層、入母屋造の本堂は、文化11年(1814)に再建されたものがその後数度の修理を経て残存していたが、原爆で倒壊し、戦後、山門の真後ろに位置に鉄筋コンクリートで再建されている。山門はいわゆる龍宮門形式の重層門であるが、この形式となったのは、文政年間の絵図ではまだ冠木門に描かれているので、元治元年(1864)の修復時かと推定される。撮影時期は不詳だが、明治中期頃であろうか。山門の向こうには本堂脇の鐘楼と背後の庫裏が覗いている。現在は、山門前の石段等も向きを変えて大幅に改造されている。

■ 確認結果

上野彦馬の古写真集「レンズが撮らえた 幕末の写真師 上野彦馬の世界」が、山川出版社から2012年8月発行されている。
206P「寺院楼門」は、寺名の解説がなく不親切であろう。長崎大学データベース目録番号:
5360「悟真寺(3)」と同じ作品で、長崎市稲佐の「悟真寺」である。本堂は原爆で倒壊し、戦後、山門の真後ろに位置に鉄筋コンクリートで再建されている。

この項は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2819
長崎大学データベースで目録番号:5360「悟真寺(3)」は、撮影者未詳が〔撮影者:上野彦馬〕と現在は訂正されているが、目録番号:6261「稲佐の悟慎寺」(掲載略)は、間違ったタイトルの寺名のままである。