長崎の古写真考 1」カテゴリーアーカイブ

長崎の古写真考 目録番号:5317 樺島湊  ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5317 樺島湊  ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5317 樺島湊
〔画像解説〕 超高精細画像タイトル:樺島湊
樺島は長崎半島の先端近く、長崎県西彼杵郡野母崎町脇岬の南方300mにある周囲7.5kmの島である。現在は、樺島大橋が架設され本土とつながれている。写真は、明治初期から中期にかけての樺島湊のある湾奥から脇岬方向の、湊内の船の輻輳する状況を撮影したもの。樺島湊は、江戸時代以前から長崎港に出入りする船の、風待ち、潮待ちの湊として繁栄してきた。明治時代になっても、遠くから多くの物資を運搬するための主要運搬手段は、沿岸を航行する船であった。樺島は良好な湊があったために、近世から近代の初頭にかけて大いに繁栄した。島内には多くの遊女屋があり、写真が撮影された明治10年代でも、7軒から9軒の貸座敷があったと記されている。湊内に停泊する廻船の数から、明治初頭の繁栄した樺島村の状況が分かる貴重な写真である。写真前方の島は、現在樺島大橋が架設されている中島、前方の山は長崎半島先端の遠見山方向である。

目録番号:5326 野母の観音寺
〔画像解説〕
目録番号5318(整理番号102-24)と同じく上野彦馬アルバムに収載されMisakiと鉛筆書きされている。従って撮影は明治6年(1873)頃。写されているのは野母崎の御崎円通山観音禅寺である。『長崎名勝図会』によれば、本堂の創営は和銅2年(709)と伝承されその後、仁和寺の荘園と関わる。天文6年(1537)御崎備後守重広が再建。本堂の天初院は元和2年(1616)で、この時深堀から曹洞宗の一翁純和和尚を招く。長崎をはじめ近郷在住の信仰の対象で、海に携わる商人、漁業従事者、中国人の霊場であった。観音堂には、弘化3年(1846)川原慶賀の描いた4枚の絵や石崎融思の作品を含む150枚の天井絵(県指定有形文化財)が、長崎町民などから寄進されている。写真に写されている半円アーチ型の第一石門は寛政10年(1798)長崎町民と御崎村の人々が寄進した。石工は彦兵衛。場所は長崎から20キロと離れているが、彦馬は長崎の代表的古刹としてこれを撮影したようである。

■ 確認結果

目録番号:5317「樺島湊」は、2年ほど前、 初めて東山手町の「長崎市古写真資料館」を見学に行ったら、「居留地の海岸」のようなタイトルで展示されていてびっくりした。
いきさつは次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1550

古写真の撮影場所は、長崎バス「樺島」終点から樺島小学校の方へ向かうと、すぐ「金比羅神社」の鳥居がある。鳥居をくぐってすぐ上の参道あたりから撮影されている。
〔画像解説〕によると、超高精細画像のタイトルは「樺島」。「樺島湊」に合わせた方がよい。また説明の最後に「前方の山は長崎半島先端の遠見山方向である」としているが、「遠見山」(標高259.0m)は写真中央左のずんぐりした山。正面に写っている山は「殿隠山」(標高263m)なので、説明をわかりやすくしてほしい。

目録番号:5326「野母の観音寺」は、画像解説で「同じく上野彦馬アルバムに収載され、Misakiと鉛筆書きされている。従って撮影は明治6年(1873)頃。写されているのは「野母崎の御崎」円通山観音禅寺である」と説明しながら、なぜタイトルは「野母の観音寺」なのだろう。
「野母崎」は、「野母」と「脇岬」など含む前野母崎町の概念。「野母」と「脇岬」は別の集落である。「御崎(みさき)の観音」と呼ばれた寺だから、タイトルは「脇岬の観音寺」が良い。

長崎から脇岬の観音寺まで、みさき道は「七里」の道である。里程を示した道塚が徳道の三叉路に残る。したがって、距離は「約28km」とされるのが、一般的である。上野彦馬が撮影したとされる明治6年頃でも変わらない。現在の国道でも約30kmある。「20キロ」は直線距離だろうか。もちろん海路もあった。
徳道の里程道塚は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/355

