長崎名勝図絵・長崎八景の風景」カテゴリーアーカイブ

長崎名勝図絵の風景  19  新貨蔵(新地蔵)

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長崎名勝図絵の風景  19  新貨蔵(新地蔵)

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
新地蔵所の南門橋古写真は、 https://misakimichi.com/archives/2348
新版「写真集 甦る幕末 ライデン大学写真コレクションより」朝日新聞社1987年発行110頁の拡大、川原慶賀筆「長崎図」の一部は、筑摩書房「江戸時代図誌25 長崎・横浜」から。
新地蔵所の東門橋古写真は、 https://misakimichi.com/archives/2764

長崎名勝図絵 巻之二下   南邊之部

144 新 貨 蔵   (文献叢書 124.132〜133頁  所在地 長崎市新地町)

唐館の西の海中にある。元禄15年(1702)に竣成した。これは唐船の貨物を入れておく所である。元は江戸町、樺島町、五島町、大黒町などの、浜辺にある町家の土蔵を借り、唐船の積んできた貨物は皆、これに入れていた。元禄11年(1698)4月24日後興善町から出火して、22ヶ町が焼失したが、この時唐船の貨物を入れた土蔵33の内、18が類焼して、貨物も殆んど焼けてしまったので、その後土蔵の持主39人が、海中に島を埋立てて、土蔵を建てることを、奉行所に願出た。早速江戸にお伺いが立てられ、御許容の命が下りたので、同12年着工、15年に竣成した。東西70間、南北55間。惣門の左右に長屋があり、役人の詰所となっている。水門は4つあって、貨物運送の時ここから出し入れする。番所は東西南北の4ヶ所にあり、二の門を入って右に土神祠がある。この門の前に橋を架け、東の方にも橋があって、唐館に通ずる。

長崎名勝図絵の風景  18  唐館(唐人屋敷)

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長崎名勝図絵の風景  18  唐館(唐人屋敷)

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
唐人屋敷跡は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/1501
唐人屋敷跡の古写真風景は、     https://misakimichi.com/archives/1606  
2枚目の唐人屋敷復元模型は、長崎歴史文化博物館の展示作品。

長崎名勝図絵 巻之二下   南邊之部

143 唐   館   (文献叢書 95〜105頁  所在地 長崎市館内町)

大徳寺の左、狐嶺と梅が崎の間にある。昔は十禅寺 俗に十善寺と書く の跡で、…のちに薬園が置かれ、代官末次平蔵が薬草各種を栽培し、用に備えた。それを元禄元年(1688)に唐人屋敷とされた。そもそも唐土船が日本に来たのは、大変古いことで、元の世祖が…元禄元年(1688)…十善寺村御薬園所を開らいて、唐館を造営すべき事が決まり、その年の9月25日に着工、翌年4月15日に竣成した。そして長崎在留の唐人全部を、この館内に入れられた。…造営の費用は銀634貫440目であったという。館内の広さ9363坪8合。内に長屋数十棟があり、一つの街のようである。地勢に従って高さ7尺余の牆壁をめぐらし、また広さ6尺余の壕がある。…

長崎名勝図絵の風景  17  大 徳 寺

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長崎名勝図絵の風景  17  大 徳 寺

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
大徳寺は明治維新の際に廃寺となり、長崎七不思議に「寺もないのに大徳寺」と称された。本堂と忘言閣の格天井等の部材の一部が延命寺に、鐘楼が三宝寺にそれぞれ売却された他に、全て破壊された。(長崎の史跡 南部編)
現在は「大徳寺公園」として整備され、梅香崎神社と一緒にある。

長崎名勝図絵 巻之二下   南邊之部

141 青龍山大徳寺慈眼院   (文献叢書 87〜95頁  所在地 長崎市西小島1丁目)

