長崎の古写真考 2」カテゴリーアーカイブ

長崎の古写真考 ドイツが観た幕末日本 298頁 ⅤⅠⅠ−47 長崎 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 ドイツが観た幕末日本 298頁 ⅤⅠⅠ−47 長崎 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

プロセイン・ドイツが観た幕末日本
298頁  ⅤⅠⅠ−47 長崎、1861年、カール・ビスマルクやアウグスト・ザハトラーの写真に基づく版画。ⅤⅠⅠ−51の右側を参照。 
〔図版目録〕
作者不詳、「長崎の墓山から望む谷」、1864年。カール・ビスマルクやアウグスト・ザハトラーの写真に基づく木版画、1861年。出典:Spiess,215.
〔図版解説〕  なし

プロセイン・ドイツが観た幕末日本
300・301頁  ⅤⅠⅠ−50 長崎全景のパノラマ写真、1861年。
300・301頁  ⅤⅠⅠ−51 長崎全景のパノラマ写真、1861年。

■ 確認結果

日本とドイツの修好通商条約が調印されたのは、1861年1月24日。
日独交流150周年を記念して、ドイツ東洋文化研究協会(東京)から、セバスティアン・ドブソン & スヴェン・サーラ(編)「プロセイン・ドイツが観た幕末日本 オイレンブルグ遠征団が残した版画、素描、写真」が、2012年2月発行されている。
(長崎県立図書館に蔵書あり、日独英3ヵ国語訳)

1860年、日本との外交・経済関係を結ぶべく4隻の軍艦からなる艦隊が東アジアに向かった。ドイツ初の日本訪問使節団である。オイレンブルグ伯爵率いる遠征団に、お抱え絵師のアルベルト・ベルグ、素描家のカール・ビスマルクとアウグスト・ザハトラーが同行し、長崎も訪れた。
この本は、遠征時に彼らが制作したリトグラフ、素描、写真を紹介している。

298頁の「ⅤⅠⅠ−47 長崎」は、1864年の木版画。図版目録では、作者不詳、「長崎の墓山から望む谷」となっている。図版解説はないが、「ⅤⅠⅠ−51(50?)の右側を参照」とある。

「ⅤⅠⅠ−50」は、風頭山山頂近くからの長崎全景のパノラマ写真。1861年、カール・ビスマルクまたはアウグスト・ザハトラー作とされる。東京都写真美術館所蔵。
この右側の部分が、木版画と同じで、風頭山山頂近くの墓地から、新大工や西山方面を描いていることがわかる。春徳寺も確認できるようである。

一方、「ⅤⅠⅠ−51」は、同じ作者とされる長崎港の対岸、稲佐方面からの長崎全景のパノラマ写真。1861年当時の稲佐崎や丸尾海岸の様子がわかる。これには水の浦の入江や飽の浦の恵美須神社までは写っていない。
実際の撮影場所は、稲佐山中腹のホテル清風近くのピークか、水の浦トンネル上天狗岩あたりからと思われる。

長崎大学データベースには、「ⅤⅠⅠ−50」については、若宮神社の鳥居が写った作品があり、背景の景色を対比してもらいたい。この項は、本ブログ次を参照。
https://misakimichi.com/archives/2193
https://misakimichi.com/archives/2389

長崎の古写真考 ドイツが観た幕末日本 298頁 ⅤⅠⅠ−46 長崎

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長崎の幕末・明治期古写真考 ドイツが観た幕末日本 298頁 ⅤⅠⅠ−46 長崎

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

プロセイン・ドイツが観た幕末日本
298頁  ⅤⅠⅠ−46 長崎、1861年、カール・ビスマルクやアウグスト・ザハトラーの写真に基づく版画
〔図版目録〕
作者不詳「長崎」、1864年、カール・ビスマルクまたはアウグスト・ザハトラーの写真に基づく木版画。出典:(略)
〔図版解説〕 なし

■ 確認結果

日本とドイツの修好通商条約が調印されたのは、1861年1月24日。
日独交流150周年を記念して、ドイツ東洋文化研究協会(東京)から、セバスティアン・ドブソン & スヴェン・サーラ(編)「プロセイン・ドイツが観た幕末日本 オイレンブルグ遠征団が残した版画、素描、写真」が、2012年2月発行されている。
(長崎県立図書館に蔵書あり、日独英3ヵ国語訳)

