長崎の古写真考 1」カテゴリーアーカイブ

長崎の古写真考 目録番号:3237 大波止大黒町を望む  ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3237 大波止大黒町を望む  ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3237 大波止大黒町を望む
〔画像解説〕
出島の前方付近から、長崎市街地の海岸線を大黒町砲台付近にかけて撮影した写真である。明治初期の写真で、撮影は上野彦馬である。長崎港には、出島から湾口にかけて大型の外国船が係留され、出島から湾奥にかけて長崎の近郊・沿岸用の和船が係留されている。明治初期の、さまざまな和船の種類を見ることができる。写真右下の荷物を満載した船には、6人ほどの船頭が乗っており、荷役待ちのために昼寝をしている。人間の表情が見える風景写真である。写真中央の山は立山であり、頂上付近まで畑に耕し尽くしている。山の下に木立が点在するが、その付近が筑後町の寺院群である。海岸線を見ると、右端に僅かに石垣が見えているが、これは出島の西端である。その先に、端正な石垣があり街灯が並んでいるが、そこが大波止である。さらに、大波止、浦五島町を経て大黒町に至るが、左端に砲台場が見えている。国内航路で繁栄している明治初期の長崎を撮影した写真である。

目録番号:5295 大波止沿岸
〔画像解説〕
出島の西端から江戸町・大波止から大黒町方面を撮影した写真である。撮影年代は明治初期である。極めて鮮明な写真である。目録番号3237(整理番号66-18)の写真とほぼ同じ角度から撮影しているが、江戸町の海岸線により接近した写真になっている。出島の石垣と江戸町護岸の間に水路があるが、この水路が江戸時代から出島と本土を隔絶していた水路である。明治18年(1885)から始まる長崎港改修事業では、約18m出島側が掘削されて、ここが中島川の河口になる所である。対岸の石垣は、長崎市街の西端の沿岸部分である。長崎市街地の背骨にあたる長崎県庁のある丘の西側の沿岸部は、江戸時代以来埋め立てにより、土地を拡大してきた場所である。従って、沿岸部は、写真のように石垣で護岸を形作っている。さらに、海に面した屋敷は、海から出入りできるよう、個人の波止場を持っている。沿岸の中央付近に端正な石積み護岸があり、街灯が並んでいるが、ここが大波止である。

■ 確認結果

最初の目録番号:3237「大波止大黒町を望む」の〔画像解説〕はわかりにくい。「撮影者未詳」なのに「撮影は上野彦馬である」。また、写真にたしかに写っているが「海岸線を見ると、右端に僅かに石垣が見えているが、これは出島の西端である。その先に、端正な石垣があり街灯が並んでいるが、そこが大波止である」。

次の目録番号:5295「大波止沿岸」を探し出して、やっと最初の写真の〔画像解説〕の意味がわかった。1枚目は2枚目とほぼ同じ角度で写しており、右端をカットしたような写真だったのである。「この写真に関連する作品」の項目なり、対比する目録番号を書いて解説してほしい。
現在の写真は、鍋冠山展望台からの遠望と松が枝国際観光ふ頭から写した。

長崎の古写真考 目録番号:1365 茂木街道(2) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1365 茂木街道(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1365 茂木街道(2)
〔画像解説〕
この写真は、茂木街道の峠から下り始める茂木側の街道を撮影した、明治20年(1887)代後半の写真である。ガラス乾板に焼き付けられた、手彩色のスライド写真を画像化したものである。茂木村(現長崎市茂木町)は長崎市の東南約8キロメートルの場所にある。長崎から茂木へ行くには、長崎半島の付け根の尾根を越える必要がある。この尾根の峠を過ぎると、茂木街道は一気に長崎半島東斜面を茂木に向けて下り始める。この写真は明治20年後期の頃の茂木街道の、茂木に下る川の街道を撮影したものである。江戸時代に、長崎から茂木に到る街道があったが、明治時代になり、人力車や荷車が通行する近代的な道路を開削する必要があった。そこで、長崎県は明治18年(1885)から茂木新道の開削に着手した。明治20年(1887)6月25日、午後1時より、当時の茂木村田上名において開通式が行われた。女性の服装や人力車の内装から、明治後期の写真と思われる。

