長崎の古写真考 2」カテゴリーアーカイブ

長崎の古写真考 長崎古えはがき 長崎名所海岸の景 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 長崎古えはがき 長崎名所海岸の景 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

NAGASAKI GENEI 長崎古えはがき 
長崎名所 海岸の景
長崎海岸の景

目録番号:1818 和船(4)
〔画像解説〕
四角の帆一枚で走る和船。これは主として関西以西で使われたいさば船とおもわれる。運搬用に使用された。わりに大きな船。撮影場所は不明。

目録番号:6762 和船(13)  掲載略

目録番号:4533 和船(10)  掲載略

■ 確認結果

「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

長崎古えはがき「長崎名所 海岸の景」または「長崎海岸の景」は、同じ絵葉書だが、長崎大学データベースの目録番号:1818「和船(4)」ほかとも、同じ写真であることがわかるだろうか。同じ和船と場所を写し、どちらかが反転した写真なのである。

絵葉書に「(長崎名所)」とある以上、撮影場所は「長崎」と考えられる。
実際の撮影場所は、長崎のどこだろうか。茂木の若菜橋近くが状景が合う。河口には天草航路の長く突き出た波止場があり、そこから撮影できそうである。

背後の集落や山の景色は、目録番号:4533「和船(10)」の方が、手がかりとなる。 茂木若菜橋の風景を、同「長崎古えはがき」から参考のため掲げる。この項は、本ブログ次を参照。
https://misakimichi.com/archives/2843
https://misakimichi.com/archives/1531

長崎の古写真考 長崎古えはがき 茂木町新道電車通り ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 長崎古えはがき 茂木町新道電車通り ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

NAGASAKI GENEI 長崎古えはがき 
長崎茂木町新道電車通り
本籠町

■ 確認結果

「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

長崎古えはがき「長崎茂木町新道電車通り」と「本籠町」は、絵葉書のタイトルがそうなっているのだろう。これは絵葉書作成業者の整理間違いだろう。
「長崎茂木町新道電車通り」は、大浦海岸の電車通り。背後の山は鍋冠山。現在の軌道は少し移設されている。「本籠町」は、茂木町の若菜橋である。

長崎の古写真考 長崎古えはがき 長崎港イナサ

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長崎の幕末・明治期古写真考 長崎古えはがき 長崎港イナサ

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

NAGASAKI GENEI 長崎古えはがき 
長崎港イナサ

目録番号:1694 飽の浦恵美須神社(3)
〔画像解説〕
この写真は英文で「長崎、稲佐の景色」と題されている。飽の浦神社(恵美須神社)の境内ごしに長崎港の風景を遠望している。同じ作品が上野彦馬のアルバムにも収蔵されている。明治初年の撮影と思われる。

■ 確認結果

「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

長崎古えはがき「長崎港イナサ」は、長崎大学データベースの目録番号:1694 飽の浦恵美須神社(3)」のとおり、場所的には飽の浦恵美須神社前あたりの岸壁から、現在、三菱電機の工場がある大鳥崎方面を写している。
撮影年代は、大鳥崎海岸が埋め立てられていないため、明治25年以前の写真と思われる。

この手彩色絵葉書は、長崎県HP「旅する長崎学<たびなが> ふるさと写真館」に掲載されていた。「[撮影エリア] 県南 長崎市稲佐付近 [撮影年代] 大正だと思われます」とあるが、間違いと思われるので知らせた。
この項は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/3234

長崎の古写真考 長崎古えはがき 福田岩穴

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長崎の幕末・明治期古写真考 長崎古えはがき 福田岩穴

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

NAGASAKI GENEI 長崎古えはがき 
長崎福田村岩穴

目録番号:2877 長崎福田海岸の洞窟(1)
〔画像解説〕
明治中期。長崎市の福田海岸にあった洞窟。当時は観光にも使われていたようで、観光客らしい人物が洞窟を遠望し、洞窟には洞内の見学船と思われる小船が接近している。

目録番号:5629 長崎福田海岸の洞窟(2)

■ 確認結果

「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

長崎古えはがき「Fukudaiwa, Ana Nagasaki.」は、本ブログ次を参照。
https://misakimichi.com/archives/1933
長崎大学データベースの目録番号:2877「長崎福田海岸の洞窟(1)」のとおり、福田海岸の洞窟である。船でないとなかなか行きにくい。
目録番号:5629「長崎福田海岸の洞窟(2)」は、同じ写真。