1860年、日本との外交・経済関係を結ぶべく4隻の軍艦からなる艦隊が東アジアに向かった。ドイツ初の日本訪問使節団である。オイレンブルグ伯爵率いる遠征団に、お抱え絵師のアルベルト・ベルグ、素描家のカール・ビスマルクとアウグスト・ザハトラーが同行し、長崎も訪れた。
この本は、遠征時に彼らが制作したリトグラフ、素描、写真を紹介している。

298頁の「ⅤⅠⅠ−46 長崎」は、木版画。図版解説はないが、これは、長崎市鍛冶屋町の「清水寺」(図左側に石門のある寺)の方を、東小島町「正覚寺」下あたりの旧茂木街道の道から眺めて描いている。
長崎大学データベースには、目録番号: 995「長崎清水寺(2)」のような古写真が13点ある。

長崎の古写真考 ドイツが観た幕末日本 253頁 ⅤⅠ−A−30 段丘の寺院

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 長崎の幕末・明治期古写真考 ドイツが観た幕末日本 253頁 ⅤⅠ−A−30 段丘の寺院

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

プロセイン・ドイツが観た幕末日本
253頁  ⅤⅠ−A−30 長崎 段丘にある寺院
〔図版目録〕
「長崎 段丘にある寺院」 (図録『Ansichten』第5冊、図版30) 1869年
/フォトリトグラフ、ヴィルヘルム・コルン・フォトリトグラフ研究所製作。

〔図版解説〕 30 長崎 段丘にある寺院
町の北部は高い段丘が連なり、そこを登っていくと、いくつかの寺院に通じている。そこからは町や湾が見渡せて、すばらしい眺めである。図録 25 を描いた地点は、この寺院のすぐ近くである。本図では、寺院の本殿はその側面を見せている。本殿の前は鬱蒼とした針葉樹におおわれた広い段丘には、青銅の燈籠、井戸小屋、それに多くの墓標がある。

その多くはまとまって垣根の仕切の中に入っているが、これは高貴な人びとの先祖の墓なのであろう。松の枝を通して見えるのが最高位の人の墓である。その下、第2番目の段丘には表門がある。その手前にあるのが僧侶の住居である。その先にある第3の入り口からは、無限に長い階段が続いて町にまで通じている。

— 出島はこの図でも見える。白い家があるのでその見分けがつく。
— 本図の手前にも、墓石のたくさんある墓地がある。そのうち、寺院に一番近い所には、特別大きくまた形もとりわけ目立つものが見えている。

■ 確認結果

日本とドイツの修好通商条約が調印されたのは、1861年1月24日。
日独交流150周年を記念して、ドイツ東洋文化研究協会(東京)から、セバスティアン・ドブソン & スヴェン・サーラ(編)「プロセイン・ドイツが観た幕末日本 オイレンブルグ遠征団が残した版画、素描、写真」が、2012年2月発行されている。
(長崎県立図書館に蔵書あり、日独英3ヵ国語訳)

1860年、日本との外交・経済関係を結ぶべく4隻の軍艦からなる艦隊が東アジアに向かった。ドイツ初の日本訪問使節団である。オイレンブルグ伯爵率いる遠征団に、お抱え絵師のアルベルト・ベルグ、素描家のカール・ビスマルクとアウグスト・ザハトラーが同行し、長崎も訪れた。
この本は、遠征時に彼らが制作したリトグラフ、素描、写真を紹介している。

253頁の「ⅤⅠ−A−30 長崎 段丘にある寺院」はフォトリトグラフ。町の北部にあり、「図録 25 を描いた地点(注 立山)は、この寺院のすぐ近くである」と解説している。
これは、長崎市筑後町の「本蓮寺」を、左横の墓地から描いている。したがって、寺院の本殿などは、その側面を見せている。
「その下、第2番目の段丘には表門がある」とは、「二天門」のことである。

「本蓮寺」は、長崎原爆により本堂などすべて焼失したが、「二天門」の礎石は、現在も残っている。勝海舟寓居の地でもある。
長崎大学データベースの目録番号:3870「長崎の墓地(3)」が、超高精細画像の画像解説どおり、「本蓮寺の墓地」である。この項は、本ブログ次を参照。
https://misakimichi.com/archives/2283
https://misakimichi.com/archives/3161

長崎の古写真考 ドイツが観た幕末日本 251頁 ⅤⅠ−A−29 南部の墓地

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 長崎の幕末・明治期古写真考 ドイツが観た幕末日本 251頁 ⅤⅠ−A−29 南部の墓地