目録番号:2264 茂木街道(3)
〔画像解説〕
江戸期から使われた長崎から茂木にいたる街道であり、写真は田上から下った柳山辺りを撮影している。この道路は勾配が急で荷馬車や人力車の通行に不便なことから明治18(1885)年に新道(旧県道)が建設され、昭和9(1934)年には新県道(現国道324号線)が開通した。

目録番号:5868 茂木への道(Road to Mogi)(5)

■ 確認結果

目録番号:1365「茂木街道(2)」の〔画像説明〕によると、茂木街道は「人力車や荷車が通行する近代的な道路を開削する必要があった。そこで、長崎県は明治18年(1885)から茂木新道の開削に着手した。明治20年(1887)6月25日、午後1時より、当時の茂木村田上名において開通式が行われた」
古写真は、現在の田上1丁目の転石バス停から、旧県道の道へ行き、ホテル古都の先、これまでの茂木街道と、この明治20年(1887)開通した明治新道(旧県道)の折れ曲がって河平川の谷間沿いへ下る分岐地点を写している。

次の目録番号:2264「茂木街道(3)」と、目録番号:5868「茂木への道(Road to Mogi)(5)」も、道の向きと背景となった茂木町方面の山の連なりを見ると、3枚とも同じところの地点を撮影している。目録番号:1365「茂木街道(2)」と目録番号:2264「茂木街道(3)」は、人力車、人物から同じ写真だろう。

それなのに、なぜ2枚目の目録番号:2264「茂木街道(3)」の説明は、撮影地点が「柳山辺り」となるのだろう。「柳山」はここからまっすぐにこれまでの茂木街道の道を行って、若菜川本流となる別の谷間へ下ったところにある集落である。
昭和57年長崎大水害により、アーチ式石橋「柳山橋」は流失した。

長崎の古写真考 目録番号: 365 茂木街道(1) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 365 茂木街道(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、目録番号の順は不同である。

目録番号: 365 茂木街道(1)
〔画像解説〕
茂木村(現長崎市茂木町)は長崎市の東南約8キロメートルの場所にある。長崎から茂木へ行くには、長崎半島の付け根の尾根を越える必要がある。この尾根の峠にある場所が田上であり、途中の休息をとるために茶屋ができた。そこを過ぎると、茂木街道は一気に、長崎半島東斜面を茂木に向けて下り始める。また、この峠を分水嶺として茂木において橘湾に注ぐ、若菜川が流れている。この写真は、茂木に下る川の街道を撮影した、明治10年代のものである。明治時代になり茂木街道を、人力車や荷車が通行する近代的な道路に改良する必要があった。そこで、長崎県は明治18年(1885)から茂木新道の開削に着手した。しかし、街道はまだ人力車が通行可能な近代的な道路となっていない。外国人居留地が建設された当時、外国人が茂木に行く楽しみの一つは、日本の田舎の穏やかで美しい自然に触れることであった。

目録番号: 3842 茂木街道の水車

■ 確認結果
茂木街道は、長崎から茂木に至る街道。島原や天草へ船便で結ばれ、古くから重要な街道であり、たびたび改良が行われ、ルートは変わっている。道路の勾配が急で、人力車や荷馬車の交通には不便だったため、明治18年(1885)に長崎の油屋町から高平町、田上、転石、大川橋、片町などを経て茂木に到る新道(旧県道)が整備され明治20年(1887)完成、さらに昭和9年(1934)に新県道(現国道324号線)が開通した。

茂木街道の名物で、休息所となった大水車小屋は、この新しくできた明治新道(旧県道)沿いの河平川(若菜川支流となる)谷間にあった。水車関係の詳しくは次を参照。
https://misakimichi.com/archives/1521
https://misakimichi.com/archives/1835

