金剛乗寺の石門  山鹿市山鹿

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金剛乗寺の石門  山鹿市山鹿

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋による説明は、次のとおり。
なお、本堂右横の境内には「童子椿」がある。宥明法印お手植えと伝わり、法印が修業の旅に出て帰ってこないので、花が咲かないのだという。野口雨情の山鹿小唄に「童子椿は花なし椿 山鹿千軒たらいなし」と唄われている。

金剛乗寺の石門

山鹿市山鹿
高野山真言宗護国密山佛性院
金剛乗寺談義所略由緒
「そもそも山鹿湯町なる菊池加藤細川の代々藩主の祈祷寺 遠き由来を尋ぬれば五十三代淳和亭八二五年 天長二年の巳の年に弘法大師が九州に 真言秘密の妙教を弘めんためし山鹿にも錫を留めて地を選び 建立し給う霊地なり 大師九日のその間 茲に談義をし給えば九日町や談義所の名も是よりぞ出でにける西の高野と言う程に名も高かりし霊跡も 星霜うつり年かはり衰へたるを元暦のかたじけなくも後鳥羽院勅願再興あらせらる 然るを元徳元年に 中僧正恵鏡法印 中興の祖として薫せらる そののち文明五年の春1473年 当時法印菊池家の兼朝公の舎弟なる宥明法印大徳が 温泉出止みしその時に 祈祷によりて朧月の夜の丑の刻身命不惜の法力に涸れたる湯をば祈り出し 重朝公より境内一町三セ 寺領八十石僧屋敷 十八ケ所賜はりて 後の世までの幸いを残し給うぞ有難たき御恩を受けたる法印の徳を慕うて感恩の儀式は今に湯祭灯篭と 残りて町の繁栄を一しほ添ふるものぞかし山が湯町の氏寺と歴史を重ねて井磨ここに真言祈祷の大院なり 南無大師遍照金剛」