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

プロセイン・ドイツが観た幕末日本
251頁  ⅤⅠ−A−29 長崎 町の南部にある墓地
〔図版目録〕
「長崎 町と港」 (図録『Ansichten』第5冊、図版29) 1869年
/フォトリトグラフ、ヴィルヘルム・コルン・フォトリトグラフ研究所製作。

〔図版解説〕 29 長崎 町の南部にある墓地
ここに描かれた墓地は、長崎の南に広がる山腹にあり、先の図よりさらに奥の部分にあたる。麓には寺院が軒をつらね、そこは町の中心から南へ向う道路の突当りにあたっている。境内には、鐘楼、湯殿、それに僧侶の住宅がある。屋根は萱葺きのものもあるが、多くは灰色の瓦葺きで、それらはところどころ模様をつけたように白いモルタルで接合されている。

古木のあるものは、蔦をいっぱい身にまとい、まるで甲羅をかぶっているようである。段丘の石垣や墓石もすっかり蔦におおわれている。墓の中で新しいものは、風雨をさけるため木の屋根をつけている。— 図の左には楠が立っている。手前右の椰子科の植物は棕櫚である。  

■ 確認結果

日本とドイツの修好通商条約が調印されたのは、1861年1月24日。
日独交流150周年を記念して、ドイツ東洋文化研究協会(東京)から、セバスティアン・ドブソン & スヴェン・サーラ(編)「プロセイン・ドイツが観た幕末日本 オイレンブルグ遠征団が残した版画、素描、写真」が、2012年2月発行されている。
(長崎県立図書館に蔵書あり、日独英3ヵ国語訳)

1860年、日本との外交・経済関係を結ぶべく4隻の軍艦からなる艦隊が東アジアに向かった。ドイツ初の日本訪問使節団である。オイレンブルグ伯爵率いる遠征団に、お抱え絵師のアルベルト・ベルグ、素描家のカール・ビスマルクとアウグスト・ザハトラーが同行し、長崎も訪れた。
この本は、遠征時に彼らが制作したリトグラフ、素描、写真を紹介している。

251頁の「ⅤⅠ−A−29 長崎 町の南部にある墓地」はフォトリトグラフ。「ここに描かれた墓地は、長崎の南に広がる山腹にあり、… 麓には寺院が軒をつらね、そこは町の中心から南へ向う道路の突当りにあたっている」と解説している。

これは、長崎市鍛冶屋町の「大音寺墓地」を描いていると考えられる。右側中間の尾根は西小島の「大徳寺」あたりの丘となり、長崎港の一部が見え、対岸の山は特徴ある「天門峰」だろう。
写真の右下の大屋根が「大音寺」、中央左の大屋根が隣りの寺「大光寺」とすると、位置関係は合う。寺院の付属建物は変わり、墓地も改築されていて、なかなか同じような景色を写せない。

参考として掲げるのは、江崎べっ甲店所蔵の上野彦馬初期撮影写真「長崎の町から長崎港方面を望む」。長崎大学付属図書館関係者が解説しているが、撮影場所は間違いである。
これが大音寺の隣り、「大光寺」墓地から写した場合の景色となるので、対比をお願いしたい。
この項は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2822

長崎の古写真考 ドイツが観た幕末日本 243頁 ⅤⅠ−A−25 長崎 町と港

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 長崎の幕末・明治期古写真考 ドイツが観た幕末日本 243頁 ⅤⅠ−A−25 長崎 町と港

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

プロセイン・ドイツが観た幕末日本
243頁  ⅤⅠ−A−25 長崎 町と港
〔図版目録〕
「長崎 町と港」 (図録『Ansichten』第4冊、図版25) 1869年
/フォトリトグラフ、ヴィルヘルム・コルン・フォトリトグラフ研究所製作。

〔図版解説〕 25 長崎 町と港
この図を描いた地点は、図録 23 のそれよりずっと低い所である。町の大部分が見渡されるが、それでもなお図の右手の山腹の後ろにはいくらか町が隠れている。そこでは谷が口をあけており、その平坦な地は、そこを流れる川によって造られた沖積地であるらしい。

— 右手には町の一部が見える。奥の方の突き出た所は出島である。その背後、小さな入江を隔てた向い側に、外国人の新居留地が見える。この町の東と南から流れる二つの小川は、一部が運河に入り、それが湾のこの部分に注ぎ込んでいる。
— この湾の右岸(図に向かって右側)に樹木の生えた岬があるが、その後ろにロシア人の居留地稲佐がある。またそれに続く前山に隠れて、肥前侯の造船所がある。
— プロイセン軍艦アルコーナ号とテーティス号は、この湾のほぼ中央に停泊した。