目録番号:365「茂木街道(1)」の古写真は、街道名物の大水車が撮影されているのに〔画像解説〕は水車の説明がここにあまりなく、撮影場所は「田上」ではない。
従ってこの古写真の撮影年代も、明治20年の明治新道(旧県道)が開通した後となろう。
その他、街道を初めとする茂木関係の古写真は、ほとんどが誤認で解説され地元でも困っていた。すでに古写真考において疑問点すべてを指摘しているので、現地確認のうえ早く是正をお願いしたい。

長崎の古写真考 目録番号:1288 鍋冠山からの長崎港 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1288 鍋冠山からの長崎港 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1288 鍋冠山からの長崎港
〔画像解説〕
鍋冠山から大浦居留地、出島から長崎湾奥方向の北部をみた鳥瞰写真である。左下の大浦川に、慶応元年(1865)6月に架設された弁天橋がすでにあるが、明治2年(1869)2月に出島から築町、築町から新地にかけて、出島新橋、新大橋がまだ架かっていない。このことから、この写真の撮影時期は、慶応元年(1865)から明治元年(1868)の間である。この写真の特徴は、大浦外国人居留地、出島、長崎市街地の北部、対岸の飽の浦から稲佐地区、さらに長崎湾奥の浦上新田、これらの長崎湾の地形全体が撮影されていることである。大浦居留地は万延元年(1860)に埋め立てられたが、それ以外の地域は、ほぼ江戸時代のままの姿であるために、浦上新田が干拓された享保15年(1730)頃まで遡り、江戸時代中期の長崎の地形が現実感を持って見ることのできる写真である。鮮明な写真であるために、大浦外国人居留地や出島全域を拡大して見ることができる。

目録番号:4878 ドン山(から)見た大浦居留地・出島

■ 確認結果

次の記事を参照。同じ写真で目録番号:1288「鍋冠山からの長崎港」の方へ画像解説があったので再掲する。 https://misakimichi.com/archives/1598
大浦川が左上に斜めに上り、弁天橋が河口に架かり、その左が南山手居留地である。「鍋冠山」や「ドンの山」からは、大浦川や長崎港はこのような景色とならない。「星取山」の山頂から撮影された。現地確認した現在の写真は上のとおり。

長崎市教育委員会編「長崎古写真集 居留地」平成15年刊第3版の42頁に同じ古写真が掲載されている。同138頁による「図版説明」は次のとおり。

25 星取山から長崎港を見下ろす         長崎大学附属図書館所蔵
星取山の山上付近から長崎港を見下ろしたもので、手前に大浦、東山手の居留地、右手に出島と旧市街地、港の向こうには大きく広がった浦上川の河口部と対岸・淵村の集落が望まれる。出島にはその左端に慶応3年(1867)に造成された馬廻しの突出がみえるが、明治2年2月に築町間に架設された出島新橋がないので、明治元年頃の撮影と推定される。東山手の丘上には、旗竿を立てたイギリス領事館の2階建て洋館の背面がみえている。

図版説明は平成7年刊初版から同じ。撮影場所は「星取山から」と判定している。なぜ長崎大学データベースは、このようなタイトルや画像解説のまま、修正しないのだろうか。
最後のパンフレット写しは、本年4月発行された「長崎さるく幕末編」の豪華なパンフレットの目次頁。1枚目の目録番号:1288と同じ古写真が使われている。前記で見たとおり、「星取山から」撮影されているのに、堂々と左下に「鍋冠山から望む長崎港(慶応年間)」と説明している。
長崎市さるく観光課の公式資料に、こんな撮影場所の説明をした使い方をされるのは、困った事態と言えよう。

長崎の古写真考 目録番号: 977 ドンの山から見た出島と長崎港(1)ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 977 ドンの山から見た出島と長崎港(1)ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、目録番号の順は不同である。

