投稿者「misakimichi」のアーカイブ

地図の源  阿蘇市西湯浦

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

地図の源  阿蘇市西湯浦

「地図の源」石碑は、菊池渓谷から阿蘇市へ県道45号を上がって行くと、入口に標識がある。阿蘇市役所 |
Facebook の記事は、次のとおり。

阿蘇市役所  2012年11月29日
【地図の源が阿蘇市にあります!】

阿蘇市西湯浦の深葉地区にあるこの場所は、九州の大部分を含む座標系の中心で『東経131度00分00秒、北緯33度00分00秒』に位置し、まさに「地図の源」と言える場所です。
写真の石碑は2000年10月に熊本県土地家屋調査士会が土地家屋調査士の制度が誕生して50年を記念して建てられたもので、日本測地系に基づいて示されています。
人工衛星を使った測量などの普及により2002年4月から世界測地系が使われるようになるまで、この場所を原点に、様々な場所の距離などを表すことができていました。

GPSなどで示される地図は世界測地系が用いられていますので、携帯電話やスマートフォンなどで表示される地図の緯度経度ではこの石碑から400mほど南東の山の中の位置を示します。
日本測地系と世界測地系の詳細については国土地理院のホームページを参照ください。
http://www.gsi.go.jp/LAW/G2000-g2000-h3.htm

阿蘇市と菊池市を結ぶ県道45号(主要地方道阿蘇公園・菊池線)沿いにあり大観峰から西へ約9キロ、菊池渓谷から東へ約7キロの地点ですので、ドライブやツーリングで通る際にはぜひ立ち寄ってみてください。

熊本県のアーチ式石橋  永山橋  菊池市永山

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

熊本県のアーチ式石橋  永山橋  菊池市永山

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。

№254  永山橋 (架設当初名:永山村目鑑橋)

菊池市大字原字永山(ながやま)
菊池川
橋長:21.14m  橋幅:4.7m  径間:20.4m  拱矢:7.7m  環厚:72cm
輪石:47列
架設:明治11(1878)年
石工:橋本勘五郎

立門橋からT字路に引き返し、県道45号線で約2Km進むと右手に「永山橋」の標識があります。そこから歩いて下ります。

永山橋  菊池市文化財指定
「旧永山橋は、現永山橋より130m下流に文政6年(1823年)に架けられたが、文政12年5月の洪水で流失している。現永山橋は、明治11年完成している。架橋は古老の武藤逸美氏は「私の祖父甚平に妻(祖母)がお嫁にきたのが明治9年であった。その年が着工の年で翌々年明治11年の春約2ケ年の歳月を費して現在の橋を見るに至った」と語る。工事中一度枠組みに失敗して再度やり直したと伝えられている。当時、永山橋は熊本、合志、菊池と小国、豊後との交通上の要路で、この西片4Kmの地点にある日田往還よりの立門橋と共に肥後と豊後の交易の要路上の重要な橋としての意義は大きなものがあった。石工は肥後八代種山手永の橋本勘五郎である。
使用石材は近くの上崩迫より切りだして多くの石工、大工、人夫によって構築されている。明治4年に東京に召された橋本勘五郎は、江戸橋、万世橋、浅草橋等の眼鏡橋を架けて当時の東京市民の生活の便をはかっている。内務省土木寮測量士の辞令を貰い、その辞令によると、明治7年の日付けで「月給弐拾円也」となっている。永山橋は欄干の形状に特長があるといわれる。
規模 長さ24.4m 高さ17.0m 幅 4.7m 輪石45枚」
環境庁  熊本県

不動岩  山鹿市蒲生

イメージ 1

不動岩  山鹿市蒲生

山鹿から菊池へ行く途中、国道325号から撮影している。クマみる|熊本情報サイトによると、これは熊本二十五景のひとつ、奇岩名勝の山鹿「不動岩」だろう。

不動岩

この不動岩は、山鹿市三玉(みたま)地区の蒲生(かもう)にあり、その北東・標高389メートルの山の中腹から頂上にかけ、天に向かって突き出しています。岩の高さは約80メートル、根回りは100メートルです。
不動岩は、5億年以上も前の古生代(オルドビス紀)の『変はんれい岩』からできたもので、まだ日本列島の形すらできていない時代のものです。
この変はんれい岩が気の遠くなる年月をかけて崩れて海に流され、海水に洗われ丸い小石や砂(さざれ石)になり、そのさざれ石が海底に厚く積み重なって強い圧力を受け岩磐となり、その周囲が削り取られていわゆる国歌「君が代」の歌詞にある「さざれ石の巌(いわお)」となったものが不動岩です。
また奇岩名勝として、熊本二十五景のひとつにも数えられています。