長崎の古写真考 目録番号:5310 稲佐海岸

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5310 稲佐海岸

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5310 稲佐海岸
〔画像解説〕 超高精細画像タイトル: 長崎湾水の浦
この写真は、長崎市街地の対岸、当時の渕村稲佐郷平戸小屋・船津付近の入り江を撮影したものである。明治初期の写真である。目録番号1206(整理番号26-25)と同じ場所のものである。この写真に長崎市街地が撮影されているために場所の特定ができた。入り江に浮かぶ船に、人物を3人配して、背後の純日本風な風景を背景にした演出写真である。目録番号1206(整理番号26-25)の写真にも岬の先にある風格ある屋敷が写されている。長崎湾の湾奥は、稲佐地区が長崎市街地側に突き出た地形になっており、そこを過ぎると長崎湾の北側の端である、浦上新田が見えてくる。稲佐地区は、外国人墓地が早くから造られ、長崎市街地の対岸では比較的早くから開けた市域であった。写真左手の岬の対岸が西坂の丘になっている。明治20年(1887)代には、長崎市街地の北の端は、西坂の丘付近であった。

■ 確認結果

撮影場所の正しくは、現在の丸尾町公園西隅にあった波止場の入江である。旭町商店街通り沿い横の川に架かっている「黄金橋」あたりの海岸で、当時は稲佐崎と丸尾山に囲まれ、入江はイサバ船などの格好の停泊地になっていた。
「長崎湾水の浦」としていたタイトルが指摘により「稲佐海岸」と訂正されたが、超高精細画像のタイトルがまだ「長崎湾水の浦」のままとなっている。この項は次を参照。
https://misakimichi.com/archives/142
https://misakimichi.com/archives/1557
https://misakimichi.com/archives/654

現在のこのあたりは埋め立てられ、旭町・丸尾町・大鳥町・平戸小屋町・江の浦町が昔の入江に沿ったように境を接している。水の浦はまだ飽の浦側の離れた海岸である。
訂正された解説で「平戸小屋・船津付近の入り江を撮影したもの」と説明しているが、当時そう呼ばれたのか、具体的に現在の町名とともに場所を示し説明してほしい。

平戸小屋は町名となったとおり、江戸時代は平戸藩屋敷があった所で、この入江一帯の歴史は古い。さて「外国人墓地」だが、「稲佐悟真寺国際墓地」というとおり、公有地でなく、寺の歴代住職によって守られてきたという珍しい歴史を持つ。昔から外国人を受け入れ異文化を取り入れてきた長崎らしい特性の国際墓地である。
慶長7年(1602)唐人墓が最初に造られ中国人墓地となり、次に出島オランダ商館のオランダ人のためオランダ人墓地が造られた。それからしばらく時が過ぎた安政5年(1858)にロシアから艦隊が来航した際、病死した船員を葬るためのロシア人墓地が造られた。その後もポルトガル、アメリカ、イギリス、フランス人が葬られている。(「ナガジン」発見!長崎の歩き方から)

画像説明には「稲佐地区は、外国人墓地が早くから造られ、長崎市街地の対岸では比較的早くから開けた市域であった」とあるが、「稲佐地区は、長崎市街地の対岸では比較的早くから開けた市域であった。外国人墓地も早くから造られた」としないと、意味が逆に取られ違うのではないか。

長崎の古写真考 目録番号:5301 南山手より長崎港湾奥を望む

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5301 南山手より長崎港湾奥を望む

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5301 南山手より長崎港湾奥を望む
〔画像解説〕
南山手の先端、グラバー住宅付近から長崎湾奥を見た写真である。船の形から、幕末から明治初期の写真である。上野彦馬アルバムに貼られているものである。長崎湾の中央におびただしい数の艦船が結集している。多くの船はまだ機帆船で、近代的な艦船になっていない。このことから、写真の撮影時期がわかる。写真の左手は、飽ノ浦・稲佐地区で、左隅の白い建物の一群は、官営飽ノ浦製鉄所の建物である。その先に、稲佐地区の岬が見えている。右岸側は長崎市街地の沿岸部であり、浦五島町から大黒町である。市街地の北の端が西坂の丘である。右上の山は立山で、山裾の建物は、筑後町の寺院群である。写真正面の岬の突端に聖徳寺が見えている。そこから下、写真中央の海岸線が浦上新田である。その後、明治・大正・昭和と長崎湾の埋め立てが進み、長崎湾のこのような広大な姿を見ることはできない。幕末から明治初期の開港後の雄大な長崎港の姿を撮影した写真である。

(参考写真)
目録番号:5880 南山手の洋館群(4)

■ 確認結果

目録番号:5301「南山手より長崎港湾奥を望む」の画像解説は、「南山手の先端、グラバー住宅付近から長崎湾奥を見た写真である」としている。南山手から撮影された写真に間違いないが、はたして「グラバー住宅」付近からだろうか。

右下側に尾根を回りこんだ道がある。その下の洋館にははっきり見えないが、支えをした旗竿が立つ。この道はグラバー園内の道でなく、あと一段下の大浦天主堂から現海洋気象台の前を通り、浪の平へ通じる当時から居留地内の重要な道と思われる。
現在も「須加五々道美術館」へ下る所に、同じカーブの地形があり木立が残る。
この項は次の記事を参照。その時は超高精細画像の解説を知らなかった。
http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/archive/2009/1/6