目録番号: 977 ドンの山から見た出島と長崎港(1)
〔画像解説〕 和文タイトル: 十人町よりの出島と長崎港
唐人屋敷上中腹より唐人屋敷、広馬場、新地、出島越しに長崎湾奥を撮影した写真である。出島の向こうの高台に明治9年(1876)建設の長崎県庁がすでにあり、中島川の変流工事がまだ行われていないので、撮影時期は明治10年(1877)代である。写真右の高台は十人町の日本人住宅である。写真中央の橋は、梅香崎から新地蔵を繋ぐ梅香崎橋である。その右が新地蔵で、長い倉庫の建物が見えている。写真右下は唐人屋敷の内部で、竿のようなものは福建会館の刹竿である。そこから新地に続く家並みが広馬場である。新地の先が築町で、僅かに新大橋が見えている。築町から出島には出島新橋が架かり、出島の中には教会が建てられている。出島の向こうには、長崎県庁越しに浦五島町の海岸線が見え、その先に砲台場が見えている。湾の奥に見えるのは浦上新田で、現在の茂里町である。出島の対岸は稲佐地区である。この写真は、低い角度で外国人居留地の北域を鮮明に写し出している。

目録番号: 4028 ドンの山から見た出島と長崎港(2)
〔画像解説〕
十善寺上の山より、十善寺地区、新地、出島、浦五島町から長崎湾奥、さらに対岸の稲佐地区を撮影した写真である。明治2年(1869)に出島から築町にかけて架設される出島新橋はすでにあるが、出島の上の高台に明治9年に建設された長崎県庁の洋風新庁舎がまだ見えないので、撮影時期は明治2年(1869)から明治9年(1876)の明治初期のものである。写真左中央には、東山手の洋館が見えている。現在と違って、当時は東山手の丘から長崎湾が一望できたことが分かる。慶応2年(1866)に出島が、明治3年(1870)には新地蔵・広馬場・元唐人屋敷が外国人居留地に編入された。外国人居留地が完成した頃の、外国人居留地の北域を撮影している。写真右下の一画は新地で、長い倉庫が見えている。写真右下は、旧唐人屋敷である。出島には教会の建物がなく、明治初期の出島である。出島の向こうは、湾奥の浦上新田まで海が拡がっている。その後埋め立てられる地域である。

目録番号: 6042 大浦川沿いの居留地

(関連作品)
目録番号: 4863 ドンの山から見た出島と長崎港(3)
目録番号: 5296 ドンの山から見た大浦居留地と長崎港(1)
目録番号: 5299 ドンの山から見た大浦居留地と長崎港(2)

■ 確認結果
次の記事を参照。再掲となるが新しい収録写真を含め、撮影場所が「ドンの山」山頂近くとなるものをまとめてみた。 https://misakimichi.com/archives/1512

目録番号: 977「ドンの山から見た出島と長崎港(1)」は、指摘により撮影場所は「十人町より」が「ドンの山から」に訂正されたが、超高精細画像と解説の方のタイトルがまだ「十人町よりの出島と長崎港」のままとなっている。

目録番号: 4028「ドンの山から見た出島と長崎港(2)」は、上と同じような写真で、上がドンの山から撮影されていることがわかるだろう。
タイトルは以前は「ドンの山から見た新地と出島」だったが、「ドンの山から見た出島と長崎港(2)」に修正されている。(関連作品)に掲げた目録番号: 4863「ドンの山から見た出島と長崎港(3)」スチルフリード(?)と同じ写真からであろう。

目録番号: 6042「大浦川沿いの居留地」は、今回6月に収録された作品と思われる。画像解説は何もないが、上野彦馬撮影であり、(関連作品)に掲げた目録番号: 5296「ドンの山から見た大浦居留地と長崎港(1)」と目録番号: 5299「ドンの山から見た大浦居留地と長崎港(2)」と同じような作品である。
高い位置から撮影され、大浦川と弁天橋を左隅から斜め上に稲佐山の方へ向けて写されている。ドンの山の山頂近くからと中腹からのを掲げたが、最後の写真の中腹、海星学園の上となる北大浦小学校グランド角から撮影の方が合致する。
右端の石垣と下の家の屋根が同じとなる。左方は妙行寺の位置と屋根の向きに注視する。

