長崎の古写真考 長崎古えはがき 大井平川石橋

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

長崎の幕末・明治期古写真考 長崎古えはがき 大井平川石橋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

NAGASAKI GENEI 長崎古えはがき
大井平川石橋

目録番号: 2130 中島川に架かる桃渓橋(1)
〔画像解説〕  超高精細画像
現在は、一般に中島川と呼ばれているが、上流の大手橋の袂に長崎氏の大手門があったことから堂門川と呼ばれた。写真下部分が日見峠方面からの川、銭屋川(中島川)との合流地点である。桃渓橋は堂門川に延宝7年(1679)、永島仁左衛門こと僧ト意が出来大工町に架けた長さ12.4m、幅3.4mのアーチ石橋である。昔、この辺りの川端は桃の木が多く植えてあり、桃の木大工町と言われ、この名が付けられた。写真左側に松の大木、その前に不動明王堂、奥には金比羅山、写真右側角の人家の前に明治4年(1871)設置の街路灯が見える。桃渓橋は、堂門川と銭屋川が合流する地点より上流部にあったので、これまでの大水害(享保、寛政、文化)で被害は受けても、一度も崩落することはなかった。昭和57年(1982)の長崎大水害でも被害を受けたが、崩落をまぬがれ、建設当時の面影を持つ橋の一つである。

■ 確認結果

「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

長崎古えはがき「大井平川石橋」は、橋名不明。明治時代の「大井手橋」も考えられるが、橋の長さや姿が違う。長崎大学データベースの目録番号: 2130「中島川に架かる桃渓橋(1)」のとおり、「桃渓橋」ではないだろうか。
石橋の形や、背後の金比羅山などの稜線が合う。左側岸の松の向きが違うのが気になるが、同じ長崎古えはがき中の「中島川の石橋」も、「桃渓橋」である。

この項は、本ブログ次を参照。現在の写真は、二又と言う西山側からの川(二又付近は「大井平川」と呼ばれた)と中島川本流の合流地点あたりから撮影した。
https://misakimichi.com/archives/2455