「ふるさと」の古写真考 P.123 小菅修船所で建造中の小菅丸(明治14年)

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「ふるさと長崎市」の古写真考 P.123 小菅修船所で建造中の小菅丸(明治14年)

長崎市制施行120周年記念写真集「ふるさと長崎市」(長野県松本市(株)郷土出版社2008年12月刊)に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

交通体系の完成と発展する長崎  P.123 小菅修船所で建造中の小菅丸(明治14年)
〔写真説明〕
小菅修船所は国指定史跡(昭和11年)・国指定重要史跡(昭和44年)・近代化産業遺産(平成19年)に指定されている。この通称「ソロバンドック」は幕末を起源として、多くの船舶の修理と建造を手がけた。小菅丸(1496トン)は鉱山局発注の木造汽船で、完成まで7年の歳月を要した。石垣には満潮時の潮位線がみえるが、写真は干潮の段階に撮影されたことがわかる。背後の山は親岳で江戸時代にはこの山裾に戸町番所が存在した。(提供:三菱重工業株式会社長崎造船所)

■ 確認結果

HP長崎市観光・宿泊ガイド「あっ!と ながさき」による説明は次のとおり。平成10年岡村勝氏稿「ソロバン・ドック」に詳しくがある。 http://www10.ocn.ne.jp/~seikaibo/kaiho100.pdf
小菅修船場(ソロバンドック)   国指定史跡
船の修理や造船を目的に薩摩藩とトーマス・ブレイク・グラバーが建設した日本初の洋式の近代的ドックです。滑り台の様子が“そろばん”に似ていることから通称“ソロバンドック”。薩摩藩士の五代友厚や小松帯刀らが計画して、グラバーがイギリスから機械装置を輸入し、明治元年 (1868)に完成しました。船を「滑り台」(台車)に乗せ、巻揚機小屋内に設置された蒸気機関により引き揚げていました。巻揚機小屋は、現存する日本最古の煉瓦造り建築といわれています。

当時の小菅修船場は、船舶修理の外、木造汽船の向陽丸、小菅丸、木造曳船などの建造も行って活況を呈した。「小菅丸」は、日本最後の大型木造汽船。交通博物館(東京都千代田区)の船舶展示(船の歴史)に、「小菅丸模型」が展示されている。同館の資料によると、(1496トン; 1883年)とあるから、小菅丸は明治16年に完成したのだろう。

古写真は、建造中の小菅丸を明治14年に撮影したもの。「石垣には満潮時の潮位線がみえるが、写真は干潮の段階に撮影されたことがわかる」は、説明の意味がわからない。
船の修理は巻揚機でドックに入れて行い、建造は修船場内のドックとは別の場所で行ったのではないか。戸町番所があった親岳(戸町トンネル右上の山。「水本城跡」)が背後にこの形で写るなら、ドックの左側、現在「マリンセンター小菅」のある広場に、建造専用の船台があったことが考えられる。写真右が長崎港側。進水には傾斜がある船台を滑らした。写真はドックを中にはさんだ対岸から撮影したと思われる。

三菱重工HPに、「明治初期の小菅修船場」古写真が掲載されているので参照。ウェブ版長崎ニュース創業150周年記念号 http://www.mhi.co.jp/nsmw/news/story/1175590_873.html
このように考えないと、説明がつかない建造状況の写真ではないだろうか。現地と照らし合わせ、識者の方による解明をお願いしたい。飽の浦町の三菱重工「長崎造船所史料館」に小菅修船場模型があるが、他資料とも建造方法の説明は見当たらない。
小菅丸のトン数も、都築氏「データ・シート明治の洋風建築」や長崎大学附属図書館古写真の説明などは、「103トン」と記している。間違いでないか。
最後の写真は、小菅修船場内の知られない遺跡。煉瓦造の煙突跡やアーチ式石橋。