別府の風景
大分県別府の風景。東京から帰省した長男の途中下車の旅。2014年8月9日撮影。場所説明は省く。
別府の風景
大分県別府の風景。東京から帰省した長男の途中下車の旅。2014年8月9日撮影。場所説明は省く。
由布院の風景
大分県由布院の風景。東京から帰省した長男の途中下車の旅。2014年8月8,9日撮影。場所説明は省く。
日田の風景
大分県日田の風景。東京から帰省した長男の途中下車の旅。2014年8月8日撮影。場所説明は省く。
深堀陣屋跡の現況 (9) 長崎市深堀町5丁目
深堀氏の居城だった深堀陣屋跡の現況は、本ブログ前の記事を参照。
現況(1)は、https://misakimichi.com/archives/3862
現況(2)は、https://misakimichi.com/archives/3869
現況(3)は、https://misakimichi.com/archives/3877
現況(4)は、https://misakimichi.com/archives/3884
現況(5)は、https://misakimichi.com/archives/3922
現況(6)は、https://misakimichi.com/archives/3943
現況(7)は、https://misakimichi.com/archives/3957
現況(8)は、https://misakimichi.com/archives/3966
深堀陣屋跡に建設されるカトリック深堀教会は、昨年11月24日定礎式があった。現在、教会建設工事が本年7月末完成を目指し、急ピッチで進められている。長崎市文化財課の発掘調査は11月末で終了したが、その結果がいまだ公表されない。
南西側箇所で主に発掘された深堀陣屋御屋敷の礎石の石組みは無残に壊された。ここに建てている建物は、どこにでも建てることができる信徒のための納骨堂なのである。
深堀陣屋跡は、文化財保護法に基づく「埋蔵文化財包蔵地」として周知されている。史跡保存については、長崎市と教会側で十分に配慮するとの協議があっているのに、不可解な進展具合である。長崎市政への要望や提案を早くから提出しているのに回答をしない。市民や地元住民に対する説明がない。
長崎市長が前面に出て強力な指導をするべきでなかったか。私たちが知りたいのは、発掘調査の結果、どこにどのような遺構と出土品があり、どのような歴史的価値があるかである。それにはまったく答えない。長崎県にも尽力するよう意見したが、回答は思わしくない。
破壊された遺構は、今更どうしようもない。法の不備と行政の限界、怠慢もあったが、納骨堂前の駐車場とする部分に、礎石石組みはまだ半分位は残っていると思われる。その部分は舗装しなく、柵囲いと配水設備を設置し、礎石を屋外展示してもらう方法がある。
関係者が今から協議し、これくらいは配慮して良いのではないだろうか。それがカトリック教会の品格と言うものだろう。報道機関も問題意識を持って、大いに動いてもらいたい。
以上がこれまでのだいたいの経緯だが、私が情報公開条例による開示請求を言い、大分県杵築市の例や九州大学木島教授の史跡保存に対する見解(掲載略)などを示すと、長崎市側は大いに反省をし、文化観光部長らと少し話し合いがあった。次が今のところ、長崎市文化財課の対処方法の回答である。
深堀陣屋推定位置図(注:入江氏作成の鍋島藩作成絵図と教会設計図を重ね合わせた図。赤が階段、黒が塀、青が当時の建物のよう。図の大きさが合わず、石垣からはみ出しているが、参考のため最後に掲げる)につきまして、早速ご送付いただきありがとうございました。今後の調査や遺構の保護等に参考にさせていただきたいと思います。
ご要望のありました石垣石材の屋外展示場所につきましては、カトリック深堀教会様にもお伝えし、できるだけ見学しやすい場所への検討をお願いしたいと思います。また、説明板の内容につきましても、発掘時の写真を使用するなど、遺構の様子が理解しやすいような工夫ができるよう協議してまいりたいと思います。
こちらから送らせていただいた回答文の内容につきましては、まちづくり推進室の担当にも送付いたしました。今後とも、本市の文化財行政について、ご協力の程よろしくお願いいたします。
さて、いよいよ建設工事は最終段階となり、きのう現地へ確認に行った。教会や工事関係者が数人いて、思うような写真が撮影できなかったが、現況は写真のとおり。
納骨堂前にアスファルト舗装してない柵囲いがあり、遺構の石材はここに展示するつもりだろうか。 教会広報紙によると、工事完成引き渡しは8月中旬、献堂式・祝賀会は9月20日とあった。
長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6074 イギリス軍駐屯地
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号:6074 イギリス軍駐屯地
■ 確認結果
長崎大学附属図書館(学術情報サービス班)から、次のような依頼を受けた。
8月27日から長崎市立図書館で開催する「1874年、激動の長崎」展の展示内容を見直しています。目録番号
6074及びその他の関連写真についてご教示願います。
目録番号6074は、http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/target.php?id=6074
これは現在までの照会結果で、「イギリス領事館の宿舎」に修正とのご指摘を受けていますが、次の「長崎製鉄所」の写真左上に写る建物ではないでしょうか?