次に道下に立つ旗竿だが、2枚目の横長の古写真は、長崎市教育委員会「長崎古写真集
居留地編」平成15年刊第3版の28頁にある「11 長崎居留地のパノラマ(4枚続き)」横浜開港資料館所蔵。ベアトのパノラマ写真だろう。左端に写っているのが、同じ旗竿と思われる。
国旗がはっきりしないが、旗竿が立つ洋館は、現在、三菱重工長崎造船所南山手外国人住宅が建っている所と思われる。
パノラマの撮影場所は「南山手(グラバー邸内展望所の下付近)」からと図版解説をしている。(目録番号:6151「長崎港のパノラマ(9)」にも同じような写真がある)
後ろの3枚が、グラバー邸付近や展望所下付近からとした場合の光景。

撮影場所を確認するポイントは、写真左側に写る稲佐山から下った尾根と奥の岩屋山尾根の重なり具合である。これからするとグラバー邸付近や展望所下では高度が高すぎ、山の重なりが少々合わない。その上、写っている道の地形が考慮されていないようである。
したがって、どこから撮影されたかとなると、浪の平への道の少し高い右側道上となるので、現在の長崎海洋気象台あたりからが考えられる。

参考写真として目録番号:5880「南山手の洋館群(4)」を追加した。ロシア領事館を撮影したものだが、ここが現在の長崎海洋気象台となっている。旗竿の位置が良くわからないが、石垣の下に道があり、旗竿はこの道下に立っているようである。
湾奥の山の景色は、最初の古写真目録番号:5301「南山手より長崎港湾奥を望む」と同じと見てよい。

長崎の古写真考 目録番号:5298 飽の浦船着場と長崎港

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5298 飽の浦船着場と長崎港

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5298 飽の浦船着場と長崎港
〔画像解説〕
長崎市街地の対岸に造られた官営飽ノ浦製鉄所付近から、長崎港越しに、古河町、浪の平町、南山手を遠望した写真である。明治初期の撮影である。写真右の松の木は、目録番号3238(整理番号66-19)の写真において、ちょん髷の人物が座っている写真のものと同じものである。従って写真右下の街灯のある桟橋は、官営飽ノ浦製鉄所のものである。そのために、桟橋は端正な造りになっている。その向こうのに見えている建物が、製鉄所の建物である。対岸に目を移すと、写真左に外輪船が停泊している。その向こうの山腹が、南山手外国人居留地とその南限である。船の船首の向こうが、ロシア領事館とロシア教会があった場所で、上に登る坂道が直線で見えている。その左上に松の木の影が見えているが、そこがグラバー住宅である。海岸線は、左から浪の平町、古河町である。南山手居留地の上の山は鍋冠山で、頂上近くまで耕し尽くされている。

■ 確認結果

上野彦馬撮影とされているが、近年「明治5(1872)年、天皇の西国巡幸に随行した内田九一が撮影した長崎港の4枚組写真の一枚である。会場(海上?)には天皇のお召し艦が見える」と考えられる古写真の1枚。
この古写真の撮影場所は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1589

ここで取り上げるのは、画像解説の最後に説明している「南山手居留地の上の山は鍋冠山で、頂上近くまで耕し尽くされている」か。超高精細画像はそうなっているのだろうか。説明に少し飛躍が感じられるので、たいしたことではないが、あえてふれておきたい。
現在の写真は、撮影場所と思われる飽の浦恵美須神社近くの高台岩場からは、三菱造船所工場の高い屋根などのため、長崎港が見えないので、ほぼ同じ向きで標高が高い飽の浦変電所近くから写した。現在でも鍋冠山の頂上近くまで、耕し尽くされていない。

画像説明は、明治5年(1872)頃の話である。耕やされていると見えるのは、鍋冠山の中腹位までで、そこが南山手町と浪の平町の南山手居留地一帯の区域と思われる。まだ建物が建っていない空地が多かったのではないか。
外国人居留地の建設は、長崎の開港前の安政6年(1859)8月から始まった。最初の居留地建設は、大浦湾の埋立と東山手・南山手の造成であった。その後、下り松居留地、梅香崎居留地の埋立を行い、さらに新地蔵所、出島を組込み、明治3年(1870)に外国人居留地は完成した。

長崎の古写真考 目録番号:5146 カルルス中川の桜(4) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5146 カルルス中川の桜(4) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5146 カルルス中川の桜(4)
目録番号:5153 カルルス中川の桜(8)
目録番号:5159 中島川の堤
書籍本 :38190 長崎●中川カルルス桜(絵葉書)