長崎の古写真考 目録番号:5381 長崎湾口の集落

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5381 長崎湾口の集落

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5381 長崎湾口の集落
〔画像解説〕
ベアトアルバムに貼られている、長崎港口の集落である。明治初期の写真である。明確な場所の特定ができていない。写真を見ると、山が海に迫っており、地形的に隔絶された場所であることが予想される。沿岸の前面が砂地になっており、漁船が係留されている。その奥に護岸があり、各家は石塀で囲われている。藁葺きの家もあるが、漆喰仕上げの蔵がいくつかあり、また瓦葺きの家も見られる。比較的整った集落が形成され、棚田が山の上まで開発されている。山が何層にも重なり、長崎半島の地形を示している。しかし地形の形状や山の形から、長崎半島の付け根、長崎港外の佐賀藩の飛び地である深堀と考えられる。現在の長崎市深堀地区である。現在、香焼島と陸続きになり水路はなくなっている。長崎に関する明治時代の古写真では、長崎市街地と外国人居留地に関する写真が多い中で、珍しい写真である。

■ 確認結果

古写真のタイトルは、「長崎湾口の集落」。撮影場所はこれまで不明とされていた。大きな港の集落である。実は簡単なところにあった。長崎市茂木地区の若菜川河口である。
この記事は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1532
「稲佐崎か、茂木若菜川河口でないか調査中」と、平成19年4月に研究レポートを届け知らせていたのに、画像解説に何も反映されていない。

撮影場所は、道永エイが経営した茂木「ビーチホテル」があった付近(現Sマート茂木店)。新しい弁天橋や前から架かる若菜橋の方を見て、視線を右から左へ移すと同じ格好の山があった。
今の茂木郵便局後ろの少し高台から、対岸の元浜の船と本町の家並みを写している。背景の山は峠集落近くの山と思われる。
深堀を佐賀藩の「飛び地」とはあまり言わない。「佐賀藩深堀領」か「南佐嘉領」ではないか。

長崎の古写真考 目録番号:3883 外国人の野外パーティー(1)ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3883 外国人の野外パーティー(1)ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、目録番号の順は不同である。

目録番号:3883 外国人の野外パーティー(1)
〔画像解説〕
元アルバムと思われる台紙に糊付けされた着色鶏卵紙で四辺は刃物で切り取られている。裏に書き込まれた黒ペンのキャプションも一部が切り取られているが、残された部分はTaken on Jubilee Day,June 22ed 1897−Gate of ”Sagarimatz”(1897年6月22日ビクトリア女王在位60年記念日、「下り松」玄関)と読める。右側の大木が巨大になった「下り松」であり、ベルビューホテル(現全日空ホテル)の玄関にあたる。提灯にデザインされたイギリスの国旗が見え、奥の横断幕に60 YEARS OUR QUEEN(我女王の60年)と読める。この写真は明治30年(1897)のこの日に催されたビクトリア女王在位60年記念の祝賀会場を撮影していることがわかる。提灯は夜会の準備を表している。前の煉瓦の囲いは古井戸か。手前の男性は剪定バサミを持っている。外の5人もホテルの従業員か。男性の作業着はパッチに半纏である。右下隅に男児が偶然写されている。

目録番号:3884 外国人の野外パーティー(2)
〔画像解説〕
目録番号3883(整理番号75-26)と台紙の色が異なるが、同じようにアルバムに糊付けされたものから画面だけを切り離した1枚もの。目録番号3885(整理番号75-28)と併せて3枚組みで発見されているから、ビクトリア女王在位60周年記念の祝賀会の一部と推測される。場所は、目録番号3885の写真に写る高鉾島と比較して、長崎港口に稲佐側から突き出した神崎鼻である。写されているのは、夜間の野外パーティのためこの地に上陸したイギリス側ホストの領事夫妻と、長崎県知事(小松原)夫妻及び居留地の各国領事といった客人か。テーブル上にはガラスのビクトリア風の水差しとグラス、氷入れが、また食前酒と思われるワイン、シェリー、リキュール等も見える。木箱は塵紙入れか。下にはこれらを運んだバスケットが、奥には絨毯が掛かったベンチが見え、それぞれ男性の帽子が無造作に置かれている。夕暮れ前のひと時、メインテーブルの祝賀の会食に向かう直前のようである。背後の山並みは長崎半島である。