目録番号5314(→高精細画像) http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/target.php?id=5314
目録番号6043 http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/target.php?id=6043
建物のようすと背後の山の稜線の形が合致するように思います。…
きょう、私が現地確認した。目録番号:5314「長崎製鉄所(1)」の左上に写る建物は、超高精細画像で拡大したので、対比してもらいたい。建物の洋館は、ほぼ同じである。
全体から判断すると、目録番号:6074の背後の山は、「稲佐山」で南側の稜線を写している。2棟の建物と2段の石垣、左端へ曲がって登る坂段の道の配置などから考えると、ここは飽の浦町恵美須神社上の、現在、日蓮宗「昭徳寺」となっている場所に間違いないようだ。この写真は恵美須神社上の長崎港パノラマなどの撮影場所で有名だった岩場の手前から撮影できたと思われる。
目録番号:6074は、タイトルの「イギリス軍駐屯地」の意味がわからない。私は古写真考でこれまで東山手あたりと思いパスしていたが、今回の長崎大学附属図書館の、飽の浦町恵美須神社上あたりの建物とする判定が正しいようだ。
「昭徳寺」は、平成19年に新築落成した新しい寺。住職に確認すると、今の敷地はその前、三菱造船所役員社宅が4軒建っていたという。ここが幕末明治期「イギリス領事館の宿舎」の場所だったとは、場所が離れすぎ考えにくい。製鉄所や造船所の外国人指導者宿舎なら理解できる。
この建物のことはかえって、三菱重工長崎造船所史料館の方で調べてもらった方が良いと思われる。
山の稜線の形は、今は現地で全体を写せないから、最後の写真どおり、近くの菱重ビル屋上から確認した。
大久保山から小ヶ倉上の岩場へ 2014年8月
2014年8月11日(月)晴。大久保山(標高233.7m)から小ヶ倉上の岩場へ。戸町の実家へ墓参り帰省中の埼玉県M・Ⅰ氏と2人で。
女神大橋駐車場10:10—魚見岳台場10:34—地理局測点11:04—大久保山11:50—藩境塚12:06(昼食)12:20—展望原12:26—峠部13:00—小ヶ倉上の岩場13:11—八幡神社14:27—小ヶ倉バス停14:35(徒歩距離 約6km)
女神大橋の上の駐車場から魚見岳二の増台場へ上がり、石造倉庫を見て登山道へ入る。20分ほど登ると、明治九年「地理局測点」がある。 https://misakimichi.com/archives/3503
マテバシイの大木を過ぎ、竹林となると、大久保山の山頂はすぐである。八郎岳子午線標、天明藩境塚を見学。ここで昼食とした。
林間内は蚊が多く、砕石場跡の展望原まですぐ出る。なかなか眺望が良いところである。下りの草原は夏草が茂り、今の季節は歩きにくい。小ヶ倉大岩群へは近道の尾根下りをする。
小ヶ倉大岩群は、バイパス北側に見える岩場。展望はすばらしいが、難所が多く初心者には無理なルートである。岩場のやせ尾根はなお続き、小ヶ倉幼稚園上の八幡神社へ出て、バス停へ下った。
私がデジカメ・携帯とも忘れ、写真はすべてM・Ⅰ氏撮影のスマホ画像。
長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 127P 明治初期の長崎市街中心部
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊
127P 明治初期の長崎市街中心部。背後の丘には町年寄の屋敷や諸藩の蔵屋敷などが見える。
■ 確認結果
姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。
127P 明治初期の長崎市街中心部。背後の丘には町年寄の屋敷や諸藩の蔵屋敷などが見える。
●町年寄の屋敷、諸藩の蔵など健在
1875(明治8)年に長崎に立ち寄ったアメリカのアジア艦隊の海軍大尉R・E・カーモディが持ち帰ったアルバムの1枚です。大徳寺付近からその頃の市中心部を撮影しています。…
この作品は、「アメリカのアジア艦隊の海軍大尉R・E・カーモディが持ち帰ったアルバムの1枚」とあるが、同じ写真はデータベースにすでにある。
上野彦馬?が大徳寺跡から撮影したとされる目録番号: 6054「大徳寺跡から県庁方面を望む」、目録番号: 6055「大徳寺跡から立山方面を望む」、目録番号: 6078「大徳寺跡から新地と出島を望む」の3枚組のうち、目録番号: 6055「大徳寺跡から立山方面を望む」が、これである。
執筆者は同じ写真と気付いているのだろうか。したがって、撮影者は「上野彦馬?」と考えられる。
この作品は、本ブログ次も参照。 https://misakimichi.com/archives/2173
長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 172P 愛宕山から見た丸山・寄合町周辺
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊
172P 愛宕山から見た丸山・寄合町周辺。1871年ごろマンスフェルト撮影
■ 確認結果
姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。