長崎の古写真考 長崎古えはがき 時津 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 長崎古えはがき 時津 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

NAGASAKI GENEI 長崎古えはがき 
時 津
時津の石橋

■ 確認結果

「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

長崎古えはがき「時津」及び「時津の石橋」は、本ブログ次を参照。すでに調査済みである。
https://misakimichi.com/archives/2847
「TOKITSU」は、時津町浦郷の「八幡神社」。南側(現在の時津警察署あたり)から撮影しているのではないだろうか。「古長崎101景」では、時津八幡宮神社のタイトルとなっている。
「THE STONE BRIDGE AT SUIKOEN TOGITSU NEAR NAGASAKI」は、時津町元村郷字丸田の「丸田橋」ではないだろうか。

長崎の古写真考 長崎古えはがき 大井平川石橋

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長崎の幕末・明治期古写真考 長崎古えはがき 大井平川石橋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

NAGASAKI GENEI 長崎古えはがき
大井平川石橋

目録番号: 2130 中島川に架かる桃渓橋(1)
〔画像解説〕  超高精細画像
現在は、一般に中島川と呼ばれているが、上流の大手橋の袂に長崎氏の大手門があったことから堂門川と呼ばれた。写真下部分が日見峠方面からの川、銭屋川(中島川)との合流地点である。桃渓橋は堂門川に延宝7年(1679)、永島仁左衛門こと僧ト意が出来大工町に架けた長さ12.4m、幅3.4mのアーチ石橋である。昔、この辺りの川端は桃の木が多く植えてあり、桃の木大工町と言われ、この名が付けられた。写真左側に松の大木、その前に不動明王堂、奥には金比羅山、写真右側角の人家の前に明治4年(1871)設置の街路灯が見える。桃渓橋は、堂門川と銭屋川が合流する地点より上流部にあったので、これまでの大水害(享保、寛政、文化)で被害は受けても、一度も崩落することはなかった。昭和57年(1982)の長崎大水害でも被害を受けたが、崩落をまぬがれ、建設当時の面影を持つ橋の一つである。

■ 確認結果

「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

長崎古えはがき「大井平川石橋」は、橋名不明。明治時代の「大井手橋」も考えられるが、橋の長さや姿が違う。長崎大学データベースの目録番号: 2130「中島川に架かる桃渓橋(1)」のとおり、「桃渓橋」ではないだろうか。
石橋の形や、背後の金比羅山などの稜線が合う。左側岸の松の向きが違うのが気になるが、同じ長崎古えはがき中の「中島川の石橋」も、「桃渓橋」である。

この項は、本ブログ次を参照。現在の写真は、二又と言う西山側からの川(二又付近は「大井平川」と呼ばれた)と中島川本流の合流地点あたりから撮影した。
https://misakimichi.com/archives/2455

長崎の古写真考 長崎古えはがき 牛ノ天満宮

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長崎の幕末・明治期古写真考 長崎古えはがき 牛ノ天満宮

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

NAGASAKI GENEI 長崎古えはがき
長崎市中川郷牛ノ天満宮

■ 確認結果

「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

長崎古えはがき「長崎市中川郷牛ノ天満宮」は、「桜馬場天満神社」の御神牛だろう。
当時は御神橋脇にあったようだ。戦時中供出され、現在ある銅牛は説明板のとおり、平成4年正月に大久保月光氏らが奉献された。山崎和國氏制作。牛の姿は変わっている。

長崎市新大工町商店街からシーボルト通りへ向かう。商店街を出た交差点のすぐ先の通りの左に鳥居があり、奥へ行くと「桜馬場天満神社」がある。祭神は菅原道真公。創建は慶長12年
(1607)。
御神牛は道真公の生まれ年の縁と、大変可愛がられた牛が、天満宮をお参りしたことから、天満宮のシンボルのようになっている。
この項は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/1426

長崎の古写真考 ドイツが観た幕末日本 169頁 ⅤⅠ−49 高鉾島

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長崎の幕末・明治期古写真考 ドイツが観た幕末日本 169頁 ⅤⅠ−49 高鉾島

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

プロセイン・ドイツが観た幕末日本
169頁  ⅤⅠ−49 長崎港・高鉾島、1861年、ベルグによるスケッチに基づくリトグラフ
〔図版目録〕
ヴィルヘルム・コルン・フォトリトグラフ研究所製作、「長崎の高鉾島」。
アルベルト・ベルグ画に基づくフォトリトグラフ。出典(略)