目録番号:3885 外国人の野外パーティー(3)
〔画像解説〕
台紙貼り付け着色鶏卵紙で目録番号3883(整理番号75-26)および目録番号3884(整理番号75-27)との3枚の組写真。場所は後ろの高鉾島の角度から神崎鼻と思われる。夜間のパーティのためホテルの従業員たちが船で運んできた資材で俄かに宴席を設営し藤の椅子が不揃いである。目録番号3884にも写っている女性は白服の外国男性と夫婦かと思われる。扇子をもち、時期が6月末であることに符号する。ホテル(ベルビューホテルか)の従業員は和服と洋服半々であり、中国人と思われるものもいる。テーブルは夜のためにキャンドルとランプ、提灯が用意されている。テーブルセットは本格的なフルコースで、グラス類は多く、パンのそばのナプキンには青い葉があしらわれ、カットレルもおそらく銀であり大きい。メインのディッシュは仔豚のロースト(丸焼き)で、丸ごと焼かれて大皿で並べられている。ここには出島時代の蘭人宴会の雰囲気がある。デザートにはスイカやメロン、ケーキ等が見える。

参考 目録番号:6195 ねずみ島のピクニック(1) 目録番号:6245 同(2)

■ 確認結果
画像解説は、本年6月に追加されて作成されたのでなく、以前からからあった解説と思われる。見落としていて初めて読んだ。
野外パーティは「神崎鼻」でなく、ねずみ島(皇后島)で行われた。これも現地確認のうえ、すでに次の記事にしているので参照。 https://misakimichi.com/archives/1540

2枚目のはるかな山の稜線は、八郎岳縦走尾根。3枚目では高鉾島がすぐ前にこのような形で見え、奥は香焼島と沖の島の間の海である。
ねずみ島は安政年間から外国人の遊歩が許された。1864年(元治元年)ベアト撮影にあるように、外国人のピクニック(?)とかに親しまれた島である。ねずみ島の高台広場に会場を設け、野外祝賀パーティをしたと考えられる。ねずみ島水泳道場は、1903年(明治36年)から始まった。島の高台はひらけていたと思われる。
1枚目も当時の「ベルビューホテル」玄関入口の坂道の姿ではない。現在の「長崎グラバー園」出口の坂道が、一番よく似ている。

3枚目の古写真が平成19年夏頃、朝日新聞長崎地域版のシリーズ「長崎今昔 長大写真コレクション」に載った。撮影場所は「ねずみ島」であると、4月に研究レポートを届け知らせていたのに、「神の島」と説明し掲載された。
その後、なぜか「神崎鼻」と訂正されている。「神の島」や「神崎鼻」からは、このような景色とはならない。肝心な撮影場所の説明を誤っていたら、他の詳しい解説は重みがなくなる。

長崎の古写真考 目録番号:3816 稲佐海岸(2)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3816 稲佐海岸(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3816 稲佐海岸(2)
〔画像解説〕
長崎港の湾奥の西岸では、稲佐地区が半島のように突き出ている。その最頂部から長崎市街地に向けて連絡船の航路があった。この写真は稲佐の先端から長崎市街地を遠望した写真である。撮影時期は、長崎市街の建物から判断して、明治20年(1887)代である。写真手前は稲佐の桟橋で、手前の石段の品格から見て、使用頻度の高い施設であることが分かる。木製の桟橋の先に、洗練された金属製の街灯が設置されている。対岸は長崎市街地の沿岸部である。中央の林が見えているところが長崎県庁である。その右に出島がある。写真の左側、船の向こう側は大波止から浦五島町である。この付近の沿岸部には、倉庫を構えた屋敷が立ち並んでいる。左の山は立山で、山裾に筑後町の寺院群が見える。

(関連写真)
目録番号:5630 稲佐海岸(3)
目録番号:5519 ホテル・ヴェスナーと桟橋
目録番号:6094 稲佐の岬

■ 確認結果

要点は、稲佐お栄が造った「お栄の桟橋」と言われる桟橋は、ホテル・ヴェスナー時代の「稲佐崎」か、それとも、胸を病み静養を兼ねて烏岩神社のすぐ下、平戸小屋にホテルを開業した時代の「丸尾山」の入江か、ということである。この関係は、次によりすでに考察を述べているので参照。  https://misakimichi.com/archives/1547