■ 確認結果

「中川カルルス」は温泉と桜の名所だったが、実際の温泉場の建物があった場所がどこだったか、具体的に調べたものが見当たらない。当時の市内地図があれば一番良いが、史料と古写真によって考えてみたい。間違いがあったら指摘をお願いしたい。
昭和13年発行「長崎市史 地誌編 名勝旧蹟部」264〜266頁による「中川カルルス跡」の説明は次のとおり。この史料が詳しい。

三、カルルス温泉
春は嬉れしや花の盛りの中川の岸、夏は師範校の藤の花、秋には菊見の人を見る、冬娥眉山の雪景色
是の歌は明治卅年頃カルヽスの四期と題し又四期節と称して巷間に伝唱されたものである。
長崎市の東部なる武功山(一ノ瀬山)と大窪の中間一ノ瀬川の清流に沿ふ新中川町十番地壹千参百余坪の地は故安田伊太郎なるものの経営せる遊園地で今も其の後継者に依りて継承されて居る。明治二十年時の県令日下義雄の命によりて、中島屋敷附近より日見峠を経て日見村に至る道路の片側に植え付けたる数千本の吉野桜の一部今も尚ほ構内河岸に拾数株を存し、花時の眺は又特別であるが日没後樹間に電燈を点じて一段の美観を添ふるので観桜の市人市をなす。加ふるに樹亭を築き橋梁を架け芳艸嘉木を移植し園域を修め河身を浚ひ、境内の美観を整へて遊覧者を迎えるので夏の納涼、秋の観菊、冬の雪景等四時散策に湯浴に遊客絶うることがない。

抑このカルヽス温泉は明治三十三年安田伊太郎等上長崎村の有志者相計りて一ノ瀬渓谷に沿へる桜樹の側に一小浴場を設けたるに発端して居る。そのカルヽスと称するのは墺太利国境なるカルヽス温泉の分析表に拠りて浴水に調剤せるに因る。後伊太郎は単独に之を経営し川畔の桜樹を保護して今日あるを致したものである。(日下知事の時植うる所の桜数千本今は悉く枯れ僅にカルヽス境内に数株を残すのみとなった。)

大正初年の頃まではカルヽス附近一ノ瀬川及び国道の中間俗称八幡田原今の中川町十数町の地は一戸の人家無き一面の田圃で菊花の培養を以て知られ初秋より晩秋霜深き頃まで中川原頭は紅紫とりどりに織り成せる錦繍を以て掩はれ菊の名所として知られて居たが今は人家櫛比し昔の面影の偲ぶべきものはない。

上記を説明と、写しの長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡(南部編)」99頁の説明を比べてもらいたい。写しの本は高台から現在の料亭「橋本」を撮影した写真を添えている。背景の山は金比羅山である。大正初年の頃までは八幡田原は一面の田圃だった。中川カルルス跡は「橋本」ではないようだ。
肝心な所在地に抜けている「新中川町4番(街区)」に実はカルルスはあった。「長崎市史」には一ノ瀬川の清流に沿ふ「新中川町十番地壹千参百余坪の地」とはっきり記している。
そこは料亭「橋本」前を過ぎ、一ノ瀬川の「八幡橋」を渡ったすぐのところにある現在は広い「菱重パーキング 新中川」となった一帯である。戦後までカルルスの建物は残っていたようだ。赤煉瓦の塀に囲まれ、まだ古いたたずまいを残す住宅が近くにある。三菱中川寮を壊し駐車場となったそうだ。

「中川カルルス跡」の関連古写真は多くあるが、当時の位置関係がよくわかる4枚の古写真を掲げた。古写真によって検証してみよう。撮影している場所をわかりやすくするため、現在の地図に張り付けたので、詳しい説明は省きたい。
1枚目、2枚目とも上流から下流側を写している。1枚目の説明にはそのようにあり、そうすると「中川カルルス」は川の左側となり、4枚目の建物と合う。右側では背景の山が合わない。2枚目の堰はなだらかなコンクリートに変わり、現在も地形は残っている。
4枚目の絵葉書古写真は書籍本から借用している。貴重な石碑(川脇の公園に現存)と鳥居が写り、後ろがカルルス建物であろう。
3枚目の古写真「中島川の堤」は、堰と水路と橋を写している。この下流側の水路に水車小屋があったのを、明治34年(1901)測図国土地理院旧版地図で確認している。