目録番号: 2922 高鉾島(14)
〔画像解説〕   超高精細画像
大型アルバムの1枚を剥がしたもので、キャプションにG42.TAKABOKO,(PAPPENBERG),NAGASAKIと印字されている。これは横浜の小川一真のアルバムからである。高鉾島の古写真は多いが、対岸の神ノ島側から撮影されたものは少ない。高鉾島は鎖国時代にキリシタンが処刑された殉教の島として外国人に知られていた。写真は、長崎市街の対岸にあたる稲佐側の神ノ島から高鉾島および現マリア観音前を写したものである。岬における海岸近傍の集落の様子がよく撮影されている。右側の海に張り付いた民家は風除けのためかすべて瓦葺きである。船は伝馬船であり、波を避けて内湾に係留されている。畑が海の傍まで切り開かれている。中央の民家は風当たりの強い岬の鼻に立てられ、階段には石段が積まれ、軒先には水甕と桶がみえる。縁側と戸口に干してあるのは穀物であろうか。このあたりは隠れキリシタンが住んだ集落で、「神」の地名が多い。背景右側は香焼島、遠景は長崎半島の山々である。目録番号4084(整理番号79-2)と同じアングルである。

■ 確認結果

日本とドイツの修好通商条約が調印されたのは、1861年1月24日。
日独交流150周年を記念して、ドイツ東洋文化研究協会(東京)から、セバスティアン・ドブソン & スヴェン・サーラ(編)「プロセイン・ドイツが観た幕末日本 オイレンブルグ遠征団が残した版画、素描、写真」が、2012年2月発行されている。
(長崎県立図書館に蔵書あり、日独英3ヵ国語訳)

1860年、日本との外交・経済関係を結ぶべく4隻の軍艦からなる艦隊が東アジアに向かった。ドイツ初の日本訪問使節団である。オイレンブルグ伯爵率いる遠征団に、お抱え絵師のアルベルト・ベルグ、素描家のカール・ビスマルクとアウグスト・ザハトラーが同行し、長崎も訪れた。
この本は、遠征時に彼らが制作したリトグラフ、素描、写真を紹介している。

169頁のⅤⅠ−49「長崎港・高鉾島」は、1861年、ベルグによるスケッチに基づくフォトリトグラフ。これは長崎港入口の風景である。中央右の大きな島が高鉾島、左は現在、白亜マリア像が建つドンク岩、その横は神ノ島の幼稚園が建つ岬となる。背後の山は天門峰である。

長崎大学のデータベースでは、目録番号: 2922「高鉾島(14)」の解説にある「背景右側は香焼島」側から逆に描いたこととなるが、香焼島の陸地からではなく、高鉾島にまだ近寄ったその沖に停泊していた遠征団艦船の上から描いていると思われる。
当時の写真と違い、スケッチならどこからの船上でもできる。

現在の写真は、伊王島行きの船上から近くを写した。
最後の写真は、ブログ知人キャプテンタッちゃんが、2013年2月21日に海上のポイントで再確認してくれた撮影写真。鮮明に位置関係がわかるだろう。スケッチはデフォルメがある。

長崎の古写真考 ドイツが観た幕末日本 169頁 ⅤⅠ−48 外国人居留地

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長崎の幕末・明治期古写真考 ドイツが観た幕末日本 169頁 ⅤⅠ−48 外国人居留地

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

プロセイン・ドイツが観た幕末日本
169頁  ⅤⅠ−48 長崎 外国人居留地、1861年、ベルグによるスケッチに基づくフォトリトグラフ
〔図版目録〕
ヴィルヘルム・コルン・フォトリトグラフ研究所製作、「長崎の新居留地」。
アルベルト・ベルグ画に基づくフォトリトグラフ。出典(略)

目録番号: 5865 出島の商館長邸横の日本庭園から大浦居留地方面を望む
〔画像解説〕
安政5年(1858)の開国条約締結直後の1862年、長崎を訪問したミルトン・ミラーが撮影した、長崎の最も古い風景写真のなかの1枚。当時出島の南側中央のオランダ商館長邸を訪問したと思われるミラーが、屋敷横の日本庭園から、第二次埋め立てが完了し建物が建ち始めた大浦居留地を遠望している。左の大きな白黒の柱はオランダ国旗の旗竿であり、右には妙行寺(当時イギリスの仮領事館)の屋根が見える。妙行寺横にはまだグラバー邸は見えない。ライデン大学に寄託されているボードウィン・コレクションにも同じ写真が存在する。