正覚寺の西、十善寺郷にある。真言宗。江戸護持院の末寺。境内1370余坪。もとは伊勢町に大徳寺大教院という…寺があったのを、…宝永5年(1708)…現在地に開創移建した。…宝暦11年(1761)五代豁元は永代院家の職を授かり、七箇年に一度参府すべき旨、将軍の命を蒙り、永く恒例となる。…

この寺地は広々とした閑静な処で、庭内に泉水築山があり、後山から庭にかけて、種々の木が高く秀でて、中でも桜が多い。神木とされている。4月ともなれば、行楽客が多い。左に唐館があって、これを見下ろすと、漢土に行ったようなながめである。右には新地唐人荷蔵や出島が見えて、これもまた変った風景である。瓊の浦と呼ばれる湊は、丁度泉水のように前にひろがる。その向うは屏風を立てたように群山が高く聳え、朝な夕なの景色は、いろいろ変化がある。土地の人も旅から来た人も、一度此処を訪れると、いつまでも帰えるのを忘れるくらいである。実に長崎第一の壮観、そして数ある寺の中でも、秀れた景勝の地である。…

長崎名勝図絵の風景  16  傾 城 町

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長崎名勝図絵の風景  16  傾 城 町

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。

長崎名勝図絵 巻之二下   南邊之部

139 傾 城 町    (文献叢書 87〜91頁  所在地 長崎市丸山町・寄合町)

小島村にある。丸山町、寄合町という。文禄(1592−5)の頃、筑前博多の者が今の、今博多町、古町、桶屋町三町の間の地をひらいて家を建て、遊女屋を設け、南蛮人も含めて多くの人々の、遊宴の場所にしたのが始まりである。その後寛永19年(1642)官命により今の地に移され、唐館紅毛館にも出入りして、異国人を慰めさせた。…俳句三を記す。
草花の名に旅ねせむ禿ども     支考
いなずまやどの傾城とかりまくら   去来
鼻毛よむ髭よむ花の膝まくら     素登

長崎名勝図絵の風景  15  思 案 橋

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長崎名勝図絵の風景  15  思 案 橋

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。

長崎名勝図絵 巻之二下   南邊之部

138 思 案 橋    (文献叢書 86〜87頁  所在地 長崎市鍛冶屋町)

鍛冶屋町にある。もと土橋、のち廊橋(いたばし)となった。花街への入り口に当たる。ここを通ると色街が目と鼻の先にあり、何となく春情が湧くので、ここが思案のし所と、己れを慎んで迷ってはならない。という意味で橋の名となった。或いは延宝3年(1675)幕命により島谷市左衛門が、無人島探検に行った時の船が、暹羅船になぞらえたもので、のちその船の材で橋を架けたので、暹羅橋と言ったのが、後世誤って思案橋になったのであるという。これもまた一説である。 この橋旧は川口橋という。文禄元年(1592)始建。

(注)「暹羅船」は、シャム、現在のタイ国の船と思われる。ブログ「ピグの部屋 タイに魅せられてロングステイ」に次の記事がある。
漢語の『暹羅』・日本語読みは?
…1732年に江戸時代の知識の集大成として編纂された日本最初の図説百貨辞典の『和漢三才図解』が残されています。(出典:日・タイ交流500年史)
この書籍の中に、『暹羅』の平仮名表記は『しやむろ』、カタカナ表記は『スエンロ』とあります。他の史書には、『センラ』という表記もあるやに漏れ聞いています。
『朱印状』は幕府の公式書類ですが、江戸時代の民間史料にも『暹羅』を『しゃむろ』と読ませる記述が残っています。…

長崎名勝図絵の風景  14  立   岩

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長崎名勝図絵の風景  14  立   岩

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
茂木の立岩は、次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/1523
古写真は、次の記事を参照。     https://misakimichi.com/archives/1534
茂木から宮摺へ行く途中、長崎バス「立石」バス停があり、海岸先にこの岩が見える。

長崎名勝図絵 巻之二上   南邊之部

131 立   岩    (文献叢書 81頁  所在地 長崎市茂木町)