大正14年11月発行の長崎市小学校職員会編「明治維新後の長崎」にも「中川カルルス温泉」が581〜582頁に記されており、「桜雲閣」と「龍吟橋」と名が出てくる。何れもカルルスの敷地内と思われ、温泉場の続きの建物と現在の「八幡橋」の先代の橋と思われる。
したがって、3枚目の古写真の橋が「龍吟橋」ではないか。堰と位置が合い、後ろの山は「英彦山」から下っている尾根であろう。「桜橋」は後年できた橋と思われる。

「ナガジン」発見!長崎の歩き方「古写真にみる遠い昔の長崎名物」は、桜橋や料亭「橋本」あたりとしているのもどうだろうか。最後の地図、昭和31年「長崎地典」第2版矢の平地区地図も、「波志本」の場所に「元カルルス」と表示している。料亭「橋本」の創業は昭和27年と聞いた。「中川カルルス」はこの対岸の方が正しいのではないか。

戸町カルルス温泉跡は  https://misakimichi.com/archives/357
福田網場脇金水温泉跡は https://misakimichi.com/archives/5433
川平金山金湯鉱泉跡は  https://misakimichi.com/archives/262
長与町道の尾温泉は   https://misakimichi.com/archives/941

長崎の古写真考 目録番号:5125 長崎本町中央公設市場

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5125 長崎本町中央公設市場

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5125 長崎本町中央公設市場

■ 確認結果

長崎市中央卸売市場HPによる市場歴史の説明は次のとおり。古写真に撮影されているのは、この記事にある「大正8年から大正11年にかけて、長崎市本下町(現在:築町)をはじめ数ヶ所に公設小売市場が開設された」という「本下町」の公設小売市場である。
したがって、絵葉書のタイトルからは町名を正しくし「長崎市営本下町中央公設市場」が正となる。

長崎市における市場のおいたち
第一次世界大戦(大正3年〜大正8年)以来、経済界の変動は、諸物価の騰貴により消費生活を脅かすに至ったので、需給機関の運用によって緩和を図るため、全国的に公設市場が開設された。長崎市においても、大正8年から大正11年にかけて、長崎市本下町(現在:築町)をはじめ数ヶ所に公設小売市場が開設された。
また、公設卸売市場の施策については、品位価格の安定機関を設ける必要性が生じたため、大正9年10月に公設卸売市場の建設工事を起こし、翌10年3月5日、総工費32,804円・面積733坪で問屋業者43店舗を収容し、長崎市築町(現在:銅座町)に開設した。…

現在、本下町(現在:築町)の建物は改築され、近代的な5階建ビル「ながさき市民生活便利館 メルカつきまち」となっているが、地下1階に長崎市の公設小売市場はまだ現存する。
公設卸売市場は、築町(現在:銅座町)から尾上町の旧魚市場跡、そして昭和50年には田中町へ移転し、長崎市をはじめ周辺市町にわたり、青果物の安定供給及び広域流通をめざした長崎市中央卸売市場に発展している。

なお、HP「絵葉書・古写真にみる長崎の町並み(市場・天主堂・旅館・ホテル等)」に同じ市場の絵葉書が掲載されている。他の1点は「HINA066■長崎本下町市営公設市場(大正9年)」とあるのに、これは「HINA067■長崎市営本町中央公設市場(大正末)」である。
絵葉書のタイトルが下にあり、「本町」と間違っている。撮影年代は「大正末」となるのか。
http://www.asocie.jp/archives/nagasaki/nagasaki2/index.html

長崎の古写真考 目録番号:4807 神崎鼻からの鼠島

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4807 神崎鼻からの鼠島

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:4807 神崎鼻からの鼠島
〔画像解説〕  超高精細画像のタイトル 「神ノ島からの鼠島(1)」
目録番号4806(整理番号95-5)と同じアルバムに収載され、B203 NEZUMIJIMA ENTER OF NAGASAKIと印字されている。これは神崎鼻付近から鼠島を撮影したもので、後方の島は神ノ島である。その左先端は目録番号4084(整理番号79-2)で写されているマリア観音前にあたる。撮影時期は外の収載写真から明治31年(1898)と判断される。海上にはイサバ船と小型汽帆船が見え、右側の小瀬戸の浜には石炭が貯炭されている。とすれば海上の船は高島炭鉱からの石炭運搬船のように思われる。戸町と同じくここからの石炭は長崎港の大型船舶に積み込まれたようである。鼠島の周囲は見られるようにきれいな海で、明治36年(1903)には水泳道場が開設され小堀流の泳法が教えられた。神崎鼻では5人が釣りをしている。船の船頭らしき人物は和服、手前の釣り人は脚半と菅笠、奥の外国人のような白い洋服を着た男性は山高帽で衣装は興味深い。奥の神ノ島および手前の鼠島の海峡は、現在埋め立てられ陸続きとなっている。