■ 確認結果

日本とドイツの修好通商条約が調印されたのは、1861年1月24日。
日独交流150周年を記念して、ドイツ東洋文化研究協会(東京)から、セバスティアン・ドブソン & スヴェン・サーラ(編)「プロセイン・ドイツが観た幕末日本 オイレンブルグ遠征団が残した版画、素描、写真」が、2012年2月発行されている。
(長崎県立図書館に蔵書あり、日独英3ヵ国語訳)

1860年、日本との外交・経済関係を結ぶべく4隻の軍艦からなる艦隊が東アジアに向かった。ドイツ初の日本訪問使節団である。オイレンブルグ伯爵率いる遠征団に、お抱え絵師のアルベルト・ベルグ、素描家のカール・ビスマルクとアウグスト・ザハトラーが同行し、長崎も訪れた。
この本は、遠征時に彼らが制作したリトグラフ、素描、写真を紹介している。

169頁のⅤⅠ−48「長崎 外国人居留地」は、1861年ベルグによるスケッチに基づくフォトリトグラフ。出島から大浦海岸の新居留地を描いている。奥の高い山は鍋冠山である。麓に妙行寺の屋根が見えるが、大浦天主堂や南山手居留地はまだ建築されていない。
長崎大学のデータベースでは、目録番号: 5865「出島の商館長邸横の日本庭園から大浦居留地方面を望む」に、1862年ミルトン・ミラーが撮影した同じような向きの古写真がある。

長崎の古写真考 ドイツが観た幕末日本 169頁 ⅤⅠ−47 出島橋

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長崎の幕末・明治期古写真考 ドイツが観た幕末日本 169頁 ⅤⅠ−47 出島橋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

プロセイン・ドイツが観た幕末日本
169頁  ⅤⅠ−47 長崎、出島橋、1861年、ベルグによるスケッチに基づくフォトリトグラフ
〔図版目録〕
ヴィルヘルム・コルン・フォトリトグラフ研究所製作、「出島の橋」。
アルベルト・ベルグ画に基づくフォトリトグラフ。出典(略)

■ 確認結果

日本とドイツの修好通商条約が調印されたのは、1861年1月24日。
日独交流150周年を記念して、ドイツ東洋文化研究協会(東京)から、セバスティアン・ドブソン & スヴェン・サーラ(編)「プロセイン・ドイツが観た幕末日本 オイレンブルグ遠征団が残した版画、素描、写真」が、2012年2月発行されている。
(長崎県立図書館に蔵書あり、日独英3ヵ国語訳)

1860年、日本との外交・経済関係を結ぶべく4隻の軍艦からなる艦隊が東アジアに向かった。ドイツ初の日本訪問使節団である。オイレンブルグ伯爵率いる遠征団に、お抱え絵師のアルベルト・ベルグ、素描家のカール・ビスマルクとアウグスト・ザハトラーが同行し、長崎も訪れた。
この本は、遠征時に彼らが制作したリトグラフ、素描、写真を紹介している。

169頁のⅤⅠ−47「出島橋」は、1861年ベルグによるスケッチに基づくフォトリトグラフ。「出島橋」と省略されているが、「出島の橋」に間違いない。左上に「DESIMA」と記している。
これは、現在の国指定史跡「出島和蘭商館跡」にある出島絵図説明板や出島模型(橋の模型は少しおかしい)のとおり、出島「表門の橋」(石橋)を、出島埋立地の東端から描いている。
奥が長崎港で、背後の山は稲佐山の北東尾根である。

出島復元整備事業で出島「表門の橋」を、再び中島川に架ける計画がある。古写真は見あたらず、この1861年ベルグによるスケッチに基づくフォトリトグラフは、貴重な史料となる。
長崎市出島復元整備室は、このフォトリトグラフの存在を知っているのだろうか。川岸には橋が架かっていた場所の石材のような石がまだ散乱している。
現在の「出島橋」という名称の橋は、出島跡のすぐ上流にトラスト工法の鉄橋が架かり、出島「表門の橋」とは、架橋場所が違うので、誤解のないようお願いしたい。