目録番号:3816「稲佐海岸(2)」と、目録番号:5630「稲佐海岸(3)」は同じ古写真である。
画像解説は、本年6月に追加されて作成された文と思われる。初めて読んだ。2枚目の古写真の目録番号:5519では「ホテル・ヴェスナーと桟橋」と判定しながら、なぜこのような解説になるのだろう。撮影者も上野彦馬か未詳か、一致していない。

「旧渕村の歴史を顕彰する会」が所蔵する「お栄の桟橋」古写真から見て、稲佐崎(同会は現丸尾公園西角の波止場と主張するが、そこからは写真にある大久保山が写らないので論拠が合わない)の「ホテル・ヴェスナーの桟橋」として認めて良いのではなかろうか。

データベースに最近追加された古写真で、珍しいものを見つけた。目録番号:6094「稲佐の岬」。ここが稲佐崎である。ホテル・ヴェスナーが建てられ、明治26年(1893)11月開業した。
なお、解説にある「長崎県庁」は、現地から見ると古写真の左端となる。写っている左の山は「英彦山」である。「立山」でないので、筑後町の寺院群は写らない。

長崎の古写真考 目録番号:6272 海から見た大浦居留地

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6272 海から見た大浦居留地

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

このデータベースには、本年6月に長崎関係には300点以上が追加された。新しく目にする古写真が多く、調査不完全なまま収録されている。これまでと同様、気付いたものを順次、現地調査して報告したい。

目録番号:6272 海から見た大浦居留地

(関係写真)
目録番号:1022 出島からの大浦居留地
〔画像解説〕
1871年(明治4)8月16日付、横浜の写真貼り付け英字新聞”The Far East”に掲載された長崎港の写真。キャプションにはNAGASAKI,FROM THE DUTCH CONSULATE(オランダ領事館からの長崎)とある。出島の海岸通りに面した2,3番地のオランダ領事館付近から、大浦・下り松・浪の平にかけての洋館群を撮影。写真から出島前面の海岸は中島川の運ぶ土砂で干潟化していたことが判る。長崎港の入り口方面には、沖合での停泊を余儀なくされた大型船舶が多数写されている。この状態を改善するために、中島川の変流工事が提案された。慶応3年(1867)に造成された、出島・海岸通りの護岸の石積み欄干が写真の手前に写っている。大浦天主堂は改修前であったが、両脇の尖塔部分は台風によりすでに失われている。海岸に突き出した黒っぽい建物は、梅香崎の外務局運上所(税関)、南山手の「ヨンゴ松」横の洋館はグラバー邸である。

目録番号:5865 出島の商館長邸横の日本庭園から大浦居留地を望む

■ 確認結果

目録番号:6272「海から見た大浦居留地」は、撮影した場所がわからないためこのようなタイトルにしたか、それとも船上から撮影したと判断したのだろうか。
以下のコレクション説明にあるとおり、誕生間もない写真術で、揺れる船上から撮影はできただろうか。一方、海から見たとしながら、同コレクション・アルバムの中では、「長崎のパノラマ」とし、丸尾岸壁(昔は大鳥崎があった)から写した現在の写真を対比させている。

それが古写真の下段に載せた横長の写真。もちろん「※現在の写真の視点および注視点について、なるべく当時の撮影に従っていますが、諸事情により完全には一致していません」のことわり書きはある。
一見似ているが、背景の山をよく見てみる。古写真は鍋冠山の裾と奥には星取山がなければならないのに、星取山と唐八景を写している。

古写真の光景は、水辺の森公園で大浦天主堂を眺めた際に、同じようになるのを思い出すだろう。船上でないとして、線を引き伸ばしてみる。
明治26年、稲佐お栄がホテルヴェスナーを開業することとなる旭町「稲佐崎」や、現在の旭大橋たもと「志賀の波止」が考えられる。ここからも現在の写真が撮れないので、旭大橋の高い位置からと目線を落とし稲佐崎近く旭町岸壁から大浦海岸と山を写してみた。
大浦天主堂が実際、近くに見えるのである。水辺の森公園と丸尾岸壁から撮影した場合の参考写真も掲げた。しかし、鍋冠山の麓に写る大浦天主堂の位置がどこも合わなかった。

