長崎の古写真考 目録番号:5146 カルルス中川の桜(4) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5146 カルルス中川の桜(4) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5146 カルルス中川の桜(4)
目録番号:5153 カルルス中川の桜(8)
目録番号:5159 中島川の堤
書籍本 :38190 長崎●中川カルルス桜(絵葉書)

■ 確認結果

「中川カルルス」は温泉と桜の名所だったが、実際の温泉場の建物があった場所がどこだったか、具体的に調べたものが見当たらない。当時の市内地図があれば一番良いが、史料と古写真によって考えてみたい。間違いがあったら指摘をお願いしたい。
昭和13年発行「長崎市史 地誌編 名勝旧蹟部」264〜266頁による「中川カルルス跡」の説明は次のとおり。この史料が詳しい。

三、カルルス温泉
春は嬉れしや花の盛りの中川の岸、夏は師範校の藤の花、秋には菊見の人を見る、冬娥眉山の雪景色
是の歌は明治卅年頃カルヽスの四期と題し又四期節と称して巷間に伝唱されたものである。
長崎市の東部なる武功山(一ノ瀬山)と大窪の中間一ノ瀬川の清流に沿ふ新中川町十番地壹千参百余坪の地は故安田伊太郎なるものの経営せる遊園地で今も其の後継者に依りて継承されて居る。明治二十年時の県令日下義雄の命によりて、中島屋敷附近より日見峠を経て日見村に至る道路の片側に植え付けたる数千本の吉野桜の一部今も尚ほ構内河岸に拾数株を存し、花時の眺は又特別であるが日没後樹間に電燈を点じて一段の美観を添ふるので観桜の市人市をなす。加ふるに樹亭を築き橋梁を架け芳艸嘉木を移植し園域を修め河身を浚ひ、境内の美観を整へて遊覧者を迎えるので夏の納涼、秋の観菊、冬の雪景等四時散策に湯浴に遊客絶うることがない。

抑このカルヽス温泉は明治三十三年安田伊太郎等上長崎村の有志者相計りて一ノ瀬渓谷に沿へる桜樹の側に一小浴場を設けたるに発端して居る。そのカルヽスと称するのは墺太利国境なるカルヽス温泉の分析表に拠りて浴水に調剤せるに因る。後伊太郎は単独に之を経営し川畔の桜樹を保護して今日あるを致したものである。(日下知事の時植うる所の桜数千本今は悉く枯れ僅にカルヽス境内に数株を残すのみとなった。)

大正初年の頃まではカルヽス附近一ノ瀬川及び国道の中間俗称八幡田原今の中川町十数町の地は一戸の人家無き一面の田圃で菊花の培養を以て知られ初秋より晩秋霜深き頃まで中川原頭は紅紫とりどりに織り成せる錦繍を以て掩はれ菊の名所として知られて居たが今は人家櫛比し昔の面影の偲ぶべきものはない。

上記を説明と、写しの長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡(南部編)」99頁の説明を比べてもらいたい。写しの本は高台から現在の料亭「橋本」を撮影した写真を添えている。背景の山は金比羅山である。大正初年の頃までは八幡田原は一面の田圃だった。中川カルルス跡は「橋本」ではないようだ。
肝心な所在地に抜けている「新中川町4番(街区)」に実はカルルスはあった。「長崎市史」には一ノ瀬川の清流に沿ふ「新中川町十番地壹千参百余坪の地」とはっきり記している。
そこは料亭「橋本」前を過ぎ、一ノ瀬川の「八幡橋」を渡ったすぐのところにある現在は広い「菱重パーキング 新中川」となった一帯である。戦後までカルルスの建物は残っていたようだ。赤煉瓦の塀に囲まれ、まだ古いたたずまいを残す住宅が近くにある。三菱中川寮を壊し駐車場となったそうだ。

「中川カルルス跡」の関連古写真は多くあるが、当時の位置関係がよくわかる4枚の古写真を掲げた。古写真によって検証してみよう。撮影している場所をわかりやすくするため、現在の地図に張り付けたので、詳しい説明は省きたい。
1枚目、2枚目とも上流から下流側を写している。1枚目の説明にはそのようにあり、そうすると「中川カルルス」は川の左側となり、4枚目の建物と合う。右側では背景の山が合わない。2枚目の堰はなだらかなコンクリートに変わり、現在も地形は残っている。
4枚目の絵葉書古写真は書籍本から借用している。貴重な石碑(川脇の公園に現存)と鳥居が写り、後ろがカルルス建物であろう。
3枚目の古写真「中島川の堤」は、堰と水路と橋を写している。この下流側の水路に水車小屋があったのを、明治34年(1901)測図国土地理院旧版地図で確認している。

大正14年11月発行の長崎市小学校職員会編「明治維新後の長崎」にも「中川カルルス温泉」が581〜582頁に記されており、「桜雲閣」と「龍吟橋」と名が出てくる。何れもカルルスの敷地内と思われ、温泉場の続きの建物と現在の「八幡橋」の先代の橋と思われる。
したがって、3枚目の古写真の橋が「龍吟橋」ではないか。堰と位置が合い、後ろの山は「英彦山」から下っている尾根であろう。「桜橋」は後年できた橋と思われる。

「ナガジン」発見!長崎の歩き方「古写真にみる遠い昔の長崎名物」は、桜橋や料亭「橋本」あたりとしているのもどうだろうか。最後の地図、昭和31年「長崎地典」第2版矢の平地区地図も、「波志本」の場所に「元カルルス」と表示している。料亭「橋本」の創業は昭和27年と聞いた。「中川カルルス」はこの対岸の方が正しいのではないか。

戸町カルルス温泉跡は  https://misakimichi.com/archives/357
福田網場脇金水温泉跡は https://misakimichi.com/archives/5433
川平金山金湯鉱泉跡は  https://misakimichi.com/archives/262
長与町道の尾温泉は   https://misakimichi.com/archives/941