■ 確認結果

日本とドイツの修好通商条約が調印されたのは、1861年1月24日。
日独交流150周年を記念して、ドイツ東洋文化研究協会(東京)から、セバスティアン・ドブソン & スヴェン・サーラ(編)「プロセイン・ドイツが観た幕末日本 オイレンブルグ遠征団が残した版画、素描、写真」が、2012年2月発行されている。
(長崎県立図書館に蔵書あり、日独英3ヵ国語訳)

1860年、日本との外交・経済関係を結ぶべく4隻の軍艦からなる艦隊が東アジアに向かった。ドイツ初の日本訪問使節団である。オイレンブルグ伯爵率いる遠征団に、お抱え絵師のアルベルト・ベルグ、素描家のカール・ビスマルクとアウグスト・ザハトラーが同行し、長崎も訪れた。
この本は、遠征時に彼らが制作したリトグラフ、素描、写真を紹介している。

239頁の「ⅤⅠ−A−25 長崎 町と港」はフォトリトグラフ。「この図を描いた地点は、図録 
23 のそれよりずっと低い所である。町の大部分が見渡される」と解説している。
すなわち、前掲した「図録 23」を描いた金比羅山の前山「天狗山」から、ずっと南西へ下る。「立山」という景勝地から描かれた作品であろう。現在のJR長崎駅から見て真上の山である。

長崎県営バスの立山終点から、ホテル長崎左側の墓地の道へ下る。すぐ近くで一番古い「西勝寺の無縁諸霊墓」がある所があり、港口の山の稜線重なりを考えると、このあたりから描かれたと思われる。現在の画像は、ズーム拡大。
この「図録 25」には、手前左に寺院らしい屋根が描かれている。聖福寺など考えられるが、検証が必要。
F.ベアトや上野彦馬も、立山から同じような景色を撮影している古写真がある。
この項は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2328

長崎の古写真考 ドイツが観た幕末日本 239頁 ⅤⅠ−A−23 長崎湾

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長崎の幕末・明治期古写真考 ドイツが観た幕末日本 239頁 ⅤⅠ−A−23 長崎湾

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

プロセイン・ドイツが観た幕末日本
239頁  ⅤⅠ−A−23 長崎湾
〔図版目録〕
「長崎 港湾」 (図録『Ansichten』第4冊、図版23) 1868年
/フォトリトグラフ、ヴィルヘルム・コルン・フォトリトグラフ研究所製作

〔図版解説〕 23 長崎 港湾
この湾は、入口は西に向き細長く延びた内港をなしており、しかも小さな入江がたくさんある。港口は狭くしかも前島に入口を守られており、海岸は高い岸壁なので、水面は概して湖のように静かである。それゆえ大船にとっては安全な停泊地となっている。とはいえ、大暴風雨がしばしば大災害をもたらすことがある。

町は湾の一番奥、湾口の向い側にある高い山々の麓にある。このスケッチは金比羅という丘から描いた。左手前に、出島を含む町の一部がある。その奥は外国人の新居留地である。ロシア人居留地—墓地と2,3の倉庫—、それに肥前侯の造船場は向い側の北岸にある。町に密接して寺院と墓地のある山腹があり、また耕地は水際から段丘状をなしてかなりの高さの所まで延びている。

山の頂きは大部分常緑の潅木におおわれている。船の出入の多いこの湾の岸辺を縁取るのは、数多くの寺院、村落、堡塁である。けれども、森がまっすぐに切り立った海岸に迫るほかの小さな入江には深い静けさがある。そこは、小さな漁村が入江の隅に隠れるように点在するのみなのである。

■ 確認結果

日本とドイツの修好通商条約が調印されたのは、1861年1月24日。
日独交流150周年を記念して、ドイツ東洋文化研究協会(東京)から、セバスティアン・ドブソン & スヴェン・サーラ(編)「プロセイン・ドイツが観た幕末日本 オイレンブルグ遠征団が残した版画、素描、写真」が、2012年2月発行されている。
(長崎県立図書館に蔵書あり、日独英3ヵ国語訳)