■ 確認結果

以前の画像解説は、鼠島(皇后島)の背後に神の島が写っているのに、タイトルが「神ノ島からの鼠島(1)」となっていた。指摘により「神崎鼻からの鼠島」となったが、超高精細画像のタイトルの方が、まだそのまま「神ノ島からの鼠島(1)」となって訂正されていない。
この関係は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1552

画像説明にある「右側の小瀬戸の浜には石炭が貯炭されている。とすれば海上の船は高島炭鉱からの石炭運搬船のように思われる。戸町と同じくここからの石炭は長崎港の大型船舶に積み込まれたようである」はあまり聞くような話ではない。当時の大型汽船への石炭積み込みの状況を詳しく説明してほしい。
神崎鼻では「5人が釣りをしている」も、「3人」しか確認できないし、1人は船頭ではないか。

長崎の古写真考 目録番号:4215 長崎港と中町教会 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4215 長崎港と中町教会 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:4215 長崎港と中町教会
〔画像解説〕 
福済寺裏山から長崎市街地北部と長崎港口を撮影した写真である。目録番号2900(整理番号58-31)と同じ場所から撮影したもの。明治29年(1896)に建設された中町教会が写されている。明治32年(1899)7月17日外国人居留地が撤廃され、同年8月要塞地帯法が公布され、長崎市内の写真撮影が禁止された。このために、撮影時期は明治29年(1896)から明治31年(1898)までの間である。安政5年(1858)から撮影され始めた市街地の写真は、明治32年(1899)に禁止になったので、最後の時期の1枚ものの写真である。写真下部は、戦前には国宝建造物(現国指定重要文化財)であった福済寺の本堂の屋根である。中央の赤い煉瓦の建物は、旧大村藩屋敷跡に建設された完成直後の中町教会である。いずれも昭和20年(1945)8月原子爆弾で全壊した。写真右の煉瓦の建物は、煙草専売公社の建物である。写真中央の沿岸部には、海側に向いた倉庫の建物が並んでおり、国内航路により流通する物資が保管されている。長崎大学所蔵の中の写真で、最後の時期になる写真である。

目録番号:5106 長崎立山からの長崎港(2)
〔画像解説〕
立山から長崎市外越しに長崎港を望む絵葉書写真。このアングルは川原慶賀以来多くの絵画と写真が残されているが、これは明治後期から大正初期の写真である。中央下には明治29(1896)年に完成した中町カトリック教会(旧大村屋敷)がみえ、その右隣には大黒市場と思われる大屋根も見える。

■ 確認結果

2枚の古写真とも、赤い煉瓦の教会は旧大村藩屋敷跡に建設され、明治29(1896)年に完成した中町教会である。
目録番号:4215「長崎港と中町教会」は、福済寺の屋根が手前に写っている。以前は、寺の「大雄宝殿」と説明していたが、当時の建物は屋根の向きが違い、指摘により「本堂」と訂正されている。この関係は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1576

ここで新たに取り上げるのは、「中町教会」を同じように写した2枚のこの古写真の「撮影時期」と、写真の中町教会右上に写る煉瓦の建物は、「煙草専売公社」かという疑問。
目録番号:5106「長崎立山からの長崎港(2)」では、立山の高い位置から写されている。撮影時期は「明治後期から大正初期の写真である」としている。
1枚目の「明治32年(1899)…8月要塞地帯法が公布され、長崎市内の写真撮影が禁止された。このために、撮影時期は明治29年(1896)から明治31年(1898)までの間である」の説明からいうと矛盾する。
「要塞地帯法」も法律第105号として公布されたのは、明治32年7月14日。「長崎ニ於ケル陸海軍防禦営造物ノ地帯区域」が公示されたのが、同年8月11日と思われる。

中町教会右上に写る煉瓦の建物についても、「煙草専売公社の建物」から「大黒市場と思われる大屋根」と変って説明されている。
九州大学にはHPを見ると九州文化史資料部門所蔵「長崎県管内全図」 明治20(1887)年・「長崎港精図 」明治25(1892)年・「長崎港新図」明治27(1894)年編がある。
地図は拡大できないので字を判読できない。長崎大学附属図書館も同地図写真を所蔵しているので、建物名を確認してもらいたい。

たばこの文化と歴史によると「明治37年(1904)「煙草専売法」により、原料葉たばこの買い上げから製造販売まで国の管理(製造専売)で行われることになり、以来、大蔵省専売局から日本専売公社へと引き継がれながら、昭和60年3月まで専売の時代は続いた」ので、当時の名称は「煙草専売局」と思われる。