記事掲載後、「ほしなべ」氏のコメントにより確証的なヒントを得た。すなわち港の対岸稲佐方面でなく、「出島の西端」から撮影されたのではないか。
末尾に3枚の写真を追加した。目録番号:1022「出島からの大浦居留地」と目録番号:5865「出島の商館長邸横の日本庭園から大浦居留地を望む」。古写真左側が、鍋冠山の麓に大浦天主堂を同じような位置に写している。
撮影場所はこの「出島の商館長邸横の日本庭園から」ではないだろうか。
現在の状況は、出島に代わり鍋冠山がビルの上にかろうじて確認できる水辺のプロムナード「東山手橋」方面から望む写真を掲げてみた。(この部分は、7月15日追記)

日本古写真アルバム ボードイン・コレクション

ボードイン・コレクションは、養生所(のち精得館と改称。長崎大学医学部の前身)の第2代教頭であるオランダ人、アントニウス・ボードインが、弟アルベルト・ボードイン(出島商人、オランダ領事)と協力し、日本滞在中に撮影および収集した古写真のアルバムです。

在日期間中(1862-1866,1867,1869-1870)、ボードインは、長崎のみならず大坂医学校(大阪大学医学部の前身)、大学東校(東京大学医学部の前身)でも医学を講義し、上野の森を公園にするよう進言したことでも知られています。
その一方で、誕生間もない写真術にも興味をもち、長崎の街の様子や人物などを自ら撮影するとともに、日本の写真を収集し、特別な装幀を施したアルバムも作成していました。
1980年代後半、日本の新聞社によって広く紹介され、その後の古写真ブームの火付け役となったコレクションです。

長崎の古写真考 目録番号:6273 山から見た大浦居留地 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6273 山から見た大浦居留地 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6273 山から見た大浦居留地
目録番号:6163 東山手から大浦居留地を望む(2) ほか関係写真は多くあり

■ 確認結果

目録番号:6273「山から見た大浦居留地」は、2009年年7月9日付朝日新聞長崎版「長崎今昔 長大写真コレクション」に「龍馬の見た大浦居留地」として掲載された。 「ボードインコレクションの1枚で、1865年ごろにボードイン博士自身が撮影したと推測されます。…撮影場所は、当時、デント商会に務めていたポルトガル人ジョセ・ローレイロの住居だった10番の高台付近から、大浦川右岸を埋め立ててできた居留地を撮影しています」とある。

最近、データベースに大量に追加された古写真のようで、初めて見た。新聞の写真説明は専門的すぎ、現在のどこからどのあたりを写し、対岸とその山の説明などがまったくない。東山手居留地の「10番」は、活水坂を上って昭和会病院の裏通りへ行く左側。現在、高い石垣が築かれ、海星学園の校庭だ。どうも違う。対岸の岩瀬道が正面にこない。

次の目録番号:6163「東山手から大浦居留地を望む(2)」の古写真と比べてもらいたい。撮影場所は現在の昭和会病院あたりからとされる。両方の白塀の通りを注視する。屋根に煙突がある2階建の白い大きな洋館がある。
両方からわかるのは「10番」でなく、昭和会病院の裏通りを石橋の方へまだ進んだ「9番」前の道路からで良いのではないか。「9番」は現在の海星学園校舎(東山手の旧イギリス領事館だった)。ここまで上がらないと、今は高いビルが建て込み、対岸の山並みを合わせられない。

新聞では今回から数回に分けて、この居留地に刻まれた歴史の残像を追いかけるてみるとある。現地確認を正しくして、一般読者にわかりやすい説明をぜひお願いしたい。
坂本龍馬がブームだが、あまり引き合いに出すのもどうか。大浦海岸には弁天橋通りがすでにできている。昔の遠回り道をグラバー邸へ通っただろうか。