1860年、日本との外交・経済関係を結ぶべく4隻の軍艦からなる艦隊が東アジアに向かった。ドイツ初の日本訪問使節団である。オイレンブルグ伯爵率いる遠征団に、お抱え絵師のアルベルト・ベルグ、素描家のカール・ビスマルクとアウグスト・ザハトラーが同行し、長崎も訪れた。
この本は、遠征時に彼らが制作したリトグラフ、素描、写真を紹介している。

239頁の「ⅤⅠ−A−23 長崎湾」はフォトリトグラフ。「このスケッチは金比羅という丘から描いた」と解説している。金比羅山といっても、どの場所からだろうか。
長崎港の全体を俯瞰し、遠くに野母の権現山まで見える。かなり高い地点である。金比羅山の山頂ではなく、中腹の金比羅神社から150mほど歩く。

明治7年(1874)、フランス隊が金星太陽面通過観測が行うこととなった金比羅山の前面の山、「烏帽子山」(「天狗山」は山名誤り)と呼ばれるピークからの景色と思われる。現在の画像は、ズーム拡大。
現在は展望台ができ、ピラミッド型観測碑がある一帯は、長崎県指定史跡となっている。

長崎の古写真考 ドイツが観た幕末日本 163頁 ⅤⅠ−32 長崎 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 ドイツが観た幕末日本 163頁 ⅤⅠ−32 長崎 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

プロセイン・ドイツが観た幕末日本
163頁  ⅤⅠ−32 長崎、1861年ベルグによるスケッチ
〔図版目録〕
アルベルト・ベルグ画、「長崎」、鉛筆画スケッチ/紙、
「Nagasaki 61/Daitekudsi〔Daitokuji〕」と記されている、
1861年。近畿大学中央図書館所蔵。

163頁  ⅤⅠ−33 ⅤⅠ−32に基づくフォトリトグラフ 
〔図版目録〕
ヴィルヘルム・コルン・フォトリトグラフ研究所製作、「長崎」。
アルベルト・ベルグ画に基づくフォトリトグラフ。出典(略)

■ 確認結果

日本とドイツの修好通商条約が調印されたのは、1861年1月24日。
日独交流150周年を記念して、ドイツ東洋文化研究協会(東京)から、セバスティアン・ドブソン & スヴェン・サーラ(編)「プロセイン・ドイツが観た幕末日本 オイレンブルグ遠征団が残した版画、素描、写真」が、2012年2月発行されている。
(長崎県立図書館に蔵書あり、日独英3ヵ国語訳)

1860年、日本との外交・経済関係を結ぶべく4隻の軍艦からなる艦隊が東アジアに向かった。ドイツ初の日本訪問使節団である。オイレンブルグ伯爵率いる遠征団に、お抱え絵師のアルベルト・ベルグ、素描家のカール・ビスマルクとアウグスト・ザハトラーが同行し、長崎も訪れた。
この本は、遠征時に彼らが制作したリトグラフ、素描、写真を紹介している。

163頁のⅤⅠ−32「長崎」は、1861年ベルグによるスケッチ。ⅤⅠ−33は ⅤⅠ−32に基づくフォトリトグラフ。
詳しい場所説明がないが、図版目録に〔Daitokuji〕とあるのに注目しよう。

これは、海に張り出した出島海岸側から、河口の石橋と右背後に大徳寺の丘を描いている。左奥の山は愛宕山、麓にある山門の寺は清水寺である。
169頁の石橋は、左上に「DESIMA」と書き込みがあるため、出島の橋に間違いないだろうが、この163頁の中央左のアーチ式石橋は、新地蔵の銅座側門口に架かっていた石橋「新地橋」であろう。

上野彦馬が明治6年(1873)頃、同じような風景と石橋を撮影した貴重な古写真がある。
この項は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2764
長崎歴史文化博物館の郷土資料、古賀文庫「長崎橋梁台帳」によると、「新地橋」は、「文化九年九月石橋ニ更ム」とある。

長崎の古写真考 モース百年前の日本 157 大和型の荷船

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長崎の幕末・明治期古写真考 モース百年前の日本 157 大和型の荷船

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

モース・コレクション/写真集 百年前の日本
114頁  157 大和型の荷船 ca.1900
〔画像解説〕
あまり大型でなく、500石以下かと思われる。喫水線が深いが、積荷が見えないので比重が重い荷を積んでいるのだろうか。明治後期の撮影であろう。撮影場所は不明であるが、瀬戸内海かと思われる。