不動岩の名は平安時代、山伏たちがこの山中にこもり、不動明王を本尊として祀り修行したことに由来します。当時たくさんの山伏たちがこの岩の周りに坊を建て、修行していたと伝えられています。現在も不動岩の付け根には不動神社の拝殿があります。
不動岩のふもとまでは登山道路(九州自然遊歩道)が整備されており、乗用車が5台駐車できる展望所もあります。前不動・中不動・後不動の三つの岩から構成され、中不動と後不動には、遊歩道を使って登ることができ、そこからの眺望はまさに絶景といえます。

金剛乗寺の石門  山鹿市山鹿

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

金剛乗寺の石門  山鹿市山鹿

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋による説明は、次のとおり。
なお、本堂右横の境内には「童子椿」がある。宥明法印お手植えと伝わり、法印が修業の旅に出て帰ってこないので、花が咲かないのだという。野口雨情の山鹿小唄に「童子椿は花なし椿 山鹿千軒たらいなし」と唄われている。

金剛乗寺の石門

山鹿市山鹿
高野山真言宗護国密山佛性院
金剛乗寺談義所略由緒
「そもそも山鹿湯町なる菊池加藤細川の代々藩主の祈祷寺 遠き由来を尋ぬれば五十三代淳和亭八二五年 天長二年の巳の年に弘法大師が九州に 真言秘密の妙教を弘めんためし山鹿にも錫を留めて地を選び 建立し給う霊地なり 大師九日のその間 茲に談義をし給えば九日町や談義所の名も是よりぞ出でにける西の高野と言う程に名も高かりし霊跡も 星霜うつり年かはり衰へたるを元暦のかたじけなくも後鳥羽院勅願再興あらせらる 然るを元徳元年に 中僧正恵鏡法印 中興の祖として薫せらる そののち文明五年の春1473年 当時法印菊池家の兼朝公の舎弟なる宥明法印大徳が 温泉出止みしその時に 祈祷によりて朧月の夜の丑の刻身命不惜の法力に涸れたる湯をば祈り出し 重朝公より境内一町三セ 寺領八十石僧屋敷 十八ケ所賜はりて 後の世までの幸いを残し給うぞ有難たき御恩を受けたる法印の徳を慕うて感恩の儀式は今に湯祭灯篭と 残りて町の繁栄を一しほ添ふるものぞかし山が湯町の氏寺と歴史を重ねて井磨ここに真言祈祷の大院なり 南無大師遍照金剛」

八千代座  山鹿市山鹿

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

八千代座  山鹿市山鹿

熊本県観光サイト なごみ紀行による説明は、次のとおり。

八千代座・夢小蔵

八千代座は、明治43年建築され、回り舞台や枡席、花道など江戸時代の歌舞伎小屋の長い歴史を伝える芝居小屋として有名です。その八千代座も、老朽化のため保存工事をしていましたが、5年にわたる平成の大修理を終え、平成13年6月1日にオープンしました。八千代座の斜め向かいにある夢小蔵は明治20年に建築された蔵を八千代座の資料館に再利用したもので、八千代座で使われていた衣装や小道具が展示されています。建設は八千代座よりも古く、小道具の展示品は150点に及び、それ以外にも八千代座の構造模型、巡業記念札、チラシ、映写機、建築の積帳、決算書、上演記録等もあります。

山鹿温泉元湯 さくら湯  山鹿市山鹿

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

山鹿温泉元湯 さくら湯  山鹿市山鹿

熊本県観光サイト なごみ紀行による施設説明は、次のとおり。私は古写真確認のため訪れた。
本ブログ次も参照。  https://misakimichi.com/archives/3979

