長崎の古写真考 長崎市HP「まちなか再生」ながさき今昔写真館

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長崎の幕末・明治期古写真考 長崎市HP「まちなか再生」ながさき今昔写真館

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

長崎市HP「まちなか再生」ながさき今昔写真館 掲載6作品
古写真 1(目録番号:1293) 興福寺開山堂と麹屋町
古写真 2(目録番号:1006) 大浦川河口
古写真 3(目録番号: 792) 長崎大浦外国人居留地
古写真 4(目録番号: 328) 大浦海岸通り
古写真 5(目録番号:6066) 小島からの長崎医学校と唐人屋敷
古写真 6(目録番号:  50) 館内から出島を望む

■ 確認結果

長崎市(建設局まちなか事業推進室)HP「まちなか再生」ながさき今昔写真館に掲載されている中の6作品。現在の写真と対比させ、撮影場所の地図もある。同解説は、以下のとおり。
http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/machidukuri/…/photo/
いずれも長崎大学附属図書館古写真データベースに目録番号がある。疑問点を次に説明する。本ブログの各記事を参照し、古写真の正しい実地調査と研究をお願いしたい。

長崎大学や長崎市が、いつまでもこのような内容のHPを公開するのは問題があろう。早く正しくしてほしい。長崎市HPは、画面展開に手間がかかる。次作品がすぐ開けるようにし、拡大地図はその撮影場所がすぐ出てくるように改善してほしい。
各古写真下の現在の写真は、私が調査した撮影場所である。(写せない所は、一部変更した)

古写真 1  興福寺開山堂と麹屋町  (データベース 目録番号:1293)
1864年頃、ベアトが撮った興福寺開山堂と麹屋町の通りである。幕末の長崎市内の街路の写真として最古のものの一枚である。道路の中央には石畳舗装がなされ、突き当たりの寺町通りへは後年斜路に改造される石段で結ばれている。
本ブログ次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2269
(注)「興福寺開山堂」があった場所の地図と、撮影している通りが違う。通りは現在の「麹屋町」ではあるが、古写真は「紺屋通り」を写し、さるく説明板もここにある。現在の写真が、次の興福寺前の通りを写しているのは間違いである。

古写真 2  大浦川河口 (データベース 目録番号:1006)
大浦川中流から河口を見た風景である。大浦川に架かっている橋は松ヶ枝橋。川沿いの広い道路には街灯が見える。下がり松居留地の洋風建築が鮮明に写っている。下がり松の由来を示す松の木を見ることができる。
本ブログ次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2576
(注)大浦川に架かっている手前の木橋は、「弁天橋」が正しい。奥のが「下り松橋」(後に「松ヶ枝橋」となる)である。超高精細画像の画像解説の方が正しい。

古写真 3  長崎大浦外国人居留地 (データベース 目録番号: 792)
ベアト撮影。「ヨーロッパ人の居留地の一部と長崎の市街、65年6月」と記されている。慶応年間の長崎大浦の海岸通り、と東山手の洋館群が詳細にうかがえる。右の丘の上にはまだ建物がみられない。
本ブログ次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/2229
(注)同じような写真で、上記の記事はあくまで参考に見ていただく。南山手の高台から下り松と大浦海岸通りの居留地を主に写している。現在の写真は、「弁天橋」の通りではなく、大浦海岸通りが写った居留地の景色が良いだろう。

古写真 4  大浦海岸通り (データベース 目録番号: 328)
明治中期の大浦海岸通りを撮影した写真である。通りには街灯が設置され、街路樹が植えられている。通りに面して商館や領事館が整然と並んでいる。当時の質の高い景観を見ることができる。手前の橋は明治3年(1870)建設の下り松橋(梅ケ崎橋)。
本ブログ次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2825
(注)手前の橋は明治22年前後に架替えられたポーストリングトラス橋の「下り松橋」(松ヶ枝橋)である。橋脚跡が現在も残る。タイトルが大浦海岸通りだから、現在の撮影場所が、「弁天橋」とその通りを写しているのは、間違いである。

古写真 5  小島からの長崎医学校と唐人屋敷 (データベース 目録番号:6066)
長崎医学校は所管及び名称を変えながら、1868年(明治元年)から、1892年(明治25年)に坂本へ移転するまでこの場所に位置した。現在の長崎大学医学部の源流にあたる。唐人屋敷については長崎市の唐人屋敷HPに掲載されている。
本ブログ次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2184
(注)現在の撮影場所を、長崎市立仁田小学校前の公園としている。古写真にその尾根が写っているから、南東側山手となる鶴鳴学園長崎女子高校正門から入った駐車場の少し下、中小島2丁目の高台あたりから撮影していると思われる。

古写真 6  館内から出島を望む (データベース 目録番号: 50)
館内の唐人屋敷の横から新地蔵ごしに出島と港を望む写真。中央に架かる橋は梅ケ 崎橋。その入江は現在の湊公園である。出島の海側には慶応3(1867)年にできた馬まわしの突き出しが築かれている。現在はビルが建ち、海を眺望することはできない。
本ブログ次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2906
(注)館内町唐人屋敷跡の東上からである。現在、この写真のさるく説明板が設置されている場所の少し先、福建会館上の道から、当時の福建会館の建物と長崎港や出島を遠望した写真であろう。

なお、5月26日現在においてHPを見ると、「ながさき今昔写真館」掲載記事についてのお詫びと記事の削除について、次のとおり掲載されていた。

「ながさき今昔写真館」につきまして、掲載資料の一部に誤りや疑義が生じていることがわかりました。誤り等があった記事につきましては一旦削除させていただき、検証を実施のうえ、準備が整いしだい改めて掲載させていただきたいと思います。
ホームページをご覧いただいた皆様にご迷惑をおかけしたことを深くお詫び申し上げます。