目録番号:1818 和船(4)
〔画像解説〕
四角の帆一枚で走る和船。これは主として関西以西で使われたいさば船とおもわれる。運搬用に使用された。わりに大きな船。撮影場所は不明。

目録番号:4533 和船(10)

目録番号:6762 和船(13)

■ 確認結果

モース・コレクション/写真集「百年前の日本」小学館発行1988年初版第9刷の114頁にある「157 大和型の荷船」は、撮影場所の説明がない。
データベースの目録番号:1818「和船(4)」ほかとも、これは長崎を撮影している。

ブライアン・バークガフニさんのサイトだろう。「長崎古えはがき」の長崎港の中に「(長崎名所) 海岸の景 View of Bund at Nagasaki」の絵葉書が掲載されている。
目録番号:1818「和船(4)」を反転した写真に間違いない。船頭と背景の海岸建物を比較。船は少し移動している。長崎港の具体的な場所は不明。郊外の茂木も考えられる。
この項は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2843

長崎の古写真考 モース百年前の日本 155 和船

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長崎の幕末・明治期古写真考 モース百年前の日本 155 和船

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

モース・コレクション/写真集 百年前の日本
113頁  155 和船 ca.1890
〔画像解説〕
大和型の500石以下の中型荷船。近距離用で、おそらく瀬戸内海航路が主であったと思われる。錨はほとんど使用されなかった中国型のようであり、そうだとすれば大変珍しい。

目録番号:5713 和船(12)

■ 確認結果

モース・コレクション/写真集「百年前の日本」小学館発行1988年初版第9刷の113頁にある「155 和船」は、撮影場所の説明がない。
データベースの目録番号:5713「和船(12)」とも、これは長崎の戸町海岸を撮影している。沖に写る島は、長崎港口の「高鉾島」である。
この項は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1548

長崎の古写真考 マンスフェルト集 35P 茂木の庄屋屋敷前の「木の下」にて(再掲)

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長崎の幕末・明治期古写真考
マンスフェルト集 35P 茂木の庄屋屋敷前の「木の下」にて(再掲)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本」

第三章 茂木  35P  茂木の庄屋屋敷前の「木の下」にて
茂木の元庄屋森岡平左衛門の屋敷(現茂木郵便局)前の海岸に立つ木の下でくつろぐマンスフェルト一行の人夫たち。まだまげを結っている男性が多い。次ページの写真とあわせてみると、一行は茂木滞在中、この元庄屋宅を宿舎にしたように思われる。熊本からの旅行中であろうか。
016 1872年頃 マンスフェルトか サイズ/205mm×156mm 大

■ 確認結果

長崎大学附属図書館企画・編集の長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本 古写真で見る近代医学校の成立」が、長崎文献社から2012年10月発行されている。
35P「茂木の庄屋屋敷前の「木の下」にて」は、木の背後に薄く写る山が、茂木の汐見崎の稜線と同じだから、撮影場所は「茂木の元庄屋森岡平左衛門の屋敷(現茂木郵便局)前の海岸に立つ木の下」に間違いないと確認できる。
この項は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/3490

さて、この作品が、朝日新聞長崎地域版きょう2012年12月22日付”長崎今昔 長大写真コレクション”に、「マンスフェルトの荷物運び」として掲載された。解説は、
「1871年ごろ撮影された、休息する荷駄運びの労働者たちです。場所は茂木の庄屋、森岡平左衛門の屋敷前の海岸沿いです。…熊本からの船旅を終えて茂木に上陸したマンスフェルトは、船から宿、さらに日見峠を越えて長崎に荷物を運ぶために多くの労働者を雇わなければなりませんでした」

オランダ人医師マンスフェルトは、小島養生所および精得館を引き継ぐ長崎医学校の3代目の校長だった。5年の任期を終え1871年、3年間の契約で熊本古城医学校の創始にかかわった。長崎滞在中、あるいは熊本時代も含めて、中型カメラを持参して茂木を旅行した。
この作品の撮影年代が、新聞解説では「1871年ごろ」と変わったが、はっきり確認できる記録がないものだろうか。

新聞解説の撮影場所は良いとして、後段の「茂木に上陸したマンスフェルトは、船から宿、さらに日見峠を越えて長崎に荷物を運ぶため」は、「田上峠」の単純な誤りではないか。
執筆者の解説には、疑問とするものが多く、解説がそのつど変わる。朝日新聞社でも事前にチェックを入れてもらわないと、大学・新聞社とも権威が疑われる。訂正記事が必要だろう。