立石ともいう。しめが崎の後にあり、浜辺を離れて海中にある。高く聳え立っていて、頂上に松がある。昔は五葉松の巨木であったが、一度枯れて、その後に生え出たのは、普通の松である。この岩は大小二つ並んでいて、一つは大きく、数十丈はあろう。一つはやや小さいが、この方にも上の真中に樹木がある。盆石でも見るようで、大変珍しい。
立石を見て                        大田南畝
またたくひあら磯浪のたて岩を島このみする人にみせはや

長崎名勝図絵の風景  13  茂 木 村

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長崎名勝図絵の風景  13  茂 木 村

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
裳着神社は、次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/1515
現在の写真は、裳着神社境内からと、近くの円成寺上の墓地から望む。

長崎名勝図絵 巻之二上   南邊之部

126 茂 木 村    (文献叢書 80頁  所在地 長崎市茂木町)

昔は入江で、家数も少く、僅かに漁師の家が数軒あるだけの、名もない浦であった。神功皇后が三韓征伐の帰途、この浦に船を入れられ、岸に上って御覧になると、川上の方から青菜が流れてきたので、青菜の浦と名づけ給うた。或いはもみ菜の浦ともいった。村口に祭ってある八人の家臣の武臣が、狭い所に夜具を同じくして、一夜を過ごされたので、群着(むれぎ)の浦と呼んだのが、のちに訛って文字を変え、茂木浦となった。…それから玉の浦〔長崎〕に入らせ給い、遂に筑前国に到達されたと、この浦の古老は言い伝えている。

長崎名勝図絵の風景  12  唐 船 石

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長崎名勝図絵の風景  12  唐 船 石

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
唐船石には、田上か八景町の交差点から愛宕自動車学校の方へ向かう。神社の表示がある所である。

長崎名勝図絵 巻之二上   南邊之部

116 唐 船 石    (文献叢書 77〜79頁  所在地 長崎市田上2丁目)

僧都岡の南、田上合戦場の近くにある。石の高さ五六尺、径り六圍ばかり。形が唐船に似ているので、この名がある。傍に松が二三本生えている。永禄元年(1558)明の船が初めて入津した。大きな船で、貨財を沢山積んで来た。このことが京都に聞こえ、足利将軍義輝公は、小島備前守を遣わされた。備前守が余りに威張りちらすので、領主長崎氏は憤りを発し、或る夜備前守を襲って殺し、ここに葬った。この巨石を以って塚とし、松を以って標としたという。小島備前守は尾崎、即ち今の稲荷祠金剛院〔現在の大崎神社〕に居を構まえた。

長崎名勝図絵の風景  11  白 絲 の 瀧

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長崎名勝図絵の風景  11  白 絲 の 瀧

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
白糸の滝は、次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/253
長崎バス「白糸」バス停から右手の坂道を上がると、暗渠部分下に滝がある。後ろの写真は下流側、国道下の橋。コンクリートだった。 

長崎名勝図絵 巻之二上   南邊之部

113 白 絲 の 瀧    (文献叢書 77頁  所在地 長崎市愛宕3丁目)

僧都岡の東に一丘がある。山中という。その下に岩が平らに二段になっていて、これを水が流れるさまは、機織りに素絲を並べたようである。よって白絲の瀧という。

長崎名勝図絵の風景  10  正 覚 寺

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長崎名勝図絵の風景  10  正 覚 寺

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。

長崎名勝図絵 巻之二上   南邊之部

103 光寿山正覚寺    (文献叢書 71〜74頁  所在地 長崎市東小島町)

小島村の内にある。初めは芊原 今の新橋町の上、浄安寺、三宝寺のある所。にあった。慶長9年(1604)僧道智が創建。西本願寺の末寺。…慶長9年(1604)9月、正覚寺の号を授けられた。それでこの年を以って、開創の年とする。これが長崎の佛寺再興の始めである。…延宝4年(1676)小島郷の今の地に移り、…境内1,303坪。この地はもと蓮池庵という。明人陳氏智光の立てた庵があった。…