藤城氏作成HP「長崎年表・昭和時代(9)」には、昭和43年(1968)「10/24★日本専売公社長崎支局の庁舎が旧庁舎横にできる」しか表われない。恵美須町1−6の土地。現在は「日本たばこ産業(株)福岡支店長崎営業所」。長崎中央郵便局左横のビルで、中町教会下の電車通り対面にある。長崎中央郵便局は島原藩屋敷跡。
大黒市場は、戦後の動乱が治まった昭和30年初頭に、長崎中央郵便局後ろの川の暗渠上に造られた。

以上の位置からすると、中町教会右上に写る煉瓦の建物は、「煙草専売公社の建物」やまして「大黒市場と思われる大屋根」とは思えない。現在の長崎駅前近くは佐賀鍋島藩屋敷や深堀支藩屋敷があった場所なので、この跡の何かの建物群と思われる。
長崎大学側に画像解説をした根拠史料があったら、解説文の中で説明していただきたい。

長崎の古写真考 目録番号:4543 小菅の造船所と長崎港

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4543 小菅の造船所と長崎港

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:4543 小菅の造船所と長崎港
〔画像解説〕 
小川一真製作と思われる化粧紙表紙小型アルバムに収載された1枚でB204 HARBOUR,NAGASAKIと印字。これは長崎郊外の小菅にあった修船場を撮影している。慶応元年(1865)渡英中の、薩摩の五代才助(のち友厚)がベルギー商人コント・デ・モンブランと契約して帰国後この地に計画され、グラバーや小松帯刀が出資し岩瀬公圃らが監督にあたり明治元年(1868)に落成した。日本最初のドックであるこのスリップ・ドックはソロバン・ドックと呼ばれた。明治2年(1869)新政府はグラバーからこれを買取り長崎造船所の所管とした。明治5−8(1872−5)、木造蒸気船・向陽丸70トン、帆走船二本マスト・小菅丸103トン、内車蒸気・タグボート・たてがみ丸92トンを進水させた。写真には巻き上げ機を収容する赤い煉瓦の建物(日本最古)の横に修船中の大型鉄船の舳先が見える。対岸は立神その右の建物群は飽の浦になる。明治30年(1897)頃の撮影か。

■ 確認結果

長崎市教育委員会編「長崎市古写真集 居留地編」平成15年刊第3版の94頁にも同じ古写真が掲載されていて、すでに前に紹介している。同146頁による「図版解説」は次のとおり。
古写真集による前の記事は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1621

84 小菅と長崎港〔彩色〕              日本カメラ博物館所蔵
戸町の丘上の墓地から長崎港を遠望したもの。眼下にみえるのが明治元年に完成した小菅修船場(通称ソロバンドック)で、艦船がドック入りしている。茶色に塗られた捲上げ小屋は、現存するわが国最古の煉瓦造建築である。対岸の中央が三菱造船所の立神ドックで、背後の山が稲佐山。電柱が立っていることからして、明治30年代の撮影とみられる。停泊している艦船も5000t以上の大型船がふえていたのがうかがえる。

小ヶ倉バイパスからアプローズマンションの方へ戸町墓地の上部駐車場まで行く。長崎港内と市街地を写した目録番号:4543「小菅の造船所と長崎港」は、駐車場から右手でなく、左手へ上がった墓地の高台から撮影されている。この辺りが撮影の名所だったのだろう。

目録番号:4543「小菅の造船所と長崎港」の〔画像解説〕は概ね間違いないが、小菅修船場でスリップ・ドックによる船舶修理を行った外、「明治5−8(1872−5)、建造・進水させたという木造蒸気船・向陽丸70トン、帆走船二本マスト・小菅丸103トン、内車蒸気・タグボート・たてがみ丸92トン」」の年代とトン数。
特に小菅の地名を船名とした「小菅丸」は、日本最後の大型木造汽船。交通博物館(東京都千代田区)の船舶展示(船の歴史)に、「小菅丸模型」が展示されている。同館の資料によると、(1496トン;1883年)とあるから、小菅丸は7年の年月をかけて明治16年に完成したのではないか。 ほとんどの資料は「1496トン」とあり、引用資料を調べてほしい。
この記事は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1858