172P 愛宕山から見た丸山・寄合町周辺。1871年ごろマンスフェルト撮影
●娼妓解放直前の丸山と寄合町周辺
写真は遊郭の丸山町と寄合町周辺です。1871(明治4)年ごろ、お雇いオランダ人医師マンスフェルトが撮影したもので、「愛宕山からの景色」と紹介されています。
右手の大屋根は正覚寺です。写真中央やや手前を、家並みに沿って横切る道が茂木街道です。
1872年10月、人身売買と売春婦の年季奉公を廃止する娼妓解放令が布告されましたが、…
この作品は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/3515
何度も指摘するが、これは愛宕山の中腹、現高平町の玉成高校旧校舎「榎観音堂近く」から撮影したもので、正覚寺の大屋根の向きは、ここでしか合わない。
娼妓解放直前の丸山と寄合町周辺と盛んに説明するが、ここからは正覚寺及び同寺墓地の背後の斜面谷間となって、丸山町や寄合町の遊郭街はまったく写らない。現地確認もしないで、このような解説をいつまでもするのは、研究者の権威が疑われる。
長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 146P 1864年ベアト撮影の麹屋町の筋
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊
146P 1864年ベアト撮影の麹屋町の筋。当時の家屋の状況がよくわかる。正面は興福寺の鐘鼓楼
■ 確認結果
姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。
146P 1864年ベアト撮影の麹屋町の筋。当時の家屋の状況がよくわかる。正面は興福寺の鐘鼓楼
●麹屋町—石と木と紙の造形
坂本龍馬が勝海舟に従い、豊後から九州を横断して長崎を訪問した1864(元治元)年の春、ベアトはこの麹屋町の筋を撮影しました。湧水に恵まれ、味噌、醤油、酒の麹を作るところから、正保年間(1644〜48)にこの町名となりました。長崎の街中を写した最古の写真として貴重です。
背後の山は風頭。正面は興福寺の鐘鼓楼です。左上の建物は興福寺の永福庵ですが、現存しません。…
データベースでは、目録番号:1293「興福寺開山堂と麹屋町(1)」の作品。超高精細画像の画像解説は次のとおり。
「F.ベアトの撮影。中島川に直交する道路では当時から幅広だった今紺屋・中紺屋町(現在は麹屋町に統合)の通りから興福寺を見通したもの。背後は風頭山。正面の重層の楼閣は、文政8年(1825)に至って荒廃していた開山堂を併合した観音堂であるが、これは戦災で失われ、現在はそこに民家が建て込んでいる。その左上は境内にあった永福庵であろうが、その跡地には明治34年(1901)に鶴鳴女学校が開設され、それが大正11年(1922)に小島地区に移転後は同校の寄宿舎となり、現在に至っている。」
この作品は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2269
正面の重層の楼閣は、「文政8年(1825)に至って荒廃していた開山堂を併合した観音堂であるが、」とあるのに、なぜ「鐘鼓楼」となるのか。
興福寺の「鐘鼓楼」は、同じ時期ごろF・ベアトが撮影した目録番号:3246「興福寺の鐘楼(2)」があるとおり、本堂前の庭にあるこの建物(正式名称は「鐘鼓楼」)で、現在も現存する。
データベースに対し、変なタイトルの変更や間違った解説にすべきでないだろう。
長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 120P 明治天皇巡幸時の長崎の街
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊
120P 明治天皇巡幸時の長崎の街。1872年内田九一撮影
■ 確認結果
姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。
120P 明治天皇巡幸時の長崎の街。1872年内田九一撮影
●豊かな町の熱烈な歓迎
1872(明治5)年、西国巡幸の途中に長崎を訪問した明治天皇一行は、長崎の人々の熱烈な歓迎を受けました。組み写真は、随行写真家の内田九一が撮った長崎の街のパノラマです。天皇の行在所が置かれた島原町(行幸を記念して萬歳町と改名された。現在の万才町)の高木邸から撮影されました。元の写真はキャビネ大3枚の鶏卵紙で、着色されています。
この時、長崎の人々は家を提灯で連結して「山」や「奉迎」の文字を浮き出させ、停泊した艦艇はイルミネーションを灯し、近郊の住民はかがり火を焚いて歓迎した、と伝えられています。…
データベースでは、目録番号:6111「市街地パノラマ(1)」、目録番号:6112「市街地パノラマ(2)」、目録番号:
6113「市街地パノラマ(3)」である。
この作品は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1927
目録番号:6113「市街地パノラマ(3)」は、目録番号:3230「長崎市街地」と同じ写真である。私の指摘により、刊行本の解説となったと思われるが、データベースの方でも解説をお願いしたい。