山鹿温泉元湯 さくら湯

「さくら湯」は、今から約370年前に肥後細川藩初代藩主(細川忠利公)が山鹿の温泉を気に入り、「御茶屋」を新築したのがその歴史の始まりで、約250年前に書かれた「山鹿町絵図」には「御前湯」として記録されており、大改修が行われた明治3年から昭和48年に取り壊されるまでの約100年間にわたって山鹿市民の大切なコミュニケーションの場として愛され親しまれていた市民温泉で、「八千代座」と共に湯の町山鹿のシンボルでもありました。
その後、大規模都市再開発事業により昭和50年に、鉄筋コンクリート造のさくら湯(温泉ビル)が完成しましたが、当初の予想以上に老朽化が進んだことを契機に、往時のさくら湯を再生しようという計画が持ち上がり、平成16年に庁内でさくら湯再生プロジェクトチームを設置し、「さくら湯再生にかかる報告書」をまとめました。
その後、平成21年には、この報告書を基本にさくら湯再生を具体化するために、市民委員を中心とした「さくら湯再生基本構想策定協議会」を立ち上げ、「さくら湯再生基本構想」をつくりあげました。そして、平成22年度に、その「さくら湯再生基本構想」により、「さくら湯」の基本・実施設計を行い、平成23年7月より「さくら湯建設工事」に着手しまして、平成24年11月23日(祝)開湯(オープン)しました。

参勤交代の道「豊前街道」  和水町付近

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

参勤交代の道「豊前街道」  和水町付近

豊前街道 とは – コトバンクによる解説は、次のとおり。写真は和水町付近の光行寺、下岩官軍墓地、ハゼ並木、玉名・山鹿郡境碑。腹切坂は訪ねていない。

ぶぜんかいどう【豊前街道】  (出典 講談社)

熊本県玉名郡南関(なんかん)町、和水(なごみ)町にある街道遺跡。指定名称は「豊前街道 南関御茶屋跡(なんかんおちゃやあと) 腹切坂(はらきりざか)」。南関御茶屋跡は、県北部、福岡県に接する南関町の中心部、関町の熊本城から小倉(福岡県)まで続いていた豊前街道沿いに建てられた宿泊施設跡。近世の街道沿いの御茶屋跡が現存し、往時の建物構造を残していることから、2003年(平成15)に国の史跡に指定された。南関町は古代には官道が通り、国境警備のための関が設けられていた。近世においても、豊前街道として利用され、参勤交代の際の肥後国内における最終の休憩、宿泊地点であることから宿泊施設として御茶屋が設置された。現在の御茶屋跡の建物は1850年(嘉永3)に起工して、1852年(嘉永5)に竣工したもので、建物は南北に長い造りで、北から御居間、御次の間、三の間と配されている。1892年(明治25)に個人の所有となり、建物は民家や料亭として利用されてきたが、2004年(平成16)末、保存修理工事が行われ、往時の姿を取り戻すこととなった。和水町岩の腹切坂は豊前街道にある坂で、永野原台地から寺本の集落に入るまでの約400mの急坂。切腹にまつわる複数の言い伝えが残っている。2005年(平成17)に追加指定を受け、茶屋跡とあわせて名称変更された。
南関御茶屋跡へは、JR鹿児島本線玉名駅から産交バス「南関ターミナル」下車、徒歩約10分。腹切坂へは、同駅から産交バス「肥後岩下」下車、徒歩約40分。

熊本県のアーチ式石橋  竈門(かまど)橋  和水町久米野

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

熊本県のアーチ式石橋  竈門(かまど)橋  和水町久米野

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。

№1,352  竈門(かまど)橋

和水町久米野  久米野川
橋長:12.5m  橋幅:4.2m  径間:8.7m  拱矢:4.2m
架設:1921年
坂田川から県道16号線を3.7Km西進、県道315号線へ右折、150m先現橋の上流に架かっています。

2014月7月28日から、熊本県へ50ccバイクの旅。以下、主な史跡・巨樹・滝・石橋など、訪れたところを紹介する。台風接近のため八代市でいったん中断し、7月31日に帰崎した。
鹿児島県へは、天候が安定してから再び出かけるつもり。