長崎の古写真考 ドイツが観た幕末日本 169頁 ⅤⅠ−49 高鉾島

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長崎の幕末・明治期古写真考 ドイツが観た幕末日本 169頁 ⅤⅠ−49 高鉾島

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

プロセイン・ドイツが観た幕末日本
169頁  ⅤⅠ−49 長崎港・高鉾島、1861年、ベルグによるスケッチに基づくリトグラフ
〔図版目録〕
ヴィルヘルム・コルン・フォトリトグラフ研究所製作、「長崎の高鉾島」。
アルベルト・ベルグ画に基づくフォトリトグラフ。出典(略)

目録番号: 2922 高鉾島(14)
〔画像解説〕   超高精細画像
大型アルバムの1枚を剥がしたもので、キャプションにG42.TAKABOKO,(PAPPENBERG),NAGASAKIと印字されている。これは横浜の小川一真のアルバムからである。高鉾島の古写真は多いが、対岸の神ノ島側から撮影されたものは少ない。高鉾島は鎖国時代にキリシタンが処刑された殉教の島として外国人に知られていた。写真は、長崎市街の対岸にあたる稲佐側の神ノ島から高鉾島および現マリア観音前を写したものである。岬における海岸近傍の集落の様子がよく撮影されている。右側の海に張り付いた民家は風除けのためかすべて瓦葺きである。船は伝馬船であり、波を避けて内湾に係留されている。畑が海の傍まで切り開かれている。中央の民家は風当たりの強い岬の鼻に立てられ、階段には石段が積まれ、軒先には水甕と桶がみえる。縁側と戸口に干してあるのは穀物であろうか。このあたりは隠れキリシタンが住んだ集落で、「神」の地名が多い。背景右側は香焼島、遠景は長崎半島の山々である。目録番号4084(整理番号79-2)と同じアングルである。

■ 確認結果

日本とドイツの修好通商条約が調印されたのは、1861年1月24日。
日独交流150周年を記念して、ドイツ東洋文化研究協会(東京)から、セバスティアン・ドブソン & スヴェン・サーラ(編)「プロセイン・ドイツが観た幕末日本 オイレンブルグ遠征団が残した版画、素描、写真」が、2012年2月発行されている。
(長崎県立図書館に蔵書あり、日独英3ヵ国語訳)

1860年、日本との外交・経済関係を結ぶべく4隻の軍艦からなる艦隊が東アジアに向かった。ドイツ初の日本訪問使節団である。オイレンブルグ伯爵率いる遠征団に、お抱え絵師のアルベルト・ベルグ、素描家のカール・ビスマルクとアウグスト・ザハトラーが同行し、長崎も訪れた。
この本は、遠征時に彼らが制作したリトグラフ、素描、写真を紹介している。

169頁のⅤⅠ−49「長崎港・高鉾島」は、1861年、ベルグによるスケッチに基づくフォトリトグラフ。これは長崎港入口の風景である。中央右の大きな島が高鉾島、左は現在、白亜マリア像が建つドンク岩、その横は神ノ島の幼稚園が建つ岬となる。背後の山は天門峰である。

長崎大学のデータベースでは、目録番号: 2922「高鉾島(14)」の解説にある「背景右側は香焼島」側から逆に描いたこととなるが、香焼島の陸地からではなく、高鉾島にまだ近寄ったその沖に停泊していた遠征団艦船の上から描いていると思われる。
当時の写真と違い、スケッチならどこからの船上でもできる。

現在の写真は、伊王島行きの船上から近くを写した。
最後の写真は、ブログ知人キャプテンタッちゃんが、2013年2月21日に海上のポイントで再確認してくれた撮影写真。鮮明に位置関係がわかるだろう。スケッチはデフォルメがある。