古写真集とも説明に表われている「立神」も対岸中央でなく、小菅修船場ドックの長崎港入口が立神を向いているから、古写真の一番左端の入江となるようである。 

長崎の古写真考 目録番号:2863 大浦川沿い(2) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:2863 大浦川沿い(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:2863 大浦川沿い(2)
〔画像解説〕
大型アルバムから解かれた1枚である。キャプションにG61.OURA NAGASAKIとあるので、小川の写真の一枚である。大浦川の両岸沿いを川上の高台から撮ったものである。居留地最後の雰囲気を細かに観察できる。右手の大浦14番付近が建て変わり、松ヶ枝の波止(川口左)に明治31年(1898)建設の税関派出所(現長崎市立民俗資料館別館、国指定重要文化財)が見えるから、撮影は30年代の始め。川が狭まる左岸の川上4棟(下り松35甲乙、34甲乙)までが居留地で、人力車が止まっている、英語看板の見える和風家屋は日本人の商店であった。川口の下り松42番は角地で機械のテレシン商会と船具のアダムス商会など多くの商店が入居していた。各商店の構え、街灯、サンパン、屋根、材木置き場、洗濯干し、弁天橋(上流)と松ヶ枝橋(下流)、散見する人物など、拡大すると、細部が見えてくる。中央の松は下り松の地名の由来となった。その左にある妙行寺の建物が鮮明である。

目録番号:2879 大浦川沿い(3)
〔画像解説〕
一枚ものでA147 AT OURA NAGASAKIと小川一真のキャプションが印字されている。これは目録番号2863(整理番号58-4)と同じ時期に、大浦川沿いをより上流の現北大浦小学校下の斜面から撮影している。この方が少し後である。川口の弁天橋と松ヶ枝橋は明治22年(1889)に架け替えられた木鉄混交のトラスト橋。明治26年(1893)10月に大浦32番Aに新築される孔子廟はまだ見えないので撮影時期は明治20年代中頃。大浦地区の裏側が空洞化している。漆喰が鮮やかな日本家屋の屋根と入母屋造りの洋館の屋根と対照的である。左大屋根の妙行寺の後には、屋根が口の字に繋がったベルビューホテルが見える。さらに左手隅には大浦天主堂の尖塔の先も写っている。海上には石炭燃焼の蒸気エンジンと帆柱の両方を備えた気帆船が多い。対岸にも多数の船が停泊する船溜を確認できるが、その横には三菱長崎造船所の外国人宿舎と、飽の浦および立神の工場群が写し出されている。

目録番号:3794 大浦川沿い(4)

(関連作品)
目録番号:3849 大浦川沿い(5)   目録番号:3856 大浦川沿い(6)
目録番号:4725 大浦川沿い(7)

■確認結果

大浦川の下流に架かる橋について見る。「山口広助氏の丸山歴史散歩」によると、河口から、
「松ヶ枝橋」は、明治3年(1870)木造で完成。当初は「下り松橋」と呼ばれ、明治中期に鉄橋に架け替えられ、後に鉄筋コンクリート橋となった。
「弁天橋」は、道栄ヶ浜にあった弁財天に由来し命名された。以前から架けられていた。 

「大浦橋」は、江戸時代の御崎道沿いの橋で、もとは木橋だったものが、往来の増加で天保年間(1830−44)に石橋となり、さらに明治19年(1886)架け替えが行われた。明治24年(1891)出雲町に遊廓が移転すると往来が増し、その後、現在のような暗渠となり姿が見えなくなった。一般に「石橋」と呼ばれる橋は「大浦橋」のことで、現在、大浦橋の親柱が石橋交番前南側横断歩道横に残る。(寄進者名:大浦郷 林増五郎/村川勝太郎)
石橋本体も、現在、道路面が大きく盛り上がっている暗渠の中に存在している。

3枚目の古写真、目録番号:3794「大浦川沿い(4)」と、(関連作品)目録番号:3856「大浦川沿い(6)」は、「大浦川には明治22年に架設された松ヶ枝橋と弁天橋が見えている」と説明している。実際は、2枚目の目録番号:2879「大浦川沿い(3)」の〔画像解説〕のとおり、「川口の弁天橋と松ヶ枝橋は明治22年(1889)に架け替えられた木鉄混交のトラスト橋」が見えているので、誤解を生じる説明であろう。
2枚目の古写真でも、三菱長崎造船所の立神の工場群までは写し出されていないようだ。

「石橋」(大浦橋)の姿がわかるため、特に1枚目の目録番号:2863「大浦川沿い(2)」の古写真を取り上げ、青枠内を下に拡大した。
左下隅に3人の人物が立ち川面を眺めている場所が、明治19年(1886)地元の篤志者によって架け替えられたアーチ式「石橋」(大浦橋)である。HPのどの画像解説も、「石橋」のことを記していないのはどうしたことだろう。

長崎市教育委員会「長崎古写真集 居留地編」平成15年刊第3版の80頁に同じ写真が掲載されている。143頁の図版解説では「左下に数人の人物が立っているところが明治19年9月に架設された石橋で、これの欄干は軽やかな鉄製であったことがかるのも貴重である」とあるのは参考となろう。
暗渠下に残る石橋画像は、次を参照。 https://misakimichi.com/archives/792
最後の写真が、ドンの山から見